ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「意識通信」/森岡正博:「匿名性」社会を支えるものとは?

2005年07月10日 | 読書
僕が始めて森岡正博氏の著書を読んだのが1994年に出版された「生命観を問いなおす」(ちくま新書) で、その時はまだ気鋭の倫理学者か社会学者だと思っていた。ただ当時から扱う領域はそれまでの「生命学」より広く、「生命」という視点からサブカル/学際領域に果敢に取り組んでいる印象があった。この「意識通信」が書かれたのが1991年、西垣通氏の「マルチメディア」(岩波新書)の発売や日本語版WIRED創刊されたのが1994年、「Windows95」の発売と押井守氏の「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」が公開されたのが1995年。日本のインターネット黎明期であるこの数年間というのは、生命~IT~ネットワークというものが、「問題意識」として、非常に近かった時代なのだと思う。



当時大学生だった僕も、この「意識通信」で書かれている問題意識をオーバーラップするように、「人間」とは何か、「(他者と)理解する」とは何かということを考えていたと思う。おそらく森岡氏のいう「社会的無意識」のように、この本が捉えている問題意識を僕自身共有し、同じような結論を感じていたのではないか。森岡氏の主張には大筋で同意できるものだ。

僕がこのブログの中でブログの本質が「匿名性」にあることの理由も、あるいはインターネットを「欲望メディア」と捉えていることの理由も、総論においてこの著書と同じく、「匿名」となることで通常の社会生活では抑圧されている無意識の欲望が刺激されることと考えるからだ。「意識通信」ではこの模様を詳細に検討している。

また「コミュニケーション論」というと、シャノン・ウィーバーモデルに代表されるような「情報」をどう伝達するかというモデル、もしくは記号論のように「記号」(ex.文字や絵、形態;=「シニフィエ」)とそれが何を「意味」するか(=「シニフィアン」)といったモデルが中心だった。確かにこれらはこれらで大切なことだし、学問体系としては分かりやすいのだけれど、同時に例えば「会話」そのものを楽しむ/消費する場合の「コミュニケーション」とは何か(「情報」の伝達が目的ではない)、「場の空気」といったようにそこで生み出される「情報」ではない「何か」についてはおざなりにされていた。こうした「何か」に対して、森岡氏が直感的なアプローチによって描いて見せたのが「意識通信」モデルだ。

僕から「あなた」へ電話線を通じて「触手」が伸びてきて絡み合うといった具合に、あくまで「直感的な」描き方なので、多少、読みにくいところや理性的な反発があるかもしれないが、不可視のものを可視化する作業として描かれているためであって、リアルな世界ではこれらは決して難しいものではない。

例えば「新宿梁山泊」や「MOP」の芝居などを見てもらえば一目瞭然なのだが、舞台で行われる役者たちのコミュニケーションというのは「台詞」ではなく、それぞれのシーン(「場」)でのそれぞれの「感情表現」であり、だからこそ「見つめあう」だけでそこに「愛情」が生まれ、「憎しみ」が生まれ、「許し」と「諦め」が生まれ、観客までを巻き込んだ「カタルシス」になる。このブログの中でも「情念」「感情」「関係性」という言葉で表現しているように、森岡氏はその著書の中で「意識交流」「エネルギー」「意識交流場」という言葉を通じて、「情報」ではない「何か」の正体を表現しようとしているのだろう。

実際、僕自身当時結論付けた「私」というものの実体とは、森岡氏の「意識」=「エネルギーの流れ」と非常に近い。リピドーやあるいは「呪われた部分」といわれるように、過剰なまでの「エネルギー」こそが実体であり、それが例えば「液胞」のように、ゆらぎ続けかつある程度一定の形態に収まった形状であると同時にその内部では絶えず激しく「流動」し続けている。外部からの刺激によって形状は変化しつつも大きく崩れることはなく、また他者との「交わり」を通じて内部の流動は激しくゆらぎつづけ、しかし他者と未来永劫同一のものに結合するわけではない――このモデルは森岡氏が「意識交流」モデルで描いたモノと非常に近いではないか。そう考えると、あの当時、同じ問題意識を共有していた人間にとっては同じような「答え」を見ていたのではないかと思う。

ただ後半部「ドリームナヴィゲータ」についてはやはり多少違和感を感じる。

とはいえこれは「個人の無意識」に対比された「社会の無意識」に対しての違和感ではない。全然異なる2つのアプローチで僕は意外とこの社会全体が1つの「無意識」を共有しているのではないか、という意見には賛成している。

1つは、「個」としての人といっても時代的・地理的、あるいは所属している集団的な制約がある以上、その集団の人々が同じように抑圧された感情や欲望、あるいは感じていることというものがある以上、そうした「共有された感覚」というものを「社会的無意識」と呼んでも差し支えないのではないかと考えるからである。森岡氏自身「集団精神」との違いで示しているように、この「社会的無意識」というものは「個」に根ざしつつ「共有」された感覚だと捉えるならば、例えば群集心理や「多数者の専制」と呼ばれるような状況、あるいは会社や学校などで会議が煮詰まった時に、急に突拍子もない方向の意見でまとまってしまうことなどもこうした「無意識」が介在しているといえるだろう。この場合、その意見そのものに対して皆が同意をしているというより、その煮詰まった状況を打破したいと考える潜在的な意識やエネルギーが、合理性などを無視してでも先に進めてしまったいい例だろう。そういう意味で、この「社会的無意識」というものに賛同できる。

もう1つはそれこそ「集団精神」ではないが、我々の体の細胞それぞれが生死を繰り返しつつ、同時に「私」というより上位レベルでの意識を作り出しているように、我々が社会の成員として個々人がそれぞれ活動しつつ、社会が全体としてある一定の方向性を見出すように、より上位レベルではある種の「無意識」的なエネルギーが社会全体に充満しているのではないか、ということ。上記のモデルでは個々人にそのエネルギーが蓄積され、その感覚を「共有」しているのに対し、エネルギーの蓄積主体は「個々人」というよりは「社会」を1つの実体として考えた場合にこそ相応しいのではないか、ということ。まぁ、考えようによってはオカルトだ。

そういったこともあって、「社会的無意識」論については反対はしないのだが、ドリームナビゲーターの存在については疑問に思う。実際、個々人の無意識に対比して社会的無意識を表出させる営みとしてドリームナビゲーターが描かれているのだけれど、むしろ、社会で起きる様々な事象にこそ「社会的無意識」が象徴されているのではないか。

例えば「子供が親を殺す」という残忍な事件が続く時、そこには単純に「少年A」が個人としての積もった「恨み」だけで「親」を殺したというよりも、むしろ同時代の「少年」たちに「共有」された様々な「負のエネルギー」が1つの表現形態として「親殺し」に結びついてると考えるべきではないか。とすれば、そこには意図的にドリームナビゲーター」を用意する必要はない。その事象が象徴している意味を読み解くことこそ必要なのだ。


とにかく、前半部分については是非目を通して欲しい一冊だと思う。ブログという「匿名性」の表現手段が流行り、一部のタレントやブロガーが、かって「匿名性」のネットワークを構成させたラジオスターのように活躍する現在、インターネット以前に書かれたこの本が、しかしながら未だに通用する「本質」を描いているのではないだろうか。



「意識通信」/森岡正博


「生命観を問いなおす」/森岡正博

「マルチメディア」/西垣通

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