空飛ぶ自由人・2

旅・映画・本 その他、人生を楽しくするもの、沢山

短編集『老神介護』

2024年07月23日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介]


 
「三体」(2008)で世界を震撼させた
中国のSF作家・劉慈欣(リュウ・ジキン)が
それ以前に書いた短編を集めた本。
驚天動地のSF世界を構築する。

「老神介護」

ある日、地球の空を覆って現れた
2万1513隻の宇宙船から
次々地球に降り立ったみすぼらしい老人たちが、こう言う。
「わしらは神じゃ。
 この世界を創造した労に報いると思って、
 食べものを少し分けてくれんかの」
話を聞いてみると、三十億年前に
地球に生命を植え付け、
その進化を見つめていたという。
恐竜という失敗例もあるが、
人類が生まれたことにより、
地球は高度な文明を築いた。
浮浪者のような老人たちの姿に
人々はその事実を疑うが、
老人たちの言う通り、
地中から監視機械が出てきたことや、
最初の地球生命の設計図や
太古の地球の映像を見せられたりすることにより、
彼らが生命を創造した神々であることを、
認めざるを得なくなる。
国連事務総長は、
この老神たちを扶養するのは人類の責任だと認め、
二十億柱の神は、十五億の家庭に受け入れられることになる。
彼らの高度な科学的知識を提供することと引き換えに。

神文明は地球が生まれるずっと前から存在し、
誕生したばかりの地球に生命を育てた。
老神たちの遠い先祖の遺伝子を植え付け、
地球には、神たちとそっくりの種属が生まれ、
文明が発展した。

一方、神文明は晩年を迎え、
自分たちの最後の時を
過去の記憶に残る
家族たちとの中で過ごしたいというのだ。

しかし、ほどなく、彼らの科学的知識が高度すぎて、
地球人の手に負えないことが分かる。
それと共に神々と地球人の蜜月は終わりを告げ、
ただ食べて寝るだけの老いぼれたちを
人類は持て余すようになる。
二十億もの余分な人口を抱えるようになった地球。
彼らは何の価値も創造しない超老人、
その上、大半が病気持ちで、
人類にとって未曽有の重荷となり、
世界経済は崩壊寸前となる。

それは神たちに対する虐待に発展し、
家を追われた老神たちは、
自分たちの寄り集うコロニーに逃げ込む。
やがて、決断した老神たちは、
待機していた宇宙船に再び乗り込み、
地球を去っていく・・・

という話を神を受け入れた中国の一家庭を中心に描く。

何と言う卓抜な発想と豊かな想像力
しかも、宇宙の創造、生命の進化だけでなく、
人類の抱える老齢化問題をも含んでいる。
この作を天才の所業といわず、何と言おうか。

「扶養人類」

「老神介護」の後日談。
実は、老神は、地球を去る前に、
驚くベき事実を告げていた。
老神たちが創造した地球が他にもあるというのだ。
人類以外に、同じように文明が発展した地球が3つ存在し、
今の地球は一番若く、第四地球という。

その「兄地球」が地球に来訪して来た。
まず一隻が先遣隊として到着し、
数年後に到着する1万隻には、十億人が乗っているという。
兄地球の人口は、20億人。
一人に富が集中し、
あとは全員貧乏人という特殊な世界を形成していた。

という話に並行して、
ある狙撃者の訓練の話、
13人の大富豪による
貧乏人に対する施し、
(それは、兄地球人に対する第四地球の富の平等を示すものだという)
それに従わない者は、
狙撃者によって殺戮される。

これも天才の所業。
しかも、富の偏在に対する強烈な皮肉が込められている。

「白亜紀往事」

人類が登場するはるか昔の6500万年前。
地球には、恐竜と蟻が共存していた。
恐竜の二つの帝国と、蟻の国。
それぞれは危うい均衡の上に成り立っていた。

恐竜・蟻サミットで、
蟻世界は恐竜世界に対して、
全ての核兵器を廃棄するように求めるが、
この要求が拒絶された結果、
蟻たちがストライキに突入する。

これで困ったのは恐竜たち。
体が大きすぎて、
配線一つつなげることが出来ない。
恐竜世界のすべての工場で蟻が働き、
恐竜が作れない微小部品の製造や
精密機械の操作と修理を担当していた。
医学も同様。
恐竜の手術は、蟻の医師が恐竜の体内に入って行う。

