まきた@VetEpi

酪農学園大学をベースに、発展途上国と日本の獣医疫学に取り組む獣医師のブログです。

お、おじぎが上手く出来ん!

2005-04-25 14:11:47 | 学業
4月25日(月)。

朝、昨年3ヶ月ともに過ごしたチャールズと再会。
奥さんの料理が美味しいのでしょう、すっかり腹が出ています。
決して痩せていない僕と彼は、2匹のセイウチかトドのように抱き合って喜びました。
エディンバラでは冗談を言い合っていた彼も、ウガンダでは名門のマケレレ大学上級講師、Dr.チャールズ・ワイスワです。この日は、エリック、チャールズとともに、僕もネクタイを締めて挨拶回りに追われました。

まずはウガンダ政府農業動物産業水産省動物資源局長との面談から。
次にマケレレ大学大学院長、獣医畜産学部長との面談を終え、エリック、チャールズと別れて派遣元の地域事務所へ。
日本大使館も入っているその東アフリカ開発銀行ビルディングは、警備が非常に厳重でした。ネパールの時よりもさらに厳しい。久しぶりに実弾の入っているAK47を身近に感じながら、事務所へ入りました。

約8ヶ月ぶりに日本の事務所に入って挨拶しましたが、久しぶりすぎてどう言葉を選んだらよいものか、忘れてしまっていておろおろしました。丁寧過ぎたかも知れない・・・。
所長は気さくな方で、
「仕事を辞めてこの世界に来ちゃうなんて、最近にしては珍しいじゃないか!しかしご家族も反対しただろうに!」
と言いながら、その場で農業関係の専門家とのミーティングに参加できるよう調整してくださいました。しかもこの日夕方6時半から。ちなみにうちの場合、誰もまともに反対しなかったなあ・・・。

退室するときに失礼します、と頭を下げると、所長も深々とお辞儀されました。あまりの見事なお辞儀に、こちらもさらに腰を曲げたのですが、そこからどうやって部屋を出たらスムーズか分からなくなってしまい、かくかくとぎこちなく退室したのでした。

夕方のミーティングでは、熱い議論が繰り広げられました。2名の専門家は50代半ばで、所長は40代でしょうか、なんと部屋にいた4人が4人とも協力隊出身でした。2名の専門家は、さすがと言うべき立派な仕事をしておられました。僕も、早く技術を身に付けて、一人前の仕事が出来るようになりたいものです。30代ではまだまだ疲れたなどと言っていられないな、と先輩方の輝く瞳を見つめていました。

蚊、蚊、蚊ー!

2005-04-24 23:25:27 | 学業
4月24日(日)。

いよいよ出発の日。
予約したタクシーは時間通り早朝4時に迎えに来ました。
妻に3時起きで用意してもらった味噌汁、梅干、ごはんを食べ、空港へ。息子はまだ寝ていました。
4時半に空港で同行者のエリックと待ち合わせ、出発。
エリックは自分より4歳も年下だけど、僕の指導教官です。スイス人で元WHO職員の父親とイギリス人の母親を持つ彼は、フランス語と英語の正真正銘のバイリンガルです。彼は本当に優秀で、普段は忙しくほとんど仕事のこと以外話したことがなかったので、この長旅はいい機会でした。

優秀で重要な仕事をしている人に対して、心の片隅で僕はいつも不信感を抱いていたように思えます。現場を分からず、人の気持ちも分からず、机の上だけで仕事をしているエリート、というひがんだ感情を。
しかし、それは間違いであったことに気が付きました。若さもあるけど、彼は僕以上に純真でまっすぐなのです。言葉遣いも行動も誠実で非常に紳士であるけれども、冒険心旺盛で、子供のようなところも弱いところもある、普通の素直な人間でした。

5時50分のフライトでアムステルダムを経由して、ケニアのナイロビへ。ナイロビに着いたのは夜8時でした。飛行機の中で、エリックから、くれぐれもアフリカでは空港や国境など、兵士がいるところでカメラを出さないこと、もちろん写さないこと、と指示を受けていました。
そんな指示もあって少々緊張気味の僕に向って、トランジットのため飛行機から出ると、エリックは、
「アフリカへようこそ!」
と手を広げました。
胸いっぱいに息を吸い込むと、その空気は湿気を適度に含み、暖かい豊かな印象を与えました。

