ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

スチームボーイ:大友克洋が描いた「科学」の抱えた2つの可能性

2005年09月17日 | 映画♪
2004年はジャパニメーションにとって話題の多い年だった。押井守が「イノセンス」を、宮崎駿が「ハウルの動く城」を公開し、その一方で「APPLESEED」がこれまでの日本のアニメとは違うアプローチで評判を集めた。そしてこの作品。「AKIRA」でジャパニメーションの先陣を切り、「マトリックス」にも影響を与え、新作の公開を永く待たれていた大友克洋が制作期間9年、総制作費24億円をかけた、ようやく、本当にようやく新作「スチームボーイ」を発表したのだから。

19世紀産業革命真っ只中のイギリス。「科学の進歩の象徴」ともいえる万国博覧会がロンドンで開催されようとしていた。ある日、祖父・父ともに発明家である少年レイのもとに、渡米中の祖父ロイドから謎の金属ボールを託される。そこに父祖と父が働いているはずのオハラ財団を名乗る男達が現れ、そのボールの引渡しを要求する。しかし一緒に渡された祖父からの手紙では、「オハラ財団の人間には絶対に渡すな」と記されている。戸惑うレイ。強引に奪おうとする男達。レイは自作の自動一輪車で逃げ出すのだが、財団の男達は自走蒸気機関で追い詰められようとした。その時、レイを助けたのは、イギリスの科学者であり、レイの父エディのライバルでもあるロバート・スチーブンスンだった…

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20世紀は「科学の世紀」であった。それは「科学技術」の発達こそが「進歩」であり、それによって人々の生活はより便利に、より幸福になるという1つの「信仰」であるといってもいい。しかし20世紀は同時に、2度にわたる世界大戦や原爆、核兵器といった未曾有の「暴力の世紀」でもあった。これらは全く別の事象ではない。軍需産業で開発された技術が民間の技術に展開され、あるいは民生用の技術が簡単に兵器に転用されるように、科学技術はその両方の側面を常に抱え込むこととなる。しかしこのことは利用者の責任だけを追及するような「科学の中立性」を擁護するものではない。「科学」がヒトの欲望を実現ための「装置」でしかない以上、結局のところ、生み出す側の「科学者」と利用する側・パトロンとしての「国家」や「政府」あるいは「企業」のモラルそれぞれが求められるのだ。

しかし実際のところ、ことはそんなに簡単ではない。例えば民間人に対しての未曾有の殺戮行為であった「ヒロシマへの原爆の投下」が、今でもアメリカ国民にとっては「被害を最小限に抑えるために必要な措置」として積極的な意味を見出されているように、立場や考え方が変われば、「理性」と「暴力」の間の境界線は曖昧なものとなってしまう。

祖父ロイドが語ったように「敵とは己の中にある傲慢と打算が作り出すものなのだ。本来の人間の内には敵も味方もない」という言葉は、真理ではあるかもしれないが、現実とは、そのような哲学的命題に基づく選択とは程遠い。そしてそうした「科学」の目指すべき姿を巡る葛藤をこの物語は描いている。

例えば父エディが「科学はこの世のすべの進歩に危惧しなければならない」と語るとき、それは単純に「だから兵器をつくってもいい」というものではなく、そうしたものも含めていずれ「心」がついてきて、「人の幸福」に寄与することになるというという意味がこめられているといっていいだろう。そう理解するならば、この言葉は一概に否定されるべきものではない。しかしこの言葉を肯定することとは、すなわち「ヒロシマ」を肯定することに他ならない。

「もののけ姫」のエボシの存在も比較的この立場に近いと言えるだろう。彼女はタタラ場の長として、野蛮なシシ神たちを殺戮しつつ(「兵器」の肯定)、その一方で女性や被差別民たちの解放やタタラ場の民に「繁栄」をもたらそうとする。「暴力」という側面を含めて「文明」の発達を肯定しそれを実践しているのだ。

まさに「近代」という時代の精神といっていいだろう。

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エディやエボシのような信念に基づき、文明・科学の進歩を実践していくものと比べると、ロイドの「敵とは己の中にある傲慢と打算が作り出す…」といった言葉、そのユートピア的な理想論に力強さは感じられない。その言葉自体は決して間違いではない。それは「平和憲法の下では、自衛隊は違憲だからダメだ」と唱えるばかりで、有事の際の現実的な対策を何も提案できなかった社会党のように、現実社会への変革の意志を感じ取れるものではない。あくまで個人の信念であればともかく、「科学技術」というものが社会変革を可能とするだけの「パワー」をもってしまっている以上、そのような言葉だけでは、何も変わらないのだ。