恐竜と蟻の対立は、ついに破綻し、
恐竜帝国の核兵器が作動し、
地球は滅亡する

それを阻止しようとする蟻の奮闘がめざましい。
核兵器の解除信号を出すため、
使えない翻訳機の代わりに、
蟻の作る人文字で伝達しようとする涙ぐましい努力など。

残った蟻が、
「恐竜のように大きすぎず、
蟻のように小さすぎない動物」の台頭を予言して終わる。
その結果として、現れた人類も、似た道をたどろうとしている。

「彼女の眼をつれて」

休暇を申請すると、許可された際の条件が、
「目を連れていくこと」。
宇宙服を着て作業している若い女性の目と連動した眼鏡を装着しての旅行。
旅行先の自然や花々に女性は感動の声を上げる。
苛酷な環境の中、
短調な作業をしている女性に束の間の平安を与えようという
その試みは成功したように見える。

最後に、その女性のいる意外な環境が明らかになる。

5篇中、最も叙情的な作品。
筆者は気に入らないらしいが、
指示する読者は多い。

「地球大砲」

末期白血病の科学者が
治療法が確立する時を求めて、
凍結冬眠する。
予定より長く、74年の冬眠から目覚めると、
何やら不穏な雰囲気があり、
囚われの身となる。
どうやら眠っている間に、
科学者の息子が何かどえらいことをしたらしいのだ。
そして、拉致された科学者は、
地球の穴に放り込まれる。
それは地球を貫くトンネルで、
自然落下して、地球の反対側に至るのだ。
マントル層を通過し、地球の核をも通る。
そして・・・

この話に「彼女の眼をつれて」がからんでくる。

5篇全て、
そのスケール、着眼点、展開が
並のSFを越えている
天才にしか書けない世界。
そこらへんの「SF作家」が裸足で逃げ出すような作品群。
さすが「三体」の作者。
眼がくらむような思いで楽しませてもらった。

兄弟作として「流浪地球」があるが、
それが宇宙編ならこちらは地球編。

現在61歳の劉慈欣。
まだまだ驚くようなSFを読ませてくれそうだ。

訳者あとがきにあった「小衆文化」という言葉が興味深い。
「大衆文化」の対義語で、
2000年代、SFはまぎれもない「小衆文化」であったが、
今は、「大衆文化」を飛び越えて、
「主流文学」の一部になったという。
中国では。

それに続く劉慈欣のエッセイで、
「われわれはいま、人々のはるか先頭に立ち、
 世界が追いつくのを
 辛抱強く待っている」
という言葉も味わい深い。


映画『フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン』と『カプリコン・1』

2024年07月22日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]

1969年のアメリカ。
宇宙開発競争でソ連に遅れを取ったアメリカは、
ケネディ大統領が提唱した
人類初の月面着陸を目指す
「アポロ計画」に全ての望みをかけていた。
しかし、プロジェクトの開始から8年が過ぎ、
失敗続きのNASA(アメリカ航空宇宙局)に、
国民の関心は薄れつつあり、
その莫大な予算が議会で問題にされていた。
その状況を打開すべく、
ニクソン大統領の側近モーは、
PRマーケティングのプロであるケリーを起用する。
ケリーは月面着陸に携わるスタッフに
そっくりな役者たちをメディアに登場させて
偽のイメージ戦略を仕掛けていくが、
NASAの発射責任者コールはそんな彼女のやり方に反発する。

いよいよアポロ11号の月面着陸の計画が進む中、
モーは万一失敗した時のために、
バックアッププランとして、
月面着陸のフェイク映像を準備するという
前代未聞の極秘ミッションをケリーに告げる。

実はケリーには秘密の過去があり、
受けざるを得ない。
ケリーの知人の監督が起用され、
NASAの構内に月面のセットが組まれ、
俳優の訓練も始まり、
撮影の準備は着々と進むが、
コールの知るところとなり、
阻止計画も密かに進行する。
やがて、モーは、
月面着陸の成功にかかわらず、
フェイク映像を使うと言いだして・・・・

