豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

永井荷風「摘録・断腸亭日乗」(その1)

2024年06月26日 | 本と雑誌
 
 永井荷風「摘録 断腸亭日乗(上)」(岩波文庫、1987年)を読んだ。

 「濹東綺譚」の風景は下町ばかりで馴染むことができなかったが、「断腸亭日乗」のほうは、やはり下町の話が多いが、大正7年の余丁町から築地を経て麻布への引っ越しなど、親しみのある地名も出てきた。荷風より10歳ほど年長だったぼくの祖父は(荷風が忌み嫌う)職業軍人だったが、東京では余丁町の官舎に住み、麻布(六本木)、青山の勤務地に通った。亡父は余丁町小学校を卒業している。
 面白い記事が沢山あって、図書館で借りた本なので傍線を引くわけにはいかず、付箋を貼りながら読んだのだが、付箋が数十か所になってしまった。返却する時に剥がすのが大変だ。

 面白かった第一は、荷風の散歩と食べ歩きである。
 散歩はその移動距離にまず驚く。例えば雑司ケ谷墓地から九段坂に至ったりするのだが、全行程を歩いたのだろうか。「歩む」と書いてあるところもあるが(86頁)、書いてない場合でも歩いたのだろうか。歩いて歩けない距離ではないが、2時間やそこらはかかりそうである。地下鉄(道)や乗合バスに乗った時にはそう書いているので、書いてない場合は歩いたのだろうか。それとも、当時は市電の路線が東京中に張りめぐらされていたから市電に乗った場合には当然のこととして書かなかったのか。
 独身だった荷風の昼食、夕食はほとんど外食である。銀座、浅草その他の食べ物屋、飲み屋がたくさん出てくるが、ぼくが名前を知っているのは「金兵衛」と「風月堂」くらいである。「金兵衛」は、現役時代の会議の際に何度か仕出しを配達してきた「金兵衛」と同じだろうか。
 カフェ、待合などがどのような場所なのかぼくには分からないが、玉ノ井が頻繁に出てくる。玉ノ井というのは、植草圭之助「冬の花 悠子」が地下鉄銀座線に乗って脱出した吉原の遊郭のことだろうか。
 ※ 玉の井と吉原はまったく別物というより、天と地、月とすっぽんくらい違う場所だった。吉原は高級な公娼がいる遊郭(廓)で、玉の井は最下級の私娼が棲む路地裏だったらしい(川本三郎「荷風好日」岩波現代文庫82、93頁)。

 荷風は女好きだった。日記にも多くの女性が登場する。
 アメリカ、フランス留学(1904~07年)から帰朝以来、「馴染を重ねたる女」の名前を16名列挙してあるが(342頁、すべて実名のようである)、「馴染を重ねる」というのはどういう関係だったのか。戦前の婚外男女の事情に疎いので、これらの女性と荷風の関係が理解できなかった。妾、芸妓(伎も同じか?)、芸者、女給、私娼(公娼の定義は?)などの肩書のついた女もあるが、区別は分からない。
 しかし、荷風は、「女好きなれど処女を犯したることなくまた道ならぬ恋をなしたる事なし。50年の生涯を顧みて夢見の悪い事一つもなしたることなし」(192頁)と書いている。売春が公認されていた時代だったが、私通姦通はしないというのが荷風の倫理観だったのだろう(安藤昌益「自然真営道」が近親婚には許容的なのに、姦通に対してはきわめて厳しい態度だったことを思い出す)。
 末弟との悪関係から母親の葬儀には参列していないが、毎年の正月元旦には雑司ケ谷墓地に亡父の墓参りに出向いている。

 荷風は、自分は「無妻」でもあり、また「多妻」とも言える、書斎では独身だが、いったん外に出れば一変して「多妻主義者」になると書いている(298頁)。荷風は一度結婚したが、妻と離婚して以降は「妻」を持たなかった。定まった妻を持たず子孫もないので、いつ死んでも気が楽であることは幸せであると書いている(191頁。285頁にも同様の記述あり)。銀座で乱暴狼藉を働く慶応義塾の学生を目撃し、子を持たないわが身の上を嬉しく思ったと書く(287頁)。
 昭和11年1月にわが家に連れて来た女が「わが生涯で閨中の快楽を恣にせし最終の女なるべし」、「色欲消磨し尽せば人の最後は遠からざる」として、同年2月24日に遺書を認めている(346頁)。荷風58歳の時である。
 遺書には、葬式は不要、死体は普通車で火葬場に運び、骨は拾う必要なし、墓石などの建立も不要、全遺産はフランス・アカデミアに寄付する、著作に関する一切は親友(名は削除)に任せる、中央公論社の如き馬鹿々々しき広告を打つ会社から自分の全集を出すことを恥辱に思う(といいつつ戦後になると中公から全集を出している!)、三菱銀行に定期預金が2万5000円あるので、これで自分の全集を印刷して同好の士に配布されたし、などと書いてある(346頁)。
 遺書には、「余は日本の文学者を嫌ふこと蛇蝎の如し」という一項までわざわざ設けている。
(つづく)

 2024年6月26日 記

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