「2ちゃんねる」を見ていても執拗な「公務員」バッシングがあったり、大企業や放送局やこれまでの「既得権益」をもっているものに対してのバッシングがあったりと、そこには妙な「格差意識」が感じられる。つまり自分たちの境遇からみて同じように働いているのに「優遇されている」と感じる人々に対して、正当な批判というよりは「ルサンチマン」による批判・やっかみ・ねたみが蔓延しているように思えるのだ。
そうした現在の社会状況・デモクラシーの可能性について、「平等意識」の変容という観点から問い直したものがこの一冊。
〈私〉時代のデモクラシー(岩波新書) / 宇野 重規
【要約】
「近代」は人々を縛り付けてきた伝統や人間関係から個人を解放してきた。宗教や人間の力を超えた「聖なるもの」から解放し個人の意思に新しい価値を見出してきた。しかし「近代」も折り返し地点を過ぎた今、「個人」はそれを抑圧するものに対して高らかに掲げられる理念というよりは、それしかない唯一の価値基準という様相が強くなっている。ひとり一人の「私」というアイデンティティが問題とされ、「平等」もまた全ての人を等しく扱うのではなく、ひとり一人の「私」が特別な存在・オンリーワンな存在として扱われることが求められる。
例えばポストアメリカの時代。グローバルに政治意識が高まっている。これまでのようにアメリカやG8のような先進国が世界の枠組みを決めるのではなく、アジア・アフリカをはじめ世界各国が世界秩序への発言権や経済成長の機会を求めている。
フランスの政治思想家・トクヴィルは、「平等化」とは「階級差」などこれまで異なる世界に暮らしていた人が接触を通じて互いに同じ人類とみなす過程だとした。それまで人々を隔てていた想像力の壁が崩れて、人々の間の平等・不平等をめぐる意識が覚醒することだと。しかしこうした「平等化」は平和な共存を意味するものではない。平等であるからこそ互いの「差異」が気になり、「異議申し立て」か常態する社会となる。
平等社会ではあらゆる価値の源泉は自らの内に求められることになる。自分が他の誰とも等しい存在であることを誇りに思う反面、平等であることに不安を感じる。多数者の意見に異議を唱えることができない「多数者の専制」といった状況はこうした不安によってもたらされる。
戦後日本社会においては、学校や会社、業界といった「中間集団」が存在しており、個人の平等/不平等(差異)意識もその内部に向かうことが多かった。同じ会社や学校、同じ業界内での競争が行われてきたためで、その共同体を超えたところにあるより大きな不平等については意識されることが少なかった。
それは生活保障の問題にしても同様である。日本はこれまでも社会保障の支出が少ない「小さな国家」であったがそれを補ってきたのが会社・業界・家族であった。結果、雇用にしろ社会保障にしろ「仕切られた生活保障」となった。
しかし80年代の行政改革によって福祉が削減され、税制改革によって税の再分配機能は弱められた。バブル崩壊と構造改革がの声が高まり、小泉改革の下、三位一体の改革や特殊法人や郵政民営化によって雇用の受け皿が削られることになった。社会保障が脆弱な上に雇用保障が解体したことで「仕切られた社会保障」は機能不全を起こすこととなった。
また学校や企業といった「中間集団」も個人を囲い込む力を急速に失いつつある。その結果、中間集団からはじき出された個人やその内部の個人にとっても、外部の巨大な不平等と向き合う必要が発生した。本来であれば、産業社会における不平等に直面した個人は「階級」として結集し、階級間の差別を是正するといった行動をとるべきなのであろうが、機能的な「中間集団」が中心であった日本においては人々をつなぎとめる強固な階級意識は期待できない。その結果、現代における不平等は個人で引き受けるしかない状態となり、個人は不安定な状態にとどめ置かれることになる。
こうした平等意識の変容は時間感覚にも現われる。伝統社会や家から切り離された個人は、短い時間間隔で物事を捉えるようになる。自分の生前や死後の時間を想像することは難しくなり、時間を継続性として捉えることが出来なくなる。短期的に考えると自分の利益と社会全体の利益が反する場合でも、長期的に見れば両者の利益が一致することはある。しかしそうした視点ではなく、「いま・この瞬間」に個人の意識が局限してしまう。
