空飛ぶ自由人・2

旅・映画・本 その他、人生を楽しくするもの、沢山

映画『グッド・ナース』

2022年10月31日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]

極めてハイレベルの医療サスペンス

シングルマザーで優秀な看護師のエイミーは、
過酷な仕事をこなす中、
実は重篤な心臓の持病を抱え、
高額な医療費に苦しみつつ、
解雇を恐れて病院には黙っていた。

そんな時、新しい看護師のチャーリーが採用され、
エイミーの部署に配属、
彼女の窮状に対して親身になってかばってくれるようになる。
保険の加入にあと4カ月かかることを知ると、
エイミーを励まし、
子供たちの世話もしてくれるようになった。
2人は固い絆で結ばれた親友同士になり、
エイミーは未来に希望を持てるようになる。

ところが、病院で患者の不審死が相次ぎ、
警察が乗り出すことになった。
しかし、病院側のガードは固く、
薬品投与の記録もわずかしか出さない。
今まで勤めていた9箇所の病院も
チャーリーのことになると、何の情報も提供しない。

そんな中、エイミーは、
死んだ患者に過剰薬物の投与があり、
その薬を引き出したのがチャーリーだという証拠をみつける。
チャーリーの昔の勤務先にいる学友に会うと、
その病院でも不審死が相次ぎ、
チャーリーが辞めた途端に、減ったという。
エイミーは、死に至る薬物を
チャーリーが生理食塩水に混ぜたのではないかと疑うが・・・

エイミーを演ずるのは、ジェシカ・チャステイン


チャーリーは、エディ・レッドメイン


オスカー俳優同士の共演に、
いやがおうにも、画面が引き締まる。
心臓病で時々発作するエイミーの置かれた状況、
親切で思いやりにあふれた優しい性格のチャーリーの
もう一つの顔を持つ複雑性を
二人が演ずると、とてつもなくリアルに見える。

監督はデンマーク出身で、
「偽りなき者」「ある戦争」で
アカデミー賞外国映画賞ノミネート監督のトビアス・リンホルム
脚本は「1917 命をかけた伝令」で
アカデミー賞ノミネート脚本家のクリスティ・ウィルソン=ケアンズ
と、オスカー級のスタッフだから、
映画の質が高い。
刑事役のンナムディ・アサマアノア・エメリッヒ
病院の危機管理担当のキム・ディケンズも見事な脇役演技を見せる。

とにかく始めから終わりまで緊張感が途切れない。
特に、最後の40分間の緊迫は胸が痛くなるほど。

実話。
日本にも似た事件があった。
犯人の動機は最後まで明らかにされないが、
病院が一切の刑事訴追をまぬがれたという現実に唖然とする。

5段階評価の「4」

Netflix で10月26日から配信されたが、
その前の10月21日から、ヒューマントラストシネマ渋谷、イオンシネマ他で上映中。

 


故郷に帰りました

2022年10月30日 23時00分00秒 | 旅行

小旅行2日目。
名古屋の喫茶店のモーニングは、↓この店で。


プラス料金を支払う方式。


↓これがハム玉子サンドのモーニング。

再び新幹線。
三島下車なので、こだまです。


進行方向左側をキープして、
今度はしっかり富士山を見ました。


雪のない富士山は、すっぴんみたいですね。

三島に到着。


ここで伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り換えます。


修善寺まで13駅。

                               

単線です。


駅では交差するため、複線に。


このあたりは農業が盛ん。


伊豆長岡駅に着きました。


ここの名所は↓。


まだSUICAは、到来していないようです。

実は、この駅前で私は誕生しました。


小学校4年までいて、
5年になる時、東京へ。
私のベルファストです。
当時は韮山村といいましたが、
今は伊豆の国市といいます。

10年前、定年退職の報告にお墓参りをして、
旅館に一泊したのですが、
定年退職10周年を機に、再訪を提案したら、
カミさんに断られました。
娘が
「あそこはパパの故郷であって、
ママの故郷じゃない」と。
我が娘はきついことを言います。

