まきた@VetEpi

酪農学園大学をベースに、発展途上国と日本の獣医疫学に取り組む獣医師のブログです。

森にただよう種

2007-11-29 22:41:52 | ほっと一息。
11月29日(木)。

今回のウガンダでは、土日もほとんどフィールドに出ていたので、2ヶ月のうち、2回だけ仕事を休んで観光に行くことが出来ました。

中でも強く印象に残ったのが、帰る前にドライバーと訪れた、協力隊員Kさんの配属先、マビラ・フォレスト。

アジアの熱帯雨林に比べて木の丈が低く、小さくて驚いた、というのがKさんの最初の印象だったそうですが、僕には、新しい発見がいくつもあったし、森の自然に、疲れ切っていた心身がとても癒されました。

写真は、直径10センチほどのタンポポのような種。
そう言われると大きい、と思うでしょう?この不思議なほわほわしたものが、静かな森の中をただよっているのです。植物の名前は分かりません。でも、僕にはその神秘的な光景が、感動するには十分でした。

続けることの大切さ

2007-11-29 07:19:38 | 健康は大切よ。
11月28日(水)。

今日は、空手の昇級試験がありました。
と言っても、僕は参加できず、試験前にある、グラスゴーから来たスコットランド人師範の稽古に参加しただけです。

昨日の稽古で先生に、ウガンダから戻ってきたばかりだけど昇級試験を受けたらどうかと軽く勧められたので、完全に受ける気になって今日行ったのですが、他の先生から、基本的に3ヶ月稽古を続けて受けるべきなので、次回まで延期するように説得されました。

その先生の言葉。
「昇級審査なんて、たかが帯の色が変るだけでしょう。空手を続けていれば、自分の技術はどんどん伸びていくわけだから、審査にとらわれなくてもいいはずです。」

全く、本当に日本人が言いそうな言葉。

僕は当初、時間に融通の効く学生時代にのみ空手を続けるつもりでしたが、先生達は、生涯続けることを考えているのです。延期するように言った先生は、空手を子供の頃初め、今では合気道でも段を持っています。実は彼は僕より年下で、獣医の学生をしているのですが。

次に受かれば黒帯の手前の茶帯に進めるのですが、僕の場合PhDでよく旅に出るので、夏もフランスに行っていて審査を逃したし、次の審査のある2月にもイングランドで1週間の研修が入っているのでどうなるか分かりません。

しかし、続けていれば心技体が伸びて行くのは本当です。ほんの一ヶ月前には、綺麗に出来なかった一回転しながらの後ろ蹴りが、最近ふとしたきっかけで急に出来るようになりました。またウガンダから復帰後なぜか、稽古中の一つ一つの技やストレッチにかかる気合が充実してきたように感じます。見た目より実を取る。これには、地道に続ける以外に方法はありません。

黙って続けることの大切さ。改めて気付かされた一日でした。

頭は使いよう

2007-11-27 22:50:01 | 異文化
11月27日(火)。

ウガンダ、ビックリ写真その1です。

ウガンダでは、小さい子供から老人にいたるまで、みな上手に物を頭に乗せて運びます。

前回までで一番驚いたのは、小さい子がペットボトルを頭に乗せて手放しで歩いていたことでしたが、今回、その記録をおじさんがあっさり抜いてしまいました。

な、なんと、自転車を漕いだまま、長い板を頭で運んでました。

注)小さい子は、マネをしないでね。

ルウェロ・トライアングル

2007-11-26 21:28:13 | 学業
11月18日(日)。

エディンバラへ帰ってきたら、ウガンダとは全く違った生活と友人達との再会が待っていたので、そちらの楽しいことも書きたいのだけれど、ウガンダでのこともお伝えしたい。今日は、ウガンダへの気持ちが勝ちました。

今回は初めてフィールドの奥深くで作業したので、たくさんのことを感じました。ウガンダはやっぱりアフリカだなあ、と一番感じたのも今回でした。

ウガンダでは楽しいこともたくさんあったけど、悲しい歴史、現実も見聞してきました。今日は、皆さんもほとんど知る機会のない、ルウェロ・トライアングルについて書きたいと思います。