アポロ11号は月に行っておらず、
月面着陸の映像はセットで撮影された偽物だ、
という都市伝説は根強く、
なにしろ当時、ソ連からも
負け惜しみのように喧伝された。
今でも陰謀説を信じている人はいる。

これを題材にした映画は、既にあり、
有名な「カプリコン・1」(ただし、火星着陸の話。 後述)、
フランス、ベルギー合作の「ムーン・ウォーカーズ」(2015)や
日本未公開の「operation Avalanche 」などがある。

なぜ同じ題材を、と思ったら、
アプローチが全く違う。
ほう、そういう方向に向かうか、
と途中から着地点が分からなくなった。

ケリーをスカーレット・ヨハンソン
コールをチャニング・テイタムが演じ、
モー役でウッディ・ハレルソンが共演するという
超一流の俳優を揃えたのも、
見どころの一つ。
監督はグレッグ・バーランティ

問題の月面着陸の場面では、
本物の映像と偽の映像のどちらが放送されているのか
分からなくなったりする。
そして、驚くようなハプニングがスタジオに起こり・・・
これはなかなか面白い。
伏線も用意されている。
もしそれが放送されていたら、
世界中びっくり仰天しただろう。
その方が歴史に残ったりして。

フェイク作戦が始まるのは、映画の半分あたりから。
それまではケリーとコールの
反発しあいながら引き合う、恋模様で進む。
この部分、もう少し短くできなかったか。

格納庫から発射台に運ばれるロケットの姿や
打ち上げの映像は臨場感たっぷり。
NASAの設備や構築物もリアル感があった。

5段階評価の「4」

拡大上映中。

なお、終盤に流れる曲「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」は、
ジャズのスタンダード・ナンバー
「私を月に連れて行って」といった意味。
1954年に作詞家・作曲家のバート・ハワードによって作られた曲。
ただ、最初のタイトルは「イン・アザー・ワーズ」(「他の言葉で言えば」)。

Fly me to the moon
And let me play among the stars 
Let me see what Spring is like
On Jupiter and Mars 
in other words,hold my hand!  
in other words,darling kiss me! 

様々な歌手によって歌われ、
1956年、ジョニー・マティスがアルバムに収録する際に初めて
「Fly Me to the Moon」の題が登場した。
1963年にペギー・リーが作者を説得し、
名前変更したというエピソードがある。
日本では1963年、森山加代子が「月へ帰ろう」 、
中尾ミエが「月夜にボサノバ」 のタイトルで、
日本語詞でカバーしている。

[旧作を観る]

監督  ピーター・ハイアムズ
主演  エリオット・グールド
音楽  ジェリー・ゴールドスミス
                                        1978年公開の米英合作映画。
日本では1977年に先行公開。
私は公開時に観ているが、
今回「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」公開にあたり、再見。

「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」は月面着陸だが、
こちらは、火星着陸の話。

人類初の有人火星探査を目的とした
宇宙船カプリコン1号が打ち上げられようとしていた。
カウントダウンが始まり、発射の数分前、
ハッチが開き、
三人の乗組員に退出命令が出される。
三人は、管制スタッフや見物客などに見つからぬように
船内から連れ出されて車に乗せられ、
砂漠の真ん中にある無人の古い基地へと連れていかれる。
ロケットは無人のまま打ち上げられてしまう。

三人は計画の責任者であるケラウェイ博士から、
事情の説明を受ける。
2か月前、
カプリコン・1 の生命維持システムに決定的な不具合があることが発覚し、
当初予定していた計画の遂行が不可能となった。
しかし計画の中止は、NASAの予算が大幅に削減される契機となるため、
何としても避けねばならない。
もっと大きな理由は、
「国家の威信をかけたプロジェクトを失敗させるわけにはいかない」というものだ。
そのため、無人のままのカプリコン・1 を火星に向かわせつつ、
その事実を隠し、飛行士が乗船していたと見せかけるというものだ。

人々と科学を裏切る結果になることを嫌った飛行士達は最初は
この命令を拒否するが、
家族の安全を人質に取られ、やむなく承服する。
こうして彼らは、
火星探査や地球との通信の様子などをセットの前で撮影し、
世界に公開するという大芝居に協力することとなる。
探査機から火星に降り立つ時は、
スローモーション技術を使ったりもする。
「息子に自分が火星に行ってきたと本当に言えるか」
と彼らの苦悩は深まる。