事前に調べておいた、


この案内所の後ろにある全国チェーンのレンタサイクルを借りるつもりでしたが、


ネットで調べた使用方法が出来ません。


パネルの形状も違うし、まず電源が入りません。


案内所に言うと、「こちらでやっているわけではないので」と当然の答え。
では、タクシーでお墓参りを、
と方針を変更。


しかし、タクシーが来ないし、電話しても出ない。
仕方ない、歩くか、
と思いつつ、もしやと思って、
案内所で「このあたりで自転車を貸してくれるところはありませんか」
と訊くと、
「こちらで貸し出しています」とのこと。
「予約制で、本当は前日の3時までの申し込みなのですが、
空いているので、お貸しします」。
どこかに書いてあったかなあ。
書類に署名して、説明を受けます。
「時間は4時まで。
4時を越えると超過料金が発生しますが、
お金を払えば延長できる、というものではありません。
必ず4時より少し前に返却して下さい」と。
一体、今までどんな返され方をしていたんでしょうか。


1日借りて1000円。


しかも、電動アシストだ。
この踏み切りを渡って小学校に通っていました。


ここが、その小学校。


昔は3年までの「分校」でしたが、
今では6年まであるようです。
お寺への道は、ここを登ります。


電動アシストなので、すいすい。

ここに母方の祖父と祖母、
伯父さん夫婦と、叔父が眠っています。


長寿の家系だと確認。


その後は反射炉へ。


1840年(天保11年)のアヘン戦争に危機感を覚えた
韮山代官が海防政策の一つとして、
鉄砲を鋳造するために必要な反射炉の建設を建議したもの。
10年前に訪れた時は、
「反射炉を世界遺産に」という看板を見て、
世界遺産のインフレだと、あきれましたが、

本当に世界遺産に登録されてしまった。


「明治日本の産業革命遺産」
だなんて裏技があろうとは。
以前来たことがあるので、
中には入らず、写真のみ。


その後は、畑と富士山を見ながら北上。


4年からは「本校」に通ったため、
こうした風景を見ながら通学したのです。


富士山の前にあんな山があったとは、記憶にありません。
ここは蛭が島公園。(蛭が小島とも)


ということは、狩野川はこのあたりを流れていたのか。


平治の乱で敗れた源頼朝は1160年(永暦元年)に伊豆に配流され、
のちに挙兵するまでの20年近くをこの地で過ごしたとされています。
その間に地方豪族の娘・北条政子と結婚。


しかし、歴史的には「伊豆国に配流」と記録されるのみで、
「蛭ヶ島」というのは後世の記述であり、真偽のほどは不明。
「吾妻鏡」では頼朝の流刑地について「蛭島」とのみ記し、
当地がその地であるかは不明。
まあ、いいでしょう。


頼朝は、雌伏20年後、旗揚げして、平家を滅ぼし、
鎌倉幕府を開きます。
この像は、頼朝と北条政子の像。


その後、韮山城址にある池を眺め、


江川邸へ。


ここも前に来たことがあるので、外側のみ。


江川家は韮山を本拠とした江戸幕府の世襲代官で、
江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)は、
代々の当主の通称。反射炉を作ったのは36代の江川英龍。


日本人ではじめて本格的にパン製造を行った人として、
「パン祖」としても知られています。
江川太郎左衛門の師に当たる高島秋帆の従者に、
長崎のオランダ屋敷に料理方として勤め、
製パン技術を覚えた作太郎という人がいたのを
江川宅に呼び寄せ、
パン焼き窯を作り、1842年4月12日、
記念すべき「兵糧パン」第1号が焼き上げられました。
そこで、4月12日は「パンの記念日」と定められています。

以前、「パネルクイズ アタック25」の
優勝者のヨーロッパ旅行をかけたクイズで、
江川太郎左衛門を当てる問題が出て、驚いたことがあります。
そんなにメジャーな人ではないのに。
優勝者は当てられませんでした。

ここがもう一つの母校。


4年生から1年間通った「本校」です。

ついに校庭に銅像が立つ人物にはなれませんでした。

韮山駅の裏手には、

時代劇場があります。


北条家ゆかりの国である「伊豆の国市」では、
NHK「鎌倉殿の13人」の放送にあたり、
大河ドラマ館が開館しました。

下田街道


「伊豆の踊り子」の登場人物は、この街道を下りました

願成就院(がんじょうじゅいん)。


「吾妻鏡」によると、1189年(文治5年)に


北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、
娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立したといいます。

