まきた@VetEpi

酪農学園大学をベースに、発展途上国と日本の獣医疫学に取り組む獣医師のブログです。

帰ってきました。

2005-10-31 17:51:05 | ほっと一息。
10月31日(月)。

金曜に帰ってきたんですけどね。ちょっと遊んでました。
ウガンダ人の友人達と、ビクトリア湖をボートで渡って、田舎の湖岸でバーベキューをやってきました。
豚の丸焼きだー!!日本イギリスではなかなか出来ないよねー。
フランスパンもあって、ガーリック・トーストにして楽しみました。
うーん、大満足。

今日、大学内の、自分の部屋のすぐ裏にあるゲストハウスに移ります。朝早くにブログを書くことも出来るでしょう。まあ、ちょっと住んでみて様子を見ますわ。

ポーショ

2005-10-24 18:05:46 | ほっと一息。
10月24日(月)。

チャールズが金を下ろしに行ったきり戻ってこない!
ので、もう一丁。

ウガリは知ってますか?知らない方は、サーチエンジンで調べてください。写真も載っているはず。

ウガンダではこれをポーショというのだけれど、先日食堂で、えらい量を出されたので、
「こんなの食べられないよ。半分にして!」
と頼みました。
半分にして!、を

"Please give me just the half portion"

と頼んだのですが、ウエイトレスは一度調理場に戻ると、全く同じ量の食事を持ってきました。
え!だから、多いから半分にしてよ、と身振りを加え頼みました。
すると、また調理場に戻ったのですが、またまた同じ量を持ってきたのです。

今度はドライバーに、ルガンダ語で説明するように頼みました。
そこで何を勘違いしていたのか分かりました。

彼女は、ハーフ・ポーショ、ポーショを半分に切ってくれ、と頼んでいたのかと勘違いしていたのです。
そういえば、毎回持ってくるたびに、ポーショが二等分、四等分に刻まれていたな、と気付きました。でもあんた、多すぎるから、と何回も説明したやないか・・・。ポーショくらい自分で切れるって。

その後は、量が多いときは、
"Please give me the half size"
と言っております。

ウガンダの食事

2005-10-24 17:57:08 | 異文化
10月24日(月)。

まだ時間があるようなので、以前のなおみさんのリクエストにお答えして、ウガンダ料理の写真を載せます。

ネパールでは食事にバリエーションがなかったけど、ウガンダはもう少しあるかな?

黄色いのはマトキというバナナを蒸したもの。甘くはない。慣れるとおいしい。
ケニア、タンザニアでいうウガリは、ウガンダではポーショといいます。写真には載ってません。
白いのはご飯で、ニンジンなどと煮てあっておいしいです。
あとは野菜の炒め物と、この日は山羊肉のトマトスープを注文しました。

毎回スープは牛肉、山羊肉、魚のトマトスープか、これらのグラウンド・ナッツ・スープがつきます。ナッツのほうが私は好きです。サツマイモやキャッサバも、頼めば主食に付くけど、おいしいよ。

お葬式

2005-10-24 17:00:08 | 異文化
10月23日(日)。

出発まであと少し時間があるので、もう一つ書きます。

ブログには時間などもろもろの事情で投稿できてませんが、公私共にかなり充実した生活を送っております。

ウガンダでも、昨日まで住んでいたクレメント・ヒル・ホテルという小さなホテルのパブに集う人たちや、ホテルのマネージャーを中心に、たくさんのウガンダ人の友人を作ることが出来ました。

このパブには、大手企業で働く若者や、大牧場経営者、国連職員など、ほとんどお金に余裕がある人たちが集まっていますが、皆とても付き合いやすく、面倒見のいい人たちです。その20人、30人ほどの仲間内に、外国人は、国連に勤めるアフリカ系アメリカ人と日本人の私の2人だけが入っているわけです。

