Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

NIXON IN CHINA (Wed, Feb 2, 2011)

2011-02-02 | メトロポリタン・オペラ
(注:オペラのあらすじと劇中バレエ『紅色娘子軍』のあらすじはこちら。)

ここアメリカでは、20世紀最後の四半世紀に作曲されたオペラの中で最も重要な作品の一つ、と言われることもある『ニクソン・イン・チャイナ』。
25年の中で最も重要、というのがこれまた微妙な表現ではありますが、作曲家のジョン・アダムスがアメリカ人ということも関係しているのか、
この作品が1987年にヒューストン・グランド・オペラで初演されて以来、今まで一度もメトの舞台にかけられたことがなかった事から、
今年の、その遅すぎたと言ってもよいメト初演を喜ぶ声はとても大きいのです。

今回のメトの公演では、指揮をアダムス自身が手がけ、演出のピーター・セラーズ、振付のマーク・モリスの組み合わせは、
1987年の世界初演時と同じスタッフ(ただし、演出に関しては全く同じプロダクションではなく、メト仕様に改変されたものです。)ということで、
初演時のスピリットをそのままメトに持って来ようとする意図が感じられます。

アダムスと言えば、メトでは一足先の2008年に上演された『ドクター・アトミック』の作曲者でもあり、
私は実演で、その音楽に文字通り激しい頭痛を覚えた人間ですので、実は『ニクソン・イン・チャイナ』もかなり不安です。



しかし、今日の公演を見て、音楽に関しては『ドクター・アトミック』よりは、ずっと聴き易いと思いました。
彼をフィリップ・グラス(延々と反復されるフレーズ、ミニマル系、、)と同じカテゴリーに入れる人もいて、
今回の公演でも、同じ言葉の繰り返しに伴う、同じ音型の反復などに拒否反応を持ったオーディエンスもいたようですが、
実際にはこの作品の頃までには、アダムスの作風は若干変わっていて、確かに先述したような反復音型などはありますが、
それらが圧倒的な存在を持っているわけではなく(実際、グラスの音楽の方が私にはずっとヒプノティックな感じがします。)、
その印象は、予習でCDを聴いている時だけでなく、実際に今日、オペラハウスで聴いても同じでした。
むしろ、『ニクソン・イン・チャイナ』は、今の映画音楽に通じるようなキャッチーさ、それから、ジャズっぽいメロディーなど、
ある面ではとても聴き易い部分があって、音楽面での、この適度な非難解さが、この作品を”25年間における最も重要な一本”にしているのかもしれません。
強調しておきたいのは、非難解=演奏するのが簡単という意味では全くない点で、
はっきり言って、この作品の演奏はめちゃくちゃ難しく、また、めちゃくちゃ大変です。
公演を鑑賞する前に、この作品のスコアを見る機会がありましたが、まあ、そのリズムの複雑なこと!!
エア・フォース・ワンが到着する場面の音楽だけでも、スコアを追っているうちに頭が@#$G*&^なことになりました。
どのパートも一瞬として気を緩めることは許されず、それはまるで走っている列車に首尾よく飛び乗ったり飛び降りたりする作業に似ていて、
下手してタイミングを間違えようものなら、足を踏み外して、タラップか、もしくは線路で、したたか頭を打つ、つまり、オケ大脱線!ということになってしまうのです。
しかも、それが、全編を通して続く、、
演奏がトリッキーな箇所があるオペラというのは他にももちろんたくさんありますが、普通は、それがある一定の箇所に限定されているのに比べ、
この『ニクソン・イン・チャイナ』という作品では、これが延々と続く、、、まさに、全編、列車に乗って、降りて、、、なのです。
オケの奏者の方、これ、気が休まる場所がないだろうなあ、、、、本当、大変だわ!
これは、実際、アダムス自身が自らのブログで、この作品を演奏するのには、
ビデオ・ゲームに必要とされるのに似た反射神経が必要、と語っていることからも裏付けられます。



