Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

IL TROVATORE (Sat Mtn, Apr 30, 2011)

2011-04-30 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。


2008/9年シーズン、マクヴィカーによる新プロダクションの登場によりようやく長年に渡る呪いが解かれた感のあるメトの『トロヴァトーレ』。
その後、微妙に組み合わせ違いのキャスト(ベルティ+パピアン+ザジック+ルチーチ
アルヴァレス+ラセット+コルネッティ+ルチーチなど)による公演もありましたが、
今シーズン、ライブ・イン・HD収録の日の公演のキャストは、マクヴィカーの演出が初演された時と同じメインの四人、
つまり、マルセロ・アルヴァレス、ソンドラ・ラドヴァノフスキー、ディミトリ・ホロストフスキー、ドローラ・ザジックのコンビネーションで、
メト側がいかにこの4人のスター・パワーとパフォーマンスに自信と信頼を置いているか、ということの表れとも言えるでしょう。
なにげにルチーチが好きであり、かつ、ルーナ伯爵役の歌唱についてはホロストフスキーよりも彼の方が適性があると思っている私は、
”ルチーチでは客を呼べません、ってか?怒れ、ゼリコ(ルチーチのファースト・ネーム)!”とつい彼を焚きつけたくもなるのですが、
そんなことをしてみたところでホロストフスキーの人気には叶わないのです。

アルヴァレス、ホロストフスキー、ザジックは、すでにオペラ・ファンの間で彼らを知らない人はまずいないであろうというキャリアを築き上げていて、
それに比例するかのごとく、メトのそれだけに限っても、すでにそれぞれ(糞)『トスカ』『エフゲニ・オネーギン』、そして『アイーダ』でHDデビューを果たしています。
このメンバーの中にあっては若干知名度が低い感じのするラドヴァノフスキーですので、
なかには”何?若手の歌手?”と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、どっこい、カウフマンに加え彼女も私と全く同い齢(1969年生まれ)でして、
まあ、一般の世界ではれっきとしたおばはん、オペラの世界でも、まぎれもなく中堅グループに入る歌手です。
インターナショナルなレベルでの人気を獲得する歌手の多くが普通もっと早い時期から頭角を現し名前が知られるようになることを考えると、
彼女のキャリアを”遅咲き”と呼ぶことはあながち的外れではなく、ほんのニ、三年前には彼女のメトでのキャリアがほとんど終わりかけていたという逸話は、
このブログのコメント欄でも何度かふれて来ましたし、終には彼女自身の口から確認されたことは、以前のシンガーズ・スタジオの記事でご紹介した通りです。
(また、そのあたりの事情に関しては最近のNYタイムズの彼女のインタビュー記事でも取り上げられています。)
ヴォルピ前支配人時代には、ドミンゴといった大スター歌手の相手役(『シラノ・ド・ベルジュラック』でのロクサーヌ役)を含めた大きなチャンスを与えられ、
毎年キャスティングされながらもなかなかブレークせず、とうとうゲルブ支配人のブラック・リストの対象になって、
いよいよメトでの新しい契約をうち切られるという最大のピンチに陥ったところで、
それをリバースさせ、彼女のキャリアの大ブレーク・ポイントになったのが、
まさに、前述の2008/9年シーズンのマクヴィカーのプロダクションのプレミエ時の『トロヴァトーレ』の公演だったわけで、
彼女にとっては非常に感慨深い演目であり、さらにその演目をHDにのせ、そのキャストに彼女を選んだということは、
メトからの最大のご祝儀であり、かつ、”これまでごめんなさい。”というジェスチャーであるわけです。
ただでさえ、初めてライブ・イン・HDで歌うというのは大きなプレッシャーであるのに、
その上に、彼女にとってこのうえない意味を持つこの『トロヴァトーレ』という作品で、
メト側、そしてなによりも彼女を辛い時期も支え続けてきたオーディエンスたちの期待を裏切らない結果を出すというのは、どれほどのプレッシャーかと思います。
彼女はそれを言うと、昨年、『スティッフェリオ』のマチネのラジオ放送では体調を崩してキャンセルを余儀なくされてしまったこともあり、
ハイ・プレッシャー時の自己管理に若干の不安を私は感じているのですが、今日は大丈夫でしょうか?