ルウェロ・トライアングル(Luwero Triangle)とは、ウガンダの首都カンパラの北部で、北西に延びるHoima Roadと北東に延びるBombo Roadという二つの幹線道路に挟まれた三角形の地帯を指します。

ここは、映画「キング・オブ・スコットランド」で最近若い人達にも知られることになったウガンダのイディ・アミン大統領が1979年にタンザニア軍の協力を得て国外追放された後、選挙で選ばれたミルトン・オボテ(1962年独立時の首相が再選)の正規軍と、当初閣僚にいたが選挙の不正を訴えて政府から離れた現首相のヨウェリ・ムセヴェニのゲリラ軍とのゲリラ戦が、1981年から1986年に渡って行われた、主な舞台となったところでした。

写真はルウェロ・トライアングルに位置するキトーケという村の、ある家の綺麗な前庭です。ここでの牛の採血は、11月7日に終わりました。マケレレ大学の検査室で、ブルセラ病の検査中に、キトーケ出身のカニケさんに、「そういえばキトーケに行って来たよ。綺麗な村だった。」と話をすると、僕が牛を採血した原っぱで、昔何があったかを、彼は延々と話し出しました。

中心となったのはルウェロ郡で、正規軍は戦時中に、村落部の住人75万人を、ゲリラ軍に加担させないため、またゲリラと見分けが付かないと攻撃しにくいため、強制退去させました(Wikipedia)。

ここまでは文書に残っている話。実際にキトーケ村で起こっていた日常は、全く悲惨なものでした。

正規軍は、急に村に現れ、目に入った村人を全員集め、ゲリラ軍に加担しているという疑いをかけ、僕が牛を採血した原っぱで人々を皆殺しにしました。ある軍人は銃で、ある軍人はナイフで、また大きな鉈で、無実の人々を殺していきました。

数日後に今度はゲリラが現れると、ゲリラ軍は、ゲリラ軍に参加しないと、村人を皆殺しにする、という言葉を残しました。村長が即答出来ずにいると、その夜、いくつかの家がゲリラにより襲撃され、村人が殺害されました。予告どおりに皆殺しにされたくなかったら、ゲリラに参加せよ、とまた次の日にゲリラ軍が召集に来ました。

ここで立ち上がったのは、村の若者達でした。若者達はゲリラ軍に参加し、数年後の1986年に勝利を勝ち取ることになるのです。

Uganda Bush Warと呼ばれるこの戦争で、正規軍は、無実の自国の国民をゲリラ軍と区別することなく大量殺害し、またゲリラ軍であるNational Resistance Army(NRA)も、同様に多くの無実の人々を殺害し、地雷も用いました。また、NRAは少年兵も使いました。

戦争を勝利に導いたNRAの指導者、現大統領ヨウェリ・ムセヴェニは、著書「Mastard seed」で、自分の目から見た正義の戦争についてこそ執筆していますが、実際NRAが無実の一般人に手を掛けたことについては全く触れていません。

当時15歳で難民キャンプに疎開していたカニケさんは、検査で手が離せない僕に、淡々と、延々と戦争の話をし続けました。カンパラは、高度経済成長で、町は急速に発展し、北部を除いては安全で、北部のゲリラ軍とも和平の交渉が進んで来ています。食べ物も豊富で笑い溢れるカンパラにいると、戦争や、ネガティヴなことはついつい忘れてしまいがちですが、ウガンダのために仕事しようとする人は特に、こうした歴史を知っておくべきだと思います。また今日は、この歴史に全く触れる機会もない方々にも、ウガンダには、イディ・アミンだけでなく大変な時代があった(今でも)ことをお知らせするために書きました。

ガンダ牛

2007-11-23 01:55:37 | 異文化
11月22日(木)。

2003年か2004年ごろ、NHKラヂオで、夕方6時頃に正岡子規の日記を朗読する番組が放送されていた。病床にある子規の日記だったが、やはり彼の才能からか、妙に惹き付けられて聴き入っていた。よくこの時間帯は秩父の牧場からの曲がりくねった急な坂を下っているところで、暗くなりかけた山の中の景色と、朗読とが妙にマッチしていたのを覚えている。