残念なことに、土曜の夜、仲間の一人のご母堂が亡くなりました。私は彼と親しくしていたので、追悼の言葉を伝えたいとは思っていましたが、外国人なので、まさか通夜や葬式に参列するとは考えていませんでした。しかし、仲間のリーダーのCashが日曜の夜私に声をかけ、他の仲間とともに私も通夜に参加することになりました。

ウガンダのキリスト教では、埋葬までの1,2日間、親戚、友人が集まって、酒を飲みながら聖歌を歌って、家族の辛い気持ちを和らげます。
私達が着くと、すでに先に来ていた友人達は、ビールを飲みながら冗談を言い合って盛り上がっていました。日本の葬式でもあるかも知れませんね。
そこには、外国人は私一人しかいませんでしたが、皆握手して自然に受け入れてくれました。

母を亡くした友人も、涙を見せることなく、「これは誰にでも起こることだから。」と明るく迎えてくれました。追悼の言葉を伝えることが出来て本当に良かった。

私達はじきに聖歌を合唱し始めました。実は私も子供の頃は毎週日曜日教会に行っていたので、心が清められるようなその雰囲気を思い出しました。普段酒と冗談ばかりの友人達も、この時ばかりは聖者のようでした。

歌は夜1時まで続き、私もその後弔問客のリストに名前を書き入れ、友人宅を後にしたのでした。

ウガンダの田舎へ

2005-10-24 16:14:46 | 学業
10月24日(月)。

更新出来なくてごめんなさいね。
先日急いで書いて投稿ボタンを押したら、書いた文章が全部消えてしまった。これがしょっちゅうです。

今からカムリ郡という田舎へ一週間調査に出かけてきます。死の病、眠り病の流行地なので、ツェツェ蝿に刺されないよう、またマラリアにもかからないよう虫除けと蚊帳をちゃんと使って気を付けたいと思います。

それでは多分週末に会いましょう。今度は文章が消えませんように。

終わったぜ!!

2005-10-18 23:49:22 | 学業
10月18日(火)。

9月27日から3週間、毎日砂埃とガタガタ道を揺られながら取り組んできた、87の村落調査が、とうとう今日終わりました!
皆様、今まで応援有難うございます!

と言っても全然暇にならない。15村ほどまた確認のため回らなければならないし、その後には、すぐ病院の診断記録を収集する作業が始まります。

今日はこれからすぐ手術した犬の抜糸に行って、終わったらビールだー!軽く打ち上げだー!

初めてのスラム

2005-10-15 17:08:27 | 学業
10月15日(土)。

ウガンダ入国当初から、首都カンパラにはたくさんのスラム街が点在していることは認識していたが、今週は初めてスラムに足を踏み入れた。

ウガンダで最も大きく、籍を置いているマケレレ大学の近くにある国立ムラゴ病院の脇の急な上り坂を、ブタカブキルワという地域を訪ね、道を教えてもらったとおり車で登りきると、眼前の山の反対斜面に、大きなスラムが広がった。

計画にはスラムの調査も組んであったが、私にはこれが生まれて初めてのスラムだったし、外国人である自分とドライバーの二人きりという少人数だったので、実際目の前にすると、入って行くのは正直言って少し怖かった。車から降りると、近くにいた少年にその地域がブタカブキルワであることを確認し、村長宅まで案内してもらった。スラムの周囲を縫っている細い下り坂は、強い人の糞尿の匂いが立ち込め、息が出来なかった。スラムの家々は、小さく所狭しと建てられた粗末な土壁であるのに対し、そこからそれほど離れていない場所には、オレンジ色の瓦と、白い壁の美しい高級住宅がいくつも立ち並び、さらに隣の山には、カンパラの中心地に高いビルがそびえているのが印象的だった。写真は集会場で唯一広い場所が保たれているが、その周囲は雑多で、1メートル弱の通路がかろうじて通っているのみの間隔で小屋のような家が混在している。

