空飛ぶ自由人・2

旅・映画・本 その他、人生を楽しくするもの、沢山

小説『ジェンダー・クライム』

2024年04月29日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

土手下に放置された全裸の死体遺棄事件が起こり、
八王子南署に捜査本部が設置された。
警部補の鞍岡直矢(くらおか・なおや)は、
本庁捜査一課の志波倫吏(しば・りんり)という
若い警部補と組まされた。
鞍岡は初対面時から、自分とは合わないものを感ずる。

しかし、志波は捜査能力はあるようで、
解剖医と掛け合い、
死体の肛門を調べさせ、
強姦の痕跡らしきものと、
一片の紙を発見する。
そこには、「目には目を」と書かれていた。

被害者の佐東正隆は、54歳のサラリーマンで、
やがて、息子の進人(しんと)が
3年前の集団レイプ事件の加害者だったことが判明する。
「目には目を」は、その復讐ではないか。

女子大生を大学生4人でカラオケルームで酔わせて強姦した事件だが、
起訴猶予になっている。

というわけで、
殺人事件と3年前のレイプ事件がリンクしての捜査となり、
レイプ被害者の兄が有力容疑者として上がって来る。

題名の「ジェンダー・クライム」とは、
性にまつわる犯罪のことで、
被害者が人生をめちゃくちゃにされ、
回復することが少ないことから、
レイプは殺人に匹敵する卑劣な犯罪であることを摘発する
天童荒太の警察小説。

被害者であった女子大生は、
ひきこもりとなり、
父は仕事を失い、
家庭まるごと被害から立ち直っていない。

被害者宅を訪ねた鞍岡と志波の前で、
父親が放つ言葉が
レイプ事件の深刻さを浮き彫りにする。

「今さら何なの。まだわたしたちをいじめ足りないわけ?」
「(娘は)まじめにこつこつ勉強していたんだ。
それが悪党どもにいきなり襲われ、
心を砕かれ、夢を散らされ、
人生を叩き潰された。
警察に助けを求めたら・・・
なんで男たちについていった?
どんな服を着ていた?
きみから誘ってないか?
その気にさせたんじゃないのか?
泣きじゃくるあの子を散々いじめただろ。
まだ足りないのか」
「弁護士が現れて、紙を一枚出して、
あとは金で示談の話。
腹を立てて、帰れと言ったら、脅しだ。
こちらは全力で被告人たちを弁護します、と来た。
四人の腕利きの弁護士をそろえ、
とことん戦いますよって・・・
悪いのはレイプしたそっちだろ、
なんで戦うんだ。
怖い、つらい、もう生きていたくない、
って泣きじゃくってる若い娘一人と、
頭がいいはずの大人たちが、
とことん戦うって、
おかしいと思わないのか、
あんたらは。
この国はさあ」
「結局、誰も何も謝らない。
犯人も、その親も、警察も」

背景には、加害者の一人の祖父が有力者で、
孫に前科をつけないために、
警察幹部に依頼して、
示談に持ち込むよう細工したらしい。
その脅迫まがいの面会に
辞職した元刑事が関わっていたことも判明する。

志波は言う。
「毎度、同じ事の繰り返しだ。
結局、ご立派な大人たちがよってたかって、
被害に遭った女性を、
さらに叩いて苦しめているだけじゃないですか」

鞍岡は、以前、レイプ事件で
逮捕状が出ていたにもかかわらず、
政治家への忖度から執行されなかった件で、
刑事部長に抗議して左遷された過去がある。
そのことについて、鞍岡が言う。

「どうして八雲刑事部長ともあろう人が、
いくら懇意の政治家から頼まれたとしても、
国のトップへの忖度があったとしても、
先々のことを考えずに、
あんなことを聞き入れてしまったのか・・・
それは、無意識のうちに、
女という性を軽く見ていたからですよ。
性犯罪についても、
たかがと思う心があったからです。
コロシだったら、逮捕状の執行を中止しましたか。
一人の人間の人生を壊し、
魂を殺すのも同然の、
むごい犯罪が行われたのだという意識があれば、
せめて逮捕して、
あとは検察や裁判に託すという、
警察の仕事をまっとうしたはずでしょう。
これは、あなただけじゃない。
政治家だけでもない。
この国の根っこにある、我々の(自分の胸を叩き)
我々の、罪ですよ」

