以前、新聞に掲載されていたエッセイに、「分類の良し悪し」というタイトルのものがあった。
東大名誉教授 和田昭充氏の書いたものだが、趣旨はこうだ。
「人は全て二分法で物事を測る」というもの。括る(くくる)というのが正確なのかもしれないが、事象を分類したり、物事を捉えるのに、また便宜的に物事を理解するのに役に立つというのである。真偽、美醜、硬軟、、、、善悪?正否。。。。。(正の対は誤?)
自分を振り返ると、同じようなことが云える。
人を判ずる時に、「変わった人」「真面目そうな人」「面白い人」「運動家(スポーツ分野です。not思想家)」「歌好き」「仕事熱心」「いい加減」などと、相手に対するキーワードを一つぽっこりと当てはめて、丸呑みにしようとする傾向がある。
これも一つの分類法。記憶法の一種かもしれないけど。
そのエッセイは最終的に、こういう分類による「決め付け」の悪作用に話が拡がっていく。沃野はその二分されている境界線にこそあるという。
最終的に科学者が本質的か否か(非本質)という二分法で物事を捉えることがあるが、そもそもサイエンス研究は全て本質の探究であり、そんなものは自分が無知で、自然の奥深さを知らないと云っている様なものだと辛辣に言い放つ。(おそらく科学者には自身の立つ分野、領域という概念が横たわっているのだろう)
そこの最後に出てくる言葉が重く、科学の進歩を妨げるものは、科学者自身の「科学の使命と本質」の忘却にあると断ずる。謙虚であるべきだと。。。。。
と云った寺田寅彦の警告に心すべきであると締め括られていた。
もちろん、自分の人間分類法もいい加減。第一印象だけで捉えて全ての人が収まるわけがない。。。まぁどうでもいい話だけど。
で、寺田寅彦。。。。
えっ?誰だっけ?
は?夏目漱石の弟子?
うん?科学者?
そうだっけ?
と随筆集を買ってみることに今決めた。
科学者で文学を目指した人だとしたら、、、、まだまだ知らない世界が一杯あるなぁ。。。
読みたいものだらけで追いつかないよ。。。。
以下のリンクを貼っておきます。
寺田寅彦 地図をながめて
東大名誉教授 和田昭充氏の書いたものだが、趣旨はこうだ。
「人は全て二分法で物事を測る」というもの。括る(くくる)というのが正確なのかもしれないが、事象を分類したり、物事を捉えるのに、また便宜的に物事を理解するのに役に立つというのである。真偽、美醜、硬軟、、、、善悪?正否。。。。。(正の対は誤?)
自分を振り返ると、同じようなことが云える。
人を判ずる時に、「変わった人」「真面目そうな人」「面白い人」「運動家(スポーツ分野です。not思想家)」「歌好き」「仕事熱心」「いい加減」などと、相手に対するキーワードを一つぽっこりと当てはめて、丸呑みにしようとする傾向がある。
これも一つの分類法。記憶法の一種かもしれないけど。
そのエッセイは最終的に、こういう分類による「決め付け」の悪作用に話が拡がっていく。沃野はその二分されている境界線にこそあるという。
最終的に科学者が本質的か否か(非本質)という二分法で物事を捉えることがあるが、そもそもサイエンス研究は全て本質の探究であり、そんなものは自分が無知で、自然の奥深さを知らないと云っている様なものだと辛辣に言い放つ。(おそらく科学者には自身の立つ分野、領域という概念が横たわっているのだろう)
そこの最後に出てくる言葉が重く、科学の進歩を妨げるものは、科学者自身の「科学の使命と本質」の忘却にあると断ずる。謙虚であるべきだと。。。。。
と云った寺田寅彦の警告に心すべきであると締め括られていた。
もちろん、自分の人間分類法もいい加減。第一印象だけで捉えて全ての人が収まるわけがない。。。まぁどうでもいい話だけど。
で、寺田寅彦。。。。
えっ?誰だっけ?
は?夏目漱石の弟子?
うん?科学者?
そうだっけ?
と随筆集を買ってみることに今決めた。
科学者で文学を目指した人だとしたら、、、、まだまだ知らない世界が一杯あるなぁ。。。
読みたいものだらけで追いつかないよ。。。。
以下のリンクを貼っておきます。
寺田寅彦 地図をながめて