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女性の寿命がなぜ延びたのか?

2007-05-06 18:23:54 | 折々の随想
この連休に現代のエスプリ(07年2月)に書かれていた、養老孟司の「無思想の思想化」と題された論文に目を通していたら、「女性の平均寿命を最初に延ばしたのは後藤新平である」との説が出ておりました。しかも、その事実にほとんどの日本人は気づいていないとありました。もちろん筆者も、気づくどころか全く知りませんでした。まさに虚をつかれた説です。日本人の平均寿命が延びたのは、近代医学のおかげだと多くの日本人が信じておりますが、それは錯覚だとまで養老先生は言い切っております。

その論文では、以下のように説明されております。

「後藤新平は水道水の塩素による消毒を最初に行った。それによって乳幼児の死亡率は低下し、女性の平均寿命は延び始めた。この事実を「発見」したのは、旧建設省河川局長だった竹村公太郎である。」

この文章を読んで、皆さんは女性の平均寿命が延びた理由として納得できますか?乳幼児には女性も男性もおります。そしてなぜ乳幼児の死亡率の低下が、女性の平均寿命を延ばしたのか、といったあたりのつながりが筆者には理解できませんでした。

仕方ないので、ここはインターネットで調べてみました。するとあの養老先生はこの説をあちこちに流布していたようです。

そして、その理由がやっと分かりました。

昔の女性は男尊女卑の思想も手伝って、男性以上に過酷な労働を強いられていたのです。そのため、男性よりずっと平均寿命も短かったという、今では想像できない事実がまずあります。その過酷な労働の1つは水汲みでした。しかも不衛生な水です。

話は少しそれますが、レ・ミゼラブルで筆者にとって最も印象深いシーンの1つは、まだ8歳の少女コゼットが過酷な水汲みで疲労困憊し、宿屋のテーブルの下に倒れ込んでしまう場面です。思い出すだけで泣けてくる場面ですが、真に感動を求めるなら、文庫本でも何でもいいですから、まだ読んでない方はこの大作を読むことをお勧めします。面白いだけでなく強く心のどこかに残り続けます。

それほど過酷な水汲みから女性を解放したのが、水道水の塩素殺菌でした。つまり人間の寿命というのは、社会・経済条件で決まるものである、というのが養老先生が言いたかったことのようです。近代医学が寿命を延ばしているのではないということですね。

こうした考え方を社会モデルといいます。一方、寿命を個人の健康問題と捉えるような考え方を医学モデルと言います。

今の時代では、特に先進諸国においては女性の方が男性よりも長寿命です。社会・経済条件が安定してくると、生物学的な側面から言っても、女性の方が長寿命になるのはやむを得ません。人類といえども、繁殖して子孫を沢山残すように出来ているからです。そのためには女性が男性よりも出産に耐えるだけの強さが必要です。

そうすると、昔は女性が社会・経済的にいわば男性よりも劣位におかれており、その結果過酷な労働が強いられ、不本意に寿命を縮めていたということになります。

さて、この社会モデルの考え方だけで世の中はうまく行くものだろうか、というのが筆者の問題意識です。繁殖のために女性は生まれつき男性よりも強く生まれついている、と上に書きましたが、これは社会モデルではなく医学モデルと言えます。

ある時代の文脈においては、後藤新平が行ったある種の「政治」が有効に女性の寿命に作用し、現代という文脈においては、女性全般の長寿命化への説明は医学モデルの方が妥当するのではないでしょうか。

つまり、医学モデルと社会モデルが互いに相反する立場として、不毛な議論に終始するのではなく、双方をつなげる考え方をむしろ模索すべきではないかと思います。

例えば、障害を持つ人々をどう支援するか、といった課題に対して、医学モデルでは障害=医学問題と捉え、病院での専門的治療による解決を医師は目指します。一方障害は、遺伝子プールの考えまで行き着かなくとも、社会システム的に生成されたものであると捉えるのが社会モデルの考え方です。

この両者を融合させようという考え方も国際生活機能分類(ICF)等の考え方にはありますが、実際にはうまく融合していないようです。

会社などの組織においても、同様な二項対立は見受けられます。

そこで、この対立を解消する考え方の1つとして、筆者が少し興味を持って調べている構造構成主義があります。時代により社会モデルが有効な時もあれば、医学モデルが有効な時もある、という上の「現象」をつなぐ理論を考える時、この構造構成主義が少しは役立つようです。関心相関性という概念を、社会モデルと医学モデルを媒介するものとして導入するのも1つの方策です。

会社での「対立」も、要は、お互いの「関心」が異なることによって引き起こされているといって良いでしょう。どちらか一方の「関心」が相手より優れているのか、その決着を無理矢理つけようとするのではなく、時代により環境により立場により、その関心は異なってくるという、ごく普通の考え方にお互いが立脚して、相手が持っている関心への理解を進めるだけで、随分と不毛な対立は回避されるのではないでしょうか。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (医学生です。。)
2010-12-12 17:39:09
指摘をしますが、お産に関して、これは非常に当時ハイリスクな物であったと考えます。そして寿命と言うのはいかに乳児が死ぬかつまり死ななければそれだけ寿命が延びるという観点が抜けています。お産によって母親が死ぬこともまれではなかったことを考慮せずにちょっと横暴な議論な気がいたしました。そして子を産むから女性は強いというのも医学的な根拠があまりないと思われます。実際、そのような文献を見たことがありません・・・こういう意味でこの解釈はbiasのかかったものだと思います。
女性の寿命 (mariomari)
2010-12-12 18:30:20
医学生さん、今晩は。
コメントありがとうございます。3年半も経ってコメントを頂けるとは思いも寄りませんでした。

出産のリスクは当然に昔の方が遙かに大きかったでしょうね。それが女性の寿命に大きな影響を与えたのは養老孟司も言っておりますが、このブログで言いたかったことは、その時代の文脈や関心の持ちどころにより、社会モデルが優位に説かれたり、医学モデルが優位に説かれたりする、その二項対立的な議論の限界です。

女性の長寿命化についての医学的な根拠を詳述している訳ではありませんが、子を産む女性が男性より強いと言う点については、進化論モデル的に言っている訳でして、これは医学的には証明されていないかもしれませんが、XY染色体の話を1つとってみても、あり得る話かとは思っております。

是非、これからも医学モデル的な科学を追究して行って下さいね。妻も今現在解剖実習に供されております。私もいずれ。

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