音楽の面で、もう一つ、目新しいことと言えば、この作品では『ドクター・アトミック』の時のような、
”効果音として”という微妙な位置づけではなく、はっきりと公言したうえで、ソリストの歌唱にもマイキングが行われている点で、
私の知る限り、メトでこういうことが行われるのは初めてのことだと思います。
これはアダムスの意向によるもので、歌手にオケに負けじと声を張り上げさせないための手段であり、
”自分の作品では、歌手には出来れば、というレベルではなく、積極的にマイクをつけることを推奨したい。”と語っています。
シンセサイザーやサクソフォンなど、トラディショナルな演目では使用されない楽器が使われているから当然、という声もありますが、
オケの編成自体としては、この作品、ホルン・セクションは含まれていない、など、決して大編成ではなく、
実際、私はCDで聴いた時の印象から、先述したエア・フォース・ワンの到着の場面は、
もっとすごい”音の壁”みたいなことになるのかと予想していたのですが、オーケストレーションのせいでしょうか?
生で聴くとそれほどでもなく、”音の壁”度から言ったら、ワーグナーやR.シュトラウスらの作品の方が余程分厚いです。
私はむしろ、おそらく、この演目には世界のトップ・レベルの歌手を集めることが不可能であったという、
初演時からの事情がマイキングには関係していると思うのですが、どうでしょうか?(その理由は先に書きます。)

実を言うと、このマイキングが曲者で、今回の公演ではマーク・グレイという人がサウンド・デザインを担当しているのですが、
一幕の間中、ずっと、マイキングされている歌手の歌声(特にニクソン役のマッダレーナ)が、大きくなったり、小さくなったり、
まるでオーディオ・システムでボリュームをひっきりなしに高くしたり低くしたりしながら聴いているような違和感・不快感があって、
演奏を聴くのがほとんど苦痛な域に達していました。私の隣の座席の女性を含め、多くの方が同じ感想をもたれたようなので、私の空耳ではありません。
最初は、”座席の場所によって聴こえ方に差があるのかもしれないけど、それにしても、このグレイという人は
ちゃんと劇場の全てのスポットで、全部の歌手の声の聴こえ方を確認したのかしら?”と怒り訝っていると、
ニ幕以降には問題が無くなったので、機器の問題だったのだと思われます。
私はオペラハウスでマイキングをすることには全くもって反対派なのですが、
それにはこういう生声で歌っていれば起こりえない、不必要といってよい問題がマイクの使用によって生じ得る、
ということの他に、歌手の声の個性が奪われやすくなる点に最も不満を感じます。
どんなにテクノロジーが進化したとて、マイクを通した声はマイクを通した声でしかなく、生声とは劇場に響いた時のテクスチャーが全然違います。
歌手が持っている歌声の微妙な個性の違いというのが、このマイキングという行為を通して、少なからず奪い取られることになってしまうのです。
また、先にアダムスが語っていた言葉を紹介した通り、どうやら、彼にとってのマイキングというのは、
究極的には、オケのサウンドとソリストの歌声をバランスするのが第一の目標にあるようで、
例えば、年齢のために声の衰えが見られ、かつ、もともとそれほどパワー・ボイスでないマッダレーナ(ニクソン役)にはマイキングが強力に使用され、
マイキングの必要のない歌声を持っているキム(江青役)にはほとんど使用されず、と言った具合で、
ここに先に書いたマイキングの程度による声のテクスチャーの変化も加わりますから、
バランスを取るためにマイキングを行ったはずが、かえって妙なアンバランス感、テクスチャーの不均一感を生み出す原因となっています。



この作品での彼の音楽が技術的には良く書かれているのを承知で言うと、
やっぱり『ドクター・アトミック』の時以来、私が持っているアダムスへの印象は払拭されませんでした。
それは、彼の音楽が非常に感情からデタッチしているということです。
いわゆる名作と言われている作品を作曲している作曲家たち(ヴェルディ、ワーグナー、R.シュトラウス、プッチーニ、、)は、皆、
その作品の中で表現しようとする登場人物の感情、気持ち、つまりはオーディエンスが共有するそれらの感覚と、
きっちりとくっついた曲を書いていますが、アダムスの作品にはそこに妙な距離があって、
まるで出来事を遠くから見つめて曲を書いているような、そういう感覚を持ちます。
彼の作品では、曲を書くこと自体が究極の目標になってしまっていて、それが先にありきで作品が出来上がっている感じで、
その音楽でもって、何を、どんな感情を伝えたいのか、という、その大切な点を欠いているように感じます。

CDで予習をしていた時は、それなりに聴かせ所がある一幕が最も盛り上がるかな、と思っていたのですが、
実演を見るとそうではなく、私には、一幕が一番、鑑賞していて退屈で辛かった。
ニ幕以降からの方が音楽的にもビジュアル的にも面白いので、この『ニクソン・イン・チャイナ』をHDでご覧になるという、
奇特な、いえ、興味の幅が広くていらっしゃる方には、わざわざ映画館まで出かけて一幕で帰るのは馬鹿らしいので、
せめてニ幕まで頑張ってみてください、と言うのが、私が差し上げられる一言でしょうか。

