[書籍紹介]
渡辺茂夫という音楽家をご存知だろうか。
敗戦後の日本音楽界に現れた天才少年ヴァイオリニスト。
5歳でヴァイオリンを習い始め、
7歳でリサイタルを開き、
海外から来日した巨匠のヴァイオリニストから
お墨付きをいただいて、
アメリカ・ニューヨークのジュリアード音楽院に入るために
14歳で単身渡米。
現地でもその才能から特待生扱いを受けるが、
様々な不幸が重なって、
16歳の時、
睡眠薬自殺をして脳に損傷を受け、
廃人となって帰国、
二度と回復しないまま、
その生涯を閉じた、悲劇の神童。
その人生の軌跡を辿るノンフィクション。
実は、読む前、重大な誤解をしていた。
この本、渡辺茂夫の父親が書いたものだと
勘違いしていたのだ。
序章の数行を読んで驚愕。
文章がうま過ぎる。
表紙の筆者を改めて見ると、
「山本茂」とある。
名前の共通点「茂」一文字で、
生じた間抜けな勘違いだった。
調べてみると、
山本茂は、著書が沢山ある気鋭のノンフィクション作家だった。
うまいはずだ。
それは、さておき、
第一章は、
父親であり、師匠である渡辺季彦(すえひこ)氏の来歴、
その音楽的環境、
妻となった鈴木美枝との結婚、
その妹・満枝の息子・茂夫を養子とする経緯などから始まる。
季彦は養父であり、
実母の満枝もヴァイオリニストであった。
幼い時から茂夫は
伯父や母がヴァイオリンを弾く姿を見て育った。
5歳の時、自分から進んでヴァイオリンを習うことを望み、
季彦から苛酷なレッスンを受ける。
昭和23年12月10日、
初のリサイタルを有楽町の読売ホールで開く。
パガニーニの協奏曲などの難曲を
ミス一つなく弾きこなす。
次々とリサイタルを重ねる一方、
客演で、数々のヴァイオリン協奏曲も弾いた。
後に数奇な運命を共にする
医学生の若井一朗は、オーケストラの一員として共演しており、
若井は茂夫のヴァイオリンソロに陶酔してしまう。
感動のあまり涙があふれ、
楽譜がかすんで見えなくなってしまうほどで、
「こんな天才は今世紀に二度とあらわれないと思った」という。
昭和29年、楽聖と呼ばれる、
ヤッシャ・ハイフェッツが来日、
日本にいたアメリカ人夫妻の招待パーティーで、
同席した茂夫がヴァイオリンを弾くと、瞠目し、
正式なオーディションを受けた後、
「すぐにもジュリアードに行くべき。
行くなら早い方がいい」
と言って、ジュリアードへの入学手続に尽力してくれた。
その後、ロンドンから来日した指揮者のマルコム・サージェント、
アメリカで好評を博した江藤俊哉、
ソ連の至宝と呼ばれたダヴィッド・オイストラフも
茂夫の演奏を聴き、その才能に折り紙付きの賛辞を述べている。
こうして、14歳の中学2年生の少年のアメリカ行きが決まった。
第1章を読んで驚かされるのは、
戦後の荒廃にもかかわらず、
日本を世界の音楽家が沢山訪れていることである。
それ以前にロシア革命、ナチの台頭するドイツから
ユダヤ人の音楽家が日本に多数亡命していた背景もある。
いずれにせよ、
日本という文化の土壌には、
西洋音楽を受け入れ、
それを成長させる可能性があったということだ。
そういう意味で、日本は不思議な国だ。
訪米前、茂夫は、このように言ったという。
「日本は戦争に負けたけど、
ぼくはヴァイオリンで世界一になる。
文化でアメリカに勝つんだ」
第2章は、アメリカでの茂夫の生活と苦悩。
まず、茂夫はカリフォルニア州サンタバーバラで、
サマースクールに参加する。
全米から若い音楽家が集まってオーディションを受け、
合格した者だけが参加を許される、厳しい登竜門。
そこでも茂夫は非凡な才能を認められ、
教師たちの評価は文句なしにナンバーワン。
サマースクールのファイナルコンサートのソリストに選ばれ、
