[映画紹介]
題名の「大河」とは、実は「大河ドラマ」のこと。
千葉県香取市が、町おこしのため、
郷土の偉人・伊能忠敬を主役にした
大河ドラマを提案することで、
いろいろ苦労する話。
はじめは、市役所の総務課に勤める池本保治の
会議で発言を求められた時の苦し紛れの提案だったが、
知事の肝入りの企画に発展、
知事から直々指名を受けた大物脚本家・渡辺のところに
池本が依頼に訪れると、ケンもホロロの対応。
この渡辺という男、偏屈で、
テレビ界に絶望して、
もう20年間も作品を発表していない。
そこで、伊能忠敬記念館に招き、
忠敬の作った日本地図が
現代の衛星写真とほぼ一致することを見ると、
ようやく腰を上げて取り組み始めた。
しかし、あらすじ披露の会を設けると、
渡辺は衝撃的事実を口にする。
伊能忠敬は、日本地図を完成していない。
地図完成の3年前に亡くなっていて、
地図は、その志を受けた弟子たちによって完成されたというのだ。
そこで、映画は渡辺の作るのあらすじに入る。
つまり、江戸時代の話になる。
伊能忠敬が完成前に亡くなっていたのは史実で、
弟子たちは悲しみの中、
師匠の志を継いで地図を完成させるため、
忠敬の死を隠して作業を続ける。
忠敬が亡くなったのは1818年で、
地図の完成が1821年。
弟子たちは、3年間も師匠の死を秘匿し続ける。
しかし、幕府を騙して、
公金を拠出させていることが露見すれば死罪は免れない。
いつまでたっても地図は完成せず
伊能が顔も見せない事を不審に思った勘定方は、
事実を探るために捜査員を派遣するが、
弟子たちは、お上からの追及をのらりくらりかわしてゆく。
地図完成の指揮を取るのは、
幕府に仕える天文学者・高橋景保(たかはしかげやす)。
伊能が50歳になって師事した天文学者・高橋至時(たかはしよしとき)の息子。
これを香取市役所の職員、池本保治役の中井喜一が二役で演ずる。
その他、地図作製の人物を
松山ケンイチや北川景子など、
香取市役所の職員が、それぞれ一人二役で演じるのがミソ。
原作は立川志の輔の創作落語「伊能忠敬物語―大河への道―」。
志の輔落語の映画化は、過去に「歓喜の歌」がある。
監督は中西健二、
脚本は森下佳子が担当。
面白い着想で、
予告編は、ハチャメチャな話に見えたが、
意外と真面目に、
歴史の裏面を解明する。
元々志の輔が伊能忠敬記念館を訪れた際に
忠敬が製作した正確無比な日本地図を観て感動し、
この感動を落語にと思って作ったもので、
映画の内容と一致する。
ついに、「大日本沿海輿地全図」(伊能図)が完成し、
十一代将軍・徳川家斉にお披露目するシーンは、
ちょっと感動する。
家斉は、自らの治める日の本の国の形とその美しさに感嘆し、
高橋の持参した伊能の形見の草鞋に、
「大義であった」と、その労をねぎらう。
この家斉を、アノ俳優が演ずる。
意外性があるので、あえて書かない。
この時の伊能図大図が見事で、
CGによるのだが、
よくこんな形で再現出来たものだと感心する。
歴史物語を現代と過去を飛躍させながら語るという、
着想を映像化した、
ちょっと面白い映画。
自分の住む土地のことは、
地図がない限り分からないわけで、
将軍が日本の国の形に感動する気持ちも分かる。
また、忠敬の遺志を継いで地図を完成した人々のことは、
誰も知らない。
たとえば、ツタンカーメンの仮面を見た時、
ツタンカーメンのことは思っても、
その美術品を実際に作った職人たちのことは知らない。
だが、その職人たちは、
何千年もの後の人々が
その希有な美しさに感動することを知らずとも、
これだけのものを作ったことに満足して死んでいったのだろう。
そういう人物に光を当てたことでも、
この映画は意義がある。
伊能忠敬(いのうただたか 1745~1818)は、
1800年から1816年まで、
17年をかけて日本全国を測量して、
「大日本沿海輿地全図」を完成させた。
死後、完成させたのは弟子たちだということは、
この映画で初めて知った。
1821年7月10日、
「大日本沿海輿地全図」は、
江戸城に登城し、
地図を広げて上程した。
9月4日、忠敬の喪が発せられた。
忠敬は死の直前、
「死んだ後は、高橋至時先生のそばで眠りたい」
と語ったため墓地は高橋至時・景保父子と同じ上野の源空寺にある。
幕府に提出された伊能図
(全て手書きの彩色地図。
3種の縮尺の地図で、大図、中図、小図と呼ぶ)は、
江戸城紅葉山文庫に秘蔵され、
一般の目に触れることはなかった。
あまりに詳細な地図のため、
国防上の問題から幕府が流布を禁じたのだ。
開国後の1861年、
イギリス海軍の測量艦アクテオン号が、
日本沿岸の測量を強行しようとした際、
たまたま幕府役人が所有していた伊能小図の写しを見て、
その優秀さに驚き、
測量計画を中止して
幕府からその写しを入手することで引き下がったという。
このときの伊能図の写しを元に
1863年にイギリスで「日本と朝鮮近傍の沿海図」として刊行され、
日本に逆輸入されて、勝海舟の手によって
1867年に「大日本国沿海略図」として木版刊行された。
これにより伊能図を秘匿する意味がなくなったため、
同年には幕府開成所からも
伊能小図を元にした「官板実測日本地図」が発行され、
小図のみとはいえようやく一般の目に供されるようになった。
高橋景保は、1828年のシーボルト事件の際、
長崎オランダ商館付の医師であるシーボルトに
禁制品である伊能図を贈ったことが露顕し、
逮捕され、翌年獄死。
享年45。
獄死後、遺体は塩漬けにされて保存され、
翌年、改めて引き出されて
罪状申し渡しの上斬首刑に処せられている。
このため、公式記録では死因は斬罪という形になっている。
ひどいことをするものだ。
忠敬は、深川に住み、
測量旅行に出発する際は、
その成功を祈願して、
富岡八幡に参拝してから出発した。
今も銅像が富岡八幡境内にある。
↓は筆者が撮ったもの。
前にいる猫は像とは関係ない。
↓は、「大図」214枚の全景 (レプリカ) を見る人達。