豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

ホッブズ『リヴァイアサン』第3部

2021年09月19日 | 本と雑誌
 
 ホッブズ『リヴァイアサン』第3部「キリスト教的コモンウェルスについて」を読んだ。
 ただし、永井道雄・宗片邦義訳の<中公バックス・世界の名著28>『ホッブズ』に収録された抄訳による。

 何度も書いたが、『リヴァイアサン』の第3部、第4部を全訳で読むのには消耗感がある。しかし曲がりなりにも「リヴァイアサンを読んだ」というためには、少なくとも第3部は読んでおく必要があるだろう。そこで妥協策として、中公バックス版の抄訳を読むことにしたのである。
 中公バックス版では第3部は(上下2段組みで)117頁なのに対して、水田洋・田中浩訳の<河出書房・世界の大思想>版『リヴァイアサン』(下の写真)の第3部は169頁ある。1ページ当たりの字数は(数えてないが)河出版の方が多そうである。
 大体のところ、中公版は河出版(全訳)の2分の1か、せいぜい3分の2程度の分量だろう。そのくらいの要約版である。

               

 中公版の抄訳は、いくつかの節をまったく省略した部分と、省略した部分の<要約>が載っている部分がある。『リヴァイアサン』には各節ごとに小見出しがついており、小見出しは載っているのでどんな部分を省略したかは分かる。
 訳者が重要と考えた部分を残し、重要性が低いと判断した部分を省略したのだろうが、やはり全文を読んだのではないという不全感、後ろめたさはぬぐえない。
 省略された部分に、ひょっとしたら何かいいことが書いてあるのではないだろうかという気持ちが残っている。どうせなら、全訳に再挑戦しようかという気持ちになっている。

 以下は、抄訳のそのまた要約である。
 読んだ本の要約は、私の「頭の体操」のための作業のようなものなので、お付き合いいただくのが申し訳ない思いがある。
 『リヴァイアサン』第3部は第33章から第43章までの11章からなる。 

 自然の理性は人々に、平和と正義を得るためにはコモンウェルスの権威すなわち合法的主権者の権威に服するよう教えている(第33章、380頁)。
 「神の王国」(the kingdom of God)とは、臣民となる人民の同意によってその政治的統治のために設立されたコモンウェルスのことである。すなわち「神の王国」は現世的王国(civil kingdom)である(第35章、407頁)。

 私たちは平和と防衛の維持に必要なすべてを行う絶対権力を主権者に与えているが、心の中で何を信じ、何を信じないかの自由(思想の自由)は私たちの側に常にある(第38章、421頁)。別の個所でも、人は宗教上の外的行為については主権者の法に従わなければならないが、人の内的思想および信仰は神にしか知りえないものであるから、法によって左右されることはないと言っている(440頁)。
 * ホッブズが内心の自由としての信仰の自由を唱えていたことは疑いない。ホッブズの「内心」はどうだったのだろうか。「恐怖との双生児」として生まれたと自認するホッブズが生前に内心を明かすことはなかった。

 「教会」とは、キリスト教の信仰を告白する者たちが、一人の主権者のもとに結集し、彼の命令によって集まり、彼の権限なしには集まるべきではない一つの団体であり、キリスト教徒からなる世俗的コモンウェルス(civil state)とまったく同義である(第39章、438頁)。
 * 胡散くさい定義だが、宗教戦争を経験し、ピューリタン革命を経験したホッブズにとって、宗教の名における戦争はコモンウェルスの設立の目的を害する最大の敵だったのだろう。

 キリスト教のコモンウェルスにおいては、「聖書」を解釈する際には、何人も主権者によって定められた境界を超えて解釈してはならない。その境界は地上において神の人格を代表する人々(主権者)の法律である(第40章、444頁)。
 どのような教義が平和にふさわしく、国民に教えられるべきかを決定する権利は主権者の政治的権力に不可分に結びついている。(なぜなら)市民政府は混乱と内乱を避けるために設立されたのだから(第42章、476頁)。

 司教たちは授権に際して「国王陛下の名において」と言わなければならない。それを「神の配慮」と言うことは、自分の権限を世俗的国家から受けたことを否定し、コモンウェルスの統一と防衛に反するものである(第42章、478頁)。
 キリスト教徒である国王は宗教上の問題に関しては国民の統治を法王に委ねることができるが、この場合法王は王に従属するものとして「政治的主権者の権利」によって他人の領土において委託された業務を行う者である(478頁)。
 * ホッブズが批判したのは中世的な法王による統治だったが、『リヴァイアサン』における法王批判は穏やかに読める。省略された部分はどうなのか。
 ※ 田中浩『ホッブズ』(岩波新書)を読むと、『リヴァイアサン』におけるホッブズのローマ教皇およびローマ教会批判はそんな生易しいものではなく、徹底したものだったようだ(100、103、107頁~)。私の読みまちがいだった。

 神への服従と政治的権力への服従が対立した場合、人はいずれに服従すべきか。ホッブズは、王がキリスト教徒である場合もそうでない場合も、主権者に服従すべきだという(第43章、487頁)。市民法の中にはすべての自然法、すなわち神の法が含まれているからである。
 * 内心の信仰は、天上の王国に受け入れられることによって救済されるのだろう。

 さて、第3部を読み終えてから、永井道雄氏による解説を読んだところ、ホッブズが批判し否定したのはローマ法王の統治下にある中世ヨーロッパ世界であり、ホッブズの批判を理解するためには、第4部「暗黒の王国」を第3部より先に読むほうがよいというアドバイスがあった(34頁)。解説を先に読んでいればよかったのに・・・。やはり第4部も読まなければならないか。
 永井氏の解説には、ホッブズのいう権利がブルジョワ社会成立後の私有財産権に及んでいない点で、ロックよりも古い時代に属するという(33頁)。ロックの“property”とホッブズの“propriety”の関係もここにかかわるだろうか。
 『リヴァイアサン』は、王党派とみなされて(フランスに亡命して)いたホッブズが、望郷の念に駆られてクロムウェルらの歓心を買うために書かれたという解釈が紹介されているが(23、27頁)、この本の内容に「神の摂理」に奉じたクロムウェルが納得するとは思えない。

 2021年 9月19日 記

 実は、≪もう少し長い要約≫も書いたのだが、別の機会に。そんな機会があれば、だが。
 

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