カプリコン・1による人類初の火星着陸は、
それが捏造であると明るみに出ることもなく、
滞り無く進行していくが、
帰還船が地球への再突入のショックにより
熱遮蔽板がはがれ、破壊、炎上してしまう。
三人の飛行士は存在してはならない人間になってしまったのだ。
その報告を受けた三人は、
身の危険から逃れるために砂漠の基地から脱出を図る。
奪った飛行機で荒野に不時着した三人は、
追究を逃れるため、別々な方向に逃走していく。

これに、NASAに勤める友人から、
本計画に妙な点があると告げられていた記者が、
行方不明になった友人の後を辿りつつ、
飛行士の一人の妻を取材し、
宇宙船からの夫の発言ののヒントから、
火星着陸そのものが捏造だった疑いを持つ。

2時間ほどの映画だが、
着陸映像捏造の話は半分の1時間ほどで終わり、
後は、三人の逃避行の話になる。
記者による謎解きなどミステリー要素も加わる。

当初はNASAは協力的だったが、
途中で内容を知ってから協力を拒否した。
それは、「新幹線大爆破」(1975)で、


内容を知った当時の国鉄が協力を拒否し、
新幹線での撮影が出来なくなり、
セットを作らざるをえなかったのを想起させる。
「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」では、
NASAの協力を得られたという。
それは、映画を観れば分かる。

当時のコンピューターの
文字ばかりの白黒画面が出ると、
時代の進化を感ずる。
製作当時、CGもなく、
ステディカムも存在せず、
ドローンもまだ発明されていない時代のもので、
およそ50年の間に、
カメラワークを含め、
映像技術が進化したことが改めて分かる。
今だったら、こう撮っただろうという場面が随所に登場する。
そういう意味で興味深い再見だった。

 


芝大神宮と氷川神社

2024年07月21日 23時00分00秒 | 名所めぐり

「東京十社」というのがあるのを知り、


5つは行ったことがあるので、
残りの5つを順に回ろうと思い、
まず、増上寺に近い
芝大神宮にまいりました。

新橋駅近く、最寄りの駅は都営浅草線大門駅

ここが参道。

立派な鳥居です。

階段を登ると、
えっ、これで終わり?

神社というものは、
うっそうたる森の中にあるものと思いましたので、
ちょっと拍子抜け。

調べてみると、
東京十社とは、
明治天皇が東京近郊の主だった神社を
准勅祭社(じゅんちょくさいしゃ)と定めて
東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社としたもので、
神社の規模は関係ないようです。
准勅祭社の制度は短期間に終わりましたが、
1975年、
元准勅祭社12社の内から、
東京近郊の10の神社を
「東京十社」と定めたものです。

芝大神宮は、社伝によれば、一条天皇の御代、
寛弘2年(1005年)、伊勢の内外両宮を勧請して創建したもの。

本殿

祭神は天照皇大御神豊受大御神
中を覗きます。

境内にある力石


力自慢が持ち上げるのを競ったもの。

この狛犬の台座に書かれた「め組」とは、


火消という江戸時代の消防組織の一つ。
文化2年(1805年)に起きた町火消し「め組」の鳶職と
江戸相撲の力士たちの乱闘事件が起こり、
「め組の喧嘩」として、講談や芝居の題材にされました。

想定していた森の中の神社とは、
違ったので、
気を取り直して、
別の日、赤坂へ。

東京十社の一つ、氷川神社を参拝するためです。

赤坂と六本木の中間あたり。

犬の散歩をする住民とすれ違う
閑静な住宅地を歩いていると、


突然森が出現します。

氷川神社というのは、各地にあり、
東京都港区白金にある白金氷川神社や
元麻布にある麻布氷川神社と区別するため、
赤坂氷川神社とも称されます。

祭神は、
素盞嗚尊(すさのおのみこと)、
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、
大己貴命(おおなむぢのみこと)。

東側、一の鳥居から入ります。

境内には、石灯籠と狛犬があちこちにあります。

右には、神社内神社

四合稲荷神(しあわせいなり)は、

古呂故稲荷(ころこいなり)・地頭稲荷・本氷川稲荷・玉川稲荷の4社を
合祀したことに由来。


勝海舟が命名したそうです。

西行稲荷神(さいぎょういなり)

