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空飛ぶ自由人・2

旅・映画・本 その他、人生を楽しくするもの、沢山

明治神宮

2025年05月08日 23時00分00秒 | 名所めぐり

名所めぐりで、いろいろ神社仏閣に行ってきましたが、
昨日は、ここ原宿で、

本命の明治神宮へ。

参拝者数、年間1000万人という、神社中の神社。

神宮橋。山手線をまたいで神宮へ。

橋を渡らずに行ける、原宿駅の神宮側出口。

これが入口の鳥居。

2020年、創建100周年を記念して新設。

入ると、空気が変わり、自然に背筋が延びます。

砂利道になっているのは、
踏む時の音で、心を鎮めるため。

神聖な神社に入る前に
石を踏みしめ、心を清める。

葉っぱだけをすくって、森に返します。

南参道を北に向かいます。

この酒樽は、全国から奉納されたお酒

 フランスのブルゴーニュから献納されたワインの樽

明治天皇が健康のために
ワインを好んで飲んだことにちなむものだそうです。

御苑の入り口。

北参道と南参道がつながるところで、
西側に曲がり、大鳥居をくぐり、本殿へ向かいます。

これは、

明治天皇と皇后の和歌。

この曲がり角は、

末広がりの八が二つ並ぶ88度に設計されています。

本殿への鳥居。

至るところに明治天皇の御製が。

本殿前の門。

境内。

本殿

祭神は明治天皇昭憲皇太后

明治天皇崩御後の1920年(大正9年)11月1日に創建されました。

73ヘクタール(約22万坪)に及ぶ広大な神域は、
江戸時代初めには肥後藩主・加藤家の別邸で、
寛永17年(1640年)より彦根藩主・井伊家の下屋敷となっていたもの。


1874年(明治7年)、
井伊家から明治政府に買い上げられて
南豊島御料地となっていましたが、
明治天皇を記念するために神宮を創建。
神社の中で、
皇室と特にゆかりの深い神社を神宮と呼びます。(例外あり)

境内はそのほとんどが
全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、
全国から10万本の献木が行われて植樹されました。

空から見ると、すごい森。

国をあげ、国民あげての一大事業でした。

社殿の造営は、内務大臣所管の明治神宮造営局が担当。
設計は伊東忠太の監督下、安藤時蔵と大江新太郎が行ない、
1915年(大正4年)に起工、
1920年(大正9年)に完成。

1945年(昭和20年)4月、
空襲で本殿、拝殿を含む中心部分の社殿が焼失。
拝殿の南に建つ南神門・東神門・西神門は創建当時のものが現存しています。

再建社殿の設計は角南隆が担当し、
1958年(昭和33年)に完成しました。

神楽殿

厄祓い、受験生の合格祈願、
初宮参りや七五三詣などを執り行っています。

おみくじ。

明治神宮のものは、他の神社のおみくじとは一味違います。
吉凶の記載はなく、
代わりに、御製や御歌(明治天皇・昭憲皇太后が詠んだ和歌)を
「大御心」として授かるという理念。
大御心を授けられた参拝者は、
これを持ち帰り、折に触れ詠み返すものとされており、
他の神社のように、
境内に結んで残すことはしません。

北参道への鳥居。

反対側のここから西参道へ。

人通りが少なく、幽玄さがよく伝わります。

西参道の入り口。

すぐ外には小田急線参宮橋の駅があります。

私は小学校、中学校の頃、代々木八幡に住んでいたので、
明治神宮には西参道から入りました。
夜中に無断侵入したこともあります。(時効です)。

武道場至誠館

御祭神の大御心を通じて
健全なる日本精神を育成するもの。

宝物殿。閉場中。

宝物殿前の芝生は入ることが出来ます。

ゆったりしたい方はここへどうぞ。

北池。

北参道の入り口。

外には代々木駅が。

つまり、明治神宮は南と西、北の
三つの入口があります。

明治神宮会館

鎮座五十年を記念して1972年6月に清祓され、
翌73年1月にこけら落とし。
毎年2月1日の建国記念の日慶祝中央式典や、
5月の全国赤十字大会、
コンサートや入学式・卒業式などで利用されており、
客席数は1914席(1階1340席、2 階574 席)もあります。

こんな立派なホールがあるとは。

明治神宮ミュージアム

明治時代の宮廷文化を偲ぶ
御祭神ゆかりの御物を陳列。
隈研吾設計。

南参道→本殿→西参道→北参道→南参道と、戻って来ました。

表参道

正参道から外部に伸びる大通りは「表参道」と呼ばれ、
元日には、この先に初日の出が昇るように設計。

膨大な敷地の管理をはじめ、
相当の経費でしょうが、
政教分離の立場から、国家予算は用いられていないはず。
本業である公益事業(参拝客の賽銭や祭祀などで得る、神社の玉串料)は
総収入の12%にすぎず、
86%を収益事業によって得ています。
収益事業としては、
結婚披露宴事業を柱とする明治記念館や
明治神宮外苑など。