ある日の朗読で、子規は、当時の畜産農政の変化について、不満をもらしていた。
「最近は、政府は何でも大型のものがいいと言って、どんどん改良種の牛を導入している。小型でも、その土地に合った日本固有の種を、もっと大切にした方がいいのではないか。この先、日本は一体どうなってしまうのだろう。」

子規は多分明治の人だが、秩父のある人と話しをしたところ、40年前くらいまでは、赤牛といわれる小型の牛がまだいたので、家畜種の改良は、第2次世界大戦まではゆっくりと、その後は急速に進んだのではないかと思う。

今では、乳用牛はほとんどホルスタイン、ほんの少しジャージーとブラウンスイスがいる程度になった。しかし肉用種では、黒毛和牛、褐毛和牛、日本短角種など日本固有の種類が中心だ。

ウガンダの都市周辺部と酪農地帯では、外国の援助もあって、かなりの数の乳用改良種が導入されている。しかし、これらの牛は、アフリカ特有の様々な病気に対して抵抗性が弱く、病気の予防である殺虫剤、殺ダニ剤、病気の治療にかなりの投資をしなければならない。一方で、病気に強いウガンダ固有の種類は、生産性は低いにしろ、今でも根強く用いられ、改良種との交雑がかなり進んできている。また、乳量は少ないし、性成熟まで時間はかかるが、肉の味は何故かとてもいい。

先日、ウガンダのムセヴェニ大統領は、マケレレ大学に対して、ウガンダ固有の牛を使って受精卵技術などを確立し、病気の研究も進めるよう公文書で指示した。ムセヴェニ自体牛飼いで、改良種の導入を勧めた獣医師の言うことを聞かず、自分でニャンコレという固有種の牛群を選抜育成してきた。

これを受けて9月に学部長から頼まれていたので、イギリス帰国の当日、最後のぎりぎりになったが、JICA専門家の方々と学部長の顔合わせをし、簡単な会議を開いてきた。今後、いい国際協力が始まるといいなと心から思う。

写真は、フィールドで撮った美しいガンダ牛の雄。カメラを構えながら、遥か昔に書かれた正岡子規の日記を思い出していた。ムセヴェニも、なかなかやるものだ。

科学と感覚(受け取り方)

2007-11-20 23:43:05 | 異文化
11月20日(火)。

今日は日本について、ここ最近の2つのニュースから。

1.10月30日、某牛乳会社、神奈川県でヨーネ病擬似患畜の牛乳が混入した可能性のある牛乳62万本を自主回収。

2.11月19日、イギリスBBC。 日本のNisshin maruが、50頭のザトウクジラを含む1000頭のクジラを研究目的と称して捕鯨するため出発。

伝染病が野放しのウガンダから、科学によって安全な生活を手に入れたイギリスに帰って来て、日本関連のニュースを見ると、また全く違った感覚にあっけに取られる。

まず1。
ヨーネ病はヒトに感染する病気ではないし、牛乳は殺菌消毒されている。それなのに、なぜ62万本も自己回収するのだろう?たった一頭、疑いのある牛が発見されただけなのです。
しかも、生産者にインターネットなどを通じて謝っている。消費者の意識を考えた、と理屈では分かるけれども、科学的には公衆衛生に全く問題はないのだから、感覚で経済を負に導くことはやめて欲しいなと思います。自分が悪くない時には、謝らなくていい。

逆に2。
日本では、まともに報道されていないかも知れませんが、日本の捕鯨船が出る度に、毎度海外ではブーイングの記事が出まくりです。
日本側は、クジラの生息数は回復して来ているし、今回はクジラの内部器官などの調査のため、と研究捕鯨を正当化しようとしています。日本の伝統である捕鯨という「文化」を守る権利があると主張する団体もいます。
これに対してグリーン・ピースは、数が増えてきてるとはいえ、捕鯨がクジラの生息数に与えるインパクトは大きい、としています。

