ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

パッチギ!:果たして精神的自由は訪れるのか

2006年05月03日 | 映画♪
京都という街は不思議なところでただの歴史ある地方都市というだけではなく、「左翼」と「右翼」「在日朝鮮人問題」「同和問題」というものが狭い街の中に混在している。大学構内を覗けば、「民青派」やら「革マル派」「中核」やらといった文字が記載されたビラが配られ、その一方でそれらを毛嫌いし「天皇」がいかに大事かを話す連中がいる。バスに乗ればチマチョゴリを着た女子学生がいて、「このあたりはだから治安が悪い」という会話が当たり前のようになされている。そんな京都の1968年を舞台に在日朝鮮人と日本の高校生の青春を描いた井筒監督の秀作。

グループ・サウンズ全盛の1968年。京都府立東高校の空手部と、朝鮮高校の番長・アンソン(高岡蒼佑)一派は、激しく対立していた。両校の親睦をはかるためにサッカーの親善試合の申し入れを行うはめになった松山康介(塩谷瞬)は訪れた朝鮮高校で、偶然、アンソンの妹のキョンジャ(沢尻エリカ)に一目ぼれする。彼女が奏でていた美しい曲が、「イムジン河」という朝鮮半島に思いを馳せた歌だと、自由人・坂崎(オダギリジョー)に教えられた康介は、キョンジャと親しくなりたい一心で、ギターの弾き語りで「イムジン河」を練習し、朝鮮語の独学を始めるのだった…

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話はいたってシンプルで、対立する2つのグループの男女が恋に落ち、男はもう1つのグループに溶け込もうと努力する。2つのグループの対立はまだ続いてはいるけれど、個々人では友情と愛情で融和の可能性を切り開いた――。そんなところだろう。ただこのグループの一方が「在日」だったりすると俄然この問題は難しさをともなってくる。

そもそも何故「在日」が存在するのか?結局、作品のモチーフに「在日」が絡んだ瞬間からそれが既に「在る」状況として物語を進めていくわけにはいかなくなる。「在日」を扱った瞬間、物語はその歴史を背負わされ、「連れてこられた者」と「その後もいつく者」という対立する解釈をもつ観客達に晒されることとなる。

「あなた朝鮮人になれる?」

その一言はおそらく他のどの対立よりも深い。

この物語の中では、決して在日の学生たちが悲劇的な存在としてもきれいごととしても描いていない。怖いくせになめられるわけにはいかないとの一心で喧嘩にあけくれ、(日本)人を騙して小遣いを稼ぎ、恋愛にあけくれ、包茎に悩み、夢を語る。その姿は日本の学生たちと変わりない。

しかしこれが例えば他の問題と違うとしたら、同じように日本語を話しアジア系の顔立ちでありながら、グループ内に閉じていることであり(融和しようとしないことであり)、繰り返し語られる被差別意識・被害者意識であり、日本人から見れば執拗とも思える民族意識だろう。

彼らも既に北朝鮮が楽園でないことに気付いていながら、そのことを口には出さず、むしろ祖国に帰ることを「是」として捉えている。キョンジャやアンソンらに溶け込もうと努力し認められた康介でさえ、やはりいざ「葬儀」という感情的な場面になると、「かって日本にされた恨み」をぶつけられ、そのことを知らないとなじられる。その姿は坂崎のような「(精神的な)自由さ」からはほど遠い。

エンディングロール。高校を卒業した面々はそれぞれの社会へと旅立ち、そこには「(朝鮮)学校」という閉鎖された場所もなく、ごく普通に融和して生活をしている。社会にでれば、それぞれの「役割」が与えられそれらは民族など無関係だし、あるいは様々な関係性の中で相対的に民族という枠にとらわれることも少なくなっていくのだろう。しかしこのことは心の根底まで変えたことを意味しない。

彼らと我々の奥底に潜む意識の差、憎悪、恨み、差別意識といったものは果たしてなくなるのだろうか。


【評価】
総合:★★★★☆
映画のパワー:★★★★☆
ゲロッパとはえらい違い!:★★★★★

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