ニ幕は、ニクソン夫妻の前で、江青がプロデュースした革命的現代バレエ『紅色娘子軍』を上演するという、史実に基づいたエピソードが中心になっています。
この『ニクソン・イン・チャイナ』にとっては、劇中劇ともいえる『紅色娘子軍』のあらすじは、
それを映画に収めた際の映像と合わせ、マイナーなオペラのあらすじの記事で紹介していますので、参考にして頂きたいと思います。
この幕は、マーク・モリスの振付がなかなか良い味を出しており、かつ2人のソリスト(いずれも日本人のダンサーです!)のダンスが繊細かつ丁寧で、
以前HDにもなった『オルフェオとエウリディーチェ』での彼の振付が全く受け入れられなかった私ですが、この作品での彼の振付は好きです。
かなり映画のまんまですので、”これ、全く一緒じゃん!”って感じなんですが、
却ってごちゃごちゃと自己主張を前面に出してオリジナルなことをしなかったのが成功していると思います。
不思議なのは、こういう場面の方が却ってアダムスの音楽が良く出来ているように感じる点で、
あるヘッズが”アダムスはオペラよりバレエ音楽を書いてる方がいいんじゃないか。”と発言してましたが、私も似た感想を持ってしまいました。
彼の音楽は、先に書いたような、作曲テクニックの上手さ+彼のどこか醒めた感性からしても、
言葉を音楽に密接に載せてドラマを表現しなければならないオペラのような媒体にはあまり向いてなくて、
物語性の希薄なダンス作品(ここでの”物語性の希薄な”は、”ダンス”にかかるのではなく、”作品”にかかります。)とか、
器楽のための作品の方が向いているんじゃないかと個人的には思います。



音楽面でのことをごちゃごちゃと書いて来ましたが、ここらで簡単に、一言で今日の鑑賞をまとめると、
”さっぱり意味がわかりませんでした。”ということになるかと思います。
そう。もうですね、はっきり言っちゃいますが、全然”意味不明”だったんです。
ここまで鑑賞していて意味がわからなかったオペラの作品は、私の人生において初めてかも知れません。
HDをご覧になる方で、このオペラの作品の意味、伝えようとしている内容をはっきり理解できた、
という方がいらっしゃったなら、是非、ご意見を伺いたいです。
これまで公演のレビューやらこの作品にまつわる論評やら、目につくものは片っ端から読んでいますが、
オペラ・ニュースの2011年2月号に掲載されている、レイ・ソウヒルという方の”The fall and rise of an American President"という記事が、
唯一、私の疑問の答えに一番近いものを提供している以外は、すべて、細かい枝葉の話ばかりで、
オーディエンス(特に私のようなニクソン訪中を、リアルタイムで経験していない、もしくはその意味や背景を理解するには幼すぎた年齢層のオーディエンス)のうち、
どれ位本当にこの作品の全体の意味を理解しているのだろうか?
登場人物の誰かの気持ちを深いレベルで分かち合いながら鑑賞している人はいるのだろうか、、?と、大いに疑問に感じていますので。



