空飛ぶ自由人・2

旅・映画・本 その他、人生を楽しくするもの、沢山

夜の肥後細川庭園

2023年11月30日 23時00分00秒 | 名所めぐり

先日行った、江戸川橋ヘ、再び。

夜の江戸川公園を通り抜けて、

ここへ。

肥後細川庭園
「秋の紅葉ライトアップ
 -ひごあかり=」

昼間の入園料は無料ですが、
この夜のイベントは、入園料300円。
4時半に一旦閉園し、5時半に再開園。

入ると、こんな感じ。

竹をくり抜いたオブジェ。

順路も竹で。

行灯で道が分かるようになっています。

電線の配線はなく、電池で点灯。

要所要所に案内係が立っています。

これは、雪見灯篭。

風がないので、
紅葉が池に映ってきれいです。

空には満月間近な月が。

十三重の塔。

見事な竹細工。

竹灯籠の中は、ろうそくです。

こういうのも。

ここ西門広場には、


近隣の小学校と保育園の児童による
イラストの灯火カップ。

クマモンは、

ここが旧熊本藩の屋敷だったため。

雪吊りもライトアップ。

最初に戻りました。


この夜間ライトアップは、12月3日まで

帰り道、夕食は、ここで。

江戸川橋脇にあった出版社で雑誌編集のお手伝いをしていたことは、
前に書きましたが、
この「新雅」でよくラーメンを食べました。

ネットで調べると、場所が変わっています。
50メートルほど移転しました。
表に行列用の椅子が用意されていましたから、
繁盛店のようです。
今は代替わりで息子さんがやっています。

ラーメンにしようと思いましたが、
ネットのレビューに、チャーハンがうまい、と書いてありましたので、注文。

ボリュームたっぷり。
典型的な町中華のチャーハンで、
確かにおいしいです。

夜のライトアップと、
思い出にもひたった一夜でした。

 


連作短編集『ルミネッセンス』

2023年11月28日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

ある寂れた町の人々を巡る連作短編集。
商店街にはシャッターが目立ち、若者は都会に去り、
低層の団地には、老人だけが取り残されている。
幽霊が出るという噂さえある。
町を出た者たちも、
実家の父母の死などによって、
少しずつ回帰している。
それぞれ独立した5つの話だが、
登場人物の名前によって、
昔の中学同窓生たちの群像だと分かる。
『小説宝石』に不定期に掲載された短編を一つにまとめた。

 

トワイライトゾーン

偏差値があまり高くない女子高校の数学教師。
理解の貧困な生徒たちを前に、
自分の感情を心の奥深く隠して、時間をやりすごしている。
出たくもないクラス会の帰途、
立ち寄ったバーでカウンターの中にいる少年に魅了される。
その少年は男に体を売っているらしい。
ある日、その少年が書店で小学校のドリルを熱心に眺めているのを見て、
少年の「時間」を買い、ホテルで数学を教える。
不思議な関係だが、
ある日、少年が姿を消して・・・

クラス会で交わされる会話、
「人生って長いよな・・・長すぎるよ。俺はもう飽きちゃった」
「まあね、このあと何年生きるって分かれば、生きようもあるな」
「五十過ぎまで生きてきて、まだ半分、って言われたら、俺は怒るよ」
が悲しい。

 

螢光

父親の死を契機に閉店を決めた文具店の整理をしている女性。
私は長く生きすぎてはいないか?
との感慨がある。
終末論が盛んだった昔、
テレビに出ていた学者が
大気汚染などで、
今の子どもたちは47まで生きられない、
と言ったのが心に残っている。
なのに、恋愛をし、結婚し、子どもを生み、
今は義母にいやみを言われながら、
50を過ぎても、まだ生きている。
小学生の時、隣の席の山城君が
ノートを買ってもらえないらしく、
消しゴムで文字を消して再利用するのを見て、
お店のノートを盗んで与えようとしたが、
拒絶されたことが
心の傷になっている。
山城君は、団地側の池で死んだ。
クラス会に出た時、
その山城君の死の背後の事情を知らされて・・・

