マイケル・ムーアの「華氏911」が始まる前にと思って、引用されたタイトルの映画「華氏451」を見た。監督は名匠 フランソワ・トリュフォー。思想統制の一環として「本」が禁止された世界を描いたSFだ。
華氏451
近未来。みんなが平等な幸せを享受するために、知識や情報はテレビを通じて与えられ、人はその通りに考え、行動しいる。その世界では「本」の存在は許されない。「読書」は自分で考えることを生み出し、ひいては社会を不安定にせさるからだ。主人公 モンターグは反社会的思想を生み出す「本」を見つけ出し、焼き尽くして処分するという「消防士」の1人。ある日、彼は偶然に妻そっくりの女性 クラリスに出会う。
テレビからの情報、薬漬けの日々で無気力な妻リンダと活動的なクラリス。彼はクラリスの影響を受け、「本」に興味を持ちはじめる。はたしてテレビから与えられる情報だけでいいのか?やがて「本」を隠し持っていたことがはせれたモンターグとクラリスは、社会から追われることになる…
何も考えず、ただ与えられたとおり行動することは、ある意味、幸せなことかも知れない。苦悩や苦痛といったものを排除し、不安定な感情は「薬」で抑える。麻痺してしまった生活の中には刺激はないかもしれないが、「私」を脅かすものもまたない…
これは現代社会の縮図そのものだ。
マスコミというフィルターのかかった情報が氾濫し、あらゆる行動様式がマニュアル化された中では自らの「行動」さえも考え出したと言うよりは何らかの「反復」でしかない。抗鬱剤の一般化はもとより、対処療法的な「薬」や「栄養ドリンク」の普及は、肉体を麻痺させあたかも人工物のように扱っている。映画ほど極端でなくとも方向性は同じなのだ。
しかし妻リンダが薬の量がどんどん増えていくことが物語るように、どのように人工的にコントロールしようと思っても、人間の感情、存在論的な不安感をコントロールするのは並たいていなことではない。リンダの姿はそうした社会の限界を示しているのだろう。
この映画では、モンターグはそれまで自分たちが当たり前と思っていた共同体の外部に自分たちの生きる共同体を見つける。それはけっしてそれまでの社会(=価値観)を倒すわけではなく、外部に求めたのだ。しかも、書物の内容を頭の中に記憶することによって「本」を捨てるという、妥協的な政策の下で。
彼らはそれによって精神的な自由を求めることができたのだろう。実体としての「本」を捨て去ることで、追われることもなく、同様に精神的な自由を求めるコミュニティの中に閉じて生きることで。しかし実践を伴わない思想とは何なのだろうか。この映画は何も答えてはいない。
華氏451
近未来。みんなが平等な幸せを享受するために、知識や情報はテレビを通じて与えられ、人はその通りに考え、行動しいる。その世界では「本」の存在は許されない。「読書」は自分で考えることを生み出し、ひいては社会を不安定にせさるからだ。主人公 モンターグは反社会的思想を生み出す「本」を見つけ出し、焼き尽くして処分するという「消防士」の1人。ある日、彼は偶然に妻そっくりの女性 クラリスに出会う。
テレビからの情報、薬漬けの日々で無気力な妻リンダと活動的なクラリス。彼はクラリスの影響を受け、「本」に興味を持ちはじめる。はたしてテレビから与えられる情報だけでいいのか?やがて「本」を隠し持っていたことがはせれたモンターグとクラリスは、社会から追われることになる…
何も考えず、ただ与えられたとおり行動することは、ある意味、幸せなことかも知れない。苦悩や苦痛といったものを排除し、不安定な感情は「薬」で抑える。麻痺してしまった生活の中には刺激はないかもしれないが、「私」を脅かすものもまたない…
これは現代社会の縮図そのものだ。
マスコミというフィルターのかかった情報が氾濫し、あらゆる行動様式がマニュアル化された中では自らの「行動」さえも考え出したと言うよりは何らかの「反復」でしかない。抗鬱剤の一般化はもとより、対処療法的な「薬」や「栄養ドリンク」の普及は、肉体を麻痺させあたかも人工物のように扱っている。映画ほど極端でなくとも方向性は同じなのだ。
しかし妻リンダが薬の量がどんどん増えていくことが物語るように、どのように人工的にコントロールしようと思っても、人間の感情、存在論的な不安感をコントロールするのは並たいていなことではない。リンダの姿はそうした社会の限界を示しているのだろう。
この映画では、モンターグはそれまで自分たちが当たり前と思っていた共同体の外部に自分たちの生きる共同体を見つける。それはけっしてそれまでの社会(=価値観)を倒すわけではなく、外部に求めたのだ。しかも、書物の内容を頭の中に記憶することによって「本」を捨てるという、妥協的な政策の下で。
彼らはそれによって精神的な自由を求めることができたのだろう。実体としての「本」を捨て去ることで、追われることもなく、同様に精神的な自由を求めるコミュニティの中に閉じて生きることで。しかし実践を伴わない思想とは何なのだろうか。この映画は何も答えてはいない。
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