といいますのも、私はこのニクソン訪中の時、齢二歳でして、その歴史的意義とか背景は全て、日本の学校教育の枠組みの中で、後付けで知ったことで、
その旅行の細かいアイテナリー(何をディナーで食べた、とか、バレエの上演を観た、とか、、)なんか、今回の鑑賞まで全く知りませんでしたし、
ニクソン、毛沢東、周恩来といった歴史において重要な人物の、功績とか失敗を、他国から観た史実として知ることはできますが、
彼らが持つ生々しいパーソナリティというのは、リアルタイムで生きていないと、十分には知りえないと思います。
例えば、ブッシュとかオバマといった大統領については、私なりに、彼らのパーソナリティのかなり微妙なところにまで至る、
私なりの理解がありますが、同じレベルの理解が、ニクソンについてあるかと言われると、正直、ない。
だって、彼が大統領だった頃に、私は二歳だったんですもの。
問題は、私には、この『ニクソン・イン・チャイナ』が、そのように生で、ニクソン、毛沢東、周恩来のパーソナリティにリアル・タイムで触れた経験、
また、ニクソンの訪中のディテールを、リアル・タイムで新聞やテレビを通じて知った時に人々が持った感覚、に大きく依存しているように感じられる点で、
そういう経験を持つ人には自分の昔のアルバムを眺めるような感慨とか、
彼らが知っているニクソン、毛沢東、周恩来、キッシンジャーと重ねて内容を追うことで感じる独特の感慨といったものがあるのかも知れませんが、
私のようなジェネレーションの人間にはそういうものが全くないので、何と感じて良いのか、わからないのです。
私よりもさらに若い年齢層の、アメリカ人のオーディエンスも、全く同じことを感じたようですが、
私は、別に、自分がニクソンらと同じ時代に生きていなかったから、このような作品が自分には無関係である、と言いたいわけではありません。
史実系のオペラはこの世に一杯ありますが(『ドン・カルロ』、『ボリス・ゴドゥノフ』、ドニゼッティの女王三悲劇などなど、、。)、
それらの作品とこの『ニクソン・イン・チャイナ』の違いは、前者が史実の枠組みの中から、人間に普遍的な感情を抽出して作品化できているのに比べ、
『ニクソン・~』の方は、先にも書いた通り、オーディエンスの個人的体験に依存し過ぎているからです。
音楽には、意外なほど古臭さを感じませんが、むしろ、内容の方に、普遍的でないことから来る古臭さ、理解できなさを私は感じてしまいます。
こういったアプローチでしか作れないとしたら、いわゆる”CNNオペラ”とも呼ばれるこれらの時事的テーマを扱ったオペラに限界を感じてしまう私です。



例えば、二幕のバレエのシーンも、これが史実であることを知らなければ、”ふーん、、、。”ってな物ですが、
確かに、実在する昔の映像を見ると、”おお!!”という感慨がアップします。
(なので、あらすじの項で、『紅色娘子軍』の紹介もさせて頂いたわけです。)
また、このバレエの内容も、このオペラで初めて触れる人には非常にわかりにくい部分があって、
例えば、キッシンジャー役のリチャード・ポール・フィンクが、バレエの中で、横暴な極悪地主(共産党の敵!)として、
ダブル・キャストで現れる部分のおかしみも、十分には伝わりにくいと思います。

これは一つには、アリス・グッドマンのリブレットにも一因があるかと思います。
彼女の作ったリブレットは、単体で、文学作品として見るとウィットにも富んでいて、詩としてとても良い出来だと思うのですが、
(アメリカのヘッズにも、彼女のリブレットは非常に評価が高いです。)
時代をリアルタイムで生きていた人にしか完全には理解しにくい、非常に細かいディテールの寄せ集めが続いたかと思うと、
突然、フィクショナルで詩的な内容になり、、と、オペラのリブレットとして、音楽と一緒にセットで見た場合、
それほど優れたものであるかどうか、私には疑問です。
何より、リアルタイムで生きていない私のような人間が、特別な予備知識なしにこの作品を聴いた時に、
意味が非常にわかりにくい場面がいくつかあること自体、問題があると思います。
リブレットは、”そんなあほな、、。”という強引なところがあってもいいから、客にきちんとその内容が伝わらなければなりません。
一幕の毛沢東とニクソンの対話の場面で、実際的な問題に終始するニクソンと、それを哲学的な内容でかわす毛沢東の描写、
それから三幕の、各人がこれまで来た自分の人生を思うモノローグのシーンなど、個別で良く出来ているな、、と思う場面はありますが、
全体としての流れというものがとてもぎこちないと思います。



今回の上演で素晴らしい歌唱を見せているのが、ニクソンの妻、パットを演じているジャニス・ケリーで、
彼女は声に特別なものがあるわけではないですが、この役を、彼女のやり方で、非常に高いレベルで咀嚼していて、
今回の公演で、ニクソン夫人を、他の誰よりも興味深い、奥深さを持った人物として描ききっていると思います。

ニクソン役を歌ったジェームズ・マッダレーナは、なんとヒューストンの初演時にも同役を歌った歌手で、CDの録音もありますし、
ニクソンといえばマッダレーナ!な人です。
ただし、その時から、かれこれ25年近く、、さすがに声の衰えが感じられ、ヘッズの間にも彼をキャスティングしたのは間違いじゃないか?という声があります。
しかし、私はそうは思いません。そもそも、この作品自体、ベル・カントのような歌唱技術を楽しむレパートリーではないのですし、
(江青役のキムには唯一それが求められますが、、。)
彼のニクソン役を完全に自分のものにしているその様子は一見の価値あり、です。
アップで見るとどうかわかりませんが、私が座っている座席からは、ニクソンに本当に雰囲気が似ている、、と思いました。