そこからさらにウガンダのエンテベ国際空港へ。飛行機の中で、
「着く前に、虫除け塗っといたほうがいいかな?」と聞くと、
「そんな大丈夫だよー!空港の中に蚊なんていないよー!」
と笑われました。
ウガンダ全土はマラリア地帯で、国民の死亡原因の第一位となっているのです。そして、マラリアは蚊の吸血によって媒介されます。それに日本人の僕には免疫なんてある訳ない。昨日から飲んでいる抗マラリア薬だけが頼りです。

しかし、夜11時過ぎに空港へ着いて入国審査で並んでいると、蚊、蚊、蚊ー!おいおい、そこら中ぷんぷん飛んでるやないかい!エリックの嘘つきー!
ナイロビとは打って変わって湿気も気温も高い、熱帯の気候です。ゲストハウスに着くと、ベッドに蚊帳は吊ってありましたが、念のため殺虫剤が塗ってある自分の蚊帳に付け替えました。
長さが足りないので、辺りを見回して、カーテンを巻く留め布があったので、それを外して調節しました。作業中汗がしたたり落ちます。短時間のうちに、協力隊員だった頃の自分に戻っていきました。シャワーを浴びて、蚊帳の中に入ると、すぐ眠りに落ちていきました。

エディンバラの花見じゃ

2005-04-24 03:24:41 | エディンバラの見どころ
4月23日(土)。

こちらでは桜が少ない少ないと日本のことを想っていたら、ようやく咲き始めました。
時期がずれているだけだったんですね!

すいません、写真を撮っていただけますか?とお願いしたら、日本語で
「お花見?」
と聞かれました。
地元の家族だったので、すごいビックリ。
なんで?と聞いたのだけれど、よく説明してくれないままその家族は行ってしまいました。
近くに住んでいるようなので、そのうちまた会うでしょう。

天馬はおもちゃのちゃちゃちゃ、スパイダーマン、とんぼのメガネ、ちょうちょなどを走り回りながら絶唱(絶叫)してました。
明日早朝4時に出発です。
それではみなさん、多分5月5日以降にお会いしましょう!

ケニア研究の危機

2005-04-23 14:54:31 | 学業
4月22日(金)。

朝起きてメールをチェックすると、最初の2年の派遣元であるJICAから、ケニアでの研究は、安全管理のため許可されないとのこと!

おいおい、4月7日には具体的に伝えていたし、昨年12月の段階でもケニアでの研究は示唆しておいたじゃないか!?全く何のために根回ししたんだか。
慌てて東京のJICAに電話して確認しました。だってILRIには、現在でもJICA専門家が入っているはず。おまけにナイロビにはJICAの在外事務所だってあるし、協力隊員だって派遣されているじゃないか?

回答は、安全基準にも業務目的と研修目的があり、僕の場合は研修なのでわざわざ危険地域に行く必要などないということでした。危険地域?イラクやガザ地区ならいざ知らず、何でケニアが?まあ多分、2年ほど前の米国大使館へのアルカイダによる攻撃があったからでしょうけど。
この日本の「安全基準」というものには、以前もさんざん泣かされました。妻もその一人です。
ネパール青年海外協力隊時代、マオイストというテログループの活動が盛んになってきたため、首都待機を命じられ、今か今かと待っているうちに3ヶ月経ち、帰国になってしまったのです。
村からは村長自ら、「村の安全は私が保証する。マキタを返してくれ。」とJICA事務所へ直訴に来てくれました。僕の活動も軌道に乗って、村も活気付いていた矢先のことでしたから。しかも他国ボランティアは普通に活動していたこともありました。

しかしJICAも、人材養成課の課長代理は味方についてくれています。これから安全管理課を説得しなければなりません。
大学にメールを送った後、11時に妻子をワクチン相談に連れて行き、その後すぐ大学へ向いました。大学に着くと、センター内のみならずILRIとも協議してくれたようで、すぐ指導教授と対策を協議しましたが、大学とILRIからのレターなどの準備がすでに検討されており、僕が一通り考えた対策はすでに手が回っていたので、協議はすぐ終わりました。
センター長の大ボスは、「大丈夫。ILRIに専門家を派遣しておいて学生はダメ、というのは筋が通ってないだろ?」と笑顔で声をかけてくれました。

確かにネパールの時は僕の村でもヘリコプターが爆破されたし、妻の村でも中心部で爆弾事件が多発していたので、それに比べれば状況は全く違います。ただただ人事を尽くして待つのみですね。

ナイロビ、整う。

2005-04-22 09:38:04 | 学業
4月21日(木)。

朝の教授からのメールで、ナイロビの住居の契約が完了したことが知らされました。
5月半ばから使えるとのこと。ウガンダから帰って来たらすぐやないかい!