オペラの作品の中には主役陣以外の歌手の歌唱パートから始まって、しかもそれがなかなかに大きなインパクトや意味を持つものがあります。
そこでしょぼい歌唱が出てくると、座席の中でこけ、さらに、”こんなところで金をケチるな!”と毒づきたくなるわけですが、
この『トロヴァトーレ』で一番最初に歌唱パートが現れるフェランドもそんなケースの一つです。
今シーズンの『トロヴァトーレ』のファースト・ランでこの役を歌ったツィンバリュクは、
ウクライナのバス・バリトンで、あの辺り出身の歌手に独特の、少し個性的な発声ではあるのですが、
成熟するには時間がかかるとされる声域にしては若手にして朗々とした深い声を持ち、
楽譜をおろそかにしない正確なアジリティ能力も兼ね備えた非常に優れた歌唱で、私は彼が再びメトの舞台に上ってくれるのを心待ちにしていて、
さらにはいっそ、この後半のランも彼が引き続きフェランド役を歌ってくれればいいのに、、、と思っていたのですが、
そのような優れた同役の歌い手が地球上に存在するとわかっていながら、なぜかみすみすこのHDという肝心な場でこの役を歌うのはステファン・コーツァンなのです。
メトは何を考えているのか?と私は聞きたい。
彼はメトの日本公演の『ドン・カルロ』で宗教裁判長役を歌うことになっているようですが、
あの作品中のハイライトと言ってもよいフィリッポとの一騎打ちシーン、
パペが一方的に存在感を示して終了~!ということにならなければいいなと思います。
まずコーツァンの声にはツィンバリュクの声に備わっているような重量感がなくて、すかすかと軽く、
そのくせアジリタは、ツィンバリュクに比べてもたもたと遅く、切れ味が悪い。
(まあ、宗教裁判長役にはアジリタの技術は求められないので、彼は日本ではその点においては救われるわけですが、、。)
あ、そういえば、コーツァンはこの『トロヴァトーレ』とほぼ同時期に上演されている『リゴレット』のスパラフチーレ役も歌っていて、
テクニカルな面でマフィアな指揮者にボロクソ言われてましたっけ、、、。
彼がツィンバリュクに勝っているかな、と私が思える唯一の点はルックスくらいで、HDがある以上それが無意味だとは思いませんが、
ツィンバリュクの顔がコーツァンとの歌の差を埋め合わせて余るほどブーだとは私には思えません。



