ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

キュレーションの時代と新たなるメディアの本質

2011年05月04日 | 読書
ここ数年、トラヒックの流れが変わったといわれている。以前であれば、SEO対策の成否がそのサイトのトラヒックを決めていたのだろうが、それだけではなく、TwitterやSNSといったソーシャルメディアでの「話題」になることが大きな影響力を持つようになった。

しかしインターネットの登場によってコンテンツは玉石混淆、無数に生成されており、自分の求めるコンテンツと出会うことが難しくなっている。そんな中でそうしたコンテンツの持つ意味を咀嚼し、新たなる価値や意味を付与し、新たなる文脈の中で整理し紹介する、そんな役割が重みを増している。

佐々木俊尚さんはそうした様を「コンテンツが王だった時代」から「キュレーションの時代」になったと評している。

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)/佐々木俊尚



そもそも「キュレーター」とは、博物館や美術館含などで、施設の収集する資料の鑑定や研究を行う専門家のこと。一種の学芸員のような存在。特に現代美術においては展覧会の企画を担い、難解な現代美術と社会との橋渡しを行うことになる。

ここにきて「キュレーションの時代」が叫ばれることになったのは、インターネットの普及などによってデジタル情報過多の時代になったことがある。音楽にしろ、ウェブサイトにしろ、様々な情報やコンテンツがあふれ、その結果、趣味や関心が多様化し一つ一つの情報の生息空間(ビオトープ)が分断化しているにも関わらず、肝心な情報が必要としている人に届かないという状況になってきたからだ。

そこで、ソーシャルメディアやブログなどを通して、多様な情報に新たなる価値や意味を付与し、整理し、広めていく人々の存在に注目が集まる。そしてそういう人々を同じく「キュレーター」と呼ぶことになる。キュレーターが発信する情報は決して「マス」向けの情報ではないかもしれないが、その情報を求めているビオトープに届くことになる。

佐々木さんはそうした様子から「コンテンツ」から「キュレーション」に王座が移ったと書いているわけだけれど、果たしてそうなのだろうか。

現在のネットの世界のコンテンツ流通を考えた場合、その役割は4つに分けられると思う。

1)オリジナルの情報/コンテンツを提供する人(1次コンテンツ)
2)オリジナルのコンテンツをもとに、新たに整理したり独自の意見を付与したりと、1次コンテンツを2次加工をする人(2次コンテンツ)
3)twitterやソーシャルメディアを通じて1次コンテンツ/2次コンテンツを広めていく人
4)そうしたコンテンツの受け取り手

例えば新聞記事やテレビニュース、あるいはYouTubeに投稿される映像というのは、ここでいうオリジナルの情報、「1次コンテンツ」だといえる。自らが取材したり、作曲したり、製作したりといった具合に、オリジナルなコンテンツの製作者だ。

これに対してソーシャルメディアでは、そうした1次コンテンツをもとに2次加工しているものも多く見られる。このブログなんかもそれに近いのだけれど、ある記事を見てそれに独自の視点での感想や意見を付与したり、複数の別々のコンテンツを独自の視点で整理しなおしたり。「~をまとめてみた」系もそうだろうし、YouTubeの映像を集めてPLAYLIST化したりする場合もそうだろう。彼らは「編集」「編成」という行為を通じて、2次コンテンツを作り出しているといえる。

佐々木さんの言うキュレーターというのは、2)と3)を包含しているのだろう。2)の立場だと積極的に自分の視座や意見を付与するような形となり、3)の立場が強ければ「どのような情報を広げるか」という観点での関与が中心となる。よくtwitterなどで面白いと思ったサイトのタイトルやキーワードと短縮URLを投稿している人たちが3)のような人たちだ。

また「4)受け取り手」も完全な受身というわけではない。少なくとも数多くの情報発信源(3)の中から、どの情報を受け取るかという判断・フィルターを設定しているのは受け取り手自身だ。また情報を受け取ったとしても、そこで紹介されているコンテンツに実際にアクセスするかどうかは受け取り手自身の判断による。

しかしそもそもこうしたことは今に始まったことではない。インターネットが普及し始めた当初から、ネットの世界の「コミュニティ性」には注目されていたし、これまでは雑誌のような趣向性の高いメディアを通じてゆるやかに繋がっていた世界が、インターネットによって規模の大小に問わず、より強固に結びついてきた。ネットの世界はコンテンツ&コミュニティの世界だ、などとも言われていた。

コミュニティ≒ビオトープの中では、当然、中心的に情報を発信する人がいたり、その情報を受けて二次的に発信したり、それを受け取ったりする人がいるわけで、キュレーションの時代だからといってその構図は変わっていない。

では何が違うのか。

1つのポイントは、これまで以上に、OPENに、手軽に、様々な形で人と人とが結びつき、離散し、再結合できるようなツール、しかもリアルタイムに圧倒的な伝播力をもって情報を伝えるようなプラットフォームが出来上がったことだろう。それがmixiでありFacebookでありTwitterであり、そういったソーシャルメディアなのだろう。

インターネットの情報は多くの人々に情報を発信するパワーと様々な情報に触れる機会をもたらした。とはいえ、HPを作成し運用するにはそれだけのパワーがいるし、実際に更新したとしても、(世界中の人々に見てもらえる可能性があるとはいえ)それにアクセスしてくる人は限られている。

そこには発信する側(1や2)と受信する側(4)をつなぐためには、検索エンジンに頼らねばならず、これだけ無数にコンテンツが存在していると、両者がつながる可能性が非常に低かったからだ。しかしソーシャルメディア、特にSNSやTwitterの登場はそうした流れを変えることになる。

それらソーシャルメディアは既に、コンテンツの発信以前に「人」と「人」とを結ぶ「回路」を用意している。それがリアルな関係を基にしているものであれ、バーチャルな世界の関係であれ、検索エンジンに頼らない情報流通が可能となる。「友達の友達はみんな友達だ」的な情報の伝播ルートがあり、それがこれまでのネットの世界とは異なる情報流通を可能とする。

誰かが共鳴するような「情報」や「コンテンツ」があると、いったんその回路に流れ出すと一気に広がることになる。「キュレーションの時代」の本質とは、この回路の存在なのだ。

佐々木さんの話では、あたかも「コンテンツ」の作り手よりもそれを独自の視点でどう整理しなおすかをもって「キュレーションの時代」をうたっているけれど、そうした行為そのものはそれ以前と変わりはない。しかし例えばBBSやHPによる情報発信の時代とSNSやTwitterの時代ではその情報流通の在り方が違う。その情報が伝播する「回路」の在り方の違いこそが、「キュレーションの時代」たらしめているのだろう。

あるいはそうした新しい回路=メディアに対応したコンテンツの在り方が2次コンテンツを中心とした「キュレーション」の時代なのかもしれない。

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)/佐々木俊尚


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