 

ルミネッセンス

内装屋を営む男性。
クラス会で初恋の人と再会し、
あるきっかけで月一度会い、
ひととき会話して別れるのを繰り返している。
どこからが不倫でどこまでがそうじゃないのか、
ちょっと悩んでいる。
しかし、その逢瀬を息子に知られ、
もう会わないと申し出ると、
相手の女性が・・・

 

宵闇

中学2年の花乃(かの)は、
いじめを受けている。
昔、交通事故でできた顔の傷跡のせいだ。
それが原因で父母は別れ、介護の仕事をしている母と二人暮らしで、
近所の団地に住む祖父の世話をしている。
夏休みに入り、学校に行かなくてすむとほっとしたのも束の間、
傷跡を強調した似顔絵が投函され、
それを配りに来た同級生の男子生徒を祖父が捕まえて、
お仕置きをする。
その祖父も亡くなり、
新学期を迎えた時、花乃は・・・

 

冥色

都心からこの町に移住してきたWEBデザイナー。
団地の中にあるパン屋の店主の女性と
関係を結ぶが、
肉体的には、別れて来た東京の女性に惹かれている。
その女性は、危険性を感じさせるので、
移転先を告げずに置いてきた。
しかし、その女性からメールが来て、
移住先を見つけたから、今度訪ねるという。
そして、近所の池まで来ていると言われて、
行ってみると、
そこで記憶の中で封印した事実を告げられる・・・

「宵闇」だけが希望の兆しが見えるラストだが、
それ以外の4篇が全て、50代の男女の
行き場のない閉塞感と孤独感に満ちた、
ダークな内容と、救いのないラスト。
従って、読後感は、極めて悪い。
人生の岐路で、ふとした事で道を外れていく人々。
50代でこんなだから、
60、70と進んだら、
どうなるのだろう。

ただ、文学作品としては、薫り高い。
過去の本ブログを読むと、
この作家の作品はもう読まない、
と書いてあるが、
何かの間違いで読んでしまった。
ただ、窪美澄も進化している。

題名の「ルミネッセンス」とは、
あるエネルギーで励起された電子が、
励起状態から基底状態に戻るときに発光する現象をいう。
冷光とも呼ばれる。
日常的にみられる例としては、角砂糖やキャンディーをこすり合わせた際や、
粘着テープを表面から引きはがす時に閃光を発することがある。
                         

 


映画『首』

2023年11月27日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]

北野映画は肌が合わないので、敬遠していたが、
今回観る気になったのは、
あるインタビューで、北野監督が、
戦国武将たちのことを
「こんな奴ら、ろくなもんじゃねえ」
と言っていて、共感したからだ。

戦国ものの小説は、よく読んだが、
ある時から読まなくなった。
というのは、描かれる世界が、
謀略と裏切り、背信、自己中心の
殺伐としたものばかりだからだ。
考えてみれば、
「和」の国日本で、
戦国時代は異常な時代
群雄割拠の武将たちが、
血で血を洗う内戦を繰り広げた。
人の命の大切さなど、微塵もなく、
国盗りの野望と、
自らの家を守るために権謀術数の限りを尽くした時代。
内戦するほど愚かな国はない。
国土は荒廃し、民衆は疲弊し、
国力を消耗する。
まあ、当時、「日本」を国として認識している人などおらず、
自分の周辺の支配権を争っていただけで、
誰も国民のことや国土のことなど考えていない。
人々は戦に駆り出され、
失わなくていい命を奪われる。

戦国武将のことは、小説家の創作意欲をかきたてるのか、
講釈師や小説家や映画が美化して描いたから、
武将たちが英雄のように扱われているが、
その実は、我利我利亡者の私利私欲のかたまりだ。
日本人の精神に「武士道」があると言われるが、
あれは、徳川時代の安定した時代に、
美意識が高揚して作られたもので、
戦国武将は、武士道もへったくれもなく、
もっと生臭い。