伊豆長岡駅の近くに戻って来ました。


駅から千歳橋までが幼い頃の私の世界でした。


狩野川にかかる千歳橋


その土手。


ここでゴザすべりをしたり、
対岸でやる花火大会を見たりしました。

3時前に自転車を返却し、
三島行きの電車に乗ります。


三島の新幹線ホームで「事件」が。
そのことは、また今度。


映画『RRR アール・アール・アール』

2022年10月28日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]


                                       
「バーフバリ」シリーズのS・S・ラージャマウリ監督の新作、
と聞けば、観ざるをえない。

1920年、英国植民地時代のインド。
肌に絵を描く技術を持つ少女の才能を見込んだ
英国の総督が無理やり少女を連れ去ってしまう。
村人の要請を受けて少女を救うため立ち上がったビーム。
デリーに出かけ、少女の行方を探るが、なかなか見つからない。

もう一人の主人公は、
英国政府の警官となったラーマ。
活動家の救済を求める住民との闘いで活躍したラーマは、
村が放った奪回者ビームの捜索に抜擢され、出世をかける。
実は、ラーマには秘められた思いがあり、
警察での出世を望むのは、
その計画ゆえのものだった。

その宿敵ともいえる二人が
一人の少年の命を救うために力を合わせ、
無二の親友になる。
お互いが追う者、追われる者であるとも知らずに。

しかし、ある時、ビームの正体がばれ、
ラーマは友情と使命の狭間で苦しむことになる・・・

「バーフバリ」が架空の王国の話だったのに対して、
本作は100年前、英国が植民地支配するインド。
イギリス人たちは徹頭徹尾悪辣非道な悪人として描かれ、
これは反英映画だといえる。
イギリスでは上映されるのだろうか。
インド系のスナク氏がイギリス首相に就任したのは、
微妙な適合。

見どころと期待は、そのスーパー・アクション
見たことのないような場面が次々と繰り広げられる。
たった一人で群衆の中に飛び込み、闘う姿。


炎に包まれる少年を助けるために、
宙づりになり、空中で手を取り合う二人。


少女を救うために、屋敷に動物たちを放ち、
そのさなか、少女を連れ出そうとする計画。

死刑執行の間際、縄を解き、警察官たちを次々と倒していく。
冷血の総督夫妻の立てこもる豪邸に
馬とバイクで向かい、最後の闘いを挑む二人。


そして、拷問に耐えながら、
決して敵に屈することのないビームの歌う歌。
ケレン味たっぷりの描写が胸をゆさぶる。


音楽がそれを助ける。
インド映画ほど音楽での盛り上がりに長けている国を知らない。
アクションだけでなく、
男の友情と祖国愛が背景を貫き、
植民地支配からインドを解放するための闘いが胸を焦がす。
血湧き肉躍る、とはこのことだ。
映画は、こうでなくっちゃ

ビームを演ずるN・T・ラーマ・ラオ・Jr. 
ラーマを演ずるラーム・チャランは
二人とも知らない俳優だが、

その肉体美、面構え、苦悶の演技が素晴らしい。
二人のためにダンスシーンが用意されており、
早送りではないかと疑念を持つほど
キレッキレなダンスを披露する。


そのダンスシーンは違和感なく必然として挿入されており、
物語を歌でつなぐ手法はいつものとおり。

3時間の大作で、
インドでは休憩が入るが、
日本では通して上映。

タイトルの「RRR」は、
「Rise(蜂起)」「Roar(咆哮)」「Revolt(反乱)」
の頭文字を取ったもの。

5点満点の「4」


新宿ピカデリー他で上映中。


演劇『ハリー・ポッターと呪いの子』

2022年10月26日 23時00分00秒 | 身辺雑記

今日は、赤坂↓ヘ出かけ、

娘と一緒にタイ料理↓を食べた後、

ここ↓へ。

TBS赤坂ACTシアター

舞台「ハリー・ポッターと呪いの子」を上演中。

劇場へ向かう階段には、
ハリー・ポッターの世界ヘ誘う様々なオブジェが。

本日の出演者の名前は、
↓こんな風に本の背中に書かれている。

開演前と休憩時, 終演後は
舞台を撮っていいという、 イキな計らい。

J.K.ローリングの「ハリー・ポッター」シリーズの第8作目は、
本ではなく、舞台版としての登場。


ローリング、ジャック・ソーン、ジョン・ティファニーの3人がストーリーを作り、
ジャック・ソーンが脚本として完成。
演出を手掛けるのはミュージカル「ワンス」で
トニー賞の最優秀演出家賞に輝いたジョン・ティファニー


