Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

MOISE ET PHARAON (Wed, Nov 30, 2011)

2011-11-30 | メト以外のオペラ
ここ数年に渡って私がアンジェラ・ミードをフォローし続けていることはこのブログを継続して読んで下さっている方々には周知の事実だと思うのですが、
そうしているうちに、メトだけでなく、これまであまり聴く機会がなかった演目、オケ、合唱にふれることが出来るという楽しみが増えました。
ピッツバーグとかボルティモアとか、そうでなかったらまず聴きに行くことはなかっただろうと思います。

メトの『アンナ・ボレーナ』の公演を終えた彼女が、引き続きNYで歌ってくれることになったのは、
カレジエイト・コラールによるロッシーニの『モーゼとファラオ』の公演。
カレジエイト・コラールは今年で創立70周年を迎えるNYをベースとする合唱団で、指揮者のロバート・ショーによって創設された後、
トスカニーニ、ビーチャム、バーンスタイン、クセヴィツキー、マゼール、メータ、レヴァインといった名の知れた指揮者との演奏の経験を積み、
良く知られた合唱のための作品やオペラだけでなく現代作品に至るまで、広いレパートリーを誇る合唱団となっています。



しかし、『モーゼとファラオ』、、、? 微妙に聞いたことがあるようなないような、、。
確かロッシーニが書いたのは、『エジプトのモーゼ』というタイトルだったはずだったけど、、と思って調べてみると、その『エジプトのモーゼ』の改作なんですね。
アメリカでロッシーニ研究といえばこの人!ということで再びご登場のフィリップ・ゴセット先生
(シカゴ大教授。ロッシーニをはじめとするベルカント・オペラのエキスパートで、メトのルチアでネトレプコのためオリジナルのカデンツァを書いてあげたおじさん。)
がプレイビルに寄せて下さった文章によると、(ただし、()内は私が補足した部分です。)

*1824年からパリのテアートル・イタリアンで活動を始めたロッシーニは当時まだフランスで知られていなかったイタリア作品を上演することに心を砕いたが、
実は密かにオペラ座で自作のフランス語による作品を上演したいという野望を持っており、
このためにイタリアの声楽スタイルにも精通したフランス人の歌手たちの育成に励んでいた。
*(しかし意外に慎重なところのある)ロッシーニは、いきなりフランス語の新作にとりかかる代わりに、自作のセリアのうち出来の良かったニ作品をイタリア語からフランス語に変えてみることにした。
*ナポレオン政権の遺産で、当時のナポリはイタリアの中で最もフランス文化の影響を受けていた街であり、それもあって、サン・カルロ劇場時代の自信作二作、
『マホメット二世』と『エジプトのモーゼ』をチョイスし、それぞれを『コリントの包囲』と『モーゼとファラオ』としてフランス用に改作し発表した。
*リブレット上新しいテキストが追加されたほか、合唱の役割が大きくなり、バレエのシーンも追加された。
*すべての音楽上の変更はロッシーニ自身によってなされたが、”モーゼとファラオ”の方には署名入りの最終稿を作らず、
多くの、長いもしくは断片的な、マニュスクリプトをどさっと渡して、これで総譜を印刷してくれたまえ、、、と、ウージェーヌ・トルぺナス(フランスの楽譜の出版者)に依頼した。
(トルペナスの、ま、まじかよ、、という声が聞えるよう、、。)