でもおかしいよね。内臓の研究で1000頭は必要ないでしょう?生息数が回復しているからという理由は、食糧としての漁をしたいという本音に繋げたいわけですね。
しかし、日本国民のどれくらいが、クジラ肉が食べられないから困るというのだろう?
嘘の主張はしてはいけないし、主張のもとの捕鯨の必要性も食糧経済的に見ると正当化出来ない。伝統を守るという理由で環境を変えていいという主張など通るはずもない。この場合は一応、科学と感覚の温度差だけでなく、科学に基づいた異なる2つの主張+異なる2つの感覚が絡んでいるわけですが、他国との摩擦の種になることは、スパッとやめて欲しいなと思います。


チョガム

2007-11-19 07:40:05 | イベント
11月18日(日)。

昨年2月には、ウガンダ大統領選挙があってフィールドワークに行っていた僕は、催涙弾の餌食になったりしていたわけですが、今回は、チョガムというものがカンパラで開催されるため、帰国日程を大幅に延ばすことが出来ませんでした。

チョガムは、CHOGMと書きます。意味は、Commonwealth Heads of Government Meetingの頭文字を取ったもの。2年ごとに、メンバー国で開催されます。Commonwealthというのは、旧大英帝国のことで、旧植民地のインド、東アフリカなどを含みます。

そして今回は、たまたまこれがウガンダで11月の23日から25日まで開催されるのです。

ウガンダは、ここ最近はチョガムのため、道路やホテルなどの建設ラッシュでした。街中に、「We are ready for CHOGM」の看板が立ち、「Are you ready for CHOGM?」が合言葉のように、普段の笑いによく使われていました。

チョガム期間中は、カンパラの街からかなり締め出される予定のバイク・タクシー、ボダボダに敢えて乗ってる最中に「Are you ready for CHOGM?」と後ろから聞いてみましたが、やはり彼らは全然ハッピーではなくて、住居に着くまで長いこと愚痴を聞かされました。

しかし、僕の目からすると、チョガムを合言葉に、初めて訪れた2年前に比べて、大きく街や道路は変り、信号もいくつか出来て大進歩しました。東京オリンピックの時の東京も、さぞかしこんな様子だったのだろう、と想像することができました。

23日から開催されるCHOGM。今回は、エリザベス女王、チャールズ皇太子、ブラウン首相の御三方が出席されるということもあり、カンパラと、空港のあるエンテベは、厳重な警備で仕事はほぼ出来ない状態になります。

僕は寒いながらも自由で快適なイギリスに戻ってきたわけですが、ウガンダにいる協力隊員やJICA職員、大使館、関係者の皆様は大変です。どうかテロが起きませんように。

しかし、16日のイギリス帰国の段階では、すでにチョガム関連の付随会議が始まっていたのですが、空港の中はまだまだ大工仕事真っ只中で、本当に23日までに間に合うのかな?という状況でした。

当然、出発ロビーで工事をしているウガンダ人に「Are you ready for CHOGM?」と聞いてみると、
「Not yet~!」と手を休めずに、笑って言い返してきました。

しかしまあ、出発ロビーを出て飛行機まで歩いて行く時に見た空港は、まさに2年前には想像も出来なかったくらい立派に生まれ変わって、見た目だけは近代的な空港に見えるのでした。今度行くときが、また楽しみです。

ただいま

2007-11-17 21:54:55 | お知らせ
11月17日(土)。

今朝10時に、ウガンダからエディンバラに帰ってきました。

仕事もいよいよ忙しくなり、一ヶ月も更新出来ませんでした。ご心配掛けていたらすいません。

インターネットの使える環境にいなかったし、土日も含め、朝5時起きで6時か6時半には出発し、赤道直下の太陽に焦がされながら牛の採血。夜と空いた時間は、ひたすら集めた質問票のデータをデータベースに打ち込む作業。

背中の広い範囲を、ウガンダの強烈なアリに噛まれてひどい状態になったり、疲れで蕁麻疹も出たりしましたが、なんとか関係スタッフ、特にドライバーの、まさに昼夜休日関係なしのサポートで乗り切ることが出来ました。

こうしてブログを書いていると、インターネットの揃っている環境では、かなりの時間をコンピュータの前で取られてしまっているのだなと痛感します。あんまり個人的には良くないなと思います。ま、これからも短い時間で、今回ウガンダで感じたり出会ったりしたことを書いてみたいと思います。

とりあえず、イギリス帰国のお知らせまで。