周恩来役を歌ったラッセル・ブラウンは非常にエレガントな佇まいで、この作品で描かれているこの役の雰囲気、
また実際にも非常にヒューマニスティックなところがあったといわれている周恩来の雰囲気を良く摑んでいます。

江青役を歌ったキャスリーン・キムは、普通ベル・カントのレパートリーでは考えられないような厚いオーケストレーションをバックに、
コロラトゥーラの花火を大爆発させて、大、大健闘です。
ただ、彼女は声がとてもかわいらしくて美しいので、江青本人が持っている憎たらしさは希薄で、どこかお茶目でチャーミングですらあるのは良いのか悪いのか、、。

毛沢東役を歌ったロバート・ブルベイカーは歌は丁寧ではありますが、毛沢東が持っている、この世離れしたlarger than life感は、
あまりなく、実に一介の人間、的な役作りです。
この作品、および、セラーズの演出がそれを目指したのかもしれませんが、もうちょっと突出した政治人としての部分が前に出てもいいと思います。

メインのキャストの中で唯一、ジョーカー役的要素が強いキッシンジャー役はフィンクがユーモラスに演じていて、上手かったと思います。
でも、そういえばキッシンジャー本人もすごい地声なので、本人に歌ってもらっても良かったかもしれません。


James Maddalena (Richard Nixon)
Janis Kelly (Pat Nixon)
Robert Brubaker (Mao Tse-tung)
Kathleen Kim (Chiang Ch'ing)
Russell Braun (Chou En-lai)
Richard Paul Fink (Henry Kissinger)
Ginger Costa Jackson (Nancy T'ang, First Secretary to Mao)
Teresa S. Herold (Second Secretary to Mao)
Tamara Mumford (Third Secretary to Mao)
Haruno Yamazaki / Kanji Segawa
Conductor: John Adams
Production: Peter Sellars
Set design: Adrianne Lobel
Costume design: Dunya Ramicova
Lighting design: James F. Ingalls
Choreography: Mark Morris
Sound design: Mark Grey
Solo dancers: Haruno Yamazaki / Kanji Segawa
Dr Circ C Even
ON

*** アダムス ニクソン・イン・チャイナ Adams Nixon in China ***

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20 コメント

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Unknown ( F )
2011-02-08 20:45:22
新年のご挨拶もせぬまま2月も半ば。
今年もゴシップ、事件ネタ中心(笑)のコメントになろうかと思いますが
よろしくお願いいたします。

「ドクター・アトミック」とともに題材としては興味深いのですが、
オペラとして初心者向けではないですよね。
もともとバレエのコンテンポラリーも得意ではないタイプですから。
トップ写真の舞台装置や、史実に基づいたとされるバレエもおもしろそうなんですが…
それにしても会談シーンの横顔など、雰囲気がとても似ていますね。

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Unknown (shibata)
2011-02-09 07:04:06
Madkakip様。少し遅れましたが、あけましておめでとうございます。健康には十分に注意して今年も頑張ってください。レポートを読ませていただきました。やっと、同じ感想を持っている人がいて、少し安心しました。会社の同僚3人とも、台本以外は、とても素晴らしいと絶賛し、隣に座っていた人達も、素晴らしいと言っていたので、オペラの感覚が、人と違ってきたのかと思い、今後のオペラをどのよううに、見るべきかと考えていたところでした。ところで、Madkakip様、オペラを見るときには、何を中心にして見ているのですか?声、オーケストラ、プロダクション?昔のMetは、感動の一言でしたが、最近は感動が少なくなり、少し音楽を勉強してオペラを見に行こうと思っています。そこで、Madkakip さんがどのようなことを、勉強して、オペラを鑑賞しているのかなと思い、少しでも教えて頂いたらと。
--- Shibata
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ニクソン (チャッピー)
2011-02-09 12:23:17
ニクソンってのは、ネットに生息する共和党シンパにとっては無かったことにしたい存在。
Tルーズベルト、レーガン、GWブッシュ等の名前を挙げて、共和党政権がいかに日本の国益にとって有益かを説くんだが、ニクソンの事は完全スルー。
奴は反日(生前出した自叙伝でも日本に関してはろくな事書いてない)な上に親中だもんな。
台湾でも田中角栄に関して似たようなニュアンスの発言を聞いたことがあるので、日本に限ったことでは無いと思う。