明治記念館は結婚式事業や飲食店経営を担う
「明治記念館調理室」(売上高年間49億円)と
旅行事業などを行う「セラン」(売上高15億円)という
2つのグループ会社を持っており、
明治神宮外苑は、明治神宮野球場のほか、
テニス場、アイススケート場、ゴルフ練習場などを有し、
年間の売上は60億円程度(2010年時点)。

行ってみて驚いたのは外国人観光客の多さ
8割は外国人という印象。
東京という大都会の中に出現した杜には
驚くと思いますが、
神社の性格、日本人の魂などは理解されるのでしょうか。

神道には、教祖も教義も存在せず
なのに、日本人の精神性の中に深く入り込んでいます。
もともと「宗教」という用語は
キリスト教のように
教義が理論立てられた宗派を指すものとされており、
アニミズムの名残を色濃く留め、
教義が存在しない神道が「宗教」に含まれるのかは
明治後期まで疑問視されていたといいます。
日本人は無宗教だと言われますが、
新年には初詣をし、七五三を祝い、
コンビニの株より多い
全国の神社にお参りする。
その日本人の魂は理解されるのでしょうか。

日本人だったら、一度は行くべき場所。
以前、娘を連れて行ったことはありますが、
私のカミさんは、まだ行ったことがありません。
内苑の菖蒲の時期に行ってみましょうか。


目黒不動尊

2025年04月30日 23時00分00秒 | 名所めぐり

久しぶりの名所めぐり

目黒駅から
徒歩15分ほどのところにある目黒不動尊

正面の仁王門

正式名称は泰叡山(たいえいざん)瀧泉寺(りゅうせんじ)。


天台宗の寺院です。
不動明王像を本尊とすることから、
古くより「目黒不動尊(めぐろふどうそん)」
「目黒不動」「お不動さん」などと通称されています。
江戸三大不動の一つ。

寺伝では、大同3年(808 年)、
15歳の円仁が、下野国から比叡山の最澄の元に赴く際
この地で霊夢を見ました。
青黒い顔をし、右手に降魔の剣を提げ、
左手に縛の縄を持つ恐ろしい形相の神人が枕上に現れて
「我この地に迹を垂れ魔を伏し国を鎮めんと思ふなり。
 来つて我を渇仰せん者には諸々の願ひを成就させん」
と告げられたといいます。
夢から覚めた円仁が、その姿を彫刻したのが、
本尊の目黒不動明王です。
堂宇建立を決意した円仁が
法具の獨鈷を投じたところ、そこに泉が湧出し、
その泉は「獨鈷の瀧」(とっこのたき)と名付けられ、
この泉に因んで「瀧泉寺」としたといわれています。

徳川家光が瀧泉寺を篤く庇護しました。
家光が目黒で鷹狩りをした際、
愛鷹が行方不明になってしまいます。
そのとき、目黒不動尊御宝前に祈願したところ、
忽ち鷹が本堂前の「鷹居の松」に飛び帰ってきたという。
この霊験を目の当りにした家光は、
瀧泉寺を篤く尊信したといいます。

「江戸の三富」と呼ばれた「富くじ」が行われた場所。
江戸時代には一般庶民の行楽地として親しまれ、
周辺一帯は景色を眺めながら諸寺に参詣できる
一大観光地であったこともあり、
当寺の門前はいくつもの店で賑わいました。
落語の「目黒のさんま」は、
この近辺にあった茶店が舞台とされています。

       
仁王門の左手にあるのが、豊川稲荷

恵比寿神・弁財天・大黒天の三福神を筆頭に七福神すべてを祀る江戸最古『山手七福神』の恵比寿神もあります。 

                                                           仁王門を入って右手にあるのが
寺の本坊で、

阿弥陀堂があります。

 
その横に観音堂                                                        

その裏手には精霊堂

                                                          その隣に地蔵堂

家光の話に出て来た鷹居の松跡

                                                             独鈷の滝

独鈷の滝を浴びると
病気が治癒するとの信仰がありました。

 

                                                      垢離堂

青木昆陽の碑。

前不動堂

勢至堂                             

如意大黒天。                                                                   

                                                                    
三界萬霊供養塔

                       
丘の上に本堂があり、
急な男坂とゆるやかな女坂とがあります。

その脇にあるのが役の行者(えきのぎょうじゃ)

こちらが男坂。

上から見たところ。

鳥居をくぐって、

大本堂へ。

意志不動尊

微笑観世音菩薩

                                                   

大本堂の真後ろにあるのが、

大日如来像

子守延命地蔵尊

護衛不動尊

合格祈願の

虚空菩薩

二宮金次郎ではなく、青木昆陽

これも昆陽で、

さつまいもを持っています。

鐘楼堂。朝六時、夕六時に時を告げます。

高校の3年間、
目蒲線(今の目黒線)で不動前駅を通過しながら、
今回、初めて訪れました。

 