別名「火伏の稲荷」。火災除の御神徳があると言われています。

階段脇にある太鼓橋。

階段を登ると、

二の鳥居があり、

脇に包丁塚

大イチョウ(港区の天然記念物)。

年に一度、氷川まつりが行われ、

祭りに使用する神輿を展示。

三の鳥居

天暦5年( 951年)、東国を遊行していた蓮林僧正が霊夢を見て、
一ツ木村(現・赤坂4丁目付近)に奉斎したと伝えられています。

享保15年(1730年)、江戸幕府第8 代将軍徳川吉宗の命により、
現在地に遷され、


現在の社殿はこの時に造営されたもので、

東京都の有形文化財に指定されています。

桶新稲荷(おけしんいなり)。

宇迦之御魂(うかのみたまのかみ)を祀ります。

山口稲荷(やまぐちいなり)

九神社(くじんじゃ)

天祖神社・春日神社・鹿島神社・八幡神社・諏訪神社・
秋葉神社・厳島神社・金刀比羅神社・塞神社(さいじんじゃ)
の9社を合祀。   

                                                                     南側の一の鳥居から退出。

都会の中の森。

静けさに包まれて、いるだけで姿勢が正される、
神社らしい神社でした。

 


小説『方舟を燃やす』

2024年07月19日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

一人の少年と、一人の母親の
1967年から2022年までの
50余年の人生を通じて、
昭和・平成・令和と続く日本人の精神世界を描く
角田光代の最新長編。
2022年から一年間、
「週刊新潮」に連載されたものを加筆。

1967年に、鳥取県のある町で生まれた柳原飛馬(ひうま)。
鉱山で働いていた祖父は
かつて地震を予知して人々に避難するよう呼び掛けてまわるさなか
土石流で命を落とし、命拾いした人々に称えられたという。
その石碑もあるらしい。
飛馬は父から「祖父の立派な行動に恥じることのない男になれ」と言われてきた。
県庁所在地に引っ越した後、小学六年生の時に母が亡くなるが、
患者たちの会話を聞いて、母親が癌で余命いくばくもないと思いこんだ飛馬は
母親の前で泣いてしまい、
母親が自死したことについて、
自分の取った行動が母親を死に至らしめたと
大きな悔いを残すことになる。
飛馬はバブル期に大学を卒業し、
都の特別区職員に採用される。
「どこかで人の役に立ちたいと思ったんでしょうね。
 たぶん、父の教えもあって、誰かを助けなきゃいけないという
 固定観念で自分を縛ってきているんです」
やがて地域支援課に異動した飛馬は、
民間団体の子ども食堂の立ち上げに協力し、
SNSの非公式アカウントで食堂関連の情報を発信していくことになる。

もう一人の人物、15歳ほど年上の望月不三子は
1950年代に東京の久我山で育ち、
高校時代に父親を亡くして大学進学を諦め、
卒業後は製菓会社に就職。
1975に結婚すると共に退職してやがて妊娠。
人に勧められて区民センターの料理教室に通い始め、
講師の勝沼沙苗の自然療法や食事法の教えに傾倒していく。
不三子は勝沼沙苗の教えの通りに家庭での献立を考え、
夫や子ども達に食べさせようとするが、
夫は不三子の作る食事を拒否し、
娘はよその家でおやつをむさぼり食う。
不三子は、子どもにワクチンを受けさせることもためらう。
その結果、海外に行った娘が麻疹にかかり、
夫から激しく責められる。
あれほど大切に育てた娘は、
大学卒業の2日前に、
不三子に今までの不満を並べ立てて、姿を消す。
卒業式にも出ずに、どこかに行ってしまう。

物語はこの二人の人物を交互に描き、
ある時点で交錯する。
実は、その前に間接的に関わっていたのだが、
不三子はそのことを知らない。

こうした二人の人物を描くと共に、
その背景に高度成長時代、バブル時代、
停滞期の日本の世相を反映させる。
サリン事件、阪神淡路大震災、東日本大震災、コロナ禍と
さまざまな出来事が直接間接に二人の生き様に影響を与える。

