3.11から1年。東京で働いているとその時の混迷はともかく、いったん落ち着いてしまえばそれまでと変わらないように過ごしている。しかしどうだろう。村上春樹は「オウム事件」と「阪神大震災」で大きな衝撃を受けたという。東京に住む人達にとっては「東日本大震災」「福島原発事故」がそれまでの「安全神話」や「科学信仰」を揺さぶるきっかけになったのではないか。それ以前にそれまでの生活の有り様に対して、疑問を感じたり、振り返った人も多かったのではないか。
誰もが何かを感じた1年だったと思う。
僕にとってもやはりいろいろと感じられることは多かったのだけど、そのことはまた別の機会に書くとして、周囲の人々の行動を見ていて感じたこともある。
1つは、周囲との関係を見渡した時に僕らはどのように行動すべきかということだ。自らの感情や感じたことをそのまま口にすることが適切だったのか。
震災直後の混乱、翌日からの福島原発をめぐるニュース報道、報道発表と異なる現実…「安全神話」が崩れ、何も信じられない状況が続く。そんな中で誰もが不安に思うこともあったと思う。ただそれを口にすることはどうだったのだろう。
「不安」を口にすれば他の人間の「不安」を呼び起こす。「不安」が「不安」を呼び、それがやがて全体を「不安」にする。
必要以上に楽観的になれというわけではない。ただ自分が「不安」を口にすることで気を紛らわせていたとして、それが他の人に与える影響を考えるならば、そうしたことは口を慎むべきだろう。特にそれが推測や憶測に基づく場合、不必要な「不安」を撒き散らすことに他ならない。
あるいは「買い占め」という問題。
震災直後の近所のイオンでは、朝の開店直後に食品棚から商品がなくなるという自体が発生した。その時の光景というのは早い者勝ちで「水」や「米」をはじめあらゆる商品を大量に「買い占める」といった状態。冷静に考えれば2~3日過ごせるだけの量があれば十分なはずなのに、「不安」と「利己心」から大量に買い占める人が目立った。
阪神大震災や新潟県中越沖地震を経験した日本では、災害地に対してでさえ物流網の整備は速やかに実施される。震災地以外であれば、多少の商品不足が起こったとしても、数日の問題だ。つまり本当に必要な人がその数日分だけを求めれば、全体としての混乱はそれほど起こらないはずなのだ。
しかし「不安」と「利己心」がそうした判断を狂わせる。一時的な感情によって大量の買い占めが行われ、それがマスコミと口コミが煽り、さらに大きな買い占めに走らせる。
こうした時ほど、本来は冷静に行動すべきなのだ。買い占めた商品を余らせた人も多かっただろう。
本当であれば、僕らはきっと思った以上に冷静に行動できる。
ただしそれは正しい情報が適切に公開されていればの話だ。
未だに政治家や官僚、マスコミ、エスタブリッシュな企業の人達は自らが情報をコントロールすることで国民を適切に行動させることができると考えんている。あるいはこれまでと同様な仕組みで情報を提供することが自らの地位を安泰にさせることができると考えている。
しかしかってのようにマスメディアを通じて情報が一方的に流されるような時代ではない。幾つもの階層・組織を経て提供される情報よりも、TwitterやSNSで一般市民によって交わされる情報の方が早くかつ正確でさえある。そしてそれらの情報に対する信頼がエスタブリッシュな機関から提供される情報よりも信頼されている。
3.11でも明らかだったように僕らはコミュニティを大切にする国民だ。普段は無意識だったとしても、結果として見ればサンデルが言うような「コミュニタリアン」として日本人は行動しているのだ。
もしかしたら僕らは中央省庁や企業やマスコミといったエスタブリッシュな広報ルートとは別の新しい情報流通のあり方が求められているのかもしれない。そこではその現地にいる人々や特定の分野に対して知識を持っている人々が直接、自らの声で語りかけることで、適切な判断を下せるような世界であり、共有知をもとに現実の世界が動いていく世界だ。
そのための情報共有方法、プラットフォームの存在はどのようなものだろう。TwitterやFacebookはまだまだ情報が点在している存在だ。もっともっと情報を集約し、それぞれが適切に判断できるような指針(guidelines for action)となるような存在が必要なのだ。
