♦️123『自然と人間の歴史・世界篇』南北アメリカ(マヤ文明の衰退)

2018-08-22 10:32:02 | Weblog

123『自然と人間の歴史・世界篇』南北アメリカ(マヤ文明の衰退)

 そして一説には、厳密な意味でのマヤ文明は、800~1000年頃崩壊した。その崩壊にいたった理由については、洪水や干ばつ、それに政治抗争などの諸説がある。その中で有力なのが、干ばつによるというものであり、例えば、こう紹介される。
 「崩壊の原因として干ばつが考えられていたが、実際に起きた気候変動の程度は不明だった。
 今回、イギリス、サウサンプトン大学のメディナ・エリゾルデ博士らは、ユカタン半島においてマヤ文明が崩壊しつつあったところに堆積した湖底の物質などの分析を行った。堆積物中の酸素の同位体比(同じ酸素分子だが質量のことなるものの比率)は、降水量の変動に影響される。そのため、当時の気候を復元できるのだ。
 分析の結果、文明が崩壊したとされる期間に、くりかえし干ばつがおきていたことがわかった。ときには、例年より40%も雨量が減った年もあったという。
 博士らは、今回の分析によって、当時の気候変動の程度がわかり、干ばつがマヤ文明の崩壊の原因の一つである可能性が高まった、とのべている。」(雑誌「ニュートン」ニュートンプレス、2012年6月)
 もう少し詳しい干ばつの歴史については、中川毅(なかがわたけし)氏による説明がある。
 「マヤ文明は、先古典期、古典期、後古典期という3つの大きな時代に分けられ、その移り変わり時期には大きな断絶を経験している。ハウグ教授はカリアコ海盆の堆積物を分析することで、あれほど洗練された文明が衰亡に追い込まれた理由を解明しようと試みた。
 分析の結果は興味深いものだった。古典期のマヤ文明は9世紀頃から衰退を始めるのだが、ちょうどその時代にカリアコ海盆では、堆積物中のチタンの量が減少していたのである。
 このことは、同じ時代にマヤ地方が乾燥化していたことを意味する。さらに重要なのは、年ごとの降水量の変動パターンだった。(中略)
 悲劇の第一段階は、8世紀の後半からおよそ40年にわたって緩やかに続いた乾燥化だった。だが、この時点ではまだ集落の大規模な放棄などは起こっていない。事態が一気に暗転するのは西暦810年頃である。考古学的な記録によれば、この時期にマヤ文明の衰退が目立って進行するのだが、カリアコ海盆の記録はちょうどそのころ、わずか9年のあいだに6回もの干ばつが襲う次期があったことを示していた。(中略)
 このときの危機は9年でいったん終息し、その後は比較的おだやかな時代が42年間続いた。だが、その後の3年はふたたび連続して少雨だった。このときの干ばつは、860年頃にふたたび集落の放棄が進んだ時期ときわめてよく一致していた。(中略)
 悪夢のような3年が終わった後、47年間は気候がやや回復した。だが西暦910年頃、こんどは6年の間に少なくとも3回の干ばつが襲う時期が到来した。それまでに弱体化が進んでいた古典期のマヤ文明は、このとき最終的に崩壊した。」(「人類と気候の10万年史」講談社ブルーバックス、2017)
 対外的には、10世紀にもなると、メキシコ高原からトルテカの勢力が進出してきた。その後も14世紀頃にはチチメカ人の民族移動があり、マヤ文明の独自性は侵食されていった。さらに1523年からは、スペイン人の侵攻を受ける。青銅器や鉄器などの金属器による武装もなかった。それでも、マヤの人々は根強く反抗を続けて、堪えに堪えた。
 それでも、1528年には、今のメキシコ最南部のチアパス地方については、スペイン人の町がつくられたことをもって征服は完了した。スペインによる、ユカタン北部の征服が本格化したのは、1527年からのことであった。この地域がようやくスペイン人の軍門に下ったのは、1546年のことであった。さらに、現在のグアテマラ北部に暮らすペテン・イッツァ家がスペインに降伏したのは、1697年のことであった。
 征服者としてのスペイン人は、それぞれの地域での統治開始後、治世の一環としてこの地の人びとにキリスト教への入信を勧めた。スペインと人の入植も進んで、混血も進んでいった。17世紀になって、マヤの人びとは、ようやくカトリック信仰などのスペイン文化を受け入れた。

(続く)

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