信長だって、江戸時代は評価されていなかった。
明治になって、小説家が信長像を作り上げただけ。
比叡山焼き討ちで女子供を殺戮したり、
破れた武将の一族郎党皆殺しなど、
残虐非道の行いをしている。
『信長公記』には、敵の女房衆122人が惨殺されたときのことを
こう記している。
「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、
天にも響くばかりにて、
見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。
これを見る人は、
二十日三十日の間はその面影身に添いて
忘れやらざる由にて候なり」
京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、
大八車に縛り付けられて京都市中を引き回された後、
六条河原で斬首された。
立入宗継はその様子を、
「かやうのおそろしきご成敗は、
仏之御代より此方のはじめ也」
と書いている。
敵のしゃれこうべを器にして
酒を飲んだなんて、異常者の行為。

で、本作、
信長の本能寺の変を巡っての
北野らしい解釈で、
原作本も北野が書いた。
小説を脚色し、監督を務め、
北野流ワールドを展開する。
史実らしいものは出て来るが、
実際は史実無視だ。
(たとえば、荒木村重は籠に押し込められ放擲されるが、
実際は村重は生き延び、毛利氏のもとで、尾道に隠遁した。
本能寺の変で信長が死ぬと、
村重は尾道から堺に移り、
道薫(どうくん)と名乗って、茶人として復活し、
52歳で天寿を全うしている。)

とにかく、題名通り、斬首の場面が続出する。
一昔前は、刀を振り降ろす場面までで、
後は観客の想像力に委ねたが、
本作では、首が飛んで血が噴出し、
胴体が倒れる様をしっかり描く。
もちろんCGだが、ごくリアル。
CGの発達で、このような描写が出来ることを
嬉しがってるとしか思えない。
「世界で最も首が斬られた映画」として
ギネスを狙っているのではないか。

更に、大島渚の影響か、
武将同志の男色まで織り込むから、
気色が悪く、
常人が観たら、悪夢のような映像が展開する。

つまり、悪趣味

これを観た欧米人は、
日本人は何と野蛮で残酷な人種と思うだろう
もちろん、イギリスでも同じことがあったし、
フランスはギロチンを発明し、
その処刑の様を大衆の見せ物にした。
彼らに、日本の風習を非難するいわれはないが、
ただ、歴史を知らない人は、
単純に日本人野蛮説に賛同するだろう。
そもそも、外国人が日本の歴史に精通しているとは思えない。
我々がイングランドの内戦の貴族の名前を知らないのと同じだ。
信長? Who?
秀吉? Who?
光秀? Who?
本能寺の変? What?

ただ、戦闘シーンは迫力がある。
黒澤明の「影武者」より上だ。
戦場の死体累々たる様の描写もいい。
北野らしいユーモアもある。

秀吉と秀長、黒田勘兵衛のくだりは笑わせる。
残酷描写よりも、
こういう愚かな人間像を茶化しまくる手法もあったのではないか。
落語の始祖だと言われる曽呂利新左衛門、
秀吉に憧れる農民の雑兵・茂助など、
面白い人物は出て来るのだから。

本能寺の変で、
信長の命を奪ったのがあの人物だったとは、
初めて聞いた珍説。
その者が本能寺にいたことは史実で、
変の後、姿をくらましたのも事実。
その意外性だけは、瞠目した。

やはり、私には、北野映画は駄目だった。
創作者としての心根の卑しさがいやだ。
金と人をかけて、こんな映画を作るとは。
金持ちの道楽は、もうやめたらどうか。
こんな映画がカンヌで上映されたのが恥ずかしい

5段階評価の「2」

 