エリックの部屋で教授に会ったので、いくらなんでもすぐにはキツイ、と言うと、家賃なら一ヶ月くらい払ってあげてもいいわよ、と簡単に返されました。6月中ということですね。

その後熱帯獣医学センター長、大ボスの部屋を通ったときに、「まあちょっと寄って行けや。」と大ボスに呼び止められました。
僕はこの大ボスがなんとなく大好きです。知識は膨大、世界の熱帯獣医学の権威の一人で英語、フランス語、スワヒリ語を操る実力者にも関わらず、フィールド大好き、誰に対してもオープンで明るく、気さくなのです。実はボスのウェルバーン教授のご主人です。
最近どう?との質問に、楽しんでやってますよ、といろいろ話をすると、アフリカの民族の歴史について話してくれました。アフリカを理解する上で、そのような周辺知識は重要とのこと、それについては同意見です。1億7千5百万年前から始まる、大陸の移動、人類の発生、そしてアフリカ大陸内での様々な民族の移動などの歴史を現代まで追った小さいけれど中身の濃い本を貸してくれました。
ナイロビでボスとなる先生の話も教えてくれ、心配しないでただ行って来い、とだけ言われました。行けば分かる、か。そんなもんかも知れないな。

夜はユリさんとサム、サリーが遊びに来てくれました。ユリさんからはお守りを預かったし、サムとはセッションを楽しみました。サリーは妻と天馬と仲良く遊んでくれました。みんなありがとねー!

6月半ばには学会でリバプール、後半にナイロビ、そして9月にはジュネーヴで会議に出席だとか。
毎日新しく埋められるスケジュールが、今までの想像を超えたことばかり。笑って喰らいついて行くしかないですね。帰ってきて頬をつねったら、やっぱり痛かった。

天馬のSOS

2005-04-21 08:10:23 | 家族
4月20日(水)。

先週から、妻がスティーブンソン・カレッジというコミュニティー・ベースの語学学校に通い始めました。月曜から水曜までの週3日で、毎回午後1時から3時までの2時間だけですが、難民なども受け入れていて、年間40ポンド(約8千円)という破格です。
しかもクラッシェと呼ばれる保育施設がついているので、僕が大学に行っている間も安心して勉強できる予定でした。

しかし、天馬はお母さんからひと時も離れることが出来ない子です。どうなることやら心配していたら、案の定、今週に入ってもクラッシェで2時間泣きとおしているとのことでした。スコットランドをしばらく離れるので、どの程度の反応なのか、妻が学校を続けることが出来るのか様子を見に行きました。

その前に昼食は、トマとセバスチャンが働く「プティ・パリ」でランチを。美味しかったー!シェフのセバスチャンは、混んでいるのにわざわざ厨房から挨拶に来てくれて、「おいしかったよ!」と言うと、照れて真っ赤な顔をして、厨房に戻って行きました。