一幕二場から登場したレオノーラ役のラドヴァノフスキー。
今日の彼女は私が持っていたプレッシャーへの心配は杞憂で、ほとんどベストの状態で今日の公演に挑んでいることがすぐに伺えました。
実際、全幕を見終わった今も、今日の公演での彼女の歌唱は、良い意味でも悪い意味でも100%の彼女が出ていたと言える内容で、
彼女自身としても大満足だったのではないかと思います。
良い意味でも悪い意味でも、と書いたのは、どんな歌手でも全てのオーディエンスの嗜好を満たすことは出来ないわけですが、
特に彼女の場合は、少なくともアメリカでは熱狂的なフォロワーがいるかと思えば、逆に彼女のことをあまり評価しない派の真っ二つに分かれていて、
(それでも彼女の歌をド下手と感じるヘッズはまずおらず、そういう意味ではきちんとした力を持っている歌手ではあるのですが。)
彼女自身も先に紹介したNYタイムズとのインタビューの中で自分が万人に好かれるタイプの歌手ではない、と分析しています。
そこで、カラスも存命時は特にその歌唱について賛否両論あったということで引き合いに出して語っているのには、
カラスの熱烈な信奉者であり、彼女の持っていた技術を最高に評価している私としては、
”これこれ、ちょっとそこまで言うのはずうずうしくないかい、君?”と思うわけですが、まあ、ソンドラ姉さんの自己分析は大筋では間違っていないのも事実です。
実際、私のヘッズ友達の中にも、猛烈なラドヴァノフスキー・ファンの方がいて、ヨーロッパまで彼女の公演を追いかけていったかと思うと、
会えば彼女がいかに稀有な才能を持ったソプラノであるかを熱狂的に語って下さるといった具合で、
彼に彼女の歌唱について下手なことを言うと袋にあいそうなので要注意です。
彼ら熱烈ラドヴァノフスキー・ファンに言わせると、彼女の声のふくよかさやサイズ、
このサイズの声にしてはあまり見られないレベルのコロラトゥーラの技術を擁していること、それからドラマへのコミットメント能力、
このあたりに彼女の素晴らしさは集約されるようです。
私個人の意見を言うと、私は彼女に関しては熱烈に好きでも毛嫌いしているわけでもなく、
彼らの意見はもっともだと思う一方で(時々、ある歌手のどこが好きなのかを尋ねると、
????と思うような答えが返って来てびっくりすることがありますが、先にあげた彼女の特徴は特に的外れであるとは全く思いません。)、
例えば声質についていうと、”サイズがある”だけではなく、時に大きすぎる、と感じることもあって、”でかい”と形容した方がよりぴったりだ、と思うこともあるし、
また歌唱技術に関して言うと、そうは言ってもカラスのレベルとはまだまだ差があるんだけどな、、と思ったりします。
後者に関しては例えば第一幕の”穏やかな夜 Tacea la notte placida ~この恋は言葉では表現できないわ Di tale amor, che dirsi”のシークエンスの、
カバレッタ(”この恋は~”)でのカラスの歌唱の本当に軽やかなことに比べたらやはり若干の重さを感じますし、
第四幕のアリア”恋はばら色の翼にのって D'amor sull'ali rosee”ではカラスが実に巧みに音の強弱を使い分けているのに比べると、
ラドヴァノフスキーの歌はほとんど強のレンジでしか音が動いていないような感覚を持ちます。
彼女が私を含めた一部のオペラ・ファンに”大声だ”と非難されるのは、必ずしも大きい声が出ることが問題なのではなく、
(なんだって、出来ないより出来たほうがよいと思います。)
せっかく出る大きな声を効果的に使わずに濫発しているように聴こえるところが非難の対象になるのだと思います。
しかし、歌唱の面ではこれらの欠点があげられるとしても、現在この役を歌っている歌手で彼女ほど歌える人があまり多くはいないというのも事実だと思います。
むしろ、私が上の三つのポイントの中で最も疑問を呈するのはドラマへのコミットメントの部分で、
ソンドラ姉さんからは確かに体当たりという意味でのコミットメントは感じるのですが、彼女にそれほど卓越した演技力があるとは思えないのが正直なところです。
アンチ・ラドヴァノフスキーの方の意見で、”確かに、、、。”と思ったのは、
”彼女の舞台には必ず最低でも一つ、なんじゃそりゃ?とつい笑ってしまうような不思議な演技が含まれている。”という指摘です。
私はこれと同じことを最近のカリタ・マッティラにも感じることがあるのですが、今回の『トロヴァトーレ』の舞台でも、
熱演のあまり演技のコントロールを失った結果の、思わず失笑を誘うような、もしくは意味不明な動きをソンドラ姉さんが炸裂させています。
そういった面では、ラドヴァノフスキーと大体同年代で、同じアメリカ人歌手であり、
やはりヘッズから歌唱について賛否両論があるソプラノのパトリシア・ラセット(彼女はこの演目のAキャストのレオノーラ役でした。)は、
常に演技にコントロールが働いていて、ラドヴァノフスキーのような失笑の領域に入らないのが違いで、
本当に演技力がある歌手というのは、実際には常にこの冷静なコントロールが意識下で働いている人のことを言うのだと私は思っているのですが、
”体当たりさ”そのものに心が動くのか、その底に働いているものを見たいか、そのどちらかによって彼女の演技力への評価は分かれるのだと思います。



いずれにせよ、オーディエンスの嗜好を脇におけば、ラドヴァノフスキーは今日の公演で彼女の持ち味を100%出し切ったと言ってよく、
”ラドヴァノフスキーってどんな歌手?”という興味を持って公演を鑑賞するオーディエンスには、その問いに十分過ぎるほど答えを提供する歌唱内容となっています。
それにしても、彼女の優れた点も、一部のオーディエンスにあまり好かれない理由となっている点も、
この数年で大きく様変わりしたわけでも、2008/9年の『トロヴァトーレ』で彼女が大変身を遂げたというわけでもなく、
彼女のユニークな声質や声のサイズの割りにしてはすぐれたアジリタの能力を持っている点も、ここ何年も変わらずにそこにあったことですし、
ルックスだってここ最近激やせしたわけでも、突然垢抜けたわけでもなくずっとあんな感じでした。
それが『トロヴァトーレ』まではメトの支配人にすらまともな評価をしてもらえなかったという事実、、、
『トロヴァトーレ』のレオノーラが彼女の個性にマッチしたことは疑いの余地がありませんが、
キャリア最大の危機にメトで歌う最後の演目となってしまったかもしれない『トロヴァトーレ』で大逆転するとは、
歌手のキャリアの中で運というのがどれだけ大きなファクターであるか、
一見ちょっとしたことがどれだけ大きなインパクトをキャリアの上で持ち得るか、ということを考えさせられます。