肥後細川庭園

2023年11月26日 23時00分00秒 | 名所めぐり

昨日は、昼前に、ここへ。

これが、駅名となった江戸川橋

向こうに見えるビルが建つ前にあった出版社で、
ある雑誌の編集にたずさわったことがあります。

江戸川区でもないのに、
なぜ江戸川橋かというと、
ここに流れる神田川は、
昔、江戸川という名前だったからです。

江戸川公園

片側は神田川、


反対側は台地の崖です。

石垣が作られるほど高い崖です。

公園の隣の目白坂は、急勾配で台地に登ります。

公園からも長い階段で登れます。

ということは、
先日のブラタモリで初めて知りました。

この大滝橋は、

名前の通り、昔、滝があった場所。

神田川から引き込んで神田上水にするための堰が滝になったもの。

江戸で滝が見られるというので名所に。錦絵にも描かれています。

江戸川公園を抜けて、

椿山荘を見上げながら、

ここへ。

肥後細川庭園

江戸時代中期以来旗本の邸地となり、
幕末に、肥後54万石の藩主、
細川越中守の下屋敷になりました。
その後、東京都が買収し昭和36年に「新江戸川公園」として開園し、
昭和50年に文京区に移管されました。
平成29年3月に「肥後細川庭園」に名称変更しました。 

南門から入ります。区立なので、入園料は無料。

入ってすぐに小池があり、


橋で境をして中池、


更に土橋を境として、大池となります。

これは亀石。

雪見灯籠。

目白台の台地(関口台地) の自然景観を活かした池泉回遊式庭園

先日行った清澄庭園同様、
大きな池を中心として、
その周囲の園路を歩きながら、
広がりのある池や背後の山並みなど様々な風景の移り変わりを
観賞出来るように計画された庭園の様式の一つです。

これは、「雪吊り」。

重い雪から守るため、
わら縄で枝を吊っています。

これは、11月25日から9日間開催される
秋の紅葉ライトアップ「ひごあかり」の時
点灯する竹あかり(竹灯籠)。

4時半に一旦閉園し、5時半に再開。


このように、個人で竹あかり作りに参加できます。

その点灯の電源の準備。

道の左右の灯火は、電線を引いているわけではなく、
スイッチで点灯するようです。

赤や黄色に染まった紅葉が池の水面に映る美しい風景を、
庭園を回りながらご覧できます。

昨年の様子。

松聲閣(しょうせいかく)。

細川家の学問所として使用され、
一時期は細川家の住まいとして使用されていました。


現在の建物は、歴史性を生かして保存・修復を行うとともに、
耐震性を確保し、平成28年1月にリニューアルオープンしました。

         
くまもんがいるのは、
館内で熊本県観光PRの展示が開催されているためです。

日本マラソンの父 金栗四三の遺品の数々。

奥へ進み、2階へ。

2階の展望部屋では、
職員の絵画などを展示。

ここからの景観。

外から見てみます。

この筒に耳をつけると、地下を流れる水音が聞けます。

西門広場

近隣の小学校と保育園の児童による
イラストの灯火カップ。

次第に高いところにあがります。

目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、
変化に富んだ景観をつくり出しています。

滝がありました。

ここにも。

目白台からの湧水が豊富で、
その湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、
岩場から芝生への細い流れとなり、
その周辺に野草をあしらっています。

池はこの庭園の中心に位置し、
広がりのある景観をつくりだし、
池をはさんで背後の台地を山に見立てています。


十三重の塔。

ずっと上がると、永青文庫があり、


旧熊本藩主細川家伝来の美術品・歴史資料、
16代当主細川護立の蒐集品などを収蔵展示しています。

通用門から外へ。

この後、椿山荘に向かいますが、
それは、また今度。

                                        


