語れ!ガンダム。。。。そんな本のタイトルをコンビニで見かけた。
昔々、再放送でガンダムがブレイクしたときはまだ中学生(1年?)。
もちろんプラモデルは作りまくった。そして何故かゲルググあたりで、連邦のモビルスーツよりもジオン軍のモビルスーツの方が圧倒的に個性的で変化に富んでいて面白いことに気付いた。(風疹で休んでいるとき、プラモばかり作っていた)
ただ、当時からマニア的な人物、今で云うオタクがおり、プラモデル屋に行くと、ガンダムの1話から最終話までのタイトルを言えるとかいう子供がおり、行く度に「何話?」と聞かれ、適当に「32話。。。」と云うと、「強行突破作戦!」と即答。「19話」「ランバ・ラル特攻」「「じゃあ46話」というと、「残念、43話の脱出で最終回でした~」と終始こんな感じ。
オタクが暗記知識で迫ってくるのは、本気でどうにかして欲しいと思った思い出。
で、そういう人間にはなるまいと思って過ごしていたところに、『ガンダム芸人』の出現。彼らは少し違って暗記よりも思い入れと全体の解説と面白さの伝道師としての立場を確立していた。
それより以前はエヴァンゲリオン。これはミイラ取りがミイラになった歴史あり。
当時「なんだか流行っているので、個人的に調査してみます」と云って、全てのLDを揃えてしまった。
TV版は最終2話から観たから、『これ舞台なの?』といった心象風景、静止画の数々。『何これ?』から『初めはどうだったのか?』を喚起されてしまった。
まぁまずはガンダム。
ヤマトからガンダムで話が異星人から侵略阻止から、大戦、新人類へ。
あくまで富野さんの描く未来予想図。
経済が成熟してくると人口は減ると思いきや、今のほぼ倍に、、、という設定。
政治の体制も今のものとほぼ変わらぬ選択肢。いやそれでも進んでいるのかもしれないが。。。
ジオンというジオニズムと、ザビ家の独裁で、ファシズム的に描かれる独立を求めるサイド3のジオン公国。これを単純な反乱国家と見做すのが妥当かは悩みどころ。
何故、戦争に突入する必要があるのか?が底辺で流れ続ける様々な問題を探知できるように物語は仕掛け続けられている。。。なので、主人公も単純なヒーローではなかった。逆に戦争出現の正当性を説くあまり、ジオンの主張・背景を強調する結果にもなって、それに靡く人々もしっかり出現した。ある部分で連邦軍ってどうなの?的な論考の出現だ。
そしてロボット。
人型、そのものがどこまで有効なのかは分からないけど、モビルスーツという武器を推し進める両軍。その選択はどうも全て玩具メーカーからの要請も存在した。
作りたいアニメにどこまでの自由度と束縛されるものがあるのか?というのも一つの歴史。
そして、提示されたのが、ニュータイプという新分類される進化した人類の出現。
どこまでも未来予想図のはずなのに。。。。どこかに人類の停滞や陥りがちな人類の業とでも云おうか?宿唖とでも呼べばいいのか?しかもそれほどそのニュータイプが戦争の道具でしか成り得ないという状態らしく、、、、(ファースト以降は本当に知らないのです)。そこにも脚本家の出現が欲しいかも?
セリフの端々から伺える「へぇ~そんな未来になると・・・。確かに成りそうっちゃあなりそう。。。」という感想が妄想を呼び覚ましという循環を持っている物語であるため、マニアというか語るに相応しいアニメであることは事実。
「語れ!ガンダム」では、そういう部分に触れつつ、モビルスーツの人気投票だとかの柔らかいものも掲載されている。
そしてエヴァ。再編の映画版になって少し付いて行けてないが、前の映画版までは確実に監督の茶化しと大衆の想像力(妄想)の化かし合いに発展していた。
よく云われるテレビ版の放映に間に合わない状況から苦しんだ末に生まれた最終話。あれで完結かよ?の罵声(私は面白いエンディングと賞賛していたのだが)に、監督は最悪最低の人類の宗教的な帰結を映画化した。
謎めいた設定に解がないというのが一番の不満らしいけど、不満はその後の大きな需要に化けた。
逆に映画館で毒づく人間も出現。「こんなの観て、喜んでる奴の気が知れんわ!」と。
そして今の映画。再編も再編で別のストーリーになってしまっている部分も。。。
観て覚えている限りで云えば、あれも監督の「どうせ」に満ち溢れている気がしてならないのだが、もうそろそろ公開でしょうか?最終回。。。
エヴァの件はまた書きます。
単に。。。。日本のアニメーションは、ヤマトが一段上を示し、ガンダムがもう一段上を見せ付け、エヴァが昇華させた感が否めない訳でございますよ。
と俺今いくつだ?