主役の四人の中で、私が2008/9年シーズンの時から最も大きな疑問符を投げかけているキャストは、実はマルセロ・アルヴァレスのマンリーコです。
彼は非常に安定した力を持った歌手で、良い歌手か、悪い歌手か、と聞かれれば、躊躇なく良い歌手のグループの方に数えますが、
最近彼がメトで歌っているような役柄、カヴァラドッシとかマンリーコなんかでは、彼の本当の良さは味わえないので、私はとてもフラストレーションがたまっています。
彼を初めて生で聴いたのはメトの『リゴレット』でのマントヴァ公だったと記憶していますが、当時の彼の声の美しく、歌唱の端正だったこと!
遅咲きと言えば、ラドヴァノフスキーだけでなく、彼女は華々しいキャリアが花開いたのが遅かったという意味の遅咲きですが、
アルヴァレスの場合はオペラの世界に入った時期がそもそも遅いという、正真正銘の遅咲きゆえ、
余計に歌えるうちに色々な役を歌っておきたい、、という気持ちが強いのでしょうが、、。(アルヴァレスは1962年生まれです。)
彼は、彼の声質にしては無茶だと私には感じられる役を色々歌っている割には、驚くほど声が美しく保たれていて、
それは例えば似たことをして最近ではすっかり声を荒らしているリチトラとは対照的なんですが、
一つには以前にもどこかで書いた通り、こういった重めの役を歌ってもアルヴァレスは割りと飄々とマイ・ペースなところがあって、
喉に一定以上の負担がかからないような歌い方しかしない、というのがその原因としてあって、
私が彼のマンリーコを聴く時に感じるフラストレーションの源はそこにあるんではないかと思っています。
彼が声に必要以上の負担をかけずに、そしてまた私もフラストレーションを貯めないためには、
本来彼に合ったレパートリーに戻ってくれるのが一番なんですが、、、。

というわけで、彼のマンリーコ役の歌唱から、コレッリのそれのような興奮を期待するのが間違いなのであって、その間違いを犯すと、
一般的にこの作品の最大の聴き所と言われる第三幕の”見よ、恐ろしい炎を Di quella pira"で肩透かしを食らうこと間違いなしです。
そもそも、彼は2008/9年シーズンの時点から既に、最後に高音を入れるため、この部分のキーを下げて歌っています。
ただ、私にとって肩透かしに感じるのは、単にキーが下がっているということよりも、
本当にこの役に適性のあるテノールが歌った場合に感じられるような音圧とそれに伴うスリル、それが感じられない点の方が大きな理由です。
アルヴァレスのマンリーコはむしろ、アズチェーナとの絡みのシーンで良さが出ていると思います。
このプロダクションの一つの特徴として、マンリーコとアズチェーナの親子の関係が比較的丁寧に描かれている点が挙げられますが、
特に第四幕の、死を待つだけになった二人の場面は、今日のザジックの素晴らしい歌唱の力もあるのですが、アルヴァレスの端正な歌唱の面目躍如といった感じで、
重唱の部分の響きの美しさ(二人の声のコントロールの見事なこと!)、
そして、この怪奇な(そしてやや意味不明な)ストーリーの中にあって、
死を前にした二人の前に初めて訪れる束の間の平穏と安らぎの描写に観客はついホロリと来てしまいます。



