ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

アフロ13の「エレキ隊」:消費される《物語》の行方

2005年05月29日 | Weblog
後輩が芝居をやるというので、池袋まで。特別ゲストに「清水宏」が出ていたせいか、少なくとも「小劇場」では見かけなさそうな女子高生らしき姿も。そういえばこの劇団「アフロ13」が立ち上がってから、彼の芝居ってまともに見たことないなぁ、などと思いつつ久々に観劇する。

「エレキ隊」/アフロ13


路線としては、劇団新幹線かMOTHERあたりに近いのか。感想は思ったよりもよかったなぁ、という感じ。

脚本・演出の佐々木智広はドラクエの製作にも携わったこともあってか、この作品も、所謂「芝居」ではない。新しい時代の感覚と言えば聞こえがいいが、どちらかというとエンターティメントショーという言い方のほうが正しいだろう。「楽しい時間」として消費していく対象なのだ。

そうは言っても、そこにはもちろん《物語》は存在する。
政府軍と反乱軍とに二分された世界、そしてその勝敗を決するであろう「悪魔星」の娘・ミカヅキ。彼女を巡るエレキ隊と政府軍、反乱軍。そこには友情や恋愛、親としての子・ミカヅキへの想い…それらのものが1つになってラストに向かっていくわけだけれど、それらはあくまでも「軽い」。物語を進行させるための付属物に過ぎないのだ。

果たして《物語》はどこへたどりつくのだろうか。

これまでも「演劇」が「物語」から離れたことはあった。例えば野田秀樹率いる「夢の遊民社」は「物語」よりも「表現」や「想像力」、あるいはそれゆえに「肉体」にこだわり、新しい地平を開いてきたし、鴻上尚史の「第三舞台」や高橋いさをの「劇団ショーマ」らも「演劇的な表現」にこだわりをもって様々な挑戦を行ってきた。それらの動きは確かに「物語」自体は「軽く」あるいは「人」の重さが失われていったことは事実であるが、同時に「表現」へのこだわりが感じられた。

「演劇」というものが「小説」や「映画」とは違う、「物語」+「(独自の)表現」とによって構成されるからだろう。映画のように決められた時間内に「物語」を再現することだけを求められるわけではないのだ。

しかしこのアフロ13の「エレキ隊」は既に「表現の拡大」を求めているわけではない。もちろん映像の組み合わせは妙だったし、音楽や照明の使い方も所謂「演劇」的ではない。しかし既にここにはエンタメ的な意味合いはあっても、「表現の拡大」を求める意思は感じられない。

あらゆる表現手段が「お手軽」に誰もが利用できるようになり、また「商業主義」に飲み込まれていく。以前であれば「過剰」なまでの「自意識」と他者とは共にいられないという「疎外感」「孤独」、そうしたものが表現者を表現者たらしめ、商業主義とも一線を引き、独自の「作品」作りに駆り立てていたのではないか。しかし今あるのは消費の対象としての「作品」だ。

これは何も演劇だけではない。昨年のシングルベスト100を見ればレコード会社では「エイベックス」がダントツで多い。

もっとも「マーケティング」から遠かった「演劇」もやがて「商品」として扱われるのだろうか。今回の公演に「エイベックス社]から「花」が届いていたのが何とも象徴的だった。



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