村長不在のため対応してくれた村の自治会メンバー3人は、意外にも友好的で、今後も調査が問題なく続けられそうだった。狭いスペースで家畜をたくさん飼っているイメージがあったが、意外にもほんの少数の山羊とニワトリを飼っているだけだった。肉屋も牛乳を売る店もなく、貧困のため牛乳も飲まないと人々は言っていたので、動物から人に伝染する人畜共通伝染病のリスクは低いかも知れなかった。逆に栄養失調と、乳幼児の栄養のために与える牛乳を加熱しているかが心配だった。

スラム周囲の強いアンモニア臭があったにもかかわらず、公衆トイレ(深い穴が掘ってあり、足場はコンクリートで固めてある)がいくつか見られた。しかし、鍵がかけられており、限られた人だけが使っているのかも知れなかった。今週は他に3つのスラムを回ったが、他の地域では、18歳の女性が膀胱炎にかかっていたが、トイレを使うには一回100シリング(約5円)払わなければならないので、一日2回しかトイレに行けず、病気が治らない、悪化しているという話を聞いた。

多くのスラムは川沿いか沼地にあるのだが、強い雨が降ると周囲の山から雨水とゴミがなだれ込み、すぐに1メートル以上の洪水になり、水が引くまでに3時間ほどかかるという地域も訪れた。そこではNGOの援助で、入り口が高さ2メートル近くにあるコンクリートのトイレが作られていた。そういう気の利いた援助には、心から感謝の気持ちが起きる。

協力隊時代は、村人のためなら、思い付いたことは何でもしようと手を出していた。茶生産、養豚、簡易燻製、ノートとペンの援助、学校トイレの援助など。今でもパキスタンの大地震や津波などの災害を知ったり、戦争や貧困問題を考えるとき、自分の専門性に無力感を感じることがある。しかし、ウガンダには、長期間かけて作り上げてきた計画を持ってきていることだし、早く自分の専門である獣医疫学の知識、実力を付け、限られた分野でも、確実に自分が出来ることで貢献できるようになりたいと思う。

これらスラムの人々のためにも、何かしら意味のある調査の結果が得られるように努力したい。

日本語で話せる有難さ

2005-10-15 01:11:57 | 異文化
10月14日(金)。

妻子は無事実家に着いた。息子も早速のびのび知り合いの子と遊んでいるようだ。

さて、こちらは、昨日木曜日、朝から疲労感を感じていたのだが、2件目の村で腹痛もあり、途中でホテルへ引き返した。午後2時には別の村に行く約束があったので、1時間だけ仮眠して仕事に戻った。

夕食時にインスタント味噌汁を飲んで落ち着き、夜は8時に寝たが、今朝目覚めたときに、まだ疲労感が残っていた。外は雨が降っていたため、今日は休むことに決めた。

思えば、ウガンダ入りから5週間、毎日ガタガタ道で体中振動を受け、時には役人や市長達から失礼な言葉も浴びることもあった。こういう時にはやはり、日本人と会いたくなる。この5週間、初めにJICA事務所に挨拶に寄ったきりで、一度も腰を落ち着けて日本人と会う機会がなかった。

昼ごろJICA事務所に寄ると、丁度4月にウガンダを訪れたときに会った専門家の方がいらっしゃったので、話をしたついでに、新しくオープンしたばかりのウガンダ初の日本食レストランに連れて行ってもらった。味はイマイチだったが、半年以上ぶりの寿司。日本語も話して元気が出てきた。

その後一件用事を忘れていたので、再びJICA事務所へ。事務所から出たところで、日本人がいたので話しかけた。彼女はTさんといって、同じく海外長期研修員で来ているということだったので、近くの喫茶店に行き、話をした。

同じ研修員の身分だし、Tさんも協力隊出身とのこと。お互い止まることなく1時から4時まで3時間ほど話し続けた。ネパールの協力隊で現地に赴任後、初めて首都に戻り、仲間たちと会った時もそうだった。皆とにかく、ここぞとばかりに日本語を話したものだ。
近くにあと2人ほど日本人が住んでいるという情報も仕入れ、今週末みんなで会うことになった。