地元紙の絶賛を受ける。
ただ、この時、既に暗雲の始まりがあった。
茂夫の演奏を聴いて、
一人の声楽教師がつぶやいた一言。
「あの少年は本当に音楽が好きなのかしら」
そして、ニューヨーク。
ジュリアード音楽院とは、
若手音楽家を育てる定評のある教育機関で、
世界の俊英が群れ集う競争社会。
ライバルとの競争が苛烈で、
その混沌の中に、中学2年の日本人少年が放り込まれたのだ。
そこで茂夫はイヴァン・ガラミアンに師事する。
ガラミアンは茂夫の才能を見込み、
茂夫を自宅に住まわせた。
しかし、初めての海外で、
茂夫は、すさまじい孤独に責めさいなまれるようになる。
当然だ。
まだ14歳の思春期の少年が
言葉も通じない、
白人社会に放たれたのだ。
しかも、茂夫は、子供時代からレッスンに明け暮れ、
友人の作り方も知らない。
白人音楽青年の嫉妬もあり、
無視されたり、聞こえないふりをされたりの「いじめ」にもあった。
なにしろ、茂夫は、戦争に負けた国から来た少年だったのだから。
実は、茂夫は、既に数々のコンサートをこなした、
完成された音楽家であり、
技術は父たちの指導で、ほぼ完璧にマスターしていた。
日本では堂々たるソリストであり、
ビッグ・オーケストラをバックに
世界的指揮者ともたびたび共演したキャリアを持っている。
既にソリストである者がソリストになるためのレッスンを受けなければならないのは
矛盾である。
それで、ガラミアンのアドバイスにも
「ぼくはそうは思いません」と反論することもあったという。
本書には、そうとはっきり書いてはいないが、
ビデオを見ると、
ガラミアンによって、奏法の変更を迫られたことも
ストレスになっていたようだ。
茂夫の演奏は、ガラミアンにつく前に
すでにある程度の完成の域に入っていた、と季彦はいう。
アウアー奏法を基本として技術的にも優れたものを持っていたにもかかわらず、
ガラミアンがそれに理解を示さず、
独自の厳しい指導で自身の奏法へ転換させようとしたのだ。
茂夫はレッスンをさぼり、
化学の勉強をしたいと言い出す。
ヴァイオリンの技術的な面では
ほぼ頂点に達している茂夫にとっては、
内的充実が必要だった。
音楽に無関係に見える一般学科を学ぶことは
めぐり巡って音楽をふくらませる。
茂夫は、幼少の時からレッスンに明け暮れ、
学校の授業は十分に受けていない。
世界に目を向け、人間的に成長することが待たれていた。
しかし、周囲はそれを理解せず、
古いアパートで一人住いを始めた茂夫を
窮乏生活がさいなみ、
次第に精神に変調をきたし始める。
今と違い、日本との連絡は手紙で
片道2週間もかかった時代。
茂夫を守ってくれる人はおろか、
話をきいてくれる友人も相談できる大人もおらず、
食べるにも困り、住環境も悪く、
師匠とも折り合いが悪く、進退極まってしまった茂夫は、
情緒不安定を訴え精神科に通院。
どれほどの孤独だっただろうか。
それを察した、母親の美枝は電話で病院に訴えている。
「茂夫は日本では中学2年までしかいっていない子供なんです。
ちゃんとした教育を受けないままアメリカに行ったのが間違いでした。
留学させるのか早過ぎたと思います。
どうか茂夫を帰してください。
お願いします」
ここにこの悲劇の本質があると思われる。
茂夫は少しでも収入を得ようと、
アルバイトとしてオーケストラに参加する中、
ジュディというヴァイオリニスに恋してしまう。
16歳の初恋である。
ジュディに向けた手紙が
託された青年が失念して渡されず、
ジュディからの連絡が来なかったことが引き金となって、
茂夫は睡眠薬自殺を図る。
劇薬を何回かに分けて買い込み、蓄えていたものを飲んだのだ。
事件の起こる3日前、
茂夫は最後の力をふりしぼって日米協会(茂夫の引き受け先)に行き、