性犯罪の根底に潜在的にある
性別に関する慣習や差別を意識させられる。

一つの犯罪が、
なんと多くの人を傷つけ、
悲しませるのだろう。
それはこの種の犯罪の特徴なのかもしれない。

他に、生活安全課の依田課長、部下の館花巡査(共に女性)が関係し、
DVに苦しむ女性の話も出て来る。
職務にる忠実なあまり、
娘に疎んじられる鞍岡の苦悩も描かれる。
殺人事件の捜査解決がメインだが、
性犯罪や男女差別、政界との忖度、
介護、親子関係、虐待・・・
盛り沢山のテーマが背景に置かれている。
根源的には、性に対する日本人の持っている
潜在的思想が問題にされているのだ。

最後に意外な犯人が明かされるが、
ちょっと無理があるか。
また、志波と鞍岡が組まされた背景の
因縁話みたいのも出て来るが、
それも無理筋か。

しかし、文章力は確かで、
ページをめくる手が止まらなかった。


映画『我、邪を邪で制す』

2024年04月28日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]

冒頭、ヤクザの葬式での銃撃戦。
犯人を追う刑事との壮絶な格闘が描かれる。

それから4年。
何とか逃げおおせた逃亡犯の陳桂林は、
祖母を病気で亡くし、
自身も肺ガンで長くて半年、
短かければ3か月の余命を宣告される。
ある人から、このままネズミのように死ぬのではなく、
誇れることをしろ(自首しろ)、
「死して名を残し尊厳を守れ」と忠告され、
自首しに訪れた警察で、
「台湾三大指名手配犯」の張り紙を見て、
自分が序列第3位の指名犯だと知る。


陳桂林は、死ぬ前に、名声を遺すために、
手配序列1位と2位の犯罪者の駆逐を決意する。

一人は、義理の娘に美容院を経営させて潜伏する許偉強。
その駆逐は、娘の解放も意味していた。
それを片づけた後、
序列1位の林禄和を探す陳は、
南方の島の宗教団体で、陳の墓を見つける。


宗教団体で黒い液体を吐いた陳は、
教祖の薫陶を受け、
所有していた全財産を捧げて悔い改め、
法悦の境地に至るが、
宗教団体と教祖の正体を知って、
陳の最後の使命が炸裂する・・・

という、バイオレンスストーリー。

香港人であるウォン・ジンポー監督の台湾初作品。
主演はイーサン・ルアンベン

途中から全然話が別な方角に向かい
えっ、そういう映画なのか、
と驚いていると、
最後は、元の路線に戻り、
すさまじい暴力と殺戮が展開する。
そして、最後はほろりとさせる。

バイオレンスシーンが容赦ない乾いた描写
魅力的。
実は、陳自身も騙されていた、
という落ちもビターな味わい。

台湾の死刑がああいうものだと初めて知った。
後片付けが大変だろうに。

後を追う刑事との友情のようなものがあり、
薬局のおばちゃんも魅力的。

原題の「周處除三害」は、
次のような故事による。

中国のあるところに周処という若者がいた。
村の人が嘆いているのを見て理由を聞くと、
「三つの害」が原因だと言う。
その三害とは、
白虎、大蛇、そして周処自身だと知った周処は
「俺が三害をすべて取り除いてやる」と出かける。
まず虎を退治し、次に大蛇と死闘を繰り広げて、
川に流されて行方不明となる。
やっとの思いで村に戻って来た周処は、
三害がいなくなったと大喜びする村人たちの姿を見る。
自分はどれほど人に迷惑をかけていたのかに気づいた周処は
賢人を訪ね、
自分の過ちを知り、改心したいと思う気持ちがあれば、
まだ間に合う、と励まされて、
猛勉強をして、人格者となり、
優れた業績を残す名将となったという。
その昔話にまつわる題名。