ニクソン訪中は余り記憶に残ってないのですが、田中角栄の訪中と国連アルバニア決議案(中国を加盟国&常任理事国に入れ、台湾を追放するとのアルバニアから出された提案)のことは良く覚えてます。
当時、毛沢東語録を読むのが流行りました。当時、小学生でしたが読みました。

26日のライブビューイング、行ってきます。
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Fさん (Madokakip)
2011-02-10 15:31:09
とんでもございません、いつもお二人(奥様と)のブログを拝見し、
素敵な文章とお写真を楽しませて頂いているのですが、
(そしておいしそうなお料理の写真を見てはホームシックにかかる、、というのが定番コースなんです!)
私の方こそいつもばたばたしておりまして、ご挨拶が遅れました。申し訳ありません。
どうぞ、今年もよろしくお願いいたします。

>オペラとして初心者向けではないですよね

どうなのでしょうね、、
オペラのスタンダードなレパートリーよりは時代が新しい関係もあって、
音楽がコンテンポラリーだとは言えるのかもしれませんが、
逆に、スタンダードなレパートリーを好むオペラファン(私のような、、)の方が抵抗を感じて、
却って、オペラに新しい、もしくはそれほど入れ込んでいない方の方が、
すっと入って行ける部分はあるかもしれませんし、一概に言えない部分もあって、難しいですね。
『ドクター・アトミック』はオーケストレーションのせいで、全幕が終わる頃には
もう頭ががんがんしてしまいましたが、『ニクソン・イン・チャイナ』の方は,
そういった意味では割りと聴きやすいです。

正直、この作品を見て、感激する、感動する,と言うことは、ないと思うんですよね、、。
(ただし、くすっと笑わされるユーモアはいっぱいあります。)
どちらかというと、25年に一度の名作(?)を鑑賞する、という、歴史的意味合いの方が大きい、という、
奇妙な鑑賞になってしまいました。
決して、鑑賞した時間が無駄だった、とは思わないのですが、、。

>史実に基づいたとされるバレエもおもしろそうなんですが…

私もここが一番面白かったです。メインのソリストが男女とも日本人の方で、
なかなか繊細な表現をして下さるお陰で、見ごたえがありましたし、
外枠(『ニクソン・イン・チャイナ』)の筋書きより、このバレエの筋書きの方が面白いぞ、、という、、(笑)
返信する
shibataさん (Madokakip)
2011-02-10 15:32:44
温かいお言葉を頂いて、本当にありがとうございます。私の方こそ、こちらこそよろしくお願いいたします。
Fさんのコメントとも重なりますが、私も、この作品には全然心が動かされなくて、
こう、何といいますか、、、他人様の昔のアルバムを見ているような感覚に近かったです。
ただ、この作品を生で鑑賞すると、こういうことになるのか、、ということを体験できたという意味では、
意義はあったと思うので、時間の無駄とまでは思わなかったのですが、、。
(最近はスタンダードなレパートリーで、時間の無駄!と思わされるような公演がしばしばありますので、恐ろしいことです、、。)

>オペラを見るときには、何を中心にして見ているのですか

なんと奥深い質問でしょう!
そうですね、、、私が究極的に探しているのは、何を隠そう、shibata様と同じく、“感動”です。
“感動”と言って言いすぎなら、自分が作品の中の人物と一緒に生きているような感覚を持たせてくれる、
そういう体験を求めてメトに通っているのですが、、
まあ、最近はそういった公演が激減してまいりましたよね。

あとは、ブログを始めたことで、あまり漠然とした自分の気持ちだけを書いていては、
読んで下さる方にどんな公演だったのか伝わりにくいのではないかな、と思い、
ある程度、意識して、オケ、歌、演出など、上のことを構成する要素一つ一つについても、
言及するようにしているんですが、本当に良い公演というのは、これらが全部、一緒になっているというか、
不可分な感じがするものですよね。