分野は違えども、同じ国際協力の仕事をしている人たちの間では、話は尽きないものだ。皆希望を抱き、悩み、苦しみ活動している。

気分もすっきりしたので大学に戻り、3時間ほどデスクワークをした。体調の変化は、疲労と、精神的ストレスから来ていたのだろう。スケジュールが山のようなタスクで埋まっているので頻繁に会うことは出来ないだろうが、近くに近い年代、立場の日本人達を見つけたということで気分がかなり楽になった。これでウガンダをもっと楽しめそうだ。

路上での楽しみ

2005-10-12 00:05:51 | ほっと一息。
10月11日(火)。

今、妻子は、エディンバラから日本へ向う飛行機の上だ。子供を連れて長時間の移動は大変だ。でも妻も、日本に帰れることだし、イギリスへ来るときよりは、はるかに気が楽だろう。

さて、ウガンダでは、日本のトヨタ・ハイエースが「パブリック・タクシー」と呼ばれる主要交通機関となっている。車は白く塗られ、横に水色の線が特徴だ。

このパブリック・タクシーが、最近の僕とドライバーのマイ・ブームだ。タクシー・ドライバー達は、自分のタクシーのリア・ウインドウや、バック・バンパーに好きな言葉を書いて楽しんでいる。

中には、ファンのサッカー・チームの名前を書いてあったり、聖書やコーランの中の言葉を書いている。しかし中にはとんでもなく面白い連中がいて、渋滞や排気ガスで気が滅入る中、大笑いさせてくれる。最近笑った二つを紹介したい。

"Don't follow me. I'm also lost."
  (ついてくるなよ。俺だって迷ってるんだ。)

"Rich also crys"
  (金持ちでも泣く。)

今度もし笑えるのをカメラで撮ったら、また載せます。

ウガンダの結納

2005-10-08 17:34:01 | 異文化
10月1日(土)。

先週になりますが、マケレレ大学の上級講師、チャールズの結納に参列してきました。

彼はすでに子供も2人いるのだけれど、結婚当時はお金がなくて、結納と結婚式が出来なかったそうです。この結納、ウガンダではIntroduction partyと呼ばれていて、非常に大切な儀式なのです。この儀式を経なければ、奥さんは、ご主人と同じ場所に埋葬してもらえないのです。
式は、出発から2日間かけて行われ、新郎軍団が、新婦の実家を訪れ、新婦を頂いて帰るのです。よく分からないけど、数ヵ月後にまた結婚式をします。

新婦の実家はカンパラから300キロほど東の村。電気もなく、草原と熱帯の木が生い茂る、まさに熱帯雨林のアフリカ!仕事以外でこういうところにいると、努力してたどり着いた甲斐があったなあ、とつくづく思います。

式は全てチャールズの民族の、バソガ語で執り行われたのだけれど、新郎軍団の中にいた、ウガンダ農水省幹部が、丁寧にも必要な箇所を英語で通訳してくれたので、十分楽しむことが出来ました。

結納は、親戚、友人、地元民総勢250人ほどの人数で行われ、伝統音楽とアフリカンダンスもあり、新郎側、新婦側の、口の達者なスポークスマンが笑いもふんだんに盛り上げ、長い劇のような式が続きました。女性人は、大勢で何度も「イリイリイリイリイリイリイリー!」と高い声を張り上げて盛り上げました。

新郎側のスポークスマンは、海外からの参列者として僕の名前を何度も出し、僕も立ち上がって手を振らねばなりませんでした。地元の人たちも皆歓迎してくれて、楽しい2日間でした。

しかし、熱帯ウガンダで、民族衣装カンゾーの上にずっとジャケットを着ていなければいけないのは、暑くて大変だった!