ホロストフスキーのルーナ伯爵は、2008/9年の公演では、マクヴィカーの指示通りに演じたせいか、
いつものスタイリッシュで素敵なホロストフスキーはどこへ行ったの?と言うくらいの、やたら気持ち悪いぬめぬめしたルーナで、
私はそういうのも全くもって嫌いではないのですが、その後、Bキャストのルチーチなどはマクヴィカーの演技指導を直接にはおそらく受けていないと思われ、
そういったトカゲ的粘着気質はすっかり身を潜め、一般的に多く見られるエレガント系ルーナになっており、
”まあ、やはり普通はこうだよなあ、、、。”と思いつつ、演出家の指導というのがいかに短期間で消え去るものか、というのを垣間見た気がしましたので、
実は今日の公演でホロストフスキーはどのように演じるのだろう?当時のマクヴィカーの指導に忠実に歌い演じるのだろうか?
この答えを見るのが一つの楽しみであったわけですが、ホロストフスキー、一人だけヌメヌメさせられるのは馬鹿らしい、しかもHDで、、と考えたかどうかは知りませんが、
当時の演技指導をすっかりほっぽり出して、いつものカッコ良さ満開のホロ様路線で歌い演じきってしまいました。
マクヴィカーがこのHDを観てたら、”僕の指導したルーナはどこへ行った!”と歯軋りしてそうです。私が演出家なら間違いなくそうしてます。
他の三人は実を言うと、かなり初演時と忠実に役を演じていて、先に書いたマンリーコとアズチェーナの関係へのフォーカス、
この点をアルヴァレスとザジックは非常に意識的に歌い演じていますし、ラドヴァノフスキーも、ほとんど初演の時からレオノーラ役の捉え方、
演じ方は変わっていません。
ということで、ホロストフスキー、一人で暴走(笑)。まあ、いいでしょう、かっこいいんですから何をやったって。
実際、メトのオーディエンスは男女ともにホロストフスキーが舞台に立つとヘロヘロ~となっているのが客席にいても空気の中に感じられます。
ただ、真面目な話をすると、これにはもしかすると演技に気が取られすぎるのを防ぎたかった、という部分もあったのかもしれません。
歌に関しては2008/9年の頃からさらに歌いこんでいるということもあるでしょうが、今年の方が安定感が増して内容は良かったように思います。

一つ贅沢を言うなら、彼がヴェルディのレップを歌う時、もう少し音に広がりと連続性があったらいいな、と思うのですよね。
例えば、第二幕のルーナ役の最大の聴かせどころとなる”君の微笑みの妙なる輝きは Il balen del suo sorriso”~”運命の時は来た Per me, ora fatare"なんですが、
ヴェルディ的な響きが声にあるかどうかが顕著に出るのは、カバティーナ(”君の微笑み~”)よりもカバレッタ(”運命の時は~”)の方に私はあると思っていて、
それはそこにくっついて来るオーケストレーションとの絡みによるものだと思うのですが、
ホロストフスキーの歌はIl balenの方が優れた出来栄えで、Per me, ora fatareの方が影が薄いんです。
それはPer meが始まって以降の、音が広がっていく感じ、音と音の間の滑らかな連続性、
そしてそれがオケと繰り広げる綾、というのが若干希薄で、ここだけは私は絶対にルチーチの歌唱の方を買います。
このPer me以降の旋律こそが、ルーナ役を聴く側の最高の醍醐味ですから、なんとしても。