ローレンス・オリヴィエ賞では、
新作作品賞、演出賞、主演男優賞、助演男優賞、助演女優賞、
ラインティング・デザイン賞、コスチューム・デザイン賞、サウンド・デザイン賞、
セット・デザイン賞の、史上最多の9部門を獲得
トニー賞では、演劇部門の作品賞、演出賞、装置デザイン賞、衣装デザイン賞、
照明デザイン賞、音響デザイン賞の6部門で受賞

ロンドンで2016年に開幕し、
ニューヨーク、サンフランシスコ、オーストラリア・メルボルン、
ドイツ・ハンブルク、カナダ・トロントの6都市で上演。

↓は、ニューヨークの劇場。

私が撮影。

「1部2部同時上演」と書かれています。


東京公演はアジア圏としては初めて、世界では7番目の上演となった。
ロンドンでは前編と後編を2本の芝居で見せる
2部制で上演されたが、
ブロードウェイにおいて前編を第1部、後編を第2部とする新バージョンが誕生。
だから、普通の作品(2時間半)より長く、
上演時間は休憩を含めて3時間40分

TBS60周年記念として、
ホリプロが制作を担当し、
劇場を大規模改修した
ハリー・ポッター専用劇場にて上演される。
上演期間無制限のロングラン形式。
ハリー・ポッター役を藤原竜也・石丸幹二・向井理のトリプルキャストで演じる。


本日のハリーは石丸幹二。

物語は、「ハリー・ポッターと死の秘宝」の19年後を描く。
魔法省の重役となったハリー・ポッターは、
37歳で、いまや三人の子の父親。
(ロンの妹のジニーと結婚。
 ロンはハーマイオニーと結婚し、
 ハーマイオニーは魔法大臣、
 ロンはいたずら道具専門店オーナー。)

ホグワーツ魔法魔術学校に入学するハリーの次男のアルバスを
見送る場面から始まり、
アルバスが4年生になるまでが描かれる。


アルバスは魔法学校の入学式に向かうホグワーツ特急の車内で、
の少年と出会う。
彼は、父ハリーと犬猿の仲である
ドラコ・マルフォイの息子、スコーピウスだった。

「逆転時計を使った過去の改変」が主なテーマで、
昔、三大魔法学校対抗試合で陰謀で殺されたセドリックを蘇らせるために、
アルバスとスコーピウスは、
逆転時計を使って過去に戻り、
セドリックの命を助けようとするが、
過去をいじったために、
元の世界が変わってしまう。
校長が交代していたり、ロンとハーマイオニーが結婚していなかったり、
ロンの娘が誕生さえしていなかったり、
果ては、ハリーさえ、殺され、存在しない。
その改変された世界を元に戻すために、
アルバスとスコープウスは、
逆転時計を使って度々過去に戻るが、
ついに、過去にとらわれたまま、
戻ってこれなくなる。
救出を求めてハリーと、ある方法を使って、
いる時と場所を伝えようとするが・・・

小説7作に登場する主要登場人物が年齢を重ねた姿で登場するほか、
死んだキャラクターも、
タイムスリップした際や、
改変が行われたあとの世界などでふたたび姿を現す。
ハリーの父母のことや魔法学校、敵のヴォルデモート、
ハリーとハーマイオニー、ロンの三人の関係など、
最低限の知識は必要だ。

事前にストーリーを読んだ時、
この複雑な話を、どうやって舞台で展開するのか、不思議に思ったが、
精密な舞台機構と、大ネタ小ネタ繰り出しての技術力で乗り切った。
特に、第1部の終幕、
死喰い人の造形は素晴らしいの一言。