さて、語学学校近くのバス停で降りると、天馬は恐怖でいや、いや!と泣き始めました。そうとうの恐怖なのでしょう。そんな反応を見るのも初めてです。これまでの孤独が、どんなに辛かったことでしょう。
僕と天馬はクラッシェに入り、妻はクラスへ。天馬はぎゃあぎゃあ狂ったように泣いています。大丈夫、大丈夫、となだめて椅子に座ると、僕の胸にひっしとしがみついて離れません。
先生は、エティオピア人の年配の女性と、若いベンガル人女性の2人です。子供は天馬のほかに、スーダン人で1歳8ヶ月の男の子と、ロシア人で3歳の女の子の2人がいました。
他の子達は先生達と遊んでいるのに、天馬だけずっとみんなに背を向け、僕にしがみついたままです。来てから30分ほど経ったでしょうか、僕が先生2人と打ち解け、雰囲気も和らいだところで、ゆっくり天馬を他の子達のところへ連れて行きました。もう泣いていません。
天馬は床の上で、ぴったりと僕にひっつきながらも木のパズルで遊び始めました。一つ出来ると先生方は拍手してくれます。天馬も少しずつ自信が付いてきたようです。
後半は自分から他の子に近づいて遊びだし、最後は大はしゃぎでした。先生は、家庭で、クラッシェが楽しかったね、と話しかけてください、出来れば3日間はお父さんも通ってくださいとおっしゃいました。
残念ながら日曜からウガンダなのでそれは出来ませんと言うと、それならば天馬と先生方、他の子達との信頼関係を作れるように、妻は最初の一時間を天馬と一緒に過ごすようにしてください、とアドバイスされました。妻としてもクラスに出られなくても、その間クラッシェの先生達と英語で話す機会は持てるはず。見方を変えれば、英語の練習に変わりはありません。

出国前に、協力隊のときお世話になった元JICAネパール事務所長のHさんが、父親としての責任はしっかり果たせ、とおっしゃっていたことを思い出しました。明後日は妻子のワクチン接種の相談をしに、大学のヘルス・サービスに行きます。なかなか仕事だけはしていられませんが、妻も子供も一人の人間であり、人間らしく生きる権利を持っています。最初は辛いがじきに慣れるさ、とほったらかしにすれば、彼らの未来は大きく変わってしまうように思えるのです。

夜寝床で、天馬は
「てんちゃんがんばったねえー!おとうちゃんもがんばったねえー!」
と大きい声で言うのでした。
今日は、子供のSOSにも背を向けずに接すれば、解決方法は見出せるものなのではないかという、希望の持てた一日でした。

気の重い電話。

2005-04-20 06:33:20 | 学業
4月19日(火)。

朝、ウガンダに同行する担当教官のエリックと話し合いました。
彼もウガンダの眠り病の研究で博士号をとっていたので、研究地がウガンダからケニアに変わったことにショックを受けていました。
エリックは、チャールズには悪くて電話できない、ウガンダで会ってから話そう、とメールに書いていたのですが、僕は結果が変わらないならば、出来るだけ早く彼に伝えた方がいいと考えていたので、その旨を話し合ったのです。

理由は、今話しておけば、我々が会うまでに彼の中で気持ちの整理が出来て、より実りある仕事になるし、仲間内では情報は出来るだけ共有すべきだと考えているからです。
エリックも承知し、僕はウガンダに電話をかけました。

「え!あー、そう。在りがちだなー。よく話が急に変わるんだよ。」
チャールズは、自分も似たような経験をしたらしく不満をもらしていましたが、最後にはショックだったけど前もって言ってくれたほうが良かった、ありがとう、と言ってくれました。

ここずっと気になっていたので、ようやく肩の荷が下りた感じです。
しかし、話が変わって迷惑はするけれど、僕には教授がそれ以上のものを持っているように感じるのです。戦国武将が機転を利かせて生き抜いていくように、彼らは我々グループ全体を率いて途上国が必要としている研究を展開しているのだなあ、と。

「まあ、楽しみに待ってるよ。」
と言うチャールズの携帯電話の向こうで、びーん、と50ccバイクのような音が通り過ぎていきました。ああ、あとすぐで、久しぶりにこの音のある世界に戻るんだなあと、埃まみれのネパールの情景を思い出していました。


ウガンダまで秒読み

2005-04-19 22:47:15 | 学業
4月18日(月)。

今日はパブリックホリデー(休日)。何の日かというのがどこにも書いてない。
誰か知っていたら教えて。

ので、ウガンダ行きに必要な買い物をしに町に出ました。
細かいものは、買いに行って値段を見たとたん、ウガンダで買うことに決めました。
あと6日で出発。

思えば子供の頃から憧れたアフリカ。
ちょっと遠くて今まで手が出なかったけど、34歳になって初めてその地を踏みしめることが出来るようになるとは、なんだか感慨深いものがあります。

子供の頃は野生動物に憧れていたけど、今は人々の貧困削減、生活改善という違った目的でアフリカに向かいます。楽しみでもあり、ちょっと怖い気持ちもあります。
出発からは、帰ってくるまで多分ブログは書けませんが、帰って来たら一気に毎日の様子を書きたいと思います。