結局、「エディ」の予言どおり、1度「スチーム城」という「文明」を知ってしまった人にとってはそれを求めざろうえないのであり、そうした人間の「性」の前ではただの「理想論」は無力でしかない。

では少年レイは、今後、どのような信念に基づいて行動していくのだろうか。

この作品の段階ではまだ何も見えていないのだろう。現実社会とは無関係な存在であれば「理想論」だけを口にしていればいい。「科学は人を幸せにするもの」であり、「暴力に寄与するものではない」といった具合に。しかしおそらく自身が関わるものの影響力、可能性に気付いた時、矛盾を孕んだ現実の中で、自分の立ちうるスタンスを決めねばならない。

エンドロールのバックには、どうやらその後の物語が描かれているようだ。それを見ている限り「電気」に関わる何らかの「発明」があり、それが戦争に使われ、やはりそれに対して否定する立場をとっているように見える。ただいずれにしろ、「文明の拡張」「科学技術の進歩」に対する欲望そのものは否定できない社会が描かれていることだけは確かだろう。


【評価】
総合:★★★★☆
一級のエンターティメント:★★★★☆
インパクトは…:★★★☆☆

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1 コメント

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Unknown (通りすがり)
2013-12-26 23:17:39
非常に昔の記事ですが、コメントさせていただきます。
この映画の存在は知っていたのですが、いつまでも見ないでおり、今日見ました。私自身色々汲むところのある映画だと感じたのですが、やたらと評価が低いということで色々と読んでいたら、非常に共感する記事にめぐり合えたのでコメントを。

世間では『城』のモチーフに翻弄されラピュタラピュタと言われていますが、私が真っ先に脳裏に浮かべたのはもののけ姫でした。ナウシカの流れが根底にある事は感じましたが、作品の視点としては完全にもののけ姫のそれだったと思います。科学の功罪を、それに翻弄される主人公の目を通して問い直して行く構造。無邪気さゆえに、世界の根本的矛盾の両面に触れ、揺さぶられ、そして自分の道を見つけていくことを求められる主人公には現代社会に揺さぶられる若者の姿、人間中心主義の時代とその限界を見たポストモダンの狭間でたじろぐ人類の普遍的な姿が問題提起として投げかけられている。もちろんスチームボーイの場合は、自然の役回りは存在しないわけではあるけれども。
原爆の話も出しておられましたが、私はまさにこの描き方はそれを意識したものだろうと感じながら見ていました。科学の発展の象徴であり、破壊の象徴でもある。20世紀を象徴する原爆と言うもの。父エディは『恐怖だ』と言いました。そしてそれが、世界に影響力を与え続けるとも。その時私の脳裏に浮かんだのは、『ヒロシマ、ナガサキ』の文字でした。人類史上唯一の核攻撃からやがて70年の時が流れようとしていますが、その後の世界が核の恐怖に怯えながらも、一度も核攻撃を繰り返さなかったその圧倒的な存在感、それを知る私達には、一人の科学者としての生々しい理想を掲げるエディの姿は何とも皮肉に映るものだと感じましたね。かと言って、じいちゃんの理想論の陳腐さも、知ってしまっている我々ですが。

映画としてのエンターテイメント性の部分を見た時、確かに巷で指摘されるような欠点が散見される事は強く感じました。特に、冒険活劇として見たら中の下くらいでしょうかね。
しかし、作品自体が表現したかったこと、SF作品として現代社会を冷静にまなざし、その中に様々なメッセージを盛り込んでいく姿勢に関しては、やはり大友克洋さんの類稀なる能力の高さを感じました。私のセンスの方がおかしいのかもしれませんが、現代大衆の『エンターテイメント』としての作品しか評価しないという姿勢には、改めて残念なものを感じてしまいます。純文学はムズカシイなどと言われる世の中ですが、小林秀雄氏が指摘していた『近頃は読者が減って、ファンと言うものが増えた』と言う皮肉をしみじみ感じる次第です。現代に至っては、もう読者や作品の受け取り手は、絶滅危惧種かもしれませんね。

長々と失礼いたしました。
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