*現在一般に(そして今日の公演にも)使用されているスコアは基本的にこのトルペナス版を元としているが、こういった事情から、スコアは間違いと誤った解釈だらけである。
*(どうやらブラウナーという人が現在クリティカル・エディションの完成発行に挑んでいるそうだが、ここで、”ロッシーニが辿った筋道を再現しながら、
一つ一つの音符を、オペラ座に現存するサイン入りのマニュスクリプトと丁寧に付け合せながら、リハーサル中に入れられた改訂・訂正も反映しなければならない。”と
いやーなプレッシャーをブラウナー氏にかけるゴセット氏。)
*ロッシーニが『エジプトのモーゼ』から『モーゼとファラオ』に加えた変更が成功しているかどうかは、この30年間、専門家の間でも議論が分かれるところで、
特に『エジプトのモーゼ』では、エジプト人が暗闇の中に放り出されているところから幕が開く、その素晴らしさに対して、
『モーゼとファラオ』では、この場面をニ幕の頭に移動させてしまった点を嘆く批評家が多い。
*しかし、その一方で、『モーゼとファラオ』は、ヘブライ人が自分の囚われの身を嘆き、モーゼの呼びかけで祈りが始まり、
その祈りが虹と”神秘的な声”によって答えられ、モーゼらが神託を受ける、、という非常に印象的な始まり方になっていて、
15年後に『ナブッコ』を書いたヴェルディがこの場面を念頭に置いていたことは想像に難くない。
*他にも『エジプトのモーゼ』と比べ、オペラ作品としてインパクトが弱くなっている箇所はいくつかあるが、
『モーゼとファラオ』は、それでも、『エジプトのモーゼ』に比べて”改善”と言ってよく、『エジプトの~』の最も弱かった点が取り除かれている。
また、アナイ役に与えられた新しいアリアはロッシーニが書いたアリアの中でも最良の一つと言ってよく、改訂の経過でなくなってしまったアリアを埋め合わせて余りあるものである。
*ただ、あまり違いばかりを強調するのも良くないであろう。(強調して来たのはあんただろう!とつっこみたくもなりますが、、、。)
オーケストラの楽器編成には一切変更がなく、それでいて、オーケストレーションに手が加わった部分は、より自信に溢れたものになっていて、
一言で言えば、変更はシンプルなものであって、音楽的な良さは失われていない。



と、簡潔ながらとても充実した内容で、他に付け加えることもありませんので、今日の記事はこれでお終い。
、、、にしたいな、出来れば。

なぜならば、私は『エジプトのモーゼ』もちゃんと聴いたことがない有様なので、さすがにブログで記事を書くのに、
こんなに全く作品を知らないというのはまずいだろう!と、CDを探し始めたのですが、これが、なんと!
『モーゼとファラオ』って、ほとんど全くと言ってよいほど音源がないのです!
ムーティの指揮によるスカラ座の公演がDVD化されていて、これはキャストも割りと良い歌手が揃っていて評価も高そうなのですが
(とはいえ、人気作品と違って他に比べる音源がないですから、その評価というのも怪しいものではありますが。)、
知らない作品はリブレットを読みながらじっくり音楽を聴きたいんだな、、、。
ところが、CDの方はもっと悲惨な状態で、ライブの海賊版と思しき音源が、評価者の”音質悪すぎ”の言葉と共にリストされていて、
どう考えても、このCDにはリブレットはついていまい、、と思わせる一品なのです。
うーむ、、、これは弱りました。
そして、弱っているうちにどんどん月日は流れ、気が付けば公演が明日に迫っているではありませんか!
唯一の救いはオペラの内容が旧約聖書の出エジプト記の前半部分(モーゼが海を割って道を作り、そこをイスラエル人が渡って行くというあの有名な紅海の奇蹟の場面。)
にのっとっていることがわかっている点で、こうなったら、音楽はぶっつけ本番、あらすじだけ完璧に、、と、久々に聖書を寝床に持ちこんでみました。

この聖書は私が学生時代に使っていたものなんですが、20年以上ろくにページを開くことがなく、もう記憶が完全に消え去りかかっていましたが、
これは何という因果でしょうか?
それとも私の大学時代の聖書のクラスの先生が単なる出エジプト記フェチだったのかな、、?
このmy聖書の、まさに『モーゼとファラオ』に関する部分だけにやたら激しい書き込みやアンダーラインがあって、読んでいるうちにすごい勢いで記憶が甦って来ました。
そうそう、空からいなごが降って来たりとか、大変なことになるんだよな、、
それにしても”私の力をとくと知らしめ、エジプト人の心に永久に私への畏れを刻み込むため、、”と言いながら、
10回も試練を与えるなんて、”主”って、やたらしつこくていやらしいおっさんだわ、、と思った記憶も合わせて甦って来ました。
モーゼがこれまた優柔不断で、もうあんたは主に選ばれてしまったんだから観念しなさいよ、と思うのに、
イスラエル人をエジプトから脱出させるという大変な重責に、”私には無理です、、。スピーチが苦手だからみんなをまとめられないし。”と情けなく逃げ腰になったりして、
これにもまたまた主はむかむかっと来て、”お前にはスピーチの得意な兄がいるだろーが!彼を使えばいいんだ!”と、怒りを爆発させたりするんですよね。
ああ、本当に気の短いおっさんだなあ、主。
ま、しかし、これならとりあえず、ストーリーがわからなくなって混乱するということはなさそうだ、と一安心。消灯。