と、そういうことが前提にあるのをとりあえず、置いておくと、

>どのようなことを、勉強して、オペラを鑑賞しているのかな

そうですね、、、私自身はまず、音楽があって、それからビジュアルがある、と思っている人間ですので、
公演前にその演目をDVDで見たり、色んな演出のパターンを勉強する、ということはほとんどないですね。
代わりに、CDを複数の盤(あれば、ですが)、良く聴くようにしています。
つまり、違った歌手、違ったオケが演奏すると、演奏にどういう違いがあるか、とか、
後は、その作品を演奏する・歌うに必要とされるスキル、声の質とはどういうものかを知ることも重要だと思っていて、
それを持っている歌手が歌っている場合と、そうでない歌手の場合とではパフォーマンスにどういう違いがあるか、
ということに気をつけながら音源を聴くようにしています。
もちろんこういったことはDVDを観ながらでも出来るのですが、私は絵がない方が音に集中できるので、、。
また、初めて鑑賞する演目なんかだと、これはどのように演出されるのかな、、と自分で考えながら音源を聴く、これは楽しくて好きです。
DVDを事前に見ないのは、特にこういう場合に、既存の演出の一つのパターンを必然的に見なければならなく事態を避ける、という目的もあります。
(『ペレアスとメリザンド』なんか、これはどうやってステージングするのかな?と思わせられる場面が多かったので、
予習で音源だけを聴いている時も楽しかったし、実際に舞台を観て、なるほど、、という感慨も大きかったです。)
こんなので、答えになっておりますでしょうか?
返信する
チャッピーさん (Madokakip)
2011-02-10 15:35:26
さすがチャッピーさん、ニクソンを奴呼ばわり、、(笑)
とはいえ、ニクソンはもちろんアメリカでも好かれてないんですけれども。
ここ最近、彼をテーマにした映画とか舞台とかが出来て、少し回顧ムードがあるようですが、
大筋ではやっぱり好かれてないと思うんですよね、、。

ただ、オペラ・ニュースにも記述がありましたが、多分、そんな中で、この『ニクソン・イン・チャイナ』が、
少しアメリカ人にとって意外、もしくは新鮮に感じられるのは、
一つには、彼の訪中に焦点が当たっているため、当然のことながら、全くウォーターゲート事件に絡む描写、
もしくは後のそれを匂わせる部分がない点で、
最後にそれでも彼に事件を重ねるのはオーディエンス側の勝手ですが、
作り手側は出来るだけ、ウォーターゲートとは独立させて彼と言う人間を扱おうとしているように思います。
また、それに関連して、この作品で描かれているニクソンは限りなく中立的な描かれ方で、
彼の政治家としての資質とか業績を断罪する目的は、微塵もこの作品にない点です。
政治家としての彼より、人間としての彼を描きたかったのではないかと思います。
このあたりは初演時にこの作品を鑑賞したアメリカ人にとってはすごく新鮮だったみたいですね。
(アダムス自身は民主党寄りみたいですけれど。)

>26日のライブビューイング、行ってきます。

きゃー、チャレンジャーでいらっしゃいます!!頼もしいです!!!
鑑賞後の忌憚ないご意見を楽しみにしておりますよ!!
返信する
iTunes (violetta)
2011-02-11 11:23:01
『ニクソン・イン・チャイナ』のあらすじ、ありがとうございます。この作品はiTunesで聴けるオペラ専門チャンネルで部分的に聴いたことがあるのですが、英語は旅行するのに困らない程度の最低限の会話しか出来ない私には、聴いていてもわからず英語のウィキペディアで読んでもだいたいの事だけだったので、とても助かりました。この作品、耳で聴いているだけだと、音楽が一定の間隔で揺れていて、常に不安感につきまとわれている気分になります。舞台ならばかなり印象は違うのですね。

ところでメトでもマイクを使用しているのですか?
一度劇団四季の『エビータ』のチケットをもらったので観に行ったことがあるのですが、ソリストはマイク装着、コーラスは地声のまま。上演中その音色の質の違和感にとらわれたまま、終わるまでずっと馴染めませんでした。
おっしゃる通り、人の声というのは電線を通すと真綿の柔らかい「毛羽」のようなものがそがれてしまって、大きく変わってしまうと思うのです。それゆえ、DVDなど高画質高音質の再生手段が行き渡っても、なおオペラハウスに通う価値があると思うのですが。いかがでしょう。
返信する
ホッとしました。 (ゆみゆみ)
2011-02-11 15:17:06
マドカキップさんが“さっぱり意味がわかりませんでした。”と仰ってくださりホッです。
ドレスリハーサルに潜入でき、ただで見ました。ただでないと行かない!
隣の外人のお嬢さんが、私に無謀にも「どう?」と聞いたので、「理解でない」と応えました。彼女も「そうなんだけど、歌手は良いわね」と言っていました。彼女も歌手なんだそうです・有名人かな?
マドカキップさん!!
荒筋も何もさっぱり理解できない私でございますが、最後のベッドでそれぞれがしているのは何なんですか?
回顧シーンとの事ですが、あんな事を舞台上でしなくても他にすることはいくらでもありましょうに?
チャッピーさん同様私もビューイングにチャレンジして、事の真相を究明しようと考えています。
返信する
violettaさん (Madokakip)
2011-02-12 16:50:45
>iTunesで聴けるオペラ専門チャンネルで

