ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

もののけ姫 : 「ナウシカ」という理想の喪失と宮崎駿がたどり着いた地平

2004年11月22日 | 映画♪
個人的には「紅ブー」のような個人的色彩の強い作品の方が好きなのだけど、とはいえ宮崎駿の1つの到達点として「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」を認めないわけにはいかないだろう。「ナウシカ」が宮崎駿の1つの理想とした世界を描いたとしたら、この作品は理想ではありえない現実の中での1つの在り方を示した作品だ。「生きろ―」そのメッセージは、理想郷(ナウシカ)とその喪失(紅の豚)後に、それでもなお現実の中で生きていかねばならない宮崎駿自身の確固たる意思でもある。

室町時代、北の地に生きるエミシー族の村をタタリ神となった巨大な猪が襲う。アシタカは村を救うためにタタリ神に矢を放つが、その代償としてアシタカは右腕に死の呪いをかけられてしまう。老巫女の言葉を従い、呪いを解く方法を求めてアシタカはカモシカ・ヤックルとともに西の地に旅立つ。
やがてアシタカは製鉄を行っているタタラ場の女頭領エボシと出会う。タタラ場はエボシの指導の下、男も女も一丸となって働き豊かな生活をほこっていた。豊かなタタラ場の民、その一方でアボシたちが砂鉄を得るためにシシ神の森を切り崩していることが原因で、ナゴの守という猪神をタタリ神に変えてしまったことを知る。そんな夜、犬神モロに育てられた美しい娘・サンが山犬とともにタタラ場を襲撃、森を守るためにエボシの命を狙うのだが…

もののけ姫 特報



「風の谷のナウシカ」と同様、この物語でも「自然と文明の共存」ということが中心テーマとなっているが、そのメッセージは大きく違う。

よく知られていることだが、宮崎駿は基本的には左翼主義者だ。それは例えばソ連や中国を支持するというのとは別で、どちらかというと国家や私的利潤を追求する存在としての資本主義に対する「理想」としての「社会主義」や「市民(人民)中心」「反・開発主義」といった思想を信仰しているのだろう。

そのため王女(=支配階級)でありながらナウシカは非常に働き者(=労働者)であるといった側面もあるのだが、それはまた別の機会に書くことに。この「風の谷のナウシカ」という作品がもっていたメッセージというのは、自然の浄化作用である「腐海」の拡大を、近代文明をつかさどるトルメキア王国がその効用を理解せずに巨人兵(火力)によって克服しようとするがうまくいかず、「自然と共存」しようとする意思をもったナウシカによって平和がもたらされる、それは自然の大きさに対して人間文明の限界を示しているのであり、風の谷のように自然の中で、自然の恩恵を受けながら生きていくことを是としたものだ。

ここに描かれている世界というのは、宮崎駿自身の理想といえるだろう。「自然とともに生きる」という良心に従い自然との調和を図る。そこには文明の力を過信した開発至上主義はなく、また自然は風の谷に恩恵を与える存在として在りつづける。

しかしこうした理想郷は現実には存在しない。それはある時代にとって1つの理想を体現するはずだった社会主義国家がいずれも独裁国家となり、市民(人民)のための存在ではなかったように。

だからこそ時代遅れとなった「理想」を心の奥底に秘めたポルコ・ロッソ(「紅の豚」)は飛びつづけなければならなかった。「いい奴らは死んでしまった」世の中を、死ぬこともできずただ1人"豚"の姿となって。

そして「生きろ―」というキャッチフレーズがつけられた「もののけ姫」。
この物語では「ナウシカ」と同じように「自然と文明との共存」がテーマとなりつつも明らかにスタンスが違う。自然とは恩恵を与える優しい存在ではなく、その中心であるシシ神は「生」と「死」を司る存在であり、また森で生きるそれぞれの動物たちは「生きる」ために「殺戮」や「捕食」さえも行う存在だ。

またタタラ場のエボシは単純に文明の信仰者として、自然との対立軸として描かれているわけではない。そこには「近代」あるいは「戦後民主主義」が掲げた理想ともいえる、文明の発達(=理性の発達)によって女性の解放や被差別民たちを解放する存在であり、またタタラ場の民たちに繁栄をもたらす存在でもある。「土着信仰」ともいえる「野蛮な」神々を文明によって駆逐しつつ、人々に「平等」と「繁栄」をもたらす、まさに「理性信仰」と「ヒューマニズム」に満ちた理想的な人間像でもあるのだ。