そして当日。カーネギー・ホール。
プレイビルを見てびっくり仰天です。
なんだ、このあらすじは!!!!????(プレイビルに掲載されたカレジエイト・コラールが準備したと思われるあらすじの和訳を
”マイナーなオペラのあらすじ”のカテゴリーに転載した記事はこちら。)
ナイル河が血に染まる、とか、いなごの件は聖書で聞いてましたが、ピラミッドが火山になって噴火ぁ?!
なんか一層破天荒な筋立てになってませんか、、?
しかも、モーゼやアロン(しかもこれがフランス語でエリエゼルという名前になっていて、まぎらわしいことこのうえなし。)はいいとして、
アメノフィスとかアナイって、誰、、、?
”しかし、ユダヤ人を本当に解放するまでにはなんとさらに三つの幕が必要となる。”という言葉に、あらすじをまとめる係の人の”やってられん。”という本音が垣間見えて笑ってしまいましたが、
この作品を見ているうちに、その気持ちはよーくわかる気がしました。

そう。というのも、オペラ『モーゼとファラオ』が聖書と比べてオリジナルな点は、単にエジプト脱出を描いているだけではなく、
そこにエジプト国王の息子(これがアメノフィス)とイスラエル人であるモーゼの姪っ子(そしてこれがアナイ)の、いわばアイーダ的ロマンスが絡んでいる点で、
このアナイという女がこれまたおじのモーゼ似で、ええ、あなた(アメノフィス)とエジプトにとどまるわ、ううん、やっぱりおじさんたちとエジプトを出るわ、、と、
一生やってろ!と思うような優柔不断さなのです。
本当、彼女がもうちょっと竹を割ったような性格だったなら、三つとは言わなくても二つ位は幕をセーブできたかもしれませんよね、カレジエート・コラールさん!



と色々書いた後で何だ?という感じですが、しかし、私、この作品、実を言うとすっごく気に入ってしまいました。
今もこの作品のCDを後ろに流しながら感想を書きたい位の気分なのですが、やはりそれでもCDはこの世に存在しないのです。
仕方がない、ムーティの怖い顔付きでスカラの公演をDVDで見るしかないか、、。

さて、私がなぜそんなにこの作品を気に入ってしまったかというと、それはひとえにロッシーニの音楽の素晴らしさで、
私はロッシーニの作品について言うと、ブッファよりセリアの方が好きかもしれない、、と段々感じ始めているのですが、
この作品でさらにその思いが強くなりました。

いわゆるキャッチーな旋律のアリアの有無という点では他の作品に若干引けをとる部分もあるかもしれませんし、
また、アクロバティックな歌唱技術の誇示、という面でいうと、まず他の作品のアリアの方が先に頭に浮かぶ点は否めないです。
(同じセリア系の作品なら、『セミラーミデ』の”Bel reggio 麗しい光が”とか、、、。)
しかし、アナイ、アメノフィス、シナイーデに与えられているアリアは非常に格調高い旋律に溢れており、
また決して技術的に簡単でないところに優れたドラマティックな表現力が求められるため、単に技術に卓越しているだけでは手に負えない作品です。



この作品は今日のような演奏会形式ならともかく、オペラハウスで実際に全幕ものとして上演するのは非常に難しいと思うのですが、その理由は大きく二つ。
まず、内容があまりに突飛で超現実的なので(いなごの大群!血に変わる大河!爆発するピラミッド!割れる海!)、ステージングが極めて難しいということ。
もしかすると、ルパージュお得意の3Dグラフィックスを使えば何とかなるかもしれませんが、、、
あ、この際、リングのマシーンを使い回して、なんとかあの大きな板で割れた海とその間の道を表現してはどうでしょう?
あれだけ金をかけたんだから、もっと元をとらないと!!