辰巳の森緑道公園と葛西臨海公園

2025年04月05日 23時00分00秒 | 名所めぐり

昨日は天気が良く暖かく、
桜日和なので、観にでかけました。

去年買った電動アシスト自転車で、


まず旧江戸川を渡り、


次に荒川を渡り、


湾岸道路沿いに走って、

ここへ。

辰巳の森緑道公園

これは、十二支の広場。兎辰巳・・・と12の彫像。

桜並木。

近所の人はいいですね。

屋台のお店が出ています。

こういう商売の人は、
どんな風に登録して権利を持っているのでしょうか。

値段から見て、かなりの儲けだと思いますが。

さて、帰り道、葛西臨海公園に寄ってみると、

ここにも桜並木がありました。

二、三日雨が続きましたが、
満開を待っていたかのように、
晴となりました。

屋台も。

ここにある展望施設、クリスタルビュー

おしあわせに。

上からの眺め。

遠く、舞浜のホテル群。

中には展示も。

カフェもあります。

おまけ。

私の団地の中庭の桜

毎年、浦安市内で一番早く咲きます。

 


築地場外市場

2025年03月28日 23時00分00秒 | 名所めぐり

築地本願寺から出て、
築地場外市場へ。

この四つ角。

築地は既に市場機能を持っていませんので、
「場外」という表現はおかしいですが、
伝統に従い、場外市場といいます。


鮮魚店、青果店、飲食店など
約400店舗以上の店がひしめきあっています。


朝の時間帯は業務用の仕入れで賑わい、
その後一般の買い物客や
食事を楽しむ観光客で賑わっています。

様々な海産物を味わえる場所として、
外国人にも伝わり、
来日外国人が集まります。

築地は地名のとおり海を埋め立てあらたに築いた土地です。
1675年(明暦三年)、
明暦の大火後の復興計画で、
隅田川河口部にあたるこの一帯が開発されて武家地となります。
横山町辺にあった本願寺も同大火で被災して築地に移ってきました。
本願寺の再建にあたっては
佃の門徒たちが海を埋めて土地を築いたと伝えられています。

江戸時代の築地は大半が武家地で、
大名の別荘地である中屋敷や下屋敷が多くつくられ、
下級武士の邸宅も分布しています。

現在の築地市場にあたる場所は
寛政の改革を断行した時の老中松平定信の下屋敷でした。

1923年(大正12年)の関東大震災の後、
震災で焼失した
日本橋魚河岸が移転してきたことが町を大きく変えました。

野菜も売っています。

乾きものも。

包丁も。

フルーツも沢山。

カニの足。

タコも。

帰国してから、美味い物を食べたと報告するのでしょう。

噂が噂を呼んで、東京のグルメ街となりました。

 


築地本願寺

2025年03月20日 23時00分00秒 | 名所めぐり

マニラの旅のブログが終わりましたので、
名所めぐり、グルメめぐりに戻ります。

築地駅に行きました。

そのすぐそばにあるのが、
築地本願寺(つきじほんがんじ)。

浄土真宗本願寺派の寺院で、
京都市にある西本願寺の直轄寺院。

江戸時代の1617年に、
西本願寺の別院として
浅草御門南の横山町に建立。
しかし明暦の大火(振袖火事)により本堂を焼失。
江戸幕府による区画整理のため
旧地への再建が許されず、
その代替地として八丁堀沖の海上が下付されました。
そこで佃島の門徒が中心となり、
本堂再建のために
海を埋め立てて土地を築き、
(この埋め立て工事が地名築地の由来)
1679年に再建。
1923年9月1日の関東大震災では、
地震による倒壊は免れましたが、
すぐ後に起こった火災により再び伽藍を焼失。

関東大震災で失われた旧本堂の復旧事業として
現在の本堂が1934年に竣工。
設計者は伊東忠太
古代インド様式をモチーフとしており、
当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造で、
大理石彫刻がふんだんに用いられています。
重要文化財に指定されています。

浄土真宗本願寺派の新体制移行(2012年4月1日付)に伴い、
正式名が従前の「本願寺築地別院」 から
「築地本願寺」 になりました。

著名な人物の葬儀が宗派を問わず多く執り行われています。

本堂

本尊を安置する中央部と北翼部(向かって左)、


南翼部(同右)からなります。

左右には、狛犬ではなく、獅子像

後ろから。


大階段を上がると「広間」と称する横長の前室を経て外陣があり、
その奥が本尊を安置する内陣

本尊は聖徳太子手彫と伝承される阿弥陀如来立像

右側の間。

左側の間。

内側から外を見ると。

北翼部は1階に説教所と小会議室(現・聞法ホールと控室)、
2 階に議場(現・講堂)などが。

説話会場。

南翼部は1 階に重役室、食堂等(現・寺務所等)があり、
2 階はおもに事務室(現・礼拝堂等)にあてられています。

南の伝道会館。

インド、西洋、イスラム、日本などの
異なるモチーフを融合させた独自の様式を示すとともに、
礼拝、説教、会議、事務など、
仏教寺院のさまざまな機能を1棟で果たせるような
合理的な設計になっており、
伊東忠太の代表作の一つです。

これは、

合同墓所。

南門からの光景。