報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

本当の交通事故死亡者数

2006年04月28日 23時21分27秒 | ■時事・評論
今日は、ある数字をネットで探していた。
日本の年間交通事故死亡者数だ。
そんなもの簡単に見つかると思われるだろうが、そうはいかなかった。

平成8年から、交通事故死亡者数というのは1万人を割ったということになっている。しかし警察発表の数字というのは、事故発生から24時間以内の死亡者の数字だ。

いろいろ検索してみて、厚生労働省が事故発生から1年以内の死亡者数の統計を出していることがわかった。実際は、警察発表よりも3000人以上も多いことが分った。

平成15年の警察発表(24時間以内の死亡者数)は、7702人。
しかし、厚生労働省の統計(1年以内の死亡者数)は、10913人。(+3211人)

平成16年は、警察発表が7358人に対して、厚生労働省の統計は、10480人。(+3122人)

実際は、年間の交通事故死亡者数が1万人を割ったことなどないのだ。
人間の心理として、目安となる数字を下回る(あるいは上回ると)と成果と感じる。警察は、1万人という数字を目標としたが、1年以内の死亡では、1万人を割れないと考えたのかもしれない。そこで、最低単位の1日、つまり24時間以内で統計を取ることにしたのではないだろうか。警察のメンツにかけて1万人を割りたかったのだろう。

数字というのは、統計の仕方によっていかようにも操ることができる。身近なところにも、こんな統計のマジックが存在するのだから、いたるところに存在すると考えた方がいいだろう。

交通事故死亡者数は着実に減少しているのだから、本当の数字を発表してもいいと思うのだが。
本当の数字は、厚生労働省の統計の中にひっそりと存在している。


平成16年
厚生労働省 人口動態統計月報年計(概数)の概況
第5表  死亡数・死亡率(人口10万対),死因簡単分類別
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai04/toukei5.html

自由という檻

2006年04月27日 23時09分45秒 | ■メディア・リテラシー
SF作家レイ・ブラッドベリは、代表作『華氏451』で、書籍の所持や講読を禁止する未来社会を描いた。未来版焚書だ。そこでは文字は一切禁じられ、情報はラジオとテレビから供給され、国民は洗脳支配される。しかし、そんな未来社会の中で、人々は文字の持つ価値に目覚め、人間性を取り戻していく。

『華氏451』は1953年に書かれ、1966年にフランソワ・トリュフォーによって映画化された。マイケル・ムーア監督の『華氏911』というタイトルもここから来ている。

国家による洗脳社会は、1953年にすでにSF作家レイ・ブラッドベリによってほぼ予言されていたということだ。ただ、『華氏451』のメイン・プロットである”焚書”は、現代社会ではありえない。

焚書が成功した事例は歴史上ない。それは不可能だ。見るな、と言われれば、人間かえって見たくなるものだ。禁止されれば、それに挑戦するのが、人間の基本的な特性だ。焚書などというのは、始皇帝の時代ですでに非現実的な政策だったといっていいだろう。

現代社会は、焚書などという紀元前的な稚拙な手段は使わない。もっと高度で緻密だ。禁止や抑圧に対して、人間は必ず抵抗する。ならば、禁止も抑圧もしないのが、もっとも高度な束縛方法だ。

大規模な情報管理を行い、かつ自由でオープンな社会を演出するのが現代版『華氏451』だ。禁止も抑圧もされていないのだから、抵抗する者はいない。誰も自分たちがコントロールされているなどとは感じない。しかし、徹底した情報管理と、物質的豊かさによる、ゆるやかなソフト・コントロールの世界なのだ。

われわれは、SFさえ越えた世界に住んでいる。
自由で豊かだと思った世界が、実は檻なのだ。

三井住友銀行、国有化の危機!?

2006年04月26日 20時34分40秒 | □経済関連 バブル
金融庁が三井住友銀行に週内に一部業務停止命令=関係筋

[東京 26日 ロイター] 金融庁は26日、三井住友銀行が融資先企業に金利スワップを無理に購入させていたのは独禁法違反の優越的地位の乱用に当たり、適正な取引ではなかったとして、一部業務停止命令を柱とする行政処分する方針を固めた。関係筋が明らかにした。
http://today.reuters.co.jp/news/articlenews.aspx?type=businessNews&storyid=2006-04-26T143933Z_01_NOOTR_RTRJONC_0_JAPAN-211270-1.xml

三井住友銀に業務停止命令・金融庁検討、週内にも
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20060426AT2C2600C26042006.html
三井住友銀行に一部業務停止命令へ 金融庁
http://www.asahi.com/business/update/0426/114.html


日経、朝日、読売、ロイターとどこも同じようなことしか書いていない。読者としては、ああ、そうですか。悪い銀行ですねぇ。で、終わりだ。しかし、これはとても重要な出来事なのだ。ここでも、メディアは真実を伝えようとしていない(のは当然である)。

三井住友銀行の独占禁止法違反は事実だ。しかし、他の銀行も同じようなことをしているはずだ。でも、告発されない。なぜだ?

