Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

DIE WALKURE (Fri, Apr 22, 2011)

2011-04-22 | メトロポリタン・オペラ
『ワルキューレ』初日の直前の日曜日(4/17)に、パトロン向けのバックステージ・ツアーに参加して来ました。
確か1998年あたりだったと思うのですが、一度バックステージ・ツアーに参加したことがあって、そのせいで同じものを見ることもないだろう、と、長い間参加してなかったのですが、
これが実に大きな間違いで、再参加して本当に良かったです。
まず、一つには、バックステージ・ツアーは、色々な種類のツアー(観光客向け、パトロン向け、リンカーン・センターのバックステージツアーの一部、等々)の、
いくつものグループが同日に見学を行うのですが、担当して下さるガイドの方の当たり外れによって、面白さが全然違うということ!
今回私のグループを担当してくださった方は本当に知識が豊富で、今昔の歌手たちのエピソードを交えつつ、”せっかくの機会だからどんどん色々見て下さいよー!”と言って、
参加者を焦らせることなく、本当にゆっくりと現在準備・作成中の衣装やセットを観察させて下さったゆえ、本当に堪能しました。
それから、当たり前といえば当たり前なのですが、見学するその時その時で、裏方さんが手がけている作品も違っているということ。
10年以上前のバックステージツアーと比べればそれはもう当たり前ですが、メトの公演のスケジュールを考えると、
仮に一ヶ月程度のインターバルでも参加者が目にするものは全然違っているはずです。
今回、私が見学した回では、丁度、来シーズンの初期の作品の小道具・大道具の準備が全車輪で進んでいるところみたいで、
Don Gio(ドン・ジョヴァンニ)とマークされた、たくさんの窓や、『アンナ・ボレーナ』のセットに使われると思しき金属で作った装飾パターンなど、
見ているだけで、どんなプロダクションになるのだろう?とわくわくしてしまいました。
今回のバックステージツアーはシーズンが始まる前に計画したもので、12ほどメトから指定された候補日程からこの日を敢えて選んだのは、
丁度、ルパージュの『ワルキューレ』初日の直前ということで、
あわよくば、日曜にセットの動作の最終調整をすることになっていたりして、その様子を見れるのではないか?とか、
ジークムント役のカウフマンを含むキャストがまだリハーサル室でリハーサルをしている!なんてこともあり得るのではないかと、淡い期待を抱いていたわけですが、
カウフマンの姿は残念ながらどこにも見当たりませんでした。
このバック・ステージツアーでは本当に色々楽しい・興味深いお話を伺ったので、本当は独立した記事を書きたいくらいなのですが、
その時間がないと思われますので(シーズン・オフ中に、書ける時間があれば書きたいと思います。)、ここで紹介してしまいますと、
先述しました通り、小道具&大道具はすでに来シーズンの準備に燃えているようですが、衣装は『ワルキューレ』の衣装の最後の微調整と、
来シーズンの『ジークフリート』や『神々の黄昏』の準備などが同時進行しているようで、こちらにブライスが歌うフリッカ役が『ワルキューレ』で着用する衣装がかかっているかと思うと、
こちらには『神々の黄昏』で合唱が着用する衣装が、一人一人の団員の採寸と共に転がっていて、
その側にはジークフリート役のギャリー・レーマンの名前が入った衣装がラックにかかっている、、といった具合です。
メトで作られる衣装の全てには4X3センチほどのタグがくっついているんですが、そこにはプラダも真っ青、まるでブランド名のようにMetropolitan Operaと印刷されており、
そのすぐ下には小学生の体育服を思わせる、名前を書き込むような枠があって、役名とそれを歌う歌手の名前を記入しなければいけないことになっているので、
一目で誰がどの役で着用する衣装なのかがすぐわかるようになっているのです。
各演目毎に、”バイブル”と呼ばれる、主要キャストから脇役、ひいては合唱団員が着用する衣装を含めた全てのデザイン画、採寸データが一つになった、
辞書のようなフォルダーがあって、お針子の人たちはそれを基に作業を進めていくんだそうです。
PCなどで管理する事も出来るだろうにそうはしない、私はメトのこういうとてもマニュアルなところが大、大、大好きです。