それからもう一つ。もしかすると、実はこっちの方がステージングよりもずっと大変な問題かもしれない、、と思うのですが、
いつものロッシーニのパターンに漏れず、猛烈な数の優れた歌手がこの作品には必要です。
しかも、どの役にも穴があってはならず(あると作品としての均整が失われ、俄然つまらない上演になってしまう。)、
また、それぞれの歌手が舞台に持ってこなければならない、ものすごくはっきりとしたパーソナリティやカラーがあって、役の間でのそのバランスも非常に大事で、
つまり、歌が上手いのみならず、役によってかなり個性が限定されるので、キャスティングが本当に難しい。
実際、この作品はタイトルが『モーゼとファラオ』になっていますが、この二人よりもアメノフィスとアナイ、それからシナイーデの方が歌の負荷は高いように思います。
では、しょぼい歌手にモーゼとファラオを歌わせてOKか、というと、決してそうではなく、
この三人のようにどんぱちと歌唱で聴かせる要素が少ない分、余計に、限られたパートの中で威厳、恐れ、迷い、嫉妬、といった複雑な感情をお互いにぶつけ合わなければならず、
存在感のある歌手が求められる、という難しさがあります。
しかも、バス・バリトン同士の対決ということで、どういった声の持ち主をそれぞれの役に配するか、という難しさもあります。



今回の公演はいわゆるぴんで客を呼べるようなドル箱歌手は含まれていませんが(強いていうならジェームズ・モリスが大御所ですが、あのお歳ですから、
すでにキャリアの末期に入っていますし、彼の名前だけでチケットが売れるということは考えにくい。)、
中堅から若い方に寄った歌手(除モリス)を中心に力のある人を集め、またその彼らが揃いに揃ってきちんと自分の役割を果たしてくれたお陰でとても聴きごたえのある演奏となりました。
人気歌手がキャスティングされている華やかな公演も良いですが、こういう地味なキャストでも全員が全力を出して良い演奏だった時には、
オーディエンスの中に何か独特の温かい雰囲気が生まれて、こういうのもいいな、、と思わされます。今日の演奏はまさにそういう感じでした。

なかなか大変な演目であるにも関わらず、歌手は不思議なほど誰もが落ち着いていて、
一番のパニック・モードだったのは、カレジエイト・コラールの音楽監督であり、今日の指揮者であるジェームズ・バグウェルだったかもしれません。
一幕の前半なんて、ずーっと指揮棒の先がぷるぷると震えていて、見ているこちらまで意味無く緊張して来そうになりました。
オケはアメリカン・シンフォニー・オーケストラで、このオーケストラはサウンドも演奏の精度も残念ながらどこか少し緩いところがあり、
一級のオーケストラと呼ぶには苦しいものがあるのですが、この長時間の公演を大きな失敗もなくきちんと演奏しきったのですから、十分役目は果たしていたと思います。
後でも触れますが、特にこの作品は最後にオケの聴かせどころがあると言ってもよいのでスタミナの配分が大変なんですが、
その点は良くこなせていて、きっちりとクライマックスらしいクライマックスを聴かせてくれたのは大きく評価します。
指揮者の歌手への目配りも、まずは良く行き届いていたと思います。


歌手陣ですが、まず老モリス(最近、ジークフリートを歌う若い方のモリスが出て来てしまったので、若モリスと区別するためにあえて。)は、
やや曲の旋律がはっきりしないお経調気味ですが(お歳ですから、、)、さすがの存在感です。
彼自身のキャラクターから言えば、どちらかというとファラオの方が近い気がしないでもなく、やたら堂々としたモーゼでしたが、
彼の存在感にはやはり他の歌手達とは違う重みがあります。
ただ、ちょっと今日はお疲れだったんでしょうか?ミードが聴かせどころのアリアを歌っている時に、
客を正面にして気持ち良さそうに椅子でうつらうつらしている姿は”演奏会形式の舞台上なのにくつろぎ過ぎ!”と言いたくなりました。

今日のキャスティングで面白いな、と思ったのは、この老モリスのモーゼ相手に、若手のカイル・ケテルセンをファラオにもってきていた点でしょうか。
彼もナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズのオーディション出身で、メトではまだ『トスカ』のアンジェロッティのような脇役しか歌っていないのですが、
若干線が細く感じるものの、声にエレガントさがあって、音色自体はいいものを持っている人だと思います。
声のコントロールと歌唱の技術にはもう少し磨きをかける必要があるように思いますが、歌声にも舞台姿にもちょっと独特なクールさを感じさせる佇まいは面白い個性だと思います。
この公演でも、そのせいでファラオが非常に冷静沈着で頭の良い人物に感じられ、それだけに一層、最後の悲劇的な運命との対比が際立っていました。