とまあ、色々あれこれ言って来ましたが、これは私の嗜好が炸裂したうえでの感想であり、三人とも高い歌唱水準であることは間違いがありません。
しかし、そんな三人の歌唱すら頭一つ凌駕してしまうような出来だったのがザジックです。
私が彼女の長年にわたるファンであることはこのブログでは最早秘密でも何でもありませんが、
一方で、それだからこそ、最近の彼女の歌声に徐々に忍び寄り始めている老いの影に一抹の寂しさを感じていたのもまた事実です。
実際、昨シーズンの『アイーダ』のHDは、指揮のガッティが好き放題やらかしてくれて彼女をはじめとするキャストが苦労して歌っているのが見え見えだったこともあり、
彼女の若かりし頃にドミンゴやミッロらと共演したメトでの素晴らしい歌唱が既にDVDで発売されているのに、
何もこれをあえてHDにしなくても良かったな、、、という出来でしたし、
また、最近の彼女は好調な時と不調な時の結果の乖離が大きくなり始めていることや(声が衰えて来たときに見られる顕著な症状の一つ)、
最近歌った『スペードの女王』でもあまり評価が芳しくなかった(批判は主に彼女の演技についてで、歌に関しては私は非常に良かったと思っていますが。)ので、
今回の『トロヴァトーレ』も、もう彼女の一番良いアズチェーナをとらえることなく終わってしまうのかな、、という思いで鑑賞し始めたのですが、
嗚呼、これこそなんと杞憂だったことか!この公演での彼女の歌唱は本当に素晴らしかった!!
絶頂期の彼女(90年代の終わり頃)は、非常にパワフルな声であるだけでなく、ヴェルディのメゾ・ロールで求められる音域を上から下まで安定した音色でもっていて、
特に高音域でのクリスタルのような美しい響きは下手なソプラノよりも余程美しかったくらいなんですが、
さすがにそういった特徴は年齢と共に現在では後退してしまったものの、その分、各フレーズが良く練られ、ニュアンスが増しており、
先に書いたような、パワフル・ボイス、クリスタルのような高音といった彼女の絶頂期の強みが詰まった2000年の公演
(そう、あれはヴィック演出”月光仮面の『トロヴァトーレ』”の公演だった、、、)での彼女の歌唱も素晴らしかったですが、
今回の歌唱はそれとは全く対照的な在り方ですが、やはり同じ位素晴らしく、甲乙付けがたいです。
第二幕の”炎は燃えて Stride la vampa”のまるで独り言を呟いているかのような不気味なほどの静かな歌い始めや、
他のジプシーたちが去ってマンリーコと二人きりになった後、”伯爵に復讐をしようと彼の子供を盗み出して火の中に放り込んだものの
気が付けば火に投げ入れたのは自分の子だった。”という部分に漂っている妖気は、
内容が???な打ち明け話なだけに、歌が凡庸だと本当に???なだけで終わってしまうのですが、
彼女の今日の歌にはマンリーコ、ルーナ、アズチェーナを結ぶ運命としか言いようのない大きな力のようなものを感じましたし、
先に書いた四幕でのマンリーコとの二重唱の場面では、アズチェーナが死を迎える前に一瞬子供のように、
そう、あの不幸な全てが起こる前の、母親と過ごした平和な頃の彼女に一瞬戻っていくその様子を見事に歌唱に表出しており、
とにかく歌唱の奥行きの深さでは、これまで彼女のアズチェーナから感じたことのなかったようなレベルに達していたと思います。
2000年の頃の歌唱と違う点、それは今日の歌唱は経験を積んで本当に役を把握した者にしか歌えない種類の歌である、という点でしょう。
今日の『トロヴァトーレ』は間違いなく彼女のアズチェーナが中心にあったと思います。
(で、この作品は筋から言ってそうあるべきだと思うのですが、なかなかそのように歌ってくれるメゾがいないのが現実です。)
近年では稀に見るほど彼女のコンディションが良かったのも幸いしました。



これだけ歌唱陣(マイナス コーツァン)が健闘していたら、もっとエキサイティングな内容になっていてもいいはずなのにな、、と思うのですが、
この演目が本当にエキサイティングに演奏された時に感じられるはずの興奮には残念ながら今一歩だったように思います。
一つにはマルコ・アルミリアートの指揮に一因があったかな、と思います。
この作品はきちんと演奏するだけではなくて勢いが大事という面があって、例えば2008/9年シーズンのBキャストでフリッツァが指揮した時の演奏は、
あちこちラフな部分はあるんですが、メト・オケ炎上!という感じの非常にエキサイティングな演奏だったことが思いだされ、
ああいうはちゃめちゃな勢いみたいなものがこの演目には必要で、今日の演奏にはそれが欠落していたのかな、、と思います。
あまりに丁寧に演奏するあまり、時にテンポが間延びして、ダルに感じる部分がありました。
はちゃめちゃのつもりが単なる滅茶苦茶になるリスクは当然あるわけで、HDの日にそういう危険を避けたくなる気持ちもわかるのですが、
もうちょっと思い切った演奏でも良かったんではないかな、と思います。


Marcelo Álvarez (Manrico)
Sondra Radvanovsky (Leonora)
Dolora Zajick (Azucena)
Dmitri Hvorostovsky (Count di Luna)
Stefan Kocán (Ferrando)
Eduardo Valdes (Ruiz)
Maria Zifchak (Inez)
Conductor: Marco Armiliato
Production: David McVicar
Set design: Charles Edwards
Costume design: Brigitte Reiffenstuel
Lighting design: Jennifer Tipton
Choreography: Leah Hausman
Stage direction: Paula Williams
Dr Circ E
OFF

*** ヴェルディ イル・トロヴァトーレ Verdi Il Trovatore ***