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誰もが何かを感じた1年だったと思う。
僕にとってもやはりいろいろと感じられることは多かったのだけど、そのことはまた別の機会に書くとして、周囲の人々の行動を見ていて感じたこともある。
1つは、周囲との関係を見渡した時に僕らはどのように行動すべきかということだ。自らの感情や感じたことをそのまま口にすることが適切だったのか。
震災直後の混乱、翌日からの福島原発をめぐるニュース報道、報道発表と異なる現実…「安全神話」が崩れ、何も信じられない状況が続く。そんな中で誰もが不安に思うこともあったと思う。ただそれを口にすることはどうだったのだろう。
「不安」を口にすれば他の人間の「不安」を呼び起こす。「不安」が「不安」を呼び、それがやがて全体を「不安」にする。
必要以上に楽観的になれというわけではない。ただ自分が「不安」を口にすることで気を紛らわせていたとして、それが他の人に与える影響を考えるならば、そうしたことは口を慎むべきだろう。特にそれが推測や憶測に基づく場合、不必要な「不安」を撒き散らすことに他ならない。
あるいは「買い占め」という問題。
震災直後の近所のイオンでは、朝の開店直後に食品棚から商品がなくなるという自体が発生した。その時の光景というのは早い者勝ちで「水」や「米」をはじめあらゆる商品を大量に「買い占める」といった状態。冷静に考えれば2~3日過ごせるだけの量があれば十分なはずなのに、「不安」と「利己心」から大量に買い占める人が目立った。
阪神大震災や新潟県中越沖地震を経験した日本では、災害地に対してでさえ物流網の整備は速やかに実施される。震災地以外であれば、多少の商品不足が起こったとしても、数日の問題だ。つまり本当に必要な人がその数日分だけを求めれば、全体としての混乱はそれほど起こらないはずなのだ。
しかし「不安」と「利己心」がそうした判断を狂わせる。一時的な感情によって大量の買い占めが行われ、それがマスコミと口コミが煽り、さらに大きな買い占めに走らせる。
こうした時ほど、本来は冷静に行動すべきなのだ。買い占めた商品を余らせた人も多かっただろう。
本当であれば、僕らはきっと思った以上に冷静に行動できる。
ただしそれは正しい情報が適切に公開されていればの話だ。
未だに政治家や官僚、マスコミ、エスタブリッシュな企業の人達は自らが情報をコントロールすることで国民を適切に行動させることができると考えんている。あるいはこれまでと同様な仕組みで情報を提供することが自らの地位を安泰にさせることができると考えている。
しかしかってのようにマスメディアを通じて情報が一方的に流されるような時代ではない。幾つもの階層・組織を経て提供される情報よりも、TwitterやSNSで一般市民によって交わされる情報の方が早くかつ正確でさえある。そしてそれらの情報に対する信頼がエスタブリッシュな機関から提供される情報よりも信頼されている。
3.11でも明らかだったように僕らはコミュニティを大切にする国民だ。普段は無意識だったとしても、結果として見ればサンデルが言うような「コミュニタリアン」として日本人は行動しているのだ。
もしかしたら僕らは中央省庁や企業やマスコミといったエスタブリッシュな広報ルートとは別の新しい情報流通のあり方が求められているのかもしれない。そこではその現地にいる人々や特定の分野に対して知識を持っている人々が直接、自らの声で語りかけることで、適切な判断を下せるような世界であり、共有知をもとに現実の世界が動いていく世界だ。
そのための情報共有方法、プラットフォームの存在はどのようなものだろう。TwitterやFacebookはまだまだ情報が点在している存在だ。もっともっと情報を集約し、それぞれが適切に判断できるような指針(guidelines for action)となるような存在が必要なのだ。
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