最大の魅力は、「ハリー・ポッター」の世界観を
劇場で体感できること
小説の世界に入り込んだような舞台美術と衣裳、
次から次へと飛び出す魔法の数々、
知恵と技術を結集して創り上げた独創的な舞台。
音楽、サウンド、照明、体感する全てが、観客を魔法の空間にいざなう。
どんな稽古をし、
どうやって技術面との整合を取り、
どんな舞台リハーサルを繰り返したのか。
一つタイミングを外せば、
滅茶苦茶になってしまうのだから、
細心の苦労があっただろう。
しかも、舞台にのぼった30人の俳優が、
沢山の役をこなしながら、
舞台の暗転時、装置の出し入れも担当し、
転換も見事に素晴らしい。

技術面だけではない。
ハリーと息子の葛藤が物語の柱になっている。
英雄の息子であるプレッシャーに苦悩するアルバス、
子供との向き合い方に悩むハリー、
そしてアルバスとドラコの息子のスコーピウスとの友情。
素晴らしい人間ドラマとしても観られる。
ただ、セリフはもう少し抑えられなかったか。

才能ある脚本家、演出家、舞台装置家、技術陣が結集して初めて実現した舞台空間。
17000円が安い、と思える久しぶりの演劇体験だった。

舞台劇の脚本はシリーズの第8巻として書籍化されている。

 


野田さんの追悼演説

2022年10月25日 23時00分00秒 | 政治関係

本日の衆議院本会議で、
安倍晋三元首相に向けた追悼演説が行われた。
演説に臨んだのは、立憲民主党の野田佳彦元首相。


党首経験者クラスの追悼演説は対立政党党首が行う慣例となっている。
(例外あり)
追悼演説が今頃になったのは、
当初、8月の国会で
自民党の甘利氏がすることになっていたが、
反対の声が上がり、
10月まで延期になったため。

かつて野党時代の自民党総裁だった安倍氏と、
首相だった野田氏は、
党首討論の場で、
衆議院の解散をめぐる“真剣勝負”に臨んだ間柄。
この党首討論で野田氏が衆議院の解散を明言し、
その結果民主党が敗北、
安倍氏が首相に就任した、という因縁がある。
そのことにも触れた野田氏の23分に及ぶ追悼演説は、
国葬時の菅さんの追悼の言葉に匹敵する
感動的な内容だった。

その全文を掲載する。

本院議員、安倍晋三元内閣総理大臣は、
去る7月8日、参院選候補者の応援に訪れた奈良県内で、
演説中に背後から銃撃されました。
搬送先の病院で全力の救命措置が施され、
日本中の回復を願う痛切な祈りもむなしく、
あなたは不帰の客となられました。
享年67歳。
あまりにも突然の悲劇でした。

政治家としてやり残した仕事。
次の世代へと伝えたかった想い。
そして、いつか引退後に昭恵夫人と共に過ごすはずだった穏やかな日々。
すべては、一瞬にして奪われました。
政治家の握るマイクは、単なる言葉を通す道具ではありません。
人々の暮らしや命がかかっています。
マイクを握り日本の未来について前を向いて訴えている時に、
後ろから襲われる無念さはいかばかりであったか。
改めて、この暴挙に対して激しい憤りを禁じ得ません。

私は、生前のあなたと、政治的な立場を同じくするものではありませんでした。
しかしながら、私は、前任者として、
あなたに内閣総理大臣のバトンを渡した当人であります。
我が国の憲政史には、101代64名の内閣総理大臣が名を連ねます。
先人たちが味わってきた「重圧」と「孤独」を
我が身に体したことのある一人として、
あなたの非業の死を悼み、哀悼の誠を捧げたい。
そうした一念のもとに、ここに、皆様のご賛同を得て、
議員一同を代表し、謹んで追悼の言葉を申し述べます。

