萌えてばかりもいられない!

そんなに色々なことにやたらと深い造詣などいだけないから適当に綴っていこうかしらん

臭う!のだろうな? (風刺と侮辱の境目 表現の自由について)

2015-01-14 08:00:31 | 日々の疑問
フランスの「シャルリーエブド」の表現の自由って本当に賛同できる類なのか?という検証記事やら、そもそも投稿がかまびすしい。

表現の自由が脅かされた!

で、追悼行事だ!デモ行進だ!


でも、その風刺ってどの程度?えっーーーー!そんなこと書いちゃ駄目じゃん!!!風刺にも程があるよ!!私もシャルリーって本気?


て一気ですよ。一気に世間はアルカイダの方へ肩を持つ感じに。



自由、表現の自由をどこまで見つめ、どこまで守り、どこから勝ち取ってきたか、ということと、それ喋っちゃダメというタブーと気の使い方をうまく制御出来ているものと、勝ち取ったので屈することなく侮辱の域まで踏み込んでも表現してやるぜ!という勢力の対立。
そこに日本人の内なる程良い制御の取れた秩序のある、ある意味大人しい意見表明を面倒がってしない民族がいきなり表現の自由の行き過ぎについて…。


見ていてなんともバランスが悪い。


人の信じているものを貶す(けなす)という行為って自由なのかは確かに疑問だ。


ただ、一気に表現の自由ってダメじゃん?に流れるのもどうか?と思う。



本当にみんなバランスが変だ。極端に振れ過ぎ。


わかる!多分ニュースからの印象から、『あぁ多分この雑誌、お気の毒に!』という同情から始まり、『そんなことを書いちゃってたら、そりゃいつか殺られるわ』という感想に転じていく。


背景が頭に入っていない分、取り残されて、人が判断しているその論拠の部分を見ていくと取り残されてボカッとやられていない分、変に極端な判断にそれが思えるし、そう見える。まるで同情していた子猫にガブッと噛まれたような印象なのかな?傍からみてると…。


あぁ取り残されたから僻んじゃって!って違う、そうじゃないけど…。


そもそも表現を規制しない国というのはどこまでどうなんだ?国がそれを保証しているのか?
紛争も紛糾も法廷闘争も揉め事もないのだろうか?そりゃあるだろう。

しかし、国体を非難したり、けなしたり出来ないで、常に監視にさらされている民族や国民に比べてどうか?
と常日頃から思っている。


そういう刺々しい風習の中で生きてきていない分、そういうものに晒されると極端に弱いというのであれば、
単なるカルチャーショックだと思える。


この日本は秩序があるといいながら、それはまるで、国民全員がリトマスで試験官のようだ。
列を乱さないこと自体も、実は根底には陰湿な村社会の掟がDNAを縛っているような気もする。

侮辱のような行為をしたのであれば、それによって確実に粛清(抹殺)を受ける可能性もあるということだ。
なので国民全体が慎ましく意見も尖っていないのかも知れない。


厭味や自慢であれば、確実に臭うのだろう。そう書いていなくてもそう読めてしまえば、そう受け取られても仕方がない。日本語はニュアンスだし、発音してみないと実は本当の意思は確認出来ないような言語だ。でもそのレベルだ。


表現者にはその小自慢や小厭味して臭う雰囲気が齎らす結果も受ける必要がある。覚悟もいる。でも日本人が根本から持っている覚悟と他の民族ではそれに挑む覚悟が違うかも知れない。
だから、小厭味や小自慢と書いたのだ。その漂う、臭うレベル。


嫌われる勇気という本を改めて思い出す。


ただ、あれでも他人を思ってこその自分だとしていた辺りは、日本人の思いやりに通じる。


なので、そういう雑誌を購入することも拒否することも出来る立場なのならば、買っていないことで十分ではないか?ということだ。



それこそ嫌われてもいいという勇気をその雑誌社は望んだ。そこは事件に発展するかもと思いながらだと思うけど。
コメント