現在日本社会の「格差社会」論のポイントの一つに「世代間格差」が上げられるが、「年功序列」というルールが崩れた以上、若年層が「いま・この瞬間」に労働の報酬を受け取ろうとするのは当然である。人々が世代を超えて社会の不平等を是正しようと期待することが難しくなっている。
平等への意識は先鋭化しているにもかかわらず、その平等を実現するための他者との連帯や共闘の道筋は不透明であり、またかけがえのない「個人」として扱われることを望みつつ、また大勢の1人でしかないという無力感に包まれている――このような平等意識が現代の特徴である。
【感想】
これまでのデモクラシーの基盤となるような考え方、自立した市民や階級や労働者や組合や連帯といった言葉で、今の社会の状況を語ろうとする時にどうしても違和感を感じてしまう。何かが違う、枠組みがあっていないのでは…そんな感じだ。
結論から言えば、この本はそうした語る言葉を失った「デモクラシー」について、現在の状況を語る「切り口」を与えてくれたという点で非常に興味深いものだ。とはいえ、宇野さんはこうした時代だからこその政治参加の必要性や意義を唱えているわけだけれど、既にその状況されも失われているくらい、閉塞感や虚無感、絶望というものが社会を覆っているのではないか、と感じてしまう。つまり、こういう時代だからこそ政治参加は必要なのだ、という言葉そのものが届かないでいるのだ。
東浩紀らが指摘するような環境工学的管理社会とは、まさにそうした自立性やデモクラシー意識を喪失したがゆえの、社会が「動物化」したが故に成立したものともいえるし、そうした状況で社会を成立させるための「知恵」ともいえる。
果して、そんな時代に「デモクラシー」はどのような形態をとるべきなのだろうか。この著作の問題意識には共鳴しつつも、まだ答えは見つからないと言った方がいいのだろう。
〈私〉時代のデモクラシー(岩波新書) / 宇野 重規
動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 / 東浩紀 - ビールを飲みながら考えてみた…
そうした現在の社会状況・デモクラシーの可能性について、「平等意識」の変容という観点から問い直したものがこの一冊。
〈私〉時代のデモクラシー(岩波新書) / 宇野 重規
【要約】
「近代」は人々を縛り付けてきた伝統や人間関係から個人を解放してきた。宗教や人間の力を超えた「聖なるもの」から解放し個人の意思に新しい価値を見出してきた。しかし「近代」も折り返し地点を過ぎた今、「個人」はそれを抑圧するものに対して高らかに掲げられる理念というよりは、それしかない唯一の価値基準という様相が強くなっている。ひとり一人の「私」というアイデンティティが問題とされ、「平等」もまた全ての人を等しく扱うのではなく、ひとり一人の「私」が特別な存在・オンリーワンな存在として扱われることが求められる。
例えばポストアメリカの時代。グローバルに政治意識が高まっている。これまでのようにアメリカやG8のような先進国が世界の枠組みを決めるのではなく、アジア・アフリカをはじめ世界各国が世界秩序への発言権や経済成長の機会を求めている。
フランスの政治思想家・トクヴィルは、「平等化」とは「階級差」などこれまで異なる世界に暮らしていた人が接触を通じて互いに同じ人類とみなす過程だとした。それまで人々を隔てていた想像力の壁が崩れて、人々の間の平等・不平等をめぐる意識が覚醒することだと。しかしこうした「平等化」は平和な共存を意味するものではない。平等であるからこそ互いの「差異」が気になり、「異議申し立て」か常態する社会となる。
平等社会ではあらゆる価値の源泉は自らの内に求められることになる。自分が他の誰とも等しい存在であることを誇りに思う反面、平等であることに不安を感じる。多数者の意見に異議を唱えることができない「多数者の専制」といった状況はこうした不安によってもたらされる。