ノンフィクション『神童』

2023年11月24日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

渡辺茂夫という音楽家をご存知だろうか。
敗戦後の日本音楽界に現れた天才少年ヴァイオリニスト
5歳でヴァイオリンを習い始め、
7歳でリサイタルを開き、
海外から来日した巨匠のヴァイオリニストから
お墨付きをいただいて、
アメリカ・ニューヨークのジュリアード音楽院に入るために
14歳で単身渡米
現地でもその才能から特待生扱いを受けるが、
様々な不幸が重なって、
16歳の時、
睡眠薬自殺をして脳に損傷を受け、
廃人となって帰国、
二度と回復しないまま、
その生涯を閉じた、悲劇の神童

その人生の軌跡を辿るノンフィクション

実は、読む前、重大な誤解をしていた。
この本、渡辺茂夫の父親が書いたものだと
勘違いしていたのだ。
序章の数行を読んで驚愕。
文章がうま過ぎる。
表紙の筆者を改めて見ると、
山本茂」とある。
名前の共通点「茂」一文字で、
生じた間抜けな勘違いだった。
調べてみると、
山本茂は、著書が沢山ある気鋭のノンフィクション作家だった。
うまいはずだ。

それは、さておき、

第一章は、
父親であり、師匠である渡辺季彦(すえひこ)氏の来歴、
その音楽的環境、
妻となった鈴木美枝との結婚、
その妹・満枝の息子・茂夫を養子とする経緯などから始まる。
季彦は養父であり、
実母の満枝もヴァイオリニストであった。
幼い時から茂夫は
伯父や母がヴァイオリンを弾く姿を見て育った。
5歳の時、自分から進んでヴァイオリンを習うことを望み、
季彦から苛酷なレッスンを受ける。

昭和23年12月10日、
初のリサイタルを有楽町の読売ホールで開く。
パガニーニの協奏曲などの難曲を
ミス一つなく弾きこなす。
次々とリサイタルを重ねる一方、
客演で、数々のヴァイオリン協奏曲も弾いた。
後に数奇な運命を共にする
医学生の若井一朗は、オーケストラの一員として共演しており、
若井は茂夫のヴァイオリンソロに陶酔してしまう。
感動のあまり涙があふれ、
楽譜がかすんで見えなくなってしまうほどで、
「こんな天才は今世紀に二度とあらわれないと思った」という。

昭和29年、楽聖と呼ばれる、
ヤッシャ・ハイフェッツが来日、
日本にいたアメリカ人夫妻の招待パーティーで、
同席した茂夫がヴァイオリンを弾くと、瞠目し、
正式なオーディションを受けた後、
「すぐにもジュリアードに行くべき。
行くなら早い方がいい」
と言って、ジュリアードへの入学手続に尽力してくれた。
その後、ロンドンから来日した指揮者のマルコム・サージェント、
アメリカで好評を博した江藤俊哉、
ソ連の至宝と呼ばれたダヴィッド・オイストラフも
茂夫の演奏を聴き、その才能に折り紙付きの賛辞を述べている。
こうして、14歳の中学2年生の少年のアメリカ行きが決まった。

第1章を読んで驚かされるのは、
戦後の荒廃にもかかわらず、
日本を世界の音楽家が沢山訪れていることである。
それ以前にロシア革命、ナチの台頭するドイツから
ユダヤ人の音楽家が日本に多数亡命していた背景もある。
いずれにせよ、
日本という文化の土壌には、
西洋音楽を受け入れ、
それを成長させる可能性があったということだ。
そういう意味で、日本は不思議な国だ。

訪米前、茂夫は、このように言ったという。

「日本は戦争に負けたけど、
ぼくはヴァイオリンで世界一になる。
文化でアメリカに勝つんだ」

第2章は、アメリカでの茂夫の生活と苦悩。

まず、茂夫はカリフォルニア州サンタバーバラで、
サマースクールに参加する。
全米から若い音楽家が集まってオーディションを受け、
合格した者だけが参加を許される、厳しい登竜門。
そこでも茂夫は非凡な才能を認められ、
教師たちの評価は文句なしにナンバーワン。
サマースクールのファイナルコンサートのソリストに選ばれ、
地元紙の絶賛を受ける。