さて、カウフマンの姿をリハーサル室に見ることはできませんでしたが、その代わり、『ワルキューレ』の舞台装置は狙い通り、
どどーん!とオーディトリアムのメインの舞台にセッティングされていました。
しかし、動いているわけではなく、ビジュアル効果も何にもない、まさにまっぱ状態のザ・マシーン(プロダクション・チームや裏方の方はあの装置をこう呼ぶ。)は、
単なる大きな金属の塊に過ぎませんでした、、、。
ただ、客席から見ているよりも勾配がきつくて、しかも表面がすごく滑りやすく見えるので、これは歌手陣は大変だろうな、、という風には思いました。
と、そこへ、見るからに”ステージ・ハンド”(大道具の組み立ての担当の人)というごっついガタイのおじさんが通りかかり、すばやく一本釣りする我等がガイドのおじさん!
”大道具の方の立場から見た『ワルキューレ』のセットの説明をお願いします。”
すると、こちらがびっくりする位の正直さで、”6千万ドルの値打ちのある装置じゃないし
(注:ちなみにNYポストのレビューには60ミリオン=6千万ではなく16ミリオン=1600万という表記になっていますが、これは当初の予算の数字で、
結局、その後、装置が重すぎて舞台が支えられないため、補強工事を行うなど、どんどん追加の費用がかかっていて、全額を総合すると、大道具のおじさんが言っている60ミリオンに近いのです。)
こいつは危険ですらある。まだ一度もリハーサルでプロダクション・チームが予定した通りに動いてないからね。
俺にいわせりゃ、以前の(シェンクの)プロダクションの方がいいじゃないか、今から戻そうぜ!って感じだね。”
これまでにすでに似た話を複数の方から聞いていたので、ここまで正直に(しかもバックステージ・ツアーで、、、)大道具の方が語るという、その点についてはちょっとびっくりしたものの、
彼の話している内容には特に驚かなかった私ですが(『ラインの黄金』の初日にもセットが正常に作動しない問題がありましたし、、、)、
旅行でNYにいらしていて、どうやらこの『ワルキューレ』の初日を鑑賞する予定にされていると思しき親子は、もうびっくりした体で、
”一体何が、どこがおかしいんですか!?”とおじさんに詰め寄る。
するとおじさんは、眉一つ動かさず、”複雑すぎるんだよ。全部コンピューター操作で、そこで問題があったら一貫の終わりだからね。
他のセットなら俺らが体でマニュアルで動かすこともできるけど、こんな40トンもあるセット、到底動かせないし。”
うぬ。確かにおっしゃるとおり。

というわけで、日曜以降、ちゃんと操作指示通りに動いたのかしら、マシーンは?それとも、もしや、今日もまた思い通りに動かないのだろうか?
動かないだけならまだしも、予期せぬ動き方をしてキャストに怪我などさせたらとんでもないこと!とどきどきしながらの鑑賞になりました。

今シーズンですっかり珍獣(”ほんとに指揮台に現れた!”)としてのポジションを確立した感のあるレヴァインですが、
そんな中でも特にこの『ワルキューレ』という作品は、演奏時間の長さから今のレヴァインには無理だろう、、、とヘッズの間に囁かれていた演目です。
しかし、ほぼ同時期の演奏となる『トロヴァトーレ』や『ラインの黄金』のBキャストをそれぞれマルコ・アルミリアートとルイージに譲り
(ちなみにルイージ指揮の『ラインの黄金』は非常に高い評価を受けていました。)、
何とか『ヴォツェック』と、この『ワルキューレ』だけは死守しているのは最早執念の域に達してます。
『ワルキューレ』に関しては、一応オフィシャルのカバー指揮者もいるんですが、
レヴァインが体調不良になった場合に備えてルイージも待機させているという風にも言われています。
そんな状況ですから、一層レヴァインの珍獣度はアップし、もう彼が指揮台に現れただけで客席からものすごい拍手と歓声。
しかも、今や移動にはほとんど電動カートを使っており、二週間前のメト・オケとの演奏会でも車輪がついた手押しのカートで舞台に現れたレヴァインが、
この日は杖をつきながらですが、自力で歩いてピット脇から指揮台まで、そこそこのペースで歩いて来たんですから、
まだまだ観客の前で衰えた姿は見せられん!という、その執念たるやすさまじいものがあります。