戦後日本社会においては、学校や会社、業界といった「中間集団」が存在しており、個人の平等/不平等(差異)意識もその内部に向かうことが多かった。同じ会社や学校、同じ業界内での競争が行われてきたためで、その共同体を超えたところにあるより大きな不平等については意識されることが少なかった。
それは生活保障の問題にしても同様である。日本はこれまでも社会保障の支出が少ない「小さな国家」であったがそれを補ってきたのが会社・業界・家族であった。結果、雇用にしろ社会保障にしろ「仕切られた生活保障」となった。
しかし80年代の行政改革によって福祉が削減され、税制改革によって税の再分配機能は弱められた。バブル崩壊と構造改革がの声が高まり、小泉改革の下、三位一体の改革や特殊法人や郵政民営化によって雇用の受け皿が削られることになった。社会保障が脆弱な上に雇用保障が解体したことで「仕切られた社会保障」は機能不全を起こすこととなった。
また学校や企業といった「中間集団」も個人を囲い込む力を急速に失いつつある。その結果、中間集団からはじき出された個人やその内部の個人にとっても、外部の巨大な不平等と向き合う必要が発生した。本来であれば、産業社会における不平等に直面した個人は「階級」として結集し、階級間の差別を是正するといった行動をとるべきなのであろうが、機能的な「中間集団」が中心であった日本においては人々をつなぎとめる強固な階級意識は期待できない。その結果、現代における不平等は個人で引き受けるしかない状態となり、個人は不安定な状態にとどめ置かれることになる。
こうした平等意識の変容は時間感覚にも現われる。伝統社会や家から切り離された個人は、短い時間間隔で物事を捉えるようになる。自分の生前や死後の時間を想像することは難しくなり、時間を継続性として捉えることが出来なくなる。短期的に考えると自分の利益と社会全体の利益が反する場合でも、長期的に見れば両者の利益が一致することはある。しかしそうした視点ではなく、「いま・この瞬間」に個人の意識が局限してしまう。
現在日本社会の「格差社会」論のポイントの一つに「世代間格差」が上げられるが、「年功序列」というルールが崩れた以上、若年層が「いま・この瞬間」に労働の報酬を受け取ろうとするのは当然である。人々が世代を超えて社会の不平等を是正しようと期待することが難しくなっている。
平等への意識は先鋭化しているにもかかわらず、その平等を実現するための他者との連帯や共闘の道筋は不透明であり、またかけがえのない「個人」として扱われることを望みつつ、また大勢の1人でしかないという無力感に包まれている――このような平等意識が現代の特徴である。
【感想】
これまでのデモクラシーの基盤となるような考え方、自立した市民や階級や労働者や組合や連帯といった言葉で、今の社会の状況を語ろうとする時にどうしても違和感を感じてしまう。何かが違う、枠組みがあっていないのでは…そんな感じだ。
結論から言えば、この本はそうした語る言葉を失った「デモクラシー」について、現在の状況を語る「切り口」を与えてくれたという点で非常に興味深いものだ。とはいえ、宇野さんはこうした時代だからこその政治参加の必要性や意義を唱えているわけだけれど、既にその状況されも失われているくらい、閉塞感や虚無感、絶望というものが社会を覆っているのではないか、と感じてしまう。つまり、こういう時代だからこそ政治参加は必要なのだ、という言葉そのものが届かないでいるのだ。
東浩紀らが指摘するような環境工学的管理社会とは、まさにそうした自立性やデモクラシー意識を喪失したがゆえの、社会が「動物化」したが故に成立したものともいえるし、そうした状況で社会を成立させるための「知恵」ともいえる。
果して、そんな時代に「デモクラシー」はどのような形態をとるべきなのだろうか。この著作の問題意識には共鳴しつつも、まだ答えは見つからないと言った方がいいのだろう。
〈私〉時代のデモクラシー(岩波新書) / 宇野 重規
動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 / 東浩紀 - ビールを飲みながら考えてみた…