そしてそのエボシさえも利用しようとする強欲に勢力を拡大しようとするジコ坊の背後にとるより大きな権威の存在…。

こうした状況を考えた時、ナウシカのようなある種単純な「正義」はそこにない。しかし現実を鑑みた場合、そんな単純な「正義」が存在したことはあるだろうか。事実、現実の自然界というのは「弱肉強食」の世界であり、常に殺戮が行われている世界である。その一方で、空腹を満たせさえすれば眼前に獲物がいようと必要以上の殺戮が行われることもない世界であり、人間社会のようにどこまでも強欲に「富」を蓄積していく社会ではない。様々な「暴力」が存在しつつも、全体系として調和した世界である。

エボシの思想も「人間中心主義」という土壌の上でのみ正当性が認められるものであり、裏を返せば文明による「自然の征服」といった思想でしかない。またひたすら憎悪に任せてエボシを殺そうとするサンもまた人間の立場からは認めることはできないだろう。

そうしたさまざまな利害関係・それぞれの正義・矛盾を認めた上で、アシタカが求めたような「共生」の可能性を宮崎駿はこの作品で描こうとしたのではないか。だからこそ理想とともに「死ぬ」のではなく、現実の中でその理想を実現するために「生きろ―」と。

ラストシーン、ディダラボッチは姿を消し森の一部が元の姿を取り戻したが、一度「文明」が発達した後の世界では、神々は既に姿を消してしまっている。「憎しみ」が融解したアシタカはタタラ場(=文明)に残り、自然と共存するための世界を再建することを誓いう。森(=自然)とともに生きるサンは人間への「憎悪」を認めつつもまたアシタカと再び逢うことを約束する。文明中心主義でも自然への回帰でもなく、文明と自然が共存するために、それぞれの立場を認めつつ同時に尊重する―そうしたことで新しい関係が気付けるのではないか、そんな願いがこの作品には込められているのだ。

しかし「木霊」は1匹しか蘇っていない。きっとまだまだ道のりは遠いのだろう。



【評価】
総合:★★★★☆
深み:★★★★★
アメリカでは理解されないだろう度:★★★★☆


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もののけ姫 [DVD]


風の谷のナウシカ [DVD]


紅の豚 [DVD]





3 コメント

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アメリカでは理解されないだろう (ヒロオ@マガジーンズ)
2004-11-22 01:28:51
最後の、評価のところで、

おもわず、吹き出してしまいました。



たしかに、その通りかもしれません。



デカルトの二元論以降、他者と自分に分けられた自然ていうのを、考えてきたヨーロッパ的思想にの

人には、わかりにくい考えかもしれませんね。



もののけの評価が、キットいま、

また 語られてるだろうと、探し回っていて

とおりすがりで、コメントつけちゃいました。



ついでに、トラックバックも 送信させて頂きます。

いらなければ、削除してください。



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またまた深いですね~ (ヨウヨウ)
2004-11-23 08:38:55
ミスティック・リバーに続き。。。トラックバックありがとうございます。

ジブリ作品は深いメッセージもありながら、どの作品も説教臭くない・・・そこがいい。毎回、何度でも楽しめる理由はそこか~!?と思ってしまいます。



mailtotaroさんの論はなるほどと思わされます。



ワタシは個人的な興味で”神殺し”のテーマが気になりました(今回のテレビ放映で、やっとネ)。

今は「神が死んだ」、文字通り人間によって”殺された”といってもいい時代(アメリカの選挙でプロテスタント系協会が集票マシーンになってしまう、なんてかなりヤバイと思う)。神を無視しようとする現代と、これまで神とのかかわりを大切にして生きてきた先祖のあり方(世界各地の、それぞれのやり方で)の分断、溝は深いんだろうな~と。大切にしているところもあるけれど、時間の問題かもしれない。



今は神よりもお金。それを扱う人間が神。

民族も宗教も違うモノたちが同じ自然の中で共存する、そのバランスも取れない人類は、自らを神としながら「共存」の道を探るんでしょうね。。。



アニメ映画とあなどれない作品ですよね。

最後のジコ坊の台詞「馬鹿には勝てん」・・・これに期待しようカナ~と思いました。

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う~ん、深い (らびっと)
2005-03-21 15:19:37
本屋から飛んできました、初めまして。



ナウシカは感動でぼろぼろ泣きながら観ました。

ラピュタは敵も味方も無いんだな~と思いました。

もののけの場合、

私はやっぱり、たたり神が興味深かったです。

たたり神から出ているミミズのような物。

怒りと憎しみのエネルギーの渦ですよね。

本当に寒気がします。

日常の生活の中でこのミミズを出している人を時々観掛けます。

自分自身でも気を付けなくちゃと思います。



タタラ場を襲ったサンにどうしてミミズ出てなかったのかなぁ?





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