まだ珍獣でなかった頃のレヴァインのリングは、いや、リングに限らず、ほぼどんな演目でも、と言ってもあながち誤りではないかもしれませんが、
非常にゆっくり演奏されることが多かった。
ほとんど、感動というものは思い入れたっぷりの遅いテンポから生れる、とでも考えているかのように、、。
しかし、非常に興味深いのは、彼の健康が不安定になりだしたここ数年で、その傾向が段々弱まっている点で、
それは、まさに今日の『ワルキューレ』のような演奏に如実に現れていると思います。
私が聴いたことのある彼の振った『ワルキューレ』の中で、今日の演奏は一番きびきびしたものの部類に入ると思います。
私は実は最近の彼のこの変化を非常に好ましいものと思っているんですが、皮肉なのは、彼が思い通りに体を使って指揮することが出来た時にはそういう選択をせず、
そうできなくなった今になって、そういう変化が現れている点です。
というのも、やはり、彼の体の不自由さ、これはまた如実にオケの音に反映されているからで、珍獣前のレヴァインの演奏では絶対にありえなかった
アンサンブルの曖昧さとか、セクションからセクションへのバトン渡しのぎこちなさが時々感じられる点に、それが現れています。
それでも、はっとさせられるようなセクション間のバランスとか、先に書いた私には以前よりずっとしっくり感じられるテンポの設定の仕方など、
良いところも一杯あるだけに、これがもし、以前のように思う存分体を使って振れるレヴァインだったなら、もっともっと良い演奏になったかもしれないのに、、と思うところがあるのです。
また、今の彼のフィジカルな指示に限界があるだけに、珍獣前のレヴァインと多くの演奏の機会を持ち、彼の欲するものを良く理解している、
もしくはそういう奏者が多く残っているセクションと、
若手や比較的最近オケに加わったメンバーが多い、もしくは首席をつとめているセクションとの間で、演奏の出来に若干差がある、ということも言えるかもしれません。
もう一つ、今回のレヴァインの指揮で興味深く感じた点は、以前の彼は大音響で押して押して押しまくる!のスタイルだったのが、
キャストのせいもあるかもしれませんが、少し音のつくりをコンパクトにしている点で、カウフマン、ターフェルなど、ワーグナーを歌うには声がこじんまり気味である歌手たちへの配慮を感じます。
後にもふれますが、以前までのプロダクションでオケの音を大全開に出来たのはモリスのような歌手がいたからだなあ、、とつくづく思います。
ただ、オケの音がコンパクトになったことそのものは決して悪いことではなく、そのお陰で新鮮な響きがオケに生れましたし、その分、以前よりは細かいニュアンスを感じるようになった部分もあります。



第一幕の序奏の部分に限っては、なかなかマシーンが面白い活躍をしているという評判を聞いておりましたので、楽しみにしていましたが、
確かにここはビジュアル(ビデオ)の技術が駆使され、嵐の空の状況が映し出されたマシーンのプランク一本一本がやがて木にモーフィングして行き、
そしてフンディングの住居を形作るようなポジショニングに移行していく流れは、良く考えられているな、とは思います。
ただ、『ラインの黄金』、それから『ワルキューレ』と続けて鑑賞して、このシーンだけでなく全体について言えることですが、
このプロダクションではアイディア=頭の方が先行していて、ドラマ=心の方がついて行っていないような気がする、これは実に残念なことです。
ボンディの『トスカ』などと違って、ルパージュのリングからは一応まじめに作品に向き合って自分なりのアイディアを盛り込もうとする試みは感じられるので、
鑑賞していて不快な感じはしないのですが、シェンクのプロダクションのような圧倒的なエモーションを感じさせられることもまたなく、
ただひたすら物語が平板に綴られていくのを眺めているような印象を持ちます。
この点について、もっとも顕著に現れてしまったのが、最後のヴォータンとブリュンヒルデとの別れのシーンだと思うのですが、その点については後述したいと思います。