日本に帰りたいと言ったが、聞き入れてもらえなかった。
次の日もまた行ったが、また取り合ってもらえなかった。
その前からも茂夫のことを心配した両親が
度々日米協会に帰国を要請していたが、
協会と学校側、それに日本人精神科医も加わって、
アメリカでもう少し音楽の勉強を続けたほうが本人のためなどと言って、
日本に帰してはくれなかった。
そして、行きつく所は自殺。
ここで、先に述べた医学生、若井一朗が登場する。
アメリカにいた若井は茂夫の治療にあたるが、
体温が上がり、脳が煮詰まった状態で、
回復はおぼつかない。
そこで、ベッドに寝たまま、日本への移送を担当する。
若井はヘルマン・ヘッセの「車輪の下」のハンスの悲劇に重ねたという。
廃人となって日本に戻って来た茂夫を見て、
季彦は、アメリカの陰謀だと断定する。
その意見は、最後まで変えなかった。
茂夫は言葉を失い、
行動の自由も失い、
二度とヴァイオリンを持つこともなかった。
終章では、その後の茂夫の様子と、
アメリカで関係者を訪問した著者の関係者へのインタビューを記す。
その中で、
アメリカにおいて茂夫に必要なのは、
もはやレッスンではなく、
発表の場だった、と書いている。
天才の到達点を理解せずに、
自分たちの枠の中に収めようとしたのが間違いだろう。
もしも茂夫がアメリカに留学するのではなく
もう少し大きくなるまで両親のもとで日本で教育を受けながら、
世界的なコンクールに挑戦していればどんなによかっただろう。
あるいはアメリカではなくヨーロッパだったら、
いやアメリカであってもせめて強権的なガラミアン教授(変人だったという)ではなく、
もっとおおらかに茂夫の才能をのばしてくれる先生の門下にはいっていれば、
更に、元の約束通り2年で帰国していれば、
また、最後に茂夫が日本に帰りたいといった時、
日米協会がその気持ちを真剣に受け取ってくれていれば・・
「もしも」は虚しいが、
どうしてもそう考えてしまう。
いずれにせよ、
一人の天才の扱いを
大人たちが持て余して、
その将来をつぶしてしまったのだ。
季彦氏は茂夫を引き取り、介護の日々を送る。
母の美枝さんも亡くなり、
男同士の二人暮らしで、
わずかな弟子をとってヴァイオリンを教える毎日。
茂夫の歯を磨き、食事の世話をし、
歩行訓練をする季彦氏の姿が痛々しい。
本書が上梓された時、存命だった茂夫さんは、
父の40年以上の献身的介護を受け、
1999年、58歳で永眠した。
そして、父の季彦氏はその後10年以上生きて、
2012年103歳で亡くなった。
こうして、一人の神童のことは忘れ去られていったが、
本書が出版された1996年3月に続き、
7月には残された音源でCDが発表され、
8月には、 毎日放送で
「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」
というドキュメンタリーが放送された。
一時期注目を集めたものの、
歳月は一人の神童の記憶を遠ざける。
だが、2022年9月、
毎日放送がドキュメンタリー全編をYouTubeで公開したことから、
改めて注目を浴びている。
CDもYouTubeに公開され、
いつでも聴くことが出来る。
たとえば、↓はショパンのノクターン20番のヴァイオリンヴァージョン。
https://www.youtube.com/watch?v=N _XqBqKKDX0
聴いて、これほど切ない演奏はない、と驚愕した。
毎日放送のドキュメンタリーは、↓をコピペすれば、観ることが出来る。
https://tower.jp/article/campaign/2022/10/12/03
日本が戦渦から復興の途上にある時存在した
一人の神童の物語は、
哀惜の念と共に語り伝えられている。