ただ、この時、既に暗雲の始まりがあった。
茂夫の演奏を聴いて、
一人の声楽教師がつぶやいた一言。
「あの少年は本当に音楽が好きなのかしら」

そして、ニューヨーク。
ジュリアード音楽院とは、
若手音楽家を育てる定評のある教育機関で、
世界の俊英が群れ集う競争社会。
ライバルとの競争が苛烈で、
その混沌の中に、中学2年の日本人少年が放り込まれたのだ。
そこで茂夫はイヴァン・ガラミアンに師事する。
ガラミアンは茂夫の才能を見込み、
茂夫を自宅に住まわせた。

しかし、初めての海外で、
茂夫は、すさまじい孤独に責めさいなまれるようになる。
当然だ。
まだ14歳の思春期の少年が
言葉も通じない、
白人社会に放たれたのだ。
しかも、茂夫は、子供時代からレッスンに明け暮れ、
友人の作り方も知らない。
白人音楽青年の嫉妬もあり、
無視されたり、聞こえないふりをされたりの「いじめ」にもあった。
なにしろ、茂夫は、戦争に負けた国から来た少年だったのだから。

実は、茂夫は、既に数々のコンサートをこなした、
完成された音楽家であり、
技術は父たちの指導で、ほぼ完璧にマスターしていた。
日本では堂々たるソリストであり、
ビッグ・オーケストラをバックに
世界的指揮者ともたびたび共演したキャリアを持っている。
既にソリストである者がソリストになるためのレッスンを受けなければならないのは
矛盾である。
それで、ガラミアンのアドバイスにも
「ぼくはそうは思いません」と反論することもあったという。
本書には、そうとはっきり書いてはいないが、
ビデオを見ると、
ガラミアンによって、奏法の変更を迫られたことも
ストレスになっていたようだ。
茂夫の演奏は、ガラミアンにつく前に
すでにある程度の完成の域に入っていた、と季彦はいう。
アウアー奏法を基本として技術的にも優れたものを持っていたにもかかわらず、
ガラミアンがそれに理解を示さず、
独自の厳しい指導で自身の奏法へ転換させようとしたのだ。

茂夫はレッスンをさぼり、
化学の勉強をしたいと言い出す。
ヴァイオリンの技術的な面では
ほぼ頂点に達している茂夫にとっては、
内的充実が必要だった。
音楽に無関係に見える一般学科を学ぶことは
めぐり巡って音楽をふくらませる。
茂夫は、幼少の時からレッスンに明け暮れ、
学校の授業は十分に受けていない。
世界に目を向け、人間的に成長することが待たれていた。

しかし、周囲はそれを理解せず、
古いアパートで一人住いを始めた茂夫を
窮乏生活がさいなみ、
次第に精神に変調をきたし始める。
今と違い、日本との連絡は手紙で
片道2週間もかかった時代。
茂夫を守ってくれる人はおろか、
話をきいてくれる友人も相談できる大人もおらず、
食べるにも困り、住環境も悪く、
師匠とも折り合いが悪く、進退極まってしまった茂夫は、
情緒不安定を訴え精神科に通院
どれほどの孤独だっただろうか。

それを察した、母親の美枝は電話で病院に訴えている。
「茂夫は日本では中学2年までしかいっていない子供なんです。
ちゃんとした教育を受けないままアメリカに行ったのが間違いでした。
留学させるのか早過ぎたと思います。
どうか茂夫を帰してください。
お願いします」

ここにこの悲劇の本質があると思われる。

茂夫は少しでも収入を得ようと、
アルバイトとしてオーケストラに参加する中、
ジュディというヴァイオリニスに恋してしまう。
16歳の初恋である。
ジュディに向けた手紙が
託された青年が失念して渡されず、
ジュディからの連絡が来なかったことが引き金となって、
茂夫は睡眠薬自殺を図る。
劇薬を何回かに分けて買い込み、蓄えていたものを飲んだのだ。