この演目で私が最も楽しみにしているのはいうまでもなくカウフマンのジークムントですが、私が彼のこの役での歌唱で評価したいのは、
これまで私たちがメトで慣れてきたタイプのジークムントに彼が合わせるのではなく、役の方を彼のスタイルに近づけることに挑戦し、それに成功してしまっている点です。
もし、彼がそこに成功していなかったら、多くの観客に”彼の声はメトでワーグナーを歌うのは無理。”と葬り去られ、それを反映した観客の反応になっていたはずですが、
そうはならず、観客の多くはカウフマンのジークムントに魅了されたわけですから。
彼の声は総合的なレベルでは声量がないわけでは決してないのですが、やはり、この作品のオーケストレーション、メトのオペラハウスのサイズと(オケピを含めた)構造、
例年に比べればかなりコンパクトになっているとはいえ、それでもやはりパワーのあるメト・オケの演奏、それらの条件の上では、
彼の声はこの役には相当リーンだと言ってよく、メトで同役を歌えるほとんどぎりぎりあたりのところにあります。
ただ、彼の頭の良いところは、そしてそれが私が彼をアーティストとして大きく評価する点であるのですが、
声量をもってこの役をこなして来た先輩達と張り合おうなどという、やるだけ無駄&馬鹿な考えを持たないところです。
彼は一幕を非常に心理的に緊密な場面としてとらえ(そして、実際にその通りであると私は思うのですが)、
これまでこの役を歌ってきた歌手達と比べると、フンディングの住居がずっと小さくなったような感じがするような緊密感でもってこの幕を歌ってしまいます。
なので、”Walse! Walse!"も、これまで外にその存在を求めて歌いかけるような、オケを越えて歌おうとする歌手が多かったのに対し、
彼の場合はオケと一体化したサウンドで、自分の中にいるその人に向かって歌っているような印象を受けます。
ようやく”冬の嵐は過ぎ去り”で少し解放される感じはありますが、やはり、ジークリンデに焦点をがっちり合わせて、絶対にオーバーサイズで歌わないのが彼のジークムントの特徴です。
なので、従来のようなタイプのジークムントの歌唱を求めている人には、物足りない、、、ということになるんでしょうが、
私はこういう違ったタイプのジークムントは説得力を持って歌い演じられている限りは大歓迎ですし、
第一回目のインターミッション中に化粧室の列で前後になった別の観客の方も、
”『ラインの黄金』を鑑賞して以来、全然このプロダクションでの『ワルキューレ』には期待していなかったのだけれど、一幕は思いの外良かったわ!”と仰っていて、
やはり、その理由のひとつに心理的な緊密感が場面に備わっていたことをあげていらっしゃいました。



ジークリンデ役を歌ったエヴァ・マリア・ヴェストブルックは、生声を拝聴するのは初めてで、YouTubeなんかではとても良いものを持っている歌手に聴き受けましたので、
今回のメト・デビューを非常に楽しみにしていたんですが、数分聴いて、”え?こんな声なの?”とがっくり来ました。音のテクスチャーは荒いし、揺れは激しいし、、、
しかし、第二幕の開始前にゲルブ支配人が登場して、彼女が不調であることの説明があり、”引き続き歌いますがその点ご理解を”ということで、
なるほど、風邪か何かなのか、、、それならしょうがないよね、、、と思っていましたら、
ニ幕目はまるで生まれ変わったかのように声が良く出るようになって、”なんだ、これは?まるで別人のようじゃないか!”とびっくり仰天しました。
アナウンスされるだけで心理的に解放されて、残りの幕を無事に歌いきる、という話は時々聞きますが、ここまで別人のように歌声や歌い方まで変わってしまう例は私は聴いたことがなく、
どれだけ解放されとんじゃ!と突っ込みたくなりましたが、実はどうやら本当に別人だったようです。
ゲルブ支配人のアナウンスの後、幕が実際に始まってしまってから、ヴェストブルック本人がニ幕も無理そうだと判断したそうで、
結局ニ幕からジークリンデ役のカバーのマーガレット・ジェイン・レイ(↓)が代役を務めていたそうです。



ウェブやラジオでこの公演を聴いていた方はきちんとそのあたりの説明があったようですが、
我々オペラハウスの観客は、その後、三幕のスタートの前に、”歌えなくなったヴェストブルックの代わりにレイが歌います。”という言葉しかなかったので、
余程舞台に近い席に座っているのでもない限り、多くの人が、レイは三幕から歌い始めたもの、と勘違いしていたはずです。
”おかしいな、、、ニ幕は調子良さそうだったのに、、、。”と首をひねりながら、、、。
ニ幕の突然の代役登板のニュースは、レイが実際に舞台に上がる前までに指揮台にいるレヴァインに伝えることが出来なかったようで、
ニ幕で突然舞台に現れた顔の違うジークリンデにレヴァインが目玉が飛び出るほどびっくりしながら、近くにいる弦楽器の奏者に、
”あれは別のソプラノだよな?”と確認の耳打ちをしていたそうです。
レヴァインよ、驚いたのはあなただけではありませんから大丈夫。私達オーディエンスは終演後まで騙されてましたから、、、。
レイは今までにもワーグナーのソプラノ・ロールでデボラ・ヴォイトのカバーをつとめ、実際に代役を務めたこともある人で、
スター・オーラには欠けているかもしれませんが、安定した力を持った人ですので、三幕の前にアナウンスがあった時も、ああ、彼女なら大丈夫だわ、、と思いました。
歌唱にもう少しニュアンスがあればいいな、と思いますが、声は伸びやかでサイズもあるので、彼女が登場してからの部分については危うげに感じたところは全くなかったです。
このハイ・プロフィールの舞台で、観客が騙されるくらいきちんと代役を務め上げたのですから、頼りになるカバーです。