映画の中に次のような漢詩が出て来る。

一失足成千古恨
再回頭已百年身
捨棄貧、瞋、癡
來世再做新的人

明代の「明良記」という書物に出てくる言葉で、
一部は「仏教聖典」に記されているという。
「貧、瞋、癡」というのが、仏教用語で、
人間の持つ根源的な三つの悪徳のこと。
三毒とも言われる。
「貧」欲を貪(むさぼ)り、執着すること⇒「鶏」(鳩)
「瞋」怒り、憎しみに支配されること⇒「蛇」
「癡」真理に対して無知であり、愚かであること⇒「豚」
英題の「The Pig, The Snake and The Pigeon 」は、
この「心の三毒」を表してる。

この詩は、本作では、
「過ち一つで悔い一生 貪欲 怒り 無知を脱し 新しい人間に」
と訳されている。

と、暴力描写の向こう側に、
いろいろと味わい深い台湾映画だった。

Netflixで配信中。

 


浦安市民まつり

2024年04月27日 23時00分00秒 | わが町浦安

今日は、浦安市民まつり

市民会館前の公園で開催。

今年が26回目です。

メインは食べ物の販売。

どこも行列です。

テーブルも用意されていますが、

はみ出た人は、こんなところで。

 

植木まつりも同時開催。

堆肥もくれます。

ここは、脱穀経験のコーナー。

重機に乗る経験コーナー。

写真スポット。

いろいろな物販。

ステージではいろいろな出し物が。

ゆるきゃら総選挙1位のあさりくんの表彰式。

市長からトロフィーが渡されます。

浦安観光PRの演歌歌手。

路上パフォーマンス。

カスタネットマン。

ぬいぐるみのパフォーマンス。暑そう。

ゴミの後片付けも大変。

会場近くの消防本部も設立50周年で、

こんなイベントも。

川沿いの道では、フリーマーケットも。

カヌー体験も。

E ボート体験。

市民まつりは明日も開催されます。

 


小説『十戒』

2024年04月25日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

芸大浪人の里英は、父と共に、枝内島を訪れた。
島は資産家の伯父が所有していたもので、
交通事故で亡くなったので、
父が相続、
観光開発会社が、
島を整備して、まるごと貸し出すリゾート化を提案してきたため、
下見に訪れたのだ。
理英は子供の頃、島に来たことがある。

1泊2日の視察に同行したのは、
里英父娘、観光開発会社、不動産会社、建設会社から2名ずつと、
伯父の友人で、計9名
うち女性は、里英と観光開発業者の綾川という研修社員と、
建設会社の設計士の中年女性の3名。

島は和歌山県白浜の沖合5キロほどにあり、
周囲1キロに満たない円形の無人島。
草が繁っており、
伯父が建てた堅牢な別荘がある。
食堂や応接間、8つの寝室があり、
発電機と海水の真水化設備もあって、
リゾート化しても問題はなさそう。
島の中央に作業小屋があり、
5つのバンガローが散在している。
回りは全て断崖で、
柵のない遊歩道が配置されている。
水温が低いことから、
島周辺で泳ぐことは出来ず、
海流が早いため、流されるおそれがある。

本書には、↓のような挿絵が掲載されていて、イメージしやすい。

一行が漁船に乗せられて、
島に着いて、調べてみると、
人が入っていた形跡がある。
発電機用のガソリン、
食べ物の残骸があり、
包装の賞味期限からみて、
この2年間のものらしい。
伯父は5年間、この島に来ていないというのに。

更に驚いたことに、
作業小屋には、化学薬品が残っており、
爆弾を作った形跡がある。
バンガローは、爆弾で一杯だった。
何者かが島に入って、
爆弾製造工場にされていたようなのだ。

