豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

軽井沢・獅子岩

2006年02月26日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 閣僚の資産公開というのが新聞に載っていた。その中に、与謝野馨大臣(何大臣だったっか?)の資産として、「長野県軽井沢町獅子岩」の不動産というのがあり、久しぶりにあの「獅子岩」を思い出した。

 ぼくが子どものころ毎年夏休みに居候させてもらっていた親戚の別荘は、まさにこの長野県北佐久郡軽井沢町獅子岩にあった。
 軽井沢は不動産登記簿上の地番表示とは別に、郵便局がつけた別荘表示(かつては「ハウスナンバー」と呼ばれていた)がある。郵便局のハウスナンバーのほうが通りがよいので、ふつうは軽井沢町千ヶ滝xxx番で表記しているが、正式には「獅子岩」という地名だった。
 今では廃墟になってしまった西武百貨店千ヶ滝店の道を隔てた東側の一帯である。

 その別荘でプロパンガスを注文したら、燃料店の請求書に「文化村 xx様」と書かれていて、その辺一帯がかつては文化村と呼ばれていたことが分かった。
 確かに文化人の多いところだった。ぼくの記憶にあるだけでも、東大の宮沢俊義教授、中村孝也教授、館龍一郎教授、早稲田の吉村正教授、「少年期」の波多野勤子さん、「明治は遠くなりにけり」の中村草田男さん、社会党議員の帆足計さん、そして与謝野さんの別荘などがあった。

 獅子岩という地名の起こりは、裏手を流れる沢沿いの山中に、獅子に似た形の大きな岩があるからだと叔父から聞いて、あるとき従兄弟たちと探検に出かけた。
 その沢は、鬼押し出しに向かう山道の左手にあったグリーンホテル辺から、星野温泉の方に流れていたが、ぼくたちはその途中から山の斜面に出来たけもの道程度の細い道を登っていった。
 道端には“培風館山荘入口”という立て札などもあった。夏のあいだは緑に覆われていて山荘は見えなかったが、あるとき冬の軽井沢を訪れた際にこのあたりを歩いたら、冬枯れで見晴らしのよくなった山頂にその山荘らしき建物が見えていた。 高校時代に培風館の「精義」か何かを手に取ったら、著者の前書きに「昭和xx年夏 培風館軽井沢山荘にて」と書いてあったので、「ああ、あそこだな」と懐かしかった。
 今もあるのだろうか。

 その培風館山荘の入口を過ぎて少し行ったところに、獅子岩はあった。「ローマの休日」に出てくる、嘘をついた人間の手に噛みつくライオンくらいの岩で、言われてみれば確かに獅子に見えなくもないという程度のものだった。

 中村草田男さんの句にあの頃の軽井沢をうたったものがあるのかどうかは分からないが、波多野勤子さんの「受験期」という新書には、あの頃のあのあたりのことが少しだけ登場する。
 波多野家の三男だか四男の受験のときに、軽井沢の別荘で徹夜で受験勉強する息子のために勤子さんが朝風呂を焚いてやるというシーンである。昭和30年代の初めにはプロパンガスではなく、まだ薪で風呂を焚いている別荘も多かった。ぼくたちも風呂のために「柴刈り」をしたものである。

 もうひとつ思い出したが、その沢沿いの道を登っていくと、グリーンホテルのすぐ下のあたりに、軽井沢独特の白い横長の板に「D.キーン」と書かれた表札の別荘があった。一度、そのテラスでタイプライターを打っているキーン氏らしき人影を見かけたことがあった。

 * 写真は、培風館の山荘と思われる建物。獅子岩に向かうけもの道から見上げた風景。1966年冬に撮影されたものと思う。

 2006年2月26日

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