三井住友銀行は、金融庁のターゲットにされているのだ。どういうターゲットかと言えば、告発→銀行弱体化→公的資金投入→国有化→外資へ投売り、という金融庁の黄金パターンのターゲットだ。

三井住友銀行の前には、UFJ銀行が金融庁のターゲットにされていた。2004年10月、UFJ銀行は、金融庁より検査忌避容疑で刑事告発された。後に逮捕者を4人出している。UFJは国有化され解体されたあげく売却されるよりは、三菱東京銀行との統合を選んだ。

もともとUFJは、UFJ信託銀行を住友信託銀行へ売却する予定だった。それを突然撤回し、三菱東京銀行との統合を発表した。UFJ信託を切り離せばグループ全体が弱体化し、いずれ国有化されると予想していたのだろう。UFJの国有化を狙っている金融庁の裏をかいたわけだ。金融庁は刑事告発で迎え撃つが、すでに手遅れだった。

たまったものではないのが三井住友銀行だ。UFJ信託銀行を手に入れてグループの強化を図ろうとしていたのが、突然一方的に破棄されてしまった。それだけならいいのだが、UFJが東京三菱と統合されたために、金融庁のターゲットはUFJから三井住友銀行に移行した。

今回の、業務停止命令(予定)はその第一弾ということだ。三井住友銀行のイメージを低下させ、株価を下げ、経営困難に追い込むという作戦だ。しかし、三井住友もそのくらいのことはすでに予想していたはずだ。そう簡単には金融庁の罠にははまらないだろう。

金融庁は、何ゆえにメガバンクを国有化したいのか?
海外の金融資本が日本のメガバンクを欲しがっているからだ。

破綻した日本長期信用銀行が国有化されたときは、米投資ファンドのリップルウッド・ホールディングスに売却された。そして新生銀行としてスタートした。この過程で、税金をふくめ約7兆円が投入された。そしてたった10億円で売却された。ミスタイプではない。10億円だ。(旧長銀の国有化にはもう少し複雑な裏事情があるのだが、ここでは触れない)

日本の銀行もロクなことはしてこなかったのだが、税金を投入されたあげく、みすみす外資に叩き売られるのも困る。

メディアの描く予定調和

2006年04月25日 23時24分46秒 | ■メディア・リテラシー
ライブドアの堀江貴文氏は、「ニュースなんかカネで買えばいいじゃないか」と言い放った。

堀江氏の言葉は、報道に対する侮辱などではない。ある意味では日本のメディアというものを、鏡のように写したに過ぎない。情報を右から左に流して、はいできあがり。要するに、メディアというのは情報ブローカーのようなものだ。日本のメディアはそれ以上のことをしているのか、と堀江氏は言っているような気がするのだ。

堀江氏が現代メディアの真の役割をどこまで理解していたかは知らない。たぶん、興味はなかっただろう。しかし、いまのメディアがしている程度のことなら、多量の人員を投入しなくても、おカネさえあればできてしまうというのは、紛れもない事実だ。

日本のメディアが、単なる情報ブローカーであるなら、それはまだいい。しかし、不偏不党、公正中立、報道の自由というものが機能しているかのように装い、国民が必要とする情報を提供しているかのように見せかけていることは、国民への裏切り行為と言える。メディアに対しては、そのくらいの厳しい態度で接する必要がある。

メディアというのは、予定調和を演出するための機関だ。予定調和とは、予め決められた結末に導くことだ。われわれはメディアによって、現実とは違う作られたストーリーの世界を見せられていると言える。