少し前後して、第二幕の冒頭に話を戻すと、ここでとうとう恐れていた『事件』が発生してしまいます。
第二幕の一場とニ場は、マシーンのプランクがせりあがって、高台になったところをヴォータンが歩き回り、
そこに少し遅れて舞台脇から登場するブリュンヒルデは、脇が高台に至る階段のように組んであるプランクの上を駆けて行って
(なのでプランクが両端が少し下がった山のような形に組まれている。期間が限定されると思いますが、メトのサイトでこの部分の抜粋の映像が見れます。)、
ヴォータンと合流し、ホーヨートーホーを披露するというブリュンヒルデ役にとっては最初の大事な場面なんですが、
ブリュンヒルデの衣装の裾が長くてひらひらしていて少し動きにくいせいもあるのか、ヴォイトがプランクに足を乗せ損ね、
そのまま滑り台のようにこちらに向かってプランクの上を滑り落ち、手前のスペース(そこにも板張りのスペースがあって本当に良かった、、、
さもなければあのままオケピに真っ逆さま!ですよ、本当に、、、。)に着地しました。
一瞬、のぼり直そうか躊躇していたようなんですが、”こんなセット、登れるわけないじゃないの!お手上げよ!”という感じで両手を上げると、
そのままその手前のスペースで歌い始めましたが、良い判断だったと思います。
下手に登り始めていたら、あの危険な装置にのぼりつつ、態勢もきちんと保てないまま、ホーヨートーホーを歌わねばならないという、最高に難易度の高い状況に陥っていたところです。
でも、これで緊張が一気に吹き飛んだ部分もあるのか、ヴォイトのブリュンヒルデは開幕前まで、彼女にこの役はもう歌えないんじゃないか?とか、
否定的な意見がヘッズの間ですごく多かったのですが、全然そんなことはなく、私が期待していた以上の出来で、最近の彼女の歌では、
昨シーズンの『エレクトラ』のクリソテミス役に次いで良い出来です。
スタミナの配分も非常に上手く行っていたと思いますし、最近ではトップが痩せて聴こえたりとか、
レパートリーによっては耳障りな音の揺れ(人はこれをビブラートと呼ぶのでしょうが、、。)も感じられたりする彼女ですが、
今回はそういった彼女の最近の歌唱に時に見られる大きな欠点がほとんど感じられず、この役を本当に良く準備して来たんだな、というのが伺えます。
それに、イゾルデみたいな役よりも、このブリュンヒルデ役の方が、彼女の元気一杯で気さくなもともとのキャラクターにも良く合っているようですし、
私は彼女のブリュンヒルデは、今のところ、悪くないと思います。



