ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

Facebookの上司部下の発言に見るソーシャル時代のリテラシー不足

2013年10月14日 | コンテンツビジネス
まぁ、何と日本社会とは煩わしいことか。

後輩がFacebookでこんな(感じの)投稿をした。

「またやってしまいました。飲みすぎて、家に帰る電車に乗ったのに、気が付いたら全く別な駅に…」

まぁ、本人は自分の失敗談をいいネタにしたという感じなのだろうけど、そこに寄せられた上司からのコメントが「しっかりしろ!」で、それを受けて慌てて本人が上げたコメントが「ちゃんと(会社の資料やPCの入った)カバンは持っています。」というもの。

上司のコメントもどういう意図で発したものかはわからないのだけど、それを受けた部下は当然、真面目に返さざろうえない。本当だったら自虐ネタで軽く笑いをとってという場面なのに、急に現実に引き戻される。それを読んでいる側もそれ以上、からかったりあるある的なコメントもできない。まぁ、盛り上がることはない。

こういった状況は何もこのケースだけではないだろう。だからこそ、上司からの友達申請を許諾するかどうか迷う人も多い。しかし残念なことに、そうはいっても既にソーシャルな社会だ。今さら関係を結ばないということは難しい。

だとするとこうしたケースで必要なものは何だろう。

Facebookでのやり取りを考えると、こういう場面で上下関係が影響する言葉は発しないというのも一つの考え方だ。職場では「部下を叱るならみんなが見ていない場で」と考える人も多いだろう。同じように、個々人のやりとりで指摘する分には構わないが、FBのコメントは他の人間も閲覧可能だ。そういう場面で、流れや雰囲気を無視してそうしたコメントはすべきではないのかもしれない。

あるいはそもそもそのような発言は(社会人として)慎むべきだという意見もあるかもしれない。だとするとFBやソーシャルな場面でも建前でしか発言できなくなる。まぁ、人事部の人間がFBなどで発言の少ないのはこんなとこにもあるのだろう。

インターネットがそこまで発達していない頃でもこうしたことはままあったのだろうが、例えば「酔って違う駅で降りちゃった」という話はそれを聞いた周囲の中で閉じる話だった。冗談で済ませられる人に、「笑い」で許される流れの中で話をしていた。そんな時に「それは気をつけた方がいい」などという正論を話す人は逆に空気を読めない人扱いされただろうし、そもそも「冗談」が通じない人たちにはそんな話はしなかった。

それがネットでは書き手も読み手も互いの意図を想像で補うしかない。しかもアーカイブ化された情報だ、誰が、いつ、どういった感情で読み解くかは書き手では制限できない。全ての発言が本人の意図を超えて広がることになる。

そういった意味では、やはりソーシャルな時代のルールやリテラシーがまだまだ育っていないのだろう。

ただ個人的には、発言者が自己防衛的に発言を抑えるというのは避けたいところだ。

もちろん差別的な発言や誹謗中傷を容認する気はさらさらないが、「会社」という組織を意識するあまり、自由な発言を抑制するというのは違うと思う。僕らの人生において「仕事」は大きな意味を持つかもしれないが、それは一生「会社」が保証してくれるわけではない。これからの「働き方」を考えたとき、1つの企業に所属しながら他の仕事やプロジェクトに参画していくということもあるだろうし、地域やコミュニティへの参画ということもある。

そうした結びつきを強めていくのは、個人の情報発信力であり、(リアルも含めた)ソーシャルグラフの構築だ。そのための機会を特定の企業の閉鎖的な関係性によって損なわれるのは、決して得策ではない。

僕らはネットを通じて、もっと自由になれるはずだ。これまでの日本社会のもつ過度の相互監視性、空気を読む(読みすぎる)感覚に縛られていては、これからの社会に対応できなくなるのだろう。

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