安倍晋三さん。
あなたは、昭和29年9月、
後に外務大臣などを歴任された安倍晋太郎氏、洋子様ご夫妻の二男として、
東京都に生まれました。
父方の祖父は衆議院議員、
母方の祖父と大叔父は後の内閣総理大臣という政治家一族です。
「幼い頃から身近に政治がある」という環境の下、
公のために身を尽くす覚悟と気概を学んでこられたに違いありません。
成蹊大学法学部政治学科を卒業され、
いったんは神戸製鋼所に勤務したあと、
外務大臣に就任していた父君の秘書官を務めながら、
政治への志を確かなものとされていきました。
そして、父晋太郎氏の急逝後、
平成5年、当時の山口1区から衆議院選挙に出馬し、
見事に初陣を飾られました。
38歳の青年政治家の誕生であります。
私も、同期当選です。
初登院の日、国会議事堂の正面玄関には、
あなたの周りを取り囲む、ひときわ大きな人垣ができていたのを
鮮明に覚えています。
そこには、フラッシュの閃光を浴びながら、
インタビューに答えるあなたの姿がありました。
私には、その輝きがただ、まぶしく見えるばかりでした。

その後のあなたが政治家としての階段を
またたく間に駆け上がっていったのは、
周知のごとくであります。
内閣官房副長官として
北朝鮮による拉致問題の解決に向けて力を尽くされ、
自由民主党幹事長、内閣官房長官といった要職を若くして歴任したのち、
あなたは、平成18年9月、
第90代の内閣総理大臣に就任されました。
戦後生まれで初。齢52、最年少でした。

大きな期待を受けて船出した第一次安倍政権でしたが、
翌年9月、あなたは、激務が続く中で持病を悪化させ、
1年あまりで退陣を余儀なくされました。
順風満帆の政治家人生を歩んでいたあなたにとっては、
初めての大きな挫折でした。
「もう二度と政治的に立ち上がれないのではないか」
と思い詰めた日々が続いたことでしょう。

しかし、あなたは、そこで心折れ、
諦めてしまうことはありませんでした。
最愛の昭恵夫人に支えられて体調の回復に努め、
思いを寄せる雨天の友たちや
地元の皆様の温かいご支援にも助けられながら、
反省点を日々ノートに書きとめ、捲土重来を期します。
挫折から学ぶ力とどん底から這い上がっていく執念で、
あなたは、人間として、政治家として、
より大きく成長を遂げていくのであります。

かつて「再チャレンジ」という言葉で、
たとえ失敗しても何度でもやり直せる社会を提唱したあなたは、
その言葉を自ら実践してみせました。
ここに、あなたの政治家としての真骨頂があったのではないでしょうか。
あなたは、「諦めない」「失敗を恐れない」ということを
説得力もって語れる政治家でした。
若い人たちに伝えたいことがいっぱいあったはずです。
その機会が奪われたことは誠に残念でなりません。

5年の雌伏を経て平成24年、
再び自民党総裁に選ばれたあなたは、
当時内閣総理大臣の職にあった私と、
以降、国会で対峙することとなります。

最も鮮烈な印象を残すのは、平成24年11月14日の党首討論でした。
私は、議員定数と議員歳費の削減を条件に、
衆議院の解散期日を明言しました。
あなたの少し驚いたような表情。
その後の丁々発止。
それら一瞬一瞬を決して忘れることができません。
それは、与党と野党第一党の党首同士が、
互いの持てるものすべてを賭けた、
火花散らす真剣勝負であったからです。

安倍さん。
あなたは、いつの時も、手強い論敵でした。
いや、私にとっては、仇のような政敵でした。

攻守を代えて、
第96代内閣総理大臣に返り咲いたあなたとの主戦場は、
本会議場や予算委員会の第一委員室でした。
少しでも隙を見せれば、容赦なく切りつけられる。
張り詰めた緊張感。
激しくぶつかり合う言葉と言葉。
それは、1対1の「果たし合い」の場でした。
激論を交わした場面の数々が、ただ懐かしく思い起こされます。