読む方が大変か。

今日は日本食とフランス語の日

2005-04-18 07:44:22 | ほっと一息。
4月17日(日)。

今日は昼に4時間ほどフランス語の勉強をしました。入門編の本はほぼ一冊終え、ほとんど文法は理解したので、あとは単語を覚えまくれば、会話の練習に入れるかな。
そして夕方からは、フランス人のトーマの家で日本食パーティー。
ユリさん、スコッチウイスキーに関連した仕事を夢見て渡英した若者のKouki君、我が家族3人と、フランス人シェフ、ウエイターである二人のセバスチャン(同名)、そしてトーマの計8人でした。

日本の食事は食べているつもりでも、刺身や豆腐、納豆、寿司などはやはり非日常的です。
美味しかったなー、もうお腹一杯!!
ネパールでもそうだったけど、日本食が食べられない環境にいると、たまに食べたときの感動というものは大きいものです。日本にいても、故郷や学生時代などの思い出の料理は特別なものですよね。皆さんにはありますか?
ネパールから日本に帰ったときは、やはりネパール料理が恋しくなったものでした。村の水牛肉の餃子や干し肉の炒め物はおいしかったなあ。しまった、こんなこと書くんじゃなかった。思い出しちゃったじゃないか!

天馬も、離乳食に使っていた納豆を久しぶりに食べることが出来て大喜びでした。
トーマが面白いDVDをたくさん持っているので、天馬は夢中でした。毎回見始めてしばらくすると次これ、と変えるようにダダをこねるのですが、やさしいトーマと皆さんが言うことを聞いてくれるので、彼にとってはとても幸せなひと時だったことでしょう。
フランス語の練習もちょっと出来たし、いい日だったな。

インド・ネパール料理のおいしい店

2005-04-17 17:49:18 | グルメ
4月16日(土)。

この土日はエディンバラ城が無料で開放されているので、プロのネパール人ダンサーのチャランさん一家に一緒に行こうと誘われていましたが、朝小雨が降って気温も低いので、断って家で天馬に絵本を読んであげていました。
午後晴れて気温が上がってきたので、買い物に出て、それからステワートのネパール雑貨店へ。妻と子供は初めてでした。そこで、ステワート夫妻から、うちの近所のBristro PlaceにあるNamasteというレストランがとんでもなく美味しいという話を聞いたので、帰りにそのまま寄ってみました。

入ったのは夕方6時でまだ一人しか客はいなかったので、厨房に行き、
「ネパール人ですか?」
と挨拶。僕たちかくかくしかじかでネパールに住んでまして、まあとにかく新年明けましておめでとうございます、と手短に自己紹介しました。

壁にはネパール独特の木を彫って作った窓枠が飾られ、木彫のテーブル、椅子、床が落ち着いた雰囲気を醸し出しています。音楽もネパール音楽そのままでないところが、何かしら今までと違うものを感じさせました。多分オーナーはネパール人じゃないな、という。

頼んだのは、ラムカレーとほうれん草のカレー、そしてライスとナンだけだったのですが、まずパコラが出てきました。「え、頼んでないんですけど・・・」と言うと、ウエイトレスは、
「これはシェフから、私もなぜか分からないのよ。」
と言いました。
小さめの可愛らしいパコラで、辛くもなく、繊細な味です。つけるためのソースもピリッと酸味が利いていて、これも辛さでごまかしていないというか、繊細な味なのです。天馬も大人の分まで次から次へと平らげていきました。
その後出てきたメインには、これまたダル・スープがサービスで出てきました。
「こ、これは・・・!」
どれをとってもその繊細な味わいは、初めてのものでした。恐らく、シェフはネパール西部ムスタン郡のタカリ族、ネパール随一の繊細なタカリの味に、インドの芳醇なダイナミックさを掛け合わせたものではないか、と推察します。
おまけに高級そうなチョコレートも一箱もらって、感動の夕食でした!

帰りに会った、経済産業省から出向で5ヶ国語を操る友人に会いましたが、彼の話によると、そこはエディンバラ随一のインド系料理屋だとか!スコットランドにもこんな美味しい店があったのね。