若い恋人同士を歌ったのは今シーズン『ドン・ジョヴァンニ』でメト・デビューを果たしたばかりのマリナ・レベカと、
これまでこの人の良さがちーっともわからなかったエリック・カトラーのコンビです。
レベカは2009年のザルツブルクでムーティの指揮による『モーゼとファラオ』に出演して同じアナイ役を歌っているようで、
今回のキャスティングはその時の成果が買われた部分も大きいのかなと思います。
やはり彼女の歌声は私には非常に攻撃的に聴こえてあまり好きではないのですが(声量の問題ではなく、彼女の声が持っているアグレッシブで硬質な響きが苦手なんだと思います。)、
『ドン・ジョヴァンニ』でかなりNYのファン・ベースを増やしたようで、今日の公演でも最も拍手の多いキャストの一人でした。
このアナイ役は控え目でありながら、芯の強さを感じる、情熱的な女性の役で、アリアでもドラマティックさが求められるので、
ドンナ・アンナでは度を超えて感じられた激しさは、私にとっても少しは受け入れやすいものになってはいました。
彼女は舞台姿も綺麗で、顔もどこか憂いを湛えているような美人(ガランチャと同じラトヴィアの出身です)ですので、舞台ではすごくアドバンテージがあると思うのですが、
私がいつも不思議に思うのは、彼女がそれを全く有利に使わないことで、この人を見ていると、男性恐怖症か何かなのかな?と思ってしまうほどです。
一生懸命体にタッチしたり、視線を交わそうと涙ぐましい努力をしているカトラーにも、まったく暖簾に腕押し状態。
正面一点を見つめて、カトラーがそっと体を抱き寄せようとしても、体を固くして、これは嫌がっているのではないか、、?と思うようなリアクションなのです。
カトラーがアラーニャのように不必要なまでのボディ・コンタクトをとろうとしていたというなら、まだ話もわかりますが、
私の見る限り、カトラーは恋人同士としての適切な演技をしていただけで、ここまで頑なだと、ちょっと見ている方も気がそがれる域に達しているかもしれません。
でも、かと思うと、二人で歌う最後のパートを終えると、”終わったね。”という感じで微笑むカトラーに対して、嬉しそうににこにこと答えていて、わけがわかりません。
もしかすると、歌っている間、まだあまり余裕がない、というような単純なことなのかもしれません。
後、ラトヴィア出身のソプラノといえば、マイヤ・コヴァレススカがいますが(そういえば彼女も美人、、、)、
この二人は持っている声質は全然違うものの、発声の感じが少し似ているところがあって、
いつも必要な量よりも少し多めの空気が流れているような感触があり、これが極端になると音を無理やり飛ばしているようなサウンドとなって現れてしまうこともあって、
この無理に音を押し出しているような響きが、今一つ私がレベカの歌を聴いて心地よくなれない理由かもしれないな、、と思います。
しかし、さすがにムーティ帝王のご指導を受けただけのことはあり、歌唱の組み立てはしっかりしているな、と感じましたし、
『ドン・ジョヴァンニ』の時の印象とも共通するのですが、他のソプラノが苦労しそうな・する音や音域でのピッチが正確で、とてもセキュアな結果を出すのが面白いなと思います。

エリック・カトラーについては、今回初めて、”こんなに歌えることもあるのか、、。”と思いました。
メトでのネトレプコとの『清教徒』での歌唱とか、今となっては見事に記憶に残ってないし、『ばらの騎士』のイタリア人歌手の歌唱も、大丈夫かな、、と思いながらどきどきして聴いたし、
もうこうなったらタッカー賞も剥奪した方がいいんじゃない?、、と思ったり、、、。
でも、今日くらいの歌唱を聴けば、タッカー・ファンデーションはこういうのを耳にして彼の受賞を決めたんだろうなあ、、ということはやっと納得でき、
彼の受賞が2005年ですから、なんと6年越しで謎が解けた感じです。
他のロッシーニのテノール・ロールに負けず劣らず、このアメルフィス役も多くの旋律が高めの音域にあって、すごく大変な役です。
つまり、これらの音域での発声がきちんと出来上がっていないと、喉への負担が大きくて、たちまちのうちに疲れて潰れてしまう役。
カトラーは最後の1/4ぐらいで少し疲れが見えなくもありませんでしたが、全体的には、ラダメスの兄弟のようなこの頑固頭なエジプトの王子を、
情熱的に表現していて、それをやりながら難しい高音もきちんとこなし
(すっと抜けるような音ではなく、ばりばりとした男性的な音色ではあるので、フローレスのようなスタイルのある歌唱と比べると少し違和感はありますが、
この役ならこれもまたよし、、と私は思います。)
しかもロッシーニに必要なスキルもそこそこきちんとしたものを持っているのは意外で、今日の彼の歌唱には大変楽しませてもらいました。
ただ、彼は舞台上で本当落ち着きがなくて、軽いADD(注意欠如障害)なのかな、と思ってしまいます。
自分の歌になかなか自信が持てないからなのか、歌った後におどおどと周りを見回したり、聴かせどころが近くなるとすごく落ち着かない様子になったり、
体が大きくて熊みたいなだけに、一歩間違うと、鈍くさい感じになってしまうので要注意です。
他の歌手のように、きっ!と前を見据えられる訓練をしましょう。(あ、そういえば、アラーニャもだな、、。)
逆に言うと、そういった落ち着きが身に付けば、無意味にひょろ長くてきりん系の鈍臭さを感じさせるヴァレンティとは違い、
決して太ってはいないだけに、舞台で非常に見栄えがする(今日のような役にはぴったりです。)という大きなメリットを持っていると思います。