事件の起こる3日前、
茂夫は最後の力をふりしぼって日米協会(茂夫の引き受け先)に行き、
日本に帰りたいと言ったが、聞き入れてもらえなかった。
次の日もまた行ったが、また取り合ってもらえなかった。
その前からも茂夫のことを心配した両親が
度々日米協会に帰国を要請していたが、
協会と学校側、それに日本人精神科医も加わって、
アメリカでもう少し音楽の勉強を続けたほうが本人のためなどと言って、
日本に帰してはくれなかった。
そして、行きつく所は自殺。

ここで、先に述べた医学生、若井一朗が登場する。
アメリカにいた若井は茂夫の治療にあたるが、
体温が上がり、脳が煮詰まった状態で、
回復はおぼつかない。
そこで、ベッドに寝たまま、日本への移送を担当する。
若井はヘルマン・ヘッセの「車輪の下」ハンスの悲劇に重ねたという。

廃人となって日本に戻って来た茂夫を見て、
季彦は、アメリカの陰謀だと断定する。
その意見は、最後まで変えなかった。

茂夫は言葉を失い、
行動の自由も失い、
二度とヴァイオリンを持つこともなかった。

終章では、その後の茂夫の様子と、
アメリカで関係者を訪問した著者の関係者へのインタビューを記す。

その中で、
アメリカにおいて茂夫に必要なのは、
もはやレッスンではなく、
発表の場だった、と書いている。
天才の到達点を理解せずに、
自分たちの枠の中に収めようとしたのが間違いだろう。

もしも茂夫がアメリカに留学するのではなく
もう少し大きくなるまで両親のもとで日本で教育を受けながら、
世界的なコンクールに挑戦していればどんなによかっただろう。
あるいはアメリカではなくヨーロッパだったら、
いやアメリカであってもせめて強権的なガラミアン教授(変人だったという)ではなく、
もっとおおらかに茂夫の才能をのばしてくれる先生の門下にはいっていれば、
更に、元の約束通り2年で帰国していれば、
また、最後に茂夫が日本に帰りたいといった時、
日米協会がその気持ちを真剣に受け取ってくれていれば・・
「もしも」は虚しいが、
どうしてもそう考えてしまう。

いずれにせよ、
一人の天才の扱いを
大人たちが持て余して、
その将来をつぶしてしまったのだ。

季彦氏は茂夫を引き取り、介護の日々を送る。
母の美枝さんも亡くなり、
男同士の二人暮らしで、
わずかな弟子をとってヴァイオリンを教える毎日。
茂夫の歯を磨き、食事の世話をし、
歩行訓練をする季彦氏の姿が痛々しい。

本書が上梓された時、存命だった茂夫さんは、
父の40年以上の献身的介護を受け、
1999年、58歳で永眠した。
そして、父の季彦氏はその後10年以上生きて、
2012年103歳で亡くなった。

こうして、一人の神童のことは忘れ去られていったが、
本書が出版された1996年3月に続き、
7月には残された音源でCDが発表され、


8月には、 毎日放送で
「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」
というドキュメンタリーが放送された。

一時期注目を集めたものの、
歳月は一人の神童の記憶を遠ざける。

だが、2022年9月、
毎日放送がドキュメンタリー全編をYouTubeで公開したことから、
改めて注目を浴びている。
CDもYouTubeに公開され、
いつでも聴くことが出来る。

たとえば、↓はショパンのノクターン20番のヴァイオリンヴァージョン。

https://www.youtube.com/watch?v=N _XqBqKKDX0 

聴いて、これほど切ない演奏はない、と驚愕した。

毎日放送のドキュメンタリーは、↓をコピペすれば、観ることが出来る。

https://tower.jp/article/campaign/2022/10/12/03 

日本が戦渦から復興の途上にある時存在した
一人の神童の物語は、
哀惜の念と共に語り伝えられている。