昔々、再放送でガンダムがブレイクしたときはまだ中学生(1年?)。
もちろんプラモデルは作りまくった。そして何故かゲルググあたりで、連邦のモビルスーツよりもジオン軍のモビルスーツの方が圧倒的に個性的で変化に富んでいて面白いことに気付いた。(風疹で休んでいるとき、プラモばかり作っていた)
ただ、当時からマニア的な人物、今で云うオタクがおり、プラモデル屋に行くと、ガンダムの1話から最終話までのタイトルを言えるとかいう子供がおり、行く度に「何話?」と聞かれ、適当に「32話。。。」と云うと、「強行突破作戦!」と即答。「19話」「ランバ・ラル特攻」「「じゃあ46話」というと、「残念、43話の脱出で最終回でした~」と終始こんな感じ。
オタクが暗記知識で迫ってくるのは、本気でどうにかして欲しいと思った思い出。
で、そういう人間にはなるまいと思って過ごしていたところに、『ガンダム芸人』の出現。彼らは少し違って暗記よりも思い入れと全体の解説と面白さの伝道師としての立場を確立していた。
それより以前はエヴァンゲリオン。これはミイラ取りがミイラになった歴史あり。
当時「なんだか流行っているので、個人的に調査してみます」と云って、全てのLDを揃えてしまった。
TV版は最終2話から観たから、『これ舞台なの?』といった心象風景、静止画の数々。『何これ?』から『初めはどうだったのか?』を喚起されてしまった。
まぁまずはガンダム。
ヤマトからガンダムで話が異星人から侵略阻止から、大戦、新人類へ。
あくまで富野さんの描く未来予想図。
経済が成熟してくると人口は減ると思いきや、今のほぼ倍に、、、という設定。
政治の体制も今のものとほぼ変わらぬ選択肢。いやそれでも進んでいるのかもしれないが。。。
ジオンというジオニズムと、ザビ家の独裁で、ファシズム的に描かれる独立を求めるサイド3のジオン公国。これを単純な反乱国家と見做すのが妥当かは悩みどころ。
何故、戦争に突入する必要があるのか?が底辺で流れ続ける様々な問題を探知できるように物語は仕掛け続けられている。。。なので、主人公も単純なヒーローではなかった。逆に戦争出現の正当性を説くあまり、ジオンの主張・背景を強調する結果にもなって、それに靡く人々もしっかり出現した。ある部分で連邦軍ってどうなの?的な論考の出現だ。
そしてロボット。
人型、そのものがどこまで有効なのかは分からないけど、モビルスーツという武器を推し進める両軍。その選択はどうも全て玩具メーカーからの要請も存在した。
作りたいアニメにどこまでの自由度と束縛されるものがあるのか?というのも一つの歴史。
そして、提示されたのが、ニュータイプという新分類される進化した人類の出現。
どこまでも未来予想図のはずなのに。。。。どこかに人類の停滞や陥りがちな人類の業とでも云おうか?宿唖とでも呼べばいいのか?しかもそれほどそのニュータイプが戦争の道具でしか成り得ないという状態らしく、、、、(ファースト以降は本当に知らないのです)。そこにも脚本家の出現が欲しいかも?
セリフの端々から伺える「へぇ~そんな未来になると・・・。確かに成りそうっちゃあなりそう。。。」という感想が妄想を呼び覚ましという循環を持っている物語であるため、マニアというか語るに相応しいアニメであることは事実。
「語れ!ガンダム」では、そういう部分に触れつつ、モビルスーツの人気投票だとかの柔らかいものも掲載されている。
そしてエヴァ。再編の映画版になって少し付いて行けてないが、前の映画版までは確実に監督の茶化しと大衆の想像力(妄想)の化かし合いに発展していた。
よく云われるテレビ版の放映に間に合わない状況から苦しんだ末に生まれた最終話。あれで完結かよ?の罵声(私は面白いエンディングと賞賛していたのだが)に、監督は最悪最低の人類の宗教的な帰結を映画化した。
謎めいた設定に解がないというのが一番の不満らしいけど、不満はその後の大きな需要に化けた。
逆に映画館で毒づく人間も出現。「こんなの観て、喜んでる奴の気が知れんわ!」と。
そして今の映画。再編も再編で別のストーリーになってしまっている部分も。。。
観て覚えている限りで云えば、あれも監督の「どうせ」に満ち溢れている気がしてならないのだが、もうそろそろ公開でしょうか?最終回。。。
エヴァの件はまた書きます。
単に。。。。日本のアニメーションは、ヤマトが一段上を示し、ガンダムがもう一段上を見せ付け、エヴァが昇華させた感が否めない訳でございますよ。
と俺今いくつだ?