私個人的には今日一番楽しみにしていたミードのシナイーデ。
シナイーデはファラオの奥さん(よってアメノフィスのお母さん)で、なぜかユダヤ教を信じているという、この作品の中では複雑で奥深い役です。
息子の愛する気持ちを応援してやるべきか、それとも夫についてゆくべきか、そこに彼女自身の信仰の気持ちも絡まって、、。
母親という立場上、ある程度、年齢を経ないと出せない表情があるのがこの役の難しいところで、
ミードは相変わらず歌唱は達者ですが、ちょっとその辺で背伸びなキャスティングだったかな、、という風に思います。
当たり前といえば当たり前なんですが、30をやっと出たばかり位(のはず)のミードの声は、こういう役で聴くと、やっぱり響きがすごく若いんだなあ、、としみじみ感じます。
ま、実際若いですからね。
まだまだ先は長いんですし、こういった老け役、お母さん系の役はもう少し先に回して、
アンナ・ボレーナのような、自分の年齢としっくり来る役を歌っていって、その先で再チャレンジしたところをまた聴いてみたいと思います。

モーゼの兄エリエゼール(アーロンとしての方が良く知られていますが)を歌ったミケーレ・アンジェリーニはアメリカ出身の若手のテノール。
私はこれまで名前すら聞いたことがなかった人なんですが、素直な発声で、舞台上での佇まいにも清潔感があって好感が持てます。
私は今日は前から4列目という至近距離で鑑賞しましたが、遠くから見てもはっきりわかるに違いない、と思うほどの、
ジョン・トラボルタ真っ青の割れた下あごがトレード・マークです。
今日の役はどちらかというと小さな役で、それほど歌うパートが多くなく、特にトリッキーな技巧があるわけでもなかったのですが、
YouTubeでリサーチしたところ、『チェネレントラ』のラミロなんかも歌えるみたいでびっくりです。
ということは、ロッシーニをレパートリーの中心に据えていこうとしているのかな、、



この映像でも伺えますが、少しほわんとしたたおやかさと優しさのある響きが特徴で、真っ直ぐ伸びていけば面白い個性を持っている人だと思います。
でも、このまっすぐ伸びていけば、というところが難しいんですよね、、。
今までだって、いいなと思っても、”どうしてそっちに行っちゃうの~?”という感じで駄目になっていった人が一人や二人ではないですから、、。

『モーゼとファラオ』の作品の白眉はなんといってもラストで、ここのオーケストレーションはロッシーニってこんな音楽も書ける人だったんだ!と本当びっくりしました。
ゴセット先生の文章にもヴェルディの『ナブッコ』との繋がりを指摘する部分がありましたが、
『ナブッコ』だけではなくて、この音楽にはヴェルディの作品全部に脈々と受け継がれていったのと同じ種類のものすごいパッションとドラマがあります。
オペラでこんなに後奏が長い作品って、私は他にあまり思いつかないのですが、(普通、最後に歌う歌手の最後の音符の後は、割りと手早く手仕舞うのが一般的ですよね。)
紅海が開けてそこを渡り始めるイスラエル人、彼らを追いかけて次々波に呑まれていくエジプト人、、、
この場面がはっきりと瞼に浮かぶ位しっかりと音楽に描き込まれていて、これが演奏会形式であることはちっとも問題ではなかったです。
ま、最近のメトの演出を見るに、下手なセットやら演出やらがあるよりは、こうやってオーディエンスに自由に想像させてくれる方がよっぽど効果的、ということもあるかもしれませんが。

