今日の「休日のバッハ」は、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番からアンダンテです。
バッハの無伴奏ヴァイオリンと言えば、パルティータ第2番のシャコンヌが有名です。オーケストラの編曲も出ているくらいです。若い頃は、この無伴奏ヴァイオリンのいささか宇宙的・神秘的な音楽表現に大いに魅せられていた時期もありましたが、年をとるに従い、どういう訳か無伴奏チェロを含み、少し遠ざかるようになりました。
やはり、単一楽器の限界もあるのでしょうが、それにしてはピアノ曲にはずっと惹かれ続けております。様々なバッハの音楽をピアノ表現すると、何故か新しい音楽世界が開かれるような気がします。それに比して、ヴァイオリンの場合はあくまでもメロディ中心であり、通奏低音部を受け持つ弦の弱さに原因があるのかも知れません。
ところで、1月8日の休日のバッハで、カルヴァンの予定説のことをご紹介しました。マックス・ヴェーバーは西洋的な合理性が高度に推し進められた文化現象の1つとして、「音楽社会学」なる論文まで書き、音楽に関心を示しております。
バッハの生きたバロック時代の音楽は、上述の通奏低音が曲の基調を決定し、その上でいわば装飾としてのメロディ(旋律)が奏でられていました。この通奏低音が主でメロディが従である音楽がバロック音楽です。となると、通奏低音が表している精神とは何か?ということに俄然興味が湧いてきます。
これを社会学者の大澤真幸は、「量子の社会哲学」(2010年10月7日初版)において、グレゴリオ聖歌に起源を求め、この通奏低音を神の超越性の転態として、バロック期の通奏低音を捉えております。そして、あの予定説との関連を持ち出し、予定説における神が、地上に姿を現さないまま君臨していた、その種の神と通奏低音との共通性を説明しております。
そして、その後に発展するニュートンからアインシュタインへと引き継がれた科学革命と、それに伴う近代世界の展開において、通奏低音が具現化する神の超越論的な位置づけから、19世紀以降に、神から人間へと内面化される時代精神の変貌との相似性を認め、ここに通奏低音(神的超越性)と旋律(人間的内在性)の関係の逆転を見ております。つまり、音楽ではバッハ以降の古典派において、通奏低音が旋律に主役の座を明け渡したその変化が、神から人間へと移った近代合理主義精神の発展と符合しているという訳ですね。
学問の凄さを感じます。
さて、そうしたことが背景となって、今日お届けするような、どちらかというと旋律を前に押し出したバッハの音楽の1つである無伴奏には、あまり触手が動かなくなったのではないかと思う訳です。それでもさすがにバッハはこの無伴奏で、3声から4声の和音を把弦しております。
その無伴奏の中で、長く聴いていなくても、今日ご紹介するこの曲は心の中に印象深く残っているものの1つです。何とはなく、神のくびきから解き放たれた近代の憂鬱のような雰囲気の曲ですね。
演奏は、1921年ベルギー生まれのアルテュール・グリュミオーです。筆者が学生の頃にはかなり高名なヴァイオリニストでした。戦後の混乱期に人々をヴァイオリン曲で勇気づけたのは有名。
今聴いてみると、やはり時代遅れの音楽表現が勝っているように思います。もう少し、凛として淡々と宇宙の響きを表現するのが、この曲には合っていると思いますが、彼は、神的超越性より人間的内在性を追求してこの曲を弾いているようです。
いつものようにここをクリックして、ウィンドウズ・メディア・プレイヤーでお聴き下さい。期間限定の公開です。
バッハの無伴奏ヴァイオリンと言えば、パルティータ第2番のシャコンヌが有名です。オーケストラの編曲も出ているくらいです。若い頃は、この無伴奏ヴァイオリンのいささか宇宙的・神秘的な音楽表現に大いに魅せられていた時期もありましたが、年をとるに従い、どういう訳か無伴奏チェロを含み、少し遠ざかるようになりました。
やはり、単一楽器の限界もあるのでしょうが、それにしてはピアノ曲にはずっと惹かれ続けております。様々なバッハの音楽をピアノ表現すると、何故か新しい音楽世界が開かれるような気がします。それに比して、ヴァイオリンの場合はあくまでもメロディ中心であり、通奏低音部を受け持つ弦の弱さに原因があるのかも知れません。
ところで、1月8日の休日のバッハで、カルヴァンの予定説のことをご紹介しました。マックス・ヴェーバーは西洋的な合理性が高度に推し進められた文化現象の1つとして、「音楽社会学」なる論文まで書き、音楽に関心を示しております。
バッハの生きたバロック時代の音楽は、上述の通奏低音が曲の基調を決定し、その上でいわば装飾としてのメロディ(旋律)が奏でられていました。この通奏低音が主でメロディが従である音楽がバロック音楽です。となると、通奏低音が表している精神とは何か?ということに俄然興味が湧いてきます。
これを社会学者の大澤真幸は、「量子の社会哲学」(2010年10月7日初版)において、グレゴリオ聖歌に起源を求め、この通奏低音を神の超越性の転態として、バロック期の通奏低音を捉えております。そして、あの予定説との関連を持ち出し、予定説における神が、地上に姿を現さないまま君臨していた、その種の神と通奏低音との共通性を説明しております。
そして、その後に発展するニュートンからアインシュタインへと引き継がれた科学革命と、それに伴う近代世界の展開において、通奏低音が具現化する神の超越論的な位置づけから、19世紀以降に、神から人間へと内面化される時代精神の変貌との相似性を認め、ここに通奏低音(神的超越性)と旋律(人間的内在性)の関係の逆転を見ております。つまり、音楽ではバッハ以降の古典派において、通奏低音が旋律に主役の座を明け渡したその変化が、神から人間へと移った近代合理主義精神の発展と符合しているという訳ですね。
学問の凄さを感じます。
さて、そうしたことが背景となって、今日お届けするような、どちらかというと旋律を前に押し出したバッハの音楽の1つである無伴奏には、あまり触手が動かなくなったのではないかと思う訳です。それでもさすがにバッハはこの無伴奏で、3声から4声の和音を把弦しております。
その無伴奏の中で、長く聴いていなくても、今日ご紹介するこの曲は心の中に印象深く残っているものの1つです。何とはなく、神のくびきから解き放たれた近代の憂鬱のような雰囲気の曲ですね。
演奏は、1921年ベルギー生まれのアルテュール・グリュミオーです。筆者が学生の頃にはかなり高名なヴァイオリニストでした。戦後の混乱期に人々をヴァイオリン曲で勇気づけたのは有名。
今聴いてみると、やはり時代遅れの音楽表現が勝っているように思います。もう少し、凛として淡々と宇宙の響きを表現するのが、この曲には合っていると思いますが、彼は、神的超越性より人間的内在性を追求してこの曲を弾いているようです。
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