[書籍紹介]
映画でも小説でも、
始めの10分間、始めの10ページで、
「当たり」の感触を得ることがあるが、
この本は、まさに「当たり」の予感。
橘樹(たちばな・いつき)25歳は、
全日本音楽著作権連盟の職員。
資料部へ異動したばかりの橘は、
新しい上司である塩坪信宏(しおつぼ・のぶひろ)に
地下の資料室に呼び出される。
面接で昔チェロを習ったことがあると言ったことから、
塩坪は、橘にミカサ音楽教室への潜入調査をするよう命令する。
というのは、
連盟はミカサと係争中。
レッスンの際、演奏する曲に対して
著作権料を支払えという問題で、
裁判が進んでいるのだ。
そこで、素性を隠して業界最大手の音楽教室でレッスンを受け、
教室で著作権が及ぶ楽曲が演奏されている証拠を集めてほしい、
そして、それを裁判で証言してもらいたいというのだ。
連盟が音楽教室から受け取る見込みは10億円だという。
命令されて、橘の中には、鬱屈があった。
橘がチェロを習っていたのは、
5歳から13歳までで、
その通学途中に誘拐されそうになり、
チェロの学習をやめてしまったのだ。
その時の経験は、橘の中でトラウマとして残っており、
チェロを見ただけで恐怖心が沸き、
深海の悪夢に苛まれて、
不眠症に悩んでいた。
期間は2年間と言われ、
やむを得ずスパイの役目を引き受けた樹は、
二子玉川にあるミカサ音楽教室に週一で通うことになる。
ボールペン型の録音機を胸に挿し、
地方公務員をよそおって。
担当講師は、
樹より少し年上のチェロ講師・浅葉桜太郎(あさば・おうたろう)。
橘は浅葉の指導で久しぶりにチェロに触れ、
音楽をやる喜びが芽生えて来る。
貸与されたチェロで、自宅近くのカラオケルームで練習に励み、
不眠症もなくなってきた。
そして、浅葉の教え子たちと月一で、
懇親会に参加するようになり、
人と繋がる喜びを感じるようになる。
しかし、彼らを騙しているという罪悪感が高まって・・・
題名の「ラブカ」とは、醜い深海魚の名前で、
橘に与えられた課題曲の一つが「戦慄(わななき)のラブカ」。
映画の音楽だ。
その映画は、スパイ映画で、
イスラエルの諜報部員が
ドイツに潜入したものの、
敵国で自分の居場所を見つけてしまう話だ。
素性を偽って平穏な市民生活に潜り込んでいるスパイのことを
映画の中でラブカと呼んでいるのだという。
孤独を泳ぐ、醜いスパイ。
その映画の内容が、
潜入調査の音楽教室で
居場所を見つけてしまう
橘の姿と重なって来る。
小説の中で、映画のことをこう語る。
「主人公の男はね、
有能な諜報員として一目置かれている存在ではあるけれど、
天涯孤独の身の上なんだ。
それが潜入先の敵国で
一般人を装ううちに、
普通の暮らしがどんなものであるのかを知ってしまう。
隣人と楽しく酒を飲み、
近所の子どもとパンを焼くような生活が
自分の人生にも起こり得るんだと気づいてしまえば、
あとは辛い。
その気持ちは本当なのに、
自分のすべては嘘だから」
やがて、裁判の日が近づく。
法廷に立てば、その情報は必ず浅葉たちにもたらされる。
橘がスパイだったことを知れば、浅葉を悩ませることになる。
しかも、浅葉は、初めての、そして年齢制限で、
最後の音楽コンクールに応募している。
悩ませ、コンクールに落としてはならない。
それを避けるために、
橘は、ある計画を立てる・・・
実は、著作権を巡る
音楽教室との裁判は事実だし、
音楽教室に潜入スパイが送られ、
裁判で証言したことも実話。
小説の中の全日本音楽著作権連盟とは、
日本音楽著作権協会(JASRAC)、
ミカサ音楽教室とは、
ヤマハ音楽教室のことだ。
その裁判については、
別のブログ(多分、明日)で紹介しようと思うが、
この小説が見事なのは、
その潜入スパイを
「戦慄のラブカ」という映画にからませて、
スパイという存在の悩みと、
二重重ねにしてみせたこと。
卓抜な発想と言えよう。
読者は橘と同化して、
周囲の人間を騙す悩みに浸ることになる。
それは、人間同士の「信頼」と「絆」の物語だ。
「当たり」の予感は間違っていなかった。
音楽についての浅葉の言葉。
「楽器から奏でられた音は、
その一瞬だけ、地上の空気を震わせて、
瞬く間に消えていく。
音楽はそれの連なりだ」
今年の「本屋大賞」の候補になるだろう。
もしかしたら、直木賞候補にもなるかもしれない。
筆者の安壇美緒(あだん・みお)は新進の作家。
1986年北海道生まれ。
早稲田大学第二文学部卒業。
2017年、「天龍院亜希子の日記」で
第30回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。