ええっ!?そんなチャンネルにちゃんと食い込んでいるのですね、『ニクソン・イン・チャイナ』!

ちょっと本文に入れるには字数に余裕がなかったのですが、音源の話をしますと、
長らく唯一の盤だったデ・ヴァールト盤(オケはセント・ルークス)に加えて、
去年でしたか、オルソップ盤(コロラド響)が登場しまして、
このオルソップ(女性なんですね、この人)の指揮がなかなかきびきびしていて、
私は後者の盤の方が好きです。
(ただ、デ・ヴァールト盤は、ニクソン役をメトと同じマッダレーナが歌っているんですが、
オルソップ盤はメトとかぶっているキャストはありません。)

>英語のウィキペディアで読んでもだいたいの事だけだったので、とても助かりました

メトのサイトから失敬しただけですが、そう言って頂けると嬉しいです。

>舞台ならばかなり印象は違うのですね

そうですね、セラーズの演出がポップなせいもあるかもしれませんが、
私は音だけで聴いている時より、舞台の方が聴きやすい印象を持ちました。
トラディショナルな演目でも、もちろん、多少CDと舞台では音が違って感じますが、
この作品はその乖離がさらに大きい感じがします。
もしかすると、シンセサイザーが使用されていることと、編集時の他楽器とのバランスの関係もあるのでしょうが、
感覚的には、ロックやポップスでしばしば、CDと生のライブ、全然音が違うという、あの感じに似ています。

>メトでもマイクを使用しているのですか

通常は使用していないですが、この作品では使用しています。
後、『ドクター・アトミック』の時も、サウンド・デザイナーが居た記憶があります。
(ただ、『ニクソン』ほどあからさまにソリストの歌をマイキングする感じではなく、
あくまで効果音として使用されていました。)

>人の声というのは電線を通すと真綿の柔らかい「毛羽」のようなものがそがれてしまって

本当におっしゃる通りなんですよ。
声を“聴く”ことはDVDやCDで出来ても、本当に“感じる”ことは、やはり生でないと難しいのではないかな、と思います。
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ゆみゆみさん (Madokakip)
2011-02-12 16:54:11
いえいえ、私は頭が良くないですから、私が“さっぱり意味がわかりません。”と言ったとしても、
決して安心はできませんよ!(笑)
チャッピーさんもHDをご覧になるようですから、またその時にご意見を伺いたく存じます。
私自身、もし、この作品を理解される方がいるなら、どういうことなのか、ぜひ教えて頂きたいと思っておりますので、、。

>ドレスリハーサルに潜入でき、ただで見ました。ただでないと行かない!

そうですよ、私はこれ、フルの値段払ってチケットを購入しましたからね。
この作品と例えば『シモン』が同じ値段だと、むむむ、、と思ってしまうわけですよ、作品的に。
シモンみたいな作品なら、何度でも(キャストがよければ)鑑賞したい、と思いますけど、
『ニクソン』はちょっと、、、。

>最後のベッドでそれぞれがしているのは何なんですか

(笑)まさにおっしゃる通り&あらすじにある通り、回顧と、
“How much of what we did was good?”(自分たちがやったことのどれ位が正しいことだったのだろう)という問いを投げかけているのだと思いますが、、。

>あんな事を舞台上でしなくても他にすることはいくらでもありましょうに

ははは(笑)
でも、他にすること、あるんでしょうかね、、?
私はこの題材には特にオペラの素材としてのポテンシャルを感じないんですよね、正直言うと、、。
何を考えてこんな題材、オペラにしたんだろう、、?という、、(笑)
晩餐、国内見学、バレエの上演、、といった、アイテナリー的なことが続いて、
いきなり無理やりこの最後の回顧シーンに入っていく、このプロセスがちょっと強引過ぎる気がします。
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