一泊し、
目覚めると、不動産会社の社員がクロスボウの矢で撃たれ、
崖下に落とされていた。
そして、カレンダーの裏側には、
次のような指示が書かれていた。

島には三日間留まること。
島外に殺人の発生や島の状況を伝えてはならない。
各人、それぞれ寝室に一人のみで起居しなければならない。
複数人が30分以上同席してはならない。
カメラ、レコーダー等で記録してはならない。
スマートフォンは回収し、必要が生じた時だけ、
全員の監視のもとで使用しなければならない。
殺人犯が誰かを知ろうとしてはならない。
等、10項目の禁止事項
つまり、「十戒」
これが守られない場合は、
爆弾の起爆装置が作動し、
全員の命が奪われる。

島から誰も逃げ出すことの出来ない中での殺人事件。
いわゆる「クローズドサークル」もの。

クローズド・サークル(closed circle )・・・
ミステリ用語で、
何らかの事情で外界との往来が断たれた状況下で
起こる事件を扱った作品を指す。
過去の代表例から、
「嵐の孤島もの」「吹雪の山荘もの」
「陸の孤島もの」「客船もの」「列車もの」
などに分類される。

島に視察に訪れて、
漁船が再訪するまで
孤立した状態、という状況は
かなり強引だが、そういう状況を楽しむミステリー
孤立しても、今はスマホという連絡手段があり、
救助を求めることが可能で、
その防御のため、
スマホを全員から回収という手段が取られる。
電波が届かないほど遠い島では、
リゾート施設ということで無理があり、
本土から近くに設定したため、
そういうことになる。

全編、里英の視点で描かれ、
綾川の推理で進展する。
8人の中に殺人犯がいるのは確実だが、
里英と綾川は、最初の日、同室で寝ていたので、
殺人をすることが出来ず、除外。
里英の父も、娘を爆死させるはずはないので、除外。
残された5人の中に殺人犯がいる。

そして、第2、第3の殺人が起こる・・・

殺人の目的は何か。
本当に作業小屋の起爆装置はセットされているのか。
犯人は全員を爆殺する覚悟はしているのか。
脅しに過ぎないのではないのか。
等の疑問を引きずりつつ、
事態は新たな展開を迎える。
犯人からのカレンダー裏の追加指示も増える。

途中で犯人と犯行の内容が明かされるが、
そんなことは、この手の小説では信じてはいけない。
最後の最後に真相が明らかになる
それは、読んでのお楽しみ。

残された者の中に犯人がいるのは確実で、
その犯人の意思を確認する方法が大変ユニーク。
また、時々行う全員監視のもとでのスマホでの会話で、
島の危機的状況に触れることができないままで、
外界と話をしなければならない様が面白い。

作者のミスリードには、気づかなかったが、
この手のものは、
一番怪しくない者が犯人
という定石があり、
まさに、その通り。

作者の夕木春央は、
前作「方舟」でも、
クローズドサークルの謎を駆使して、
週刊文春ミステリーベスト10など4冠に輝いた人だという。
「方舟」も読んでみることにしよう。

 


ドラマ『神と交わした約束: モーセの物語』

2024年04月24日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]

旧約聖書「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」や
イスラム教のコーランにある、
ヘブライ人(ユダヤ人の先祖)を
エジプトでの奴隷生活から解放した
民族的指導者モーセの生涯を描く
ドキュメンタリードラマ。

3つのパートからなり、

パート1「予言者」は、
モーセの誕生から、王子として暮らし、
ヘブライ人を酷使するエシプト人を殺害して、
砂漠に逃れ、シナイ山で神と出会い、
「民を解放せよ」との使命を与えられて、
エジプトに戻るまで。

パート2「災い」は、
民の解放を迫るモーセに対して、
心をかたくなにして、拒むファラオ(エジプトの王)に対して、
ナイル川を血に変えたり、蛙やイナゴ、アブなどの襲撃、
家畜に疫病を流行らせたりという、
10の災厄を与える闘争を描く。

パート3「約束の地」は、
エジプト人の初子を撃つという、
最後の災厄に、ファラオがついにヘブライ人の解放を許し、
出発するが、ファラオの気が変わって追い詰められた末、
紅海を割って、対岸まで渡り、
追って来たエジプト軍が水に飲まれるという奇跡が描かれる。