メディアが描く予定調和とは、国家予算で言えば、一般会計予算の80兆円だ。
しかし、日本の本当の国家予算とは、特別会計予算を含めた240兆円だ。

ニュースはおカネで買えるかもしれない。
しかし、本当の現実世界は我々自身の手でつかむしかない。

官制報道

2006年04月24日 19時18分35秒 | ■メディア・リテラシー
新聞というのは、日本のメディアの中で、最も権威付けに成功した媒体だろう。権威付けに成功しただけでなく、完全配達制によって、全国に浸透することにも成功した。

いつごろから、配達制というのが定着したのかは知らないが、これほど全国津々浦々まで新聞が配達される国は他にはない。日本国民のほとんどが、毎日、まったく同じ情報に接し、まったく同じ情報から隔絶されてきた。

新聞配達というのは、ほとんど、文化の域にまで達しているかもしれない。おそらく、朝、朝刊がなければ落ち着かないという人は多いのではないだろうか。生活習慣の一部になっている。ある意味、見事というしかない。

もちろん、僕も以前はそうだった。新聞を読むのが当たり前だった。しかし、僕が最も知りたい国際欄は、貧弱そのものだった。世界の出来事が紙面1ページ分しかない。

タイの英字新聞『 Bangkok Post 』の国際欄は3~4ページはある。分量が多ければいいとは言わないが、世界の出来事が1ページで収まるはずがない。外国の新聞と比べてしまうと、もはや日本の新聞は読む気にはなれなくなった。しかし、無くてもよいとまでは思っていなかった。それなりに役立つこともある。

しかし、現首相になってから、日本の新聞の正体は露骨に現れたと思う。現政権の政策とは、古い経済体制の維持強化でしかない。「構造改革」とはまったく裏腹なのだ。国民生活をないがしろにし、一部の国内資本と外国資本に国民の富を効率よく流すための”構造造り”でしかない。しかし、日本の新聞は、この単純な政治のトリックを一切報じないし、警告もしてこなかった。

これが新聞というものの本来の機能であり正体だ。このような新聞には存在価値はない。戦後から一貫して国家と一体だった日本の新聞が、今後、国家から独立することもあり得ない。新聞の報道というのは、要するに「官制報道」なのだ。

購読が減少して焦り気味の新聞は何らかの対策をとるだろう。おそらくもう少し生贄を増やしてもらって、一部の政治家や官僚、企業を血祭りにあげるのではないだろうか。そうして、新聞には不正腐敗をただす機能があるかのように装うのだ。基本的には、これまでと同じだ。

新聞社に知り合いのいる方なら、僕が書いてきたことなどとっくに耳にしているはずだ。ただ、内部の人間は友人知人には耳打ちしても、決して自ら暴露することはない。その後、自分に何が起こるかわかっているからだ。

日本の経済が「官制経済」なら、報道も「官制報道」なのだ。

減少する新聞購読

2006年04月22日 14時30分34秒 | ■メディア・リテラシー
昨日、○○新聞の営業担当者が購読依頼にやってきた。
もうかなり以前から新聞は購読していない。
うちは新聞を読まないので、と断ったら、
「一年間無料にしますので、ひとつよろしくお願いします」
という返事が返って来た。

一年間無料・・・
いったい○○新聞は何を考えているのか。
それとも、いまはどこでもそうなのか?
ということで、あちらは勧誘、こちらはインタビューとして話しが進んだ。

「購読数は落ちてるんですか?」
「この地域一体は、急激に減っておるんですよ。ひとつよろしく」
この営業担当者は、本社から直々に派遣されてきたらしい。こうしたベテランをわざわざ本社から派遣してくるというのは、○○新聞も相当危機感を持っているのだろう。

やはり、インターネットの普及が、急速に新聞の必要性を縮小しているようだ。同時に、五大紙の紙面の特色のない画一性がさらに新聞を魅力のないものにしている。横並び一線の内容でしかなく、読まれなくなって当然なのだ。営業担当者もおおむね同意した。

以前も書いたが、俗に○○新聞は”左”だとか△△新聞は”右”だとか言われるが、それはそのように色分けして読者層を分けあっているにすぎない。なぜそのような色分けが必要かと言えば、本当に国民に必要なことを各紙が書けば、競争が生じるからだ。たいていの市場に存在する競争を新聞業界には持ち込みたくないのだ。

右だの左だのというのは、競争を避けるための、棲み分けであり、暗黙の談合のようなものだ。右も左も存在しない。五大紙はすべて無用の長物なのだ。本当に国民に必要な情報を、新聞は絶対に書かないと断言してもよい。