更なる背景として、コックリさん、未来さん、
ユリ・ゲラーや、UFO、ノストラダムスの大予言、
2000年コンピューター問題といったデマに翻弄される
ある世代の人々の精神を描く。
それは、コロナとウィルス接種にまつわる
様々なデマと陰謀論者の言説につながる。
情報の拡散には、通信手段の発達とSNSの普及が大きな役割を果たす。

あれほど騒いだ1999年の7月、世界は滅びなかった。
恐怖の大王は降りて来ず、
第3次世界大戦は起こらなかった。

不三子の料理に対する姿勢も
本人はよかれと思っているけれども
デマに惑わされているかという視点もある。
不三子の母親の戦争体験を通じて、
日本が勝つなんて、国を巻き込んだデマだったという観点も述べる。
なにより、病院の患者の会話を鵜呑みにした
飛馬こそ、デマに踊らされたのではないか。

飛馬の祖父が地震を予知して人々を救ったという話も
嘘だったのではないかと疑われる。
地震が来ると叫ぶ祖父は風変りな老人のたわごとととられたのではないか。
それは、ノアの方舟にもつながる。
もしも洪水が起きなかったら、
ノアは世界が終わる予言する変な人とみなされていただろうな、と。
題名の由来である。

二人の人物の人生の話だが、
実は、戦後日本の物語でもある。
なかなか奥の深い読書体験であった。

 


映画『ふたごのユーとミー』

2024年07月18日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]

タイの中学生、ユーとミーは一卵性双生児の姉妹
生まれた時からずっと一緒で、
隠し事はなく、なんでも分け合ってきた。
食べ放題のレストランや映画館で、
途中で入れ替わって、一人分の料金ですませたりする。
違いがあるとすれば、
ミーの頬に小さなほくろがあることくらいだ。

そんな二人だったが、
等分に分け合うことの出来ない事態が起こってしまう。
それは、同じ男の子を好きになってしまったのだ。

というわけで、思春期のふたごの姉妹の間に起こった
心のゆらぎを詩情豊かに描いたのが、この作品。

二人はバンコクにいたが、
家庭の事情で、母親の田舎に住むことになる。
そこで、追試の時に鉛筆を分けてくれたのがきっかけで
マークと知り合いになる。
デートは三人一緒。


でも、それがうざく感じる時が来る。
マークと二人きりで会いたいと。


初めて二人は「もう一人の自分」の存在を憎んでしまう。
「ふたごになんか生まれるんじゃなかった」
とまで口にしてしまう。

更に二人には別の問題もあった。
父母の離婚
別れた時、どちらがどちらに付いていくかを決断しなければならない。
父も母も好きなのに、
どうして二人が別々に住まなければならないのか。

その時、二人の絆をより深める事件が起こる・・・

私は女の子になったこともないし、
ふたごだったこともないので、
二人の気持ちは実感的には分かるはずがないが、
それでも、この思春期の乙女の気持ちが
ぐっと近く感じられるのは、
映画作りがうまくいっているからだ。

監督は、ワンウェーウ・ホンウィワットウェーウワン・ホンウィワットの二人。
彼女たち自身も一卵性双生児の姉妹だという。
そして、ふたごを演ずるティティヤー・ジラポーンシン
もうあちこちで明かされているから、
書いてもいいと思うが、
一人二役で両方を演じている。
知らない人は、ふたごの俳優が演じていると思うほど
たくみな編集だ。


もともとふたごの俳優に演じさせるつもりで探していたが、
うまく見つからず、
プロデューサーが友人の写真家のフェイスブックで彼女を見て、
この映画のオーディションに誘って抜擢、
結局、一人二役になった。
ティティヤー・ジラポーンシンの起用が、成功の要因だ。

映画を観ているうちに、
耳が出ているのがユー、
髪で耳が隠されているのがミー、
と区別されていると気づいたが、
そうでもない場面もところどころ有るので、混乱する。

ユーとミーの心を奪う少年マークを演じたアントニー・ブィサレーは、
ベルギーとタイの両親を持つハーフで、
将来有望。

時は1999年、
ノストラダムスの大予言や
2000年の切り替わりで
コンピューターが不具合を起こすと心配されていた時代。
タイの田舎の風景の中で、
思春期の男女の初恋を描くこの映画、
初々しい描写で、
終始、なつかしい感情が包む、
暖かい映画だった。

5段階評価の「4」

新宿ピカデリー他で上映中。