そして、シナイ山にモーセが登って、
十戒を授かる間に、
偶像を作って拝んでいたヘブライ人を撃ち、
その後、40年間荒野を彷徨った後、
モーセを残して、
ヘブライ人が目的地カナンに入るまで。

それぞれ、81分、86分、88分と長い。

基本的に再現ドラマとして描かれ、
途中にユダヤ教のラビ、イスラム教徒の女性、
キリスト教の牧師、神学者や歴史家たちの解説が入る。
再現ドラマといっても、
本格的なもので、
豪華なセットやCGもていねいに作っているので、
ドラマそのもので独立してもよいようなもの。

解説で面白かったのは、
ヘブライ人は移住後400年もたっているので、
奴隷生活が当たり前になっていて、
疑問には思っていなかったという点。
なるほど、人権意識も労働運動もない時代だから、
そうなのかもしれない。

奴隷解放で困るのはエジプト人
というのも面白い見解。
アメリカの奴隷解放で、
じゃあ、誰が綿花を摘むのか、
と白人が困った、というのに比較されている。

荒野の生活で、
不平不満を言う輩のことが描かれるが、
3日で行けるところを40年も放浪したのだから、
指導者モーセへの不信感が出るのは当たり前。
そのあたりの指導者の苦悩がもう少し描かれたらよかったのに。
また、モーセがいつ自分がヘブライ人だと自覚したか
の描写も不足しており、
モーセの、民に対する責任感と愛情を抱く部分なので
手を抜かないでほしかった。
割れる紅海の描写は、映画「十戒」↓の踏襲だが、

過ぎ越しの描写は、初めて見る光景だった。


十戒の石板は、映画「十戒」は神の手が彫るのに対し、
本作では、モーセ自身が彫る。

ところで、紅海を割ってモーセが民を解放した、
というのは、後のユダヤ人の民族的記憶になった。
それほど強烈な経験だったと言えよう。

申命記26章には、次のように唱えよという言葉がある。
「わたしの先祖は、
さすらいの一アラムびと(祖先ヤコブのこと)でありましたが、
わずかの人を連れてエジプトへ下って行って、
その所に寄留し、ついにそこで大きく、強い、
人数の多い国民になりました。
ところがエジプトびとはわれわれをしえたげ、
また悩まして、つらい労役を負わせましたが、
われわれが先祖たちの神、主に叫んだので、
主はわれわれの声を聞き、
われわれの悩みと、骨折りと、しえたげとを顧み、
主は強い手と、伸べた腕と、大いなる恐るべき事と、
しるしと、不思議とをもって、われわれをエジプトから導き出し、
われわれをこの所へ連れてきて、
乳と蜜の流れるこの地をわれわれに賜わりました。
主よ、ごらんください。
あなたがわたしに賜わった地の実の初物を、いま携えてきました」

これがユダヤ教の信仰告白と呼ばれるもので、
このような民族的記憶によって、
紀元1世紀からの世界への離散の果てに、
20世紀になって、
イスラエルを建国し、帰還した。
それが、今の紛争の種となっている。
つまり、今のパレスチナ紛争は、
聖書的課題なので、
解決の目途はないと言える。

モーセの物語は、スケールの大きな話なので、映画の題材となり、
セシル・B・デミル監督による「十誡」(1923年) 、
デミル監督による再映画化「十戒」(1956年) 、


アニメの「プリンス・オブ・エジプト」(1998年)、


リドリー・スコット監督による「エクソダス: 神と王」(2014年)などがある。


ミュージカルとして、フランスで「スペクタクル十戒」(2000年)が上演され、
2005年には来日公演があった。


海が割れるシーンは、ドライアイスの煙でお茶をにごしていた。

ついでだが、私は学生時代に、友人の作曲家と組んで、
「合唱叙事詩 モーセ」という合唱組曲を作詞したことがあり、
1973年7月3日、
早稲田大学の大隈講堂で初演、
東京芸術大学の昔の奏楽堂その他で演奏したことがある。
更についでだが、
私が所属していた団体が
その上部団体から脱退した時の経緯を記した報告書の題名は
「EXODUS」だった。