残念ながら、再戦を挑むべき相手は、もうこの議場には現れません。

安倍さん。
あなたは議場では「闘う政治家」でしたが、
国会を離れ、ひとたび兜を脱ぐと、
心優しい気遣いの人でもありました。
それは、忘れもしない、
平成24年12月26日のことです。
解散総選挙に敗れ敗軍の将となった私は、皇居で、
あなたの親任式に、前総理として立ち会いました。
同じ党内での引継であれば談笑が絶えないであろう控室は、
勝者と敗者の二人だけが同室となれば、
シーンと静まりかえって、気まずい沈黙だけが支配します。
その重苦しい雰囲気を最初に変えようとしたのは、
安倍さんの方でした。
あなたは私のすぐ隣に歩み寄り、
「お疲れ様でした」と明るい声で話しかけてこられたのです。
「野田さんは安定感がありましたよ」
「あの『ねじれ国会』でよく頑張り抜きましたね」
「自分は5 年で返り咲きました。
あなたにも、いずれそういう日がやって来ますよ」
温かい言葉を次々と口にしながら、
総選挙の敗北に打ちのめされたままの私をひたすらに慰め、
励まそうとしてくれるのです。
その場は、あたかも、傷ついた人を癒やすカウンセリングルームのようでした。
残念ながら、その時の私には、
あなたの優しさを素直に受け止める心の余裕はありませんでした。
でも、今なら分かる気がします。
安倍さんのあの時の優しさが、どこから注ぎ込まれてきたのかを。

第一次政権の終わりに、失意の中であなたは、
入院先の慶応病院から、傷ついた心と体にまさに鞭打って、
福田康夫新総理の親任式に駆けつけました。
わずか1年で辞任を余儀なくされたことは、
誇り高い政治家にとって耐え難い屈辱であったはずです。
あなたもまた、絶望に沈む心で、
控え室での苦しい待ち時間を過ごした経験があったのですね。
あなたの再チャレンジの力強さとそれを包む優しさは、
思うに任せぬ人生の悲哀を味わい、
どん底の惨めさを知り尽くせばこそであったのだと思うのです。

安倍さん。
あなたには、謝らなければならないことがあります。
それは、平成24年暮れの選挙戦、
私が大阪の寝屋川で遊説をしていた際の出来事です。
「総理大臣たるには胆力が必要だ。途中でお腹が痛くなってはダメだ」
私は、あろうことか、高揚した気持ちの勢いに任せるがまま、
聴衆の前で、そんな言葉を口走ってしまいました。
他人の身体的な特徴や病を抱えている苦しさを揶揄することは許されません。
語るも恥ずかしい、大失言です。
謝罪の機会を持てぬまま、時が過ぎていったのは、
永遠の後悔です。
いま改めて、天上のあなたに、深く、深くお詫びを申し上げます。

私からバトンを引き継いだあなたは、
7年8か月あまり、内閣総理大臣の職責を果たし続けました。
あなたの仕事がどれだけの激務であったか。
私には、よく分かります。
分刻みのスケジュール。
海外出張の高速移動と時差で疲労は蓄積。
その毎日は、政治責任を伴う果てなき決断の連続です。
容赦ない批判の言葉の刃も投げつけられます。
在任中、真の意味で心休まる時などなかったはずです。
第一次政権から数え、通算在職日数3188日。
延べ196の国や地域を訪れ、
こなした首脳会談は1187回。
最高責任者としての重圧と孤独に耐えながら、
日本一のハードワークを誰よりも長く続けたあなたに、
ただただ心からの敬意を表します。

首脳外交の主役として特筆すべきは、
あなたが全くタイプの異なる二人の米国大統領と
親密な関係を取り結んだことです。
理知的なバラク・オバマ大統領を巧みに説得して広島にいざない、
被爆者との対話を実現に導く。
かたや、強烈な個性を放つドナルド・トランプ大統領の懐に飛び込んで、
ファーストネームで呼び合う関係を築いてしまう。
あなたに日米同盟こそ日本外交の基軸であるという確信がなければ、
こうした信頼関係は生まれなかったでしょう。
ただ、それだけではなかった。
あなたには、人と人との距離感を縮める天性の才があったことは間違いありません。

安倍さん。
あなたが後任の内閣総理大臣となってから、
一度だけ、総理公邸の一室で、密かにお会いしたことがありましたね。
平成29年1月20日、通常国会が召集され政府演説が行われた夜でした。
前年に、天皇陛下の象徴としてのお務めについて
「おことば」が発せられ、
あなたは野党との距離感を推し量ろうとされていたのでしょう。
二人きりで、陛下の生前退位に向けた環境整備について、
1時間あまり、語らいました。
お互いの立場は大きく異なりましたが、
腹を割ったざっくばらんな議論は次第に真剣な熱を帯びました。
そして、
「政争の具にしてはならない。
国論を二分することのないよう、
立法府の総意を作るべきだ」
という点で意見が一致したのです。
国論が大きく分かれる重要課題は、
政府だけで決めきるのではなく、
国会で各党が関与した形で協議を進める。
それは、皇室典範特例法へと大きく流れが変わる潮目でした。

