ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「芸術」と「スポーツ」の融合―シンクロ女王 ビルジニー・デデューの可能性

2004年09月18日 | Weblog
アテネオリンピックの中継でシンクロをやっていた時も、どうしても日本選手の活躍を見たくて立花美哉・武田美保のデュエットや団体を中心に見ていたので、ビルジニー・デデューの演技は見たのは初めてだった。しかし、正直、これは凄い…。これは僕の中での「シンクロ」のカテゴリーを大きく越えたものだった。果たしてこれは「スポーツ」なのか?!

シンクロナイズドスイミング ワールドグランプリ in japan2004



フィギュアスケートにしろシンクロにしろ、よく「表現力」という言葉が使われる。ただこれまでは、フィギュアにしろシンクロにしろあくまでも「動き」に注目されていた。極端に言うと「手足の"動き"でどれだけ人間の感情・行為を表現できるか」「普通の人間ではできない"動き"ができるか」というところで理解される範囲であり、だからこそ「フィギュア」や「シンクロ」がスポーツとして見ることができたし、それに対して違和感がなかった。

しかしこのビルジニー・デデューの演技、これはその範囲を超えていないか。

「誕生」をモチーフにした冒頭の演技、プールに飛び込む前の演技などは「舞踏」と呼ばれてもおかしくない、イメージを喚起するものであったし、その表情や醸し出されたものは「感情」そのものであり、まさしく1人の主人公を中心とした「世界」そのものであった。

水中での「動き」の1つ1つをとってもそれは「表現」するために動いているのではなく、表現の結果として生まれてきたもの、感情の果てにあらわれた「動き」として成立していた。それは「競技者」ではなく「役者」や「舞踏家」のそれである。

そう考えると、音楽はもとよりライティングまでを含めて演出された「世界」は「演劇」や「舞踏」が目指してきたものと何が違うのだろうか。「演劇」とはそもそも何もない舞台の上に、「照明」と「音効」と最低限の「舞台装置」の組み合わせと「役者」、それに「観客のイマジネーション」を巻き込み1つのストーリを創りだしていく作業そのものである。「舞踏」にしても「肉体」を機軸にしながら最低限の装置と「観客のイマジネーション」で1つの世界観を生み出していくものだ。それがただ「プール」という舞台に置き換わっただけではないか、そう思えるほど、ビルジニー・デデューのソロ・エキシビジョンの演技はインパクトあるものだった。

「演劇・舞踏」と「スポーツ」。全く別々な範疇に属すると思われてきたものが、同じく肉体を極限まで極める行為として1つに結びついた――大げさな言い方をすると「美」と「技」が同一の地平にたった、のではないか。そんな気にさせてくれる演技だった。




シンクロ 井村雅代=日本代表ヘッドコーチ - asahi.com : アテネ五輪 : 特集 : コーチの流儀



またビルジニー・デデューの目指している地平とは全く異なるが、井村雅代コーチの開いてきたものもこれまでの地平とは全く異なるものだったと思う。

シドニー大会以前は、シンクロというとみんな同じような(言い方が悪いが)「芸術もどき」を目指していたような気がする。「シンクロ」ってこんな感じだよねーという共通了解事項があるとでもいうか、同じような「動き」で同じように「表現」しようとしていたと思う。だからこそ自動車の性能やCPUの性能と同じように、ある共通の基準で測った場合の精度の問題として点数がつけられていたのではないか。

それが井村コーチ指導の下、立花・武田コンビがシドニーで見せたコミカルな動きや「火の鳥」は明らかにそれまでのシンクロの評価基準を超えたものだった。「独創性」「コミカルさ」「和(ドメスティック性)」といった既存の評価基準では測りしれない「新しい地平」を提示した。確かにそれは手足が短く体型的に不利な日本人だからこその挑戦だったのかもしれない。しかしそれはそれまでのシンクロが支配してきた「西洋中心主義」に対して「文化相対主義」とでもいうべき新しい価値観を提示し、結果こそ既存評価基準の中で「銀メダル」ではあったけれど観客からの拍手喝采を受けた。井村コーチの切り開いた地平があったからこそアテネでの各国代表のバラエティ溢れる演技につながったのではないか。アテネでは各国代表が取り入れた演技や技の幅は格段に広がっていると感じた人は僕だけではないだろう。

アテネでみせた「ジャパニーズドール」「人間風車」はそういう意味でシドニーの延長線上にあった。おそらく井村コーチが考えた以上に他国が様々なバラエティをこらした演技、技を用意したことで、"目新しさ"を軸とした展開はインパクトが少なく、その結果、王道の演技で徹底的に精度を高めたロシアに負けたのだろう。ただ井村コーチの挑戦してきたことは「日本の銀メダル」という以上に、シンクロの可能性を高めたという点ではるかに意義のあることだったのだろう。




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