空飛ぶ自由人・2

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小説『蚕の王』

2022年05月30日 22時54分33秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

安東能明による、
「二俣事件」を題材にした小説。
安東氏は二俣町の出身。


二俣事件とは、
昭和25年に、
静岡県磐田郡二俣町(現在の浜松市天竜区二俣町)で発生した、
殺人事件
逮捕・起訴された少年は一審、二審ともに死刑判決を受けたが、
最高裁は原判決を破棄、
差し戻した後の地裁も高裁も無罪判決を出した。
死刑囚が冤罪として無罪になった初の事例。
同じ静岡県内で起きた袴田事件と並ぶ冤罪事件の一つとして知られる。


一部を除き匿名で描かれる。

昭和25年1月6日、
二俣町で、就寝中の父母と2歳の長女、
生後11か月の次女の4人が殺害された。
父親と母親は鋭利な刃物での刺殺、
長女は扼殺、次女は母親の遺体の下で窒息死した。
被害者宅の時計は針が11時2分を指した状態で破損し、
犯人の指と推測される指紋が付着していた。
建物周辺には被害者一家の靴と合致しない27cmの靴跡痕があり、
犯行に使用した刃物と被害者の血痕が付着した手袋が発見された。
犯行現場には血痕がついた新聞が残されており、
犯人は殺害した後に新聞を読んでいた可能性がある。
同じ部屋にいた長男と次男と三男及び
隣の部屋にいた祖母は無事で、
朝に起きて殺人に気づいたという。

2月23日、警察は近所の住人である少年(当時18歳・小説の中では木内郁夫)を
被疑者と推測して別件逮捕し、
少年が4人を殺害したとの供述調書を報道機関に公表、
少年を強盗殺人の罪で起訴した。

しかし、少年が無実であることは、
以下の内容から確実である。

破損した時計に付着していた、
犯人のものと推測される指紋は
少年の指紋と合致しない。
少年の着衣・所持している衣服・その他の所持品から、
被害者一家の血痕は検出されていない。
少年の足・靴のサイズは24cmであり、
27cmの靴跡痕とは合致しない。
被害者一家の殺害に使用された鋭利な刃物を少年が入手した証明が無い。
司法解剖の結果、4人の死亡推定時刻はいずれも夜11時前後であり
(検察が主張する犯行時刻は夜9時)、
少年は11時頃には父の営む中華そば店の手伝いで
麻雀店に出前に来ていたという麻雀店店主の証言がある。

しかし、少年は犯行を認めて自白し、
その供述調書が証拠として採用された。
物証には乏しかった。
また少年が犯行日時に麻雀店にいたというアリバイがあったが、
警察は少年が以前観た映画からヒントを得て、
時計を進めて11時2分が犯行時間であるように細工したとしている。

では、なぜ少年が自白したか。
当時静岡県警察の警部補であった赤松完治による、
拷問での尋問と自白強要があり、
供述調書が作成されたのだ。

小説の中で描かれた赤松は、
実名は紅林麻雄といい、
拷問による尋問、自白の強要によって得られた
供述調書の捏造を以前から行っており、
幸浦(さちうら)事件や小島(おじま)事件の
冤罪事件を起こしている。
そのどちらも死刑判決を受けたものの、
後に無罪となった。

本事件を捜査していた山崎兵八刑事(小説の中では吉村刑事)は
読売新聞社に対して、
警部補の拷問による尋問、自白の強要、
自己の先入観に合致させた供述調書の捏造を告発した。
法廷では弁護側証人として
警部補が前記のような捜査方法の常習者であり、
県警の組織自体が拷問による自白強要を容認または放置する
傾向があると証言した。
県警は告発した山崎刑事を偽証罪で逮捕し、
精神鑑定で「妄想性痴呆症」とされ、
警察は山崎刑事を懲戒免職処分にした。

小説は、作家(安東)が
当時の地元住人にインタビューする場面をはさみながら、
現職の吉村刑事、既に退職していた城戸孝吉の
裁判での証言、
赤松警部がなぜそのような捜査方法を取るようになったかという
原点である「浜松事件」を詳述する。

そして、清瀬一郎弁護士(実名。国会議長もつとめた人物)と出会い、
その尽力で、最高裁判での差し戻し、
地裁、高裁での無罪判決の獲得までを描く。
最後に筆者自身の真犯人の指摘までする。

赤松完治は戦前から戦中の連続殺人事件の捜査を通じて
絶対的な名声を得て、多数の表彰を受けている。
二俣事件では物的証拠を無視し、
素行不良の人間たちを延々と取り調べる様子がつづられる。
一方で、部下の面倒をよくみたり、
事件の裁判では、まるで犯行を目撃したかのように証言して
裁判官まで聞き入らせたりする、
カリスマ性のある人物だったようだ。

赤松の証言における少年の犯罪の詳細は、
全て赤松の捏造で、
「犯人しか知り得ぬ事柄」は、
捜査本部にはいくらでも事例はあるので、
捏造は簡単である。

一審、二審では死刑判決を受けたが、
昭和史に残る名弁護士・清瀬一郎がかかわることにより、
最高裁の差し戻しと地裁、高裁での無罪判決を獲得する。
最高裁は「自白の信用性」を争点に原判決を破棄。
差し戻した後の静岡地裁は
「自白の任意性に疑いがある」として無罪判決を出し、
控訴審の東京高裁もこれを支持し、
昭和57年に無罪が確定した。
元少年は無罪判決は得たが、
6年7か月身柄拘束され、
無罪確定までの7年8ヶ月、被告人の立場にあった。
家族は困窮し、塗炭の苦しみをした。
元少年は2008年10月、77歳で死去した。

清瀬一郎は、
GHQに談判して、
拷問禁止の事項を憲法に導入させた人物。
憲法第三十六条に、
「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」
という条文があるが、
「絶対に」と強調をした、異例の条文で、
それも、戦前の警察が
権力を乱用して、拷問をしていたことの反映だろう。
赤松は、その戦前の体質をそのまま引き継いだ人物だったのだ。
浜松は当時全国有数の養蚕地で、
蚕を育てている家がたくさんにあった。
そんな土地から「拷問王」と呼ばれる怪物が生まれたということから、
「蚕の王」というタイトルをつけたという。

紅林麻雄(赤松完治)は担当した事件が次々と差し戻され、
無罪になるのに連動して左遷され、
最後は交番勤務にまで落ちぶれ、
世間や警察内部から非難され精神的に疲弊し、
昭和38年7月に幸浦事件の被告人に対する
無罪判決が確定したことにより、
気力が尽きて警察を引退。
同年9月に脳出血により急死した。

こうして冤罪は暴かれ、
元少年は無罪になったが、
実際殺人は行われ、真犯人はいたはずである。
しかし、警察は、少年を犯人視して以降は
捜査を行わなかったので、
真犯人を探し出すことはできなかった。
また、真犯人の捜査を開始することは、
警察の間違いを認めることになるので、
そうはできなかったのである。

既に書いたように、
筆者自身の指摘する真犯人だが、
既に亡くなった人で、
抗弁のしようがない。
わざわざそんなことをする必要もあるまいに。

被疑者による現場検証に
報道陣が同道し、
写真を撮影するなど、
今とは違う当時の状況が描かれて、興味深かった。