私が目の前で対峙した安倍晋三という政治家は、
確固たる主義主張を持ちながらも、
合意して前に進めていくためであれば、
大きな構えで物事を捉え、飲み込むべきことは飲み込む。
冷静沈着なリアリストとして、柔軟な一面を併せ持っておられました。
あなたとなら、国を背負った経験を持つ者同士、
天下国家のありようを腹蔵なく論じあっていけるのではないか。
立場の違いを乗り越え、
どこかに一致点を見出せるのではないか。
以来、私は、そうした期待をずっと胸に秘めてきました。

憲政の神様、尾崎咢堂は、
当選同期で長年の盟友であった犬養木堂を
五・一五事件の凶弾で喪いました。
失意の中で、自らを鼓舞するかのような天啓を受け、かの名言を残しました。
「人生の本舞台は常に将来に向けて在り」
安倍さん。
あなたの政治人生の本舞台は、
まだまだ、これから先の将来に在ったはずではなかったのですか。
再びこの議場で、あなたと、
言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合い、
火花散るような真剣勝負を戦いたかった。
7年8か月、あなたの政権が続く間、
私はずっと「前内閣総理大臣」と呼ばれ続けました。

勝ちっ放しはないでしょう、安倍さん。

耐え難き寂莫の念だけが胸を締め付けます。
この寂しさは、決して私だけのものではないはずです。
どんなに政治的な立場や考えが違っていても、
この時代を生きた日本人の心の中に、
あなたの在りし日の存在感は、
いま大きな空隙となって、とどまり続けています。

その上で、申し上げたい。
長く国家の舵取りに力を尽くしたあなたは、
歴史の法廷に、永遠に立ち続けなければならない運命(さだめ)です。
安倍晋三とはいったい、何者であったのか。
あなたがこの国に遺したものは何だったのか。
そうした「問い」だけが、いまだ宙ぶらりんの状態のまま、
日本中をこだましています。
その「答え」は、長い時間をかけて、
遠い未来の歴史の審判に委ねるしかないのかもしれません。
そうであったとしても、私はあなたのことを、問い続けたい。
国の宰相としてあなたが遺した事績をたどり、
あなたが放った強烈な光も、その先に伸びた影も、
この議場に集う同僚議員たちとともに、
言葉の限りを尽くして、問い続けたい。
問い続けなければならないのです。

なぜなら、
あなたの命を理不尽に奪った暴力の狂気に打ち勝つ力は、
言葉にのみ宿るからです。
暴力やテロに、民主主義が屈することは、絶対にあってはなりません。
あなたの無念に思いを致せばこそ、
私たちは、言論の力を頼りに、
不完全かもしれない民主主義を、
少しでも、よりよきものへと鍛え続けていくしかないのです。 

最後に、議員各位に訴えます。
政治家の握るマイクには、人々の暮らしや命がかかっています。
暴力に怯まず、臆さず、街頭に立つ勇気を持ち続けようではありませんか。
民主主義の基である、自由な言論を守り抜いていこうではありませんか。
真摯な言葉で、建設的な議論を尽くし、
民主主義をより健全で強靱なものへと育てあげていこうではありませんか。

こうした誓いこそが、
マイクを握りながら、不意の凶弾に斃れた故人へ、
私たち国会議員が捧げられる、何よりの追悼の誠である。
私はそう信じます。

この国のために、「重圧」と「孤独」を長く背負い、
人生の本舞台へ続く道の途上で天に召された、安倍晋三元内閣総理大臣。
闘い続けた心優しき一人の政治家の御霊に、
この決意を届け、
私の追悼の言葉に代えさせていただきます。

安倍さん、どうか安らかにお眠りください。 

                   
歴史に残る名演説

歴史に残る名演説。
総理大臣という職の重さを実感し、
政治的に敵であっても敬意を忘れない。
相手を非難罵倒することだけに腐心する、
小粒の国会議員たちよ、

この志を聞け。