279の6『自然と人間の歴史・世界篇』世界へ広がる鉄道(19~20世紀初頭)
1825年9月27日には、世界最初の公共鉄道が開通した。イギリス北東部のストックトンとダーリントンの間を、ジョージ・スチーブンソンの設計した蒸気機関車ロコモーション号が走った。
開通式には、かなりの人が集まったという。公には史上初めてのことであった。貨車、客車あわせて38両と、招待客のための特別車1両を合わせての約90トンの荷を引いて、最高時速11キロメートルで走ることができたとのことらしい。なにしろ、多くの見物人たちがその雄壮な姿を目の当たりにして、拍手喝采を送ったであろうことは間違いなかろう。
(続く)
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これより前の1789年には、イギリスのウィリアム・ジェソップが、鉄のレールを発明した。また、1804年には、同じイギリスのトレビシックが、世界で初めてのレールの上を走行する蒸気機関車を製作した。
さらに、1807年3月25日には、イギリスのスウォンジー・マンブ間のレールの上を、馬車が乗客を乗せての運行を開始していた。のみならず、同年4月には、風力を利用した機関車走行の実験が行われたとあり、その時は7.2キロメートル走るのに45分を要したとのことだ。1825年になると、イギリスの会社ストックトン・ダーリントン鉄道が開通する。
合わせるに、当時イギリスの主要な工業地帯として脚光を浴びつつあったリバプールにおいて、リバプール・マンチェスター鉄道会社による鉄道建設、営業の話にもなっていく。
この路線で使われた機関車は、鉄道の父とよばれるジョージ・スチーブンソン(1781~1848)の息子、ロバート・スチーブンソンにより設計されたものであり、1830年からはそのロケット号が、リバプール&マンチェスター鉄道を走るのであった。
ちなみに、その前段の1829年には、リバプール・マンチェスター鉄道会社にちなんでの蒸気機関車のコンテストが実施され、そのロケット号が優勝したのだという。
その背景の一つとしては、19世紀に禁止されるまで、ここにリバプールは、長らく奴隷貿易によって栄えたことで有名だ。それも込みで蓄えた莫大な富の一部を近郊のマンチェスターという小さな町にもつぎ込んでいく。
そうこうするうちに、これら二つの町は、鉄道で繋がることによってもベアになり変わっていく。それというのも、インドや新大陸(南北アメリカ)産の綿花がリバプール経由でマンチェスターに運ばれるようになり、そこで綿織物に加工されて、再びリバプールに戻され、そしてそこから世界中へ輸出されていった訳だ。 かたやアメリカにおいては、1830年にアメリカ初(世界で2番目)の蒸気機関専用の公共鉄道が、サウス・カロナイナ鉄道のベスト・フレンド・オブ・チャールストン号をもって運行されたものの、その燃料には、石炭ではなく薪(まき)が使われていた。フランスでも、1829年に最初の蒸気機関車が登場した由(よし)、「多管式ボイラーを世界ではじめて採用した機関車、炭水車に、ついた大きなファンは下の車輪と連動し、炉に風を送るふいごのような役割」(ジョナサン・ラットランド著、金塚貞文訳「ゆうがく科学館5鉄道」佑学社、1975)を果たしていた。
それからは、ヨーロッパではドイツやロシアなど、新大陸ではカナダなどにも鉄道網がそれぞれあちこちの方向へ伸びていく。その代表例としてよく語られるのが、アメリカの大陸横断鉄道なのではないか。
1869年5月10日には、アメリカの西と東から建設が進められてきた同大陸横断鉄道のレールが、ユタ州プロモントリーで出会う。そのことで、カリフォルニア州サクラメントからロッキー山脈を越え、はるばるネブラスカ州オハマまでの2776キロメートルをつなぐ。
沿線に住んでいる先住民族インディアンとの軋轢(あつれき)や彼らの抵抗もあり、なにより工事に触れた西部劇からも窺える通り、未踏の荒野にレールを敷いていくのであるからして、労働者をはじめ関係者の苦労たるや、並々ならぬどころか、体に塩がふくほどの苦労ではなかったか。
ちなみに、工事は、西からと東からと、二つの鉄道会社の競争という形で進められていった、そのゆえに、一説には、1日に3キロメートルからのスピードで鉄路が伸びていくに応じて、西へ西へとまた一大開拓熱へと、さらにさらにと駆り立てられていった、と考えられる。
それからは、ヨーロッパではドイツやロシアなど、新大陸ではカナダなどにも鉄道網がそれぞれあちこちの方向へ伸びていく。その代表例としてよく語られるのが、アメリカの大陸横断鉄道なのではないか。
1869年5月10日には、アメリカの西と東から建設が進められてきた同大陸横断鉄道のレールが、ユタ州プロモントリーで出会う。そのことで、カリフォルニア州サクラメントからロッキー山脈を越え、はるばるネブラスカ州オハマまでの2776キロメートルをつなぐ。
沿線に住んでいる先住民族インディアンとの軋轢(あつれき)や彼らの抵抗もあり、なにより工事に触れた西部劇からも窺える通り、未踏の荒野にレールを敷いていくのであるからして、労働者をはじめ関係者の苦労たるや、並々ならぬどころか、体に塩がふくほどの苦労ではなかったか。
ちなみに、工事は、西からと東からと、二つの鉄道会社の競争という形で進められていった、そのゆえに、一説には、1日に3キロメートルからのスピードで鉄路が伸びていくに応じて、西へ西へとまた一大開拓熱へと、さらにさらにと駆り立てられていった、と考えられる。
(続く)
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