『ラインの黄金』で薄々気づいていたことですが、私にとって、この作品で最大の問題はやはりヴォータン役のブリン・ターフェルでした。
『ワルキューレ』については、先々シーズン、モリスのヴォータンに大泣きさせられた公演があり、それがデフォルトになってますから、
『ラインの黄金』よりも一層ハードルが高くなっているところがありますが、とにかく、ターフェルの声は、この役に必要な厚みに欠けているんです。
モリスは面白い人で、録音で聴くと、声が全盛期の頃の公演でもなぜか音程が定まっていないような感じがするというか、歌がとても下手くそに聴こえるものが結構あって、
こんな歌手のヴォータンのどこがいいんだ?と思われている方もいらっしゃるかもしれませんが、なぜか、オペラハウスで彼のオンの日を聴くと、
録音ではあれほど定まっていないように聴こえる音程が、きちんと焦点を結ぶのです。
そのモリスの魔法にもしかすると関係しているのかもしれませんが、今回、ターフェルのヴォータンを聴いて強く思ったのは、
モリスは声のスケールがでかいというよりも、音が肉厚なんだな、ということです。
もちろん声も小さくはないのですが、音に厚みがあるので、オーケストレーションが厚くなっても、きちんと彼のパートが聴こえてくる。
一方、ターフェルは優れた音楽性を持つ歌手ではあるのですが、残念ながらそれだけでヴォータン役を乗り切るには無理があったように思います。
先にも書いたように、私は新しいヴォータン像も歓迎しますが、それは、きちんとそれがワークしている、という条件付きであって、
例えば、ラストですが、ブリュンヒルデのパートの最後で、オケの演奏が休止し、彼女の最後の言葉に合わせて、
レヴァインが思いっきり上げた両手をこれでもかと振り下ろす、その瞬間に怒涛のようなオケの音がなだれこんで来て、観客の胸いっぱいに感慨が広がる、、
なので、金管からバトンを受けた弦に続いて最高に気持ちが盛り上がっている時に、ターフェルの薄っぺらい(表現が薄っぺらいのではなく、音そのものに厚みがない、、。)
Leb wohlが入ってくると、私はちょっとその場でこけてしまうわけです。まあ、はっきり言うと、ワークしていないんです。
そこが、同じ演じている役に比してこじんまり声という点では同じでも、結果をねじふせたカウフマンと、そうはなっていないターフェルの二人なのです。

ただ、カウフマンはニ幕のラスト近く、ジークリンデとのシーンで、一フレーズ早く飛び出して最初の子音を発してしまうというミスがありました。
すぐに気づいてそこで押しとどめて、微妙にレヴァインに”やっちまいました、、、すみません、、。”という照れ笑いの表情を浮かべつつ続きを歌っていましたが、
彼がこういうミスをするのって、私はあんまり見た・聴いたことがないので、へー、こういうこともあるんだな、と面白く見ました。
ま、いいんですよ。だってここ、オケが同じフレーズを繰り返して、二度目から言葉が入って来るので、紛らわしいですよね。
ワーグナーのしつこい性格のせいだな。繰り返してないで、とっとと言葉を入れろよ!って感じですよね。
ううん、ヨナス、あなたのせいじゃない!、、、と言って差し上げたいのはやまやまですが、まあ、ミスはいけません。
でも、こういうミスがあると、これからは同じところでつまずく心配はなさそうです。

後、ジークムントがフンディングの剣に倒れる場面は、自らの体を刺しに行くような雰囲気で若干不自然に感じたのですが、これはルパージュの指示なのか、
まだカウフマンの方でこの場面をうまく咀嚼できていないのか、、演技力のある彼が珍しくぎこちなく見える場面で、これから最終公演日(HDの収録日でもある)までにどのように変化していくか、
観察するのが楽しみです。



書いているうちにあれこれ思い出して来て収集がつかなくなりましたが、先ほど、Leb wohlについてターフェルの声楽的な側面から意見を書きましたが、
このルパージュのプロダクションの最大の問題は、先にも書いたようにエモーショナルなものが全く観客に伝わってこない点で、
ラストでは、ブリュンヒルデの神性を奪ったヴォータンが彼女を抱えて舞台袖に消えて行き(それもなぜか、ヴォイトの両脇の下に棒を差して、、、。
狩猟で撃ち落した熊を運んでいるんじゃあるまいし、、、って感じです。)
真ん中にブリュンヒルデのボディ・ダブルが逆さづりになった状態でプランク全部が垂直に立ち上がって上のような状態になるんですが、
(マシーンが動く度にバキバキバキッという音がして、あの金属の塊が舞台やオケピにたった今転がり落ちてくるのでは、、?と思わされ、かなり怖く、
そういう意味ではエモーショナルですが、、。)
その途中でヴォータンが槍で岩にふれるとそこが赤くなっていくので、全部のプランクが立ち上がった頃にはブリュンヒルデの周りは炎に包まれていて、
我々観客は岩山の上から彼女を俯瞰しているような状態になります。
これもアイディアは頑張っているんですけど、以前のシェンクの演出の火と共に巻き上がる煙にこちらまで咳き込みそうな気がしたあのリアルな感覚と比べると、
こう、、、なんというか、、テレビのモニターでそれを見ているような、生々しさの不足を感じます。
まあ、一言で言うと、滅菌加工されて、格好が良すぎて、このリングという作品の、神の世界を借りて語られているに過ぎない、我々人間自身の話としての側面、
つまり私達の格好悪さ、情けなさ、それゆえの素晴らしさという要素が全部吹っ飛んでしまっているせいで、
本来この作品が持っている多面性が失われ、結果としてすごく単調なプロダクションになってしまっています。
残りの『ジークフリート』と『神々の黄昏』、不安です。
それから、バックステージツアーの時の大道具の方の意見はその通りで、私は今日出演者の表情から何度も不安げな様子、思うように舞台上を動き回れないフラストレーションを感じました。
キャストが安心して歌えようなセットを作ってなんになるというのでしょう?
そんな状態で観客の心を動かすようなドラマを生み出してくれと歌手に要求する方がtoo muchです。
ほんと、こんなキャストも観客も不安に陥れる装置を6千万ドルもかけて作るなんて、正気の沙汰じゃありません。
シェンクのプロダクションを消して、どれほどのものが出てくるのかと思えばこれ、、、、泣けて来ます。本当に。

