豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

クラウン・コーラとミッション・コーラ

2024年06月01日 | あれこれ
 
 「豆豆先生の研究室」2007年2月27日の投稿で、「不二家 “トプシー”」という題名で、ボブ・マグラスが歌った「不二家トプシー」のCMソングと、ヴィレッジ・シンガーズが歌ったコカ・コーラのCMソングの思い出を書いた。
 1週間ほど前、この「不二家 “トプシー”」の項の閲覧数がなぜか急に増えた日があった。誰がどんな理由(経緯)で見てくれたのか分からないが、「トプシー」の書込みには気になっていることがあったので、この際補遺を書いておくことにした。
 ちなみに、不二家トプシーのCMソングは、ソノシートが出ていたらしく、Google で検索すると、ボブ・マグラスの甘い歌声を Youtube で聴くことができる。ぼくが書き込んだ歌詞は記憶で書いたものだったが、ほぼ正確だった。ヴィレッジ・シンガースのコカ・コーラのCMソングに関する情報は、今のところ発見できていない。

 補遺(というか訂正)は、不二家「トプシー」ではなく、森永の「クラウン・コーラ」に関するものである。
 ぼくは昭和30年代から40年代にかけて、「森永からクラウン・コーラというのが出ていた」と書いた。しかしこれは誤りで、「クラウン・コーラ」は寿屋(今のサントリー)から出たものだった。
 「クラウン・コーラ」は、正式には「ロイヤル・クラウン・コーラ」といい、1905年創業のアメリカ・ジョージア州の会社が出したコーラで、コカコーラ、ペプシコーラに次いで、第3位の売上げを誇る商品だった。英語では “Royal Crown Cola” と書き、“RC” と略称されたそうだが、ぼくの記憶では、わが国では「クラウン・コーラ」と呼ばれていた。
 クラウンコーラは、日本では1962年に寿屋から発売されたが(1960年という記述も見られる)、業界1、2位のコカコーラ、ペプシコーラに大きく水をあけられたため、1974年に撤退したという。
 ということで、「クラウン・コーラが森永の発売」というのは誤りだった。トレードマークが森永とよく似た王冠(クラウン)形だったうえに、森永のチョコレートに「ハイクラウン」なんていうのがあったので、初めから誤解していたか、誤って記憶したらしい(負け惜しみ)。

 ネット情報によると、日本のコーラには苦難の歴史があったようだ。
 日本の文献における「コーラ」に関する記述は、大正3年(1914年)の高村光太郎「道程」のなかに「コカコオラ」が登場したのが初めてらしい。当時は庶民には縁のないハイカラな飲み物だった。大正8年には、あの明治屋 “MEIDI-YA” がコカコーラを輸入したそうだ。
 しかしアメリカとの戦争中は「敵性物資」として当然輸入などできなかっただろう。敗戦後の昭和20年になっても輸入申請が却下されている。外貨流出防止と国産飲み物(温州みかんジュースなど)保護のためだったという。
 昭和31年(1956年)に、在留外国人(ほとんどは米国人だろう)および外国人向けホテルやゴルフ場などでのみ販売が許されるようになり、昭和36年(1961年)にはコーラの輸入が完全に自由化され、コカコーラとペプシコーラの2社のコーラが輸入されるようになったという。昭和37年に中学生になったぼくが記憶しているのだから、クラウンコーラもこの頃から輸入されるようになったのだろう。 

 「ミッション・コーラ」のほうは、驚くなかれ!、国産のコーラで、コカコーラなどの輸入に先駆けて昭和28年(1953年)に販売が開始されたという。
 わが国でコーラ飲料の生産が始まったのは、戦後の昭和27年(1952年)のウイン・コーラからで、ついで1953年にミッション・コーラが販売されはじめたという。
 ぼくはウィン・コーラというのはまったく記憶にないが、ミッション・コーラはなぜか記憶に残っている。ぼくが中学生だった1962~65年頃にはまだ販売されていたのだろうか。ひょっとしたら、いま現在でも沖縄では販売されているのかもしれない。というのも、沖縄の洋品店で「ミッション・コーラ」(“Mission Cola”)というロゴとコーラ瓶のイラストの入ったTシャツを販売している店があるのだ。沖縄を旅行することがあったら訪ねてみたい。

 ぼくは、昭和30年代前半に軽井沢スケートセンターで開催された渡辺プロ主催の「真夏の夜の夢」というショーの第1回目で、来場者に無料で配布されたコーラを飲んだ(実は飲めなくて吐き出した)のが、コーラにまつわる最初の思い出なのだが、あの時飲んだのはコカコーラだったのかペプシコーラだったのか、ひょっとしてクラウンコーラかミッションコーラだったのか、分からない。
 もしあの「真夏の夜の夢」が始まったのが、コーラ輸入が自由化される1961年より以前だったとしても、渡辺プロは進駐軍に深く食い込んでいたから、コーラの入手は可能だったかもしれない。ぼくの記憶では、とても日本人好みの味つけにはなっていなかったから、アメリカ産のコカコーラかペプシコーラだったのではないかと思う(クラウンコーラだった可能性も?)。それくらいに、当時の日本の子どもにとっては苦くて不味い飲み物だった。
 
 2024年6月1日 記

 ※ 以上の記述は「日本清涼飲料検査協会」のHPその他によったところが多い。本文にふさわしいコーラ関連の写真を探したが、なかなか適当なものが見当たらなかった。ようやく10年前にイギリスを旅行した際に、オックスフォードのパブ “QUOD” で飲んだコーラの瓶が写っている写真を1枚見つけた。ブランド名ははっきりと読み取ることができないが、コカコーラやペプシコーラではなさそうである。イギリスにも地元産のコーラがあったのだろう。

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