あらすじを読んだ時は、なんでモーゼの奇蹟にロマンスが絡んでくるんだ??と疑問でしたが、
この音楽と一体になると、あまりにも有名になりすぎてしまった聖書の一つのお話の中が、俄然リアリティを持つというか、
単なる宗教上の説話ではなくて、もっとパーソナルな人間の物語となる(それが架空のロマンスであっても)、ここが面白いな、と思いました。
単にエジプトの王子が海に呑み込まれる、という話を聞くのと、
アナイへの狂おしい恋に悩まされながら海にひきずりこまれるアメノフィスを音楽の中に聴くとでは全然インパクトが違う、ということです。

今日の公演をCD発売してくれたなら、時に取り出して聴きたい作品になるのにな、、。


James Morris (Moïse / Moses)
Kyle Ketelsen (Pharaon / Pharaoh)
Angela Meade (Sinaide)
Eric Cutler (Aménophis)
Marina Rebeka (Anaï)
Michele Angelini (Éliézer / Aaron)
Ginger Costa-Jackson (Marie / Miriam)
John Matthew Myers (Ophide)
Joe Damon Chappel (Osiride)
Christopher Roselli (Une voix mystérieuse)

Conductor: James Bagwell
The Collegiate Chorale
American Symphony Orchestra

Parquet D Odd
Carnegie Hall

*** ロッシーニ モーゼとファラオ Rossini Moïse et Pharaon ***

マイナー・オペラのあらすじ 『モーゼとファラオ』

2011-11-30 | マイナーなオペラのあらすじ
ユダヤの民が自らの囚われの身を嘆いていると、モーゼ(モーセ)が”苦しみは間もなく終り、自由の日が来るであろう。”と言って勇気づける。
モーゼの兄エリエゼル(アロン)が、妹のマリー(ミリアム)とその娘アナイを伴って現れる。
エリエゼルは、ファラオが司祭オシリデの助言に反し、ユダヤ教に改宗した妻シナイーデの薦めとユダヤの神への畏れから、
我々を解放するであろうと予言する。
ファラオの息子アメノフィスは父親が支配する王宮で奴隷として仕えているアナイと恋に落ち、彼女も彼を愛するようになった。
しかし、一方で、彼女は自分と同じイスラエル人と一緒にエジプトを去りたいと願っており、
彼女の気持ちを知ったアメノフィスはユダヤの人々に復讐を誓う。
アメノフィスはアナイと離れ離れにならぬよう、なんとか彼らを引きとめようとするが、
モーゼは恐ろしい疫病がイスラエル人の間に蔓延していると言ってファラオを脅かす。
これを聞いたファラオはイスラエル人が立ち去ることを許可したが、
すると、みるみるうちに天から火が雨のように降り注ぎ、ピラミッドが火山となるのは、第一幕のフィナーレで描かれている通りである。

しかし、ユダヤ人を本当に解放するまでにはなんとさらに三つの幕が必要となる。

第二幕ではファラオがアメノフィスをある王女と結婚させようとするが、彼は全く興味を示さない。

第三幕では司祭長のオシリデがイスラエル人にイシス神を崇拝せよと命じるが、
途端にナイル河が赤く血に染まったような色になり、イナゴがエジプト人たちのうえに降り注ぐ。

第四幕では、アメノフィスがアナイとの愛を貫くため、王位を捨て、ユダヤの民を解放しようと決意した。
しかし、鎖につながれた彼らを目にしたアナイは、モーゼにアメノフィスとの愛か自分への服従か、
どちらかを選ぶように、と決断を迫られ、結局自らの民を採る。
再び復讐に燃えるアメノフィス。
イスラエル人たちが神に祈ると、奇跡のように鎖が外れた。
エジプト軍の追っ手が迫り、あわや大量虐殺か?と思われた時、モーゼが紅海をわかち、
水に濡れることなくそこを渡って行くイスラエルの人々の後ろで、エジプトの追っ手たちは次々と海に沈んで行くのだった。

(出自:カレジエイト・コラールによるカーネギー・ホールでの公演のプレイビルより。)

*** ロッシーニ モーゼとファラオ Rossini Moïse et Pharaon ***