あ、そうそう。馬鹿ばかし過ぎて書くのを忘れそうになりましたが、ワルキューレの騎行(三幕の冒頭)では、あのプランク一つ一つが馬に見立てられ、
ぎっこんばったんとプランクが動くなか、プランクの先にひっかけた手綱を操りながらワルキューレが一人一人プランクを滑り落ちてくるんです、、、。
ロデオに似てるからかな、、、一列にならんだワルキューレがプランク馬を操り始めると観客の間からすごい歓声が出ましたが、
私の口さがない友人は、”あんな男根にまたがったようなワルキューレの騎行を見て一体何が面白いんだか、、、。”とあきれ返ってました。
つい先ほど、シェンクの演出でのこの場面をDVDで見ていましたが、さすがだな、と思うのは、シェンクはワルキューレを一度に舞台に出さない点です。
音楽を聴けば、あの場面はワルキューレがぶんぶん羽音(正確には馬の羽音ですが)を言わせながら一人、もしくは二人ずつ位の単位で群がってきているのがよくわかります。
まさにシェンクのプロダクションでは、そこが爽快だったわけです。最初は数人だったのが、だんだん人数を増して行く、、
ブリュンヒルデが登場するまでのそのプロセスが圧巻でした。
ルパージュの演出にはそういう”経過”というものがなくて、いきなり8人全員のワルキューレを並べて、
騎行の音楽の間中、彼らが男根にのっているか、滑り降りているかを眺める、それしか観客にはなく、本当に退屈です。

最後にここまででカバーしきれなかった歌手陣について。
ステファニー・ブライスのフリッカ。素晴らしいです。あの短い登場場面に、あれだけのフリッカの怒り、フラストレーション、失望、
プライドが高いだけにモロ出しに出来ないその裏にある悲しみ、悔しさ、を十全に表現しきる彼女はさすがです。
彼女はここ数年で声にパワーが増したような感じがしますが、それがよく生きていると思います。
バックステージ・ツアーに参加した時に、小道具のフロアに足がひづめになったワイルドな、すごく大きな椅子があって、ドン・ジョヴァンニか誰かが座る椅子かしら?と思っていたら、
これはフリッカの椅子でした。(6枚目の写真。)確かにブライスが座るなら、大きくないといけない。納得。

フンディングを歌ったハンス・ペーター・ケーニッヒは少し演技が単調で、凄みにも欠けますが、声は深くて安定感のある歌唱だったと思います。

Jonas Kaufmann (Siegmund)
Eva-Maria Westbroek (Act I) / Margaret Jane Wray (Act II & III) (Sieglinde)
Hans-Peter König (Hunding)
Bryn Terfel (Wotan)
Stephanie Blythe (Fricka)
Deborah Voigt (Brunnhilde)
Kelly Cae Hogan (Gerhilde)
Molly Fillmore (Helmwige)
Marjorie Elinor Dix (Waltraute)
Mary Phillips (Schwertleite)
Wendy Bryn Harmer (Ortlinde)
Eve Gigliotti (Siegrune)
Mary Ann MacCormick (Grimgerde)
Lindsay Ammann (Rossweisse)
Conductor: James Levine
Production: Robert Lepage
Associate Director: Neilson Vignola
Set and projection design: Carl Fillion
Costume design: François St-Aubin
Lighting design: Etienne Boucher
Video image artist: Boris Firquet
Gr Tier D Even
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*** ワーグナー ワルキューレ Wagner Die Walküre Die Walkure ***