「たいていのご家庭が、テレビ欄とチラシがあればいいんです」
それが営業としての実感のようだ。
僕もそうだと思う。
中身がないのだから、それ以外に何か新聞の価値があるだろうか。
読者が政治欄や経済欄を欲していないのではない。
内容のない新聞紙面にうんざりしているのだ。

「国民に必要なことをきちんと書けば、必ず読まれます」
「うちは、ましな方だと思うんですけど」
「いいえ、大衆紙の方がよほど頑張ってると思います」

紙面には、どうでもいいようなことしか載っていないので、結局、無料購読とか景品でしか、購読者を獲得できない。何とも寂しい新聞大国だ。

新聞には一片の期待も寄せていない。要は、権力の下請け業者でしかない。はやく消えるべきだと思っている。しかし、いくら読者が減っても、権力にすがって生き延びる道を用意してもらうのかもしれない。

日本経済の本当の姿

2006年04月21日 21時06分34秒 | □経済関連 バブル
前回は、故・石井紘基衆院議員の「財務金融委員会議録」を元に、日本の国家予算について説明したが、これは予備知識であって、このあと本論に入って行く。石井議員の発言から、日本の経済の本当の姿について学んでいきたい。

(日本の国家予算が二百兆円)一方でGDPは名目で約五百十兆円ぐらいですね。そうすると、このGDPに占めるところの中央政府の歳出というのは、何と三九%に上ります。
(中略)
 さらに、これに、政府の支出という意味でいきますと、地方政府の支出を当然含めなければなりませんから、我が国の場合、これも純計をして、途中を省きますが申し上げますと、大体これに四十兆円超加えなければなりません。そうすると、一般政府全体の歳出は約二百四十兆円というふうになるんです。これは何とGDPの四七%であります。GDPの四七%。
つまり、日本のGDP約500兆円のうち、約半分が日本政府の支出ということになる。石井氏は、「権力が市場を支配し、その結果、市場経済というものを破壊している。」と述べている。そして「ここでは本質的に資本の拡大再生産というものは行われない、財政の乗数効果というものは発揮されない」という結果をまねいている。石井氏は、これを「官制経済体制」と呼んでいる。

健全な経済というのは、社会の中において、おカネが円滑に循環する過程で、資本が拡大して行くものだ。政府の役割は、おカネの流れを阻害する要因を取り除き、流れをよくすることにある。あとは、すべてを市場にまかせるべきなのだ。そうすれば富は拡大再生産されていく。伸びる産業や企業は伸び、不必要な産業や企業は滅びる。

ところが、日本の経済体制の中では、伸びる企業が伸びず、滅びる企業が滅びないというイビツな現象が長年にわたって維持されてきた。こうした経済体制が、日本の経済全体を根本的に歪め、日本経済の体力を奪い続けてきた。その結果、引き起こされたのがバブルである。

日本の総生産の半分が、政府支出というのはどう考えてもおかしい。とても、資本主義とは言えない。「護送船団方式」こそなくなったものの、いまでも基本的には政府によって管理統制された経済であることに間違いない。故・石井紘基衆院議員の指摘は妥当を極めている。

GDPの半分におよぶ政府支出が形になったのが、際限なく作られていく、不必要なダムや高速道路、港湾、空港(農道空港)などに代表される公共事業だ。

日本の国家予算はいくら?

2006年04月20日 23時20分29秒 | □経済関連 バブル
故・石井紘基(いしいこうき)衆院議員のHPの中に、『「国民資産が紙屑になる日」本当の理由』というタイトルがある。開いて見ると中身は国会議事録だった。この中で石井紘基氏は、日本の国家予算について周到な調査を行ったうえで克明に述べている。

この議事録の中でおもしろいのは、石井氏が明確にする予算の数字に、当時の塩川国務大臣が当惑している様子がうかがえることだ。国家の予算を明らかにすることに何の不都合があるのだろうか。

故・石井紘基衆院議員が明確にした国家予算の内容を簡単に解説しておきたい。数字は平成14年度当時のものである。

日本の国家予算には、一般会計と特別会計がある。
われわれが普通、国家予算として知らされているのは「一般会計予算」だ。
これが、81兆円。

日本には、もうひとつ予算がある。
それが「特別会計予算」だ。
これが、なんと382兆円もある。

特別会計の中には、一般会計からの50兆円も含まれている。別個ではないのだ。また、特別会計は、かなりの重複分があるので、純計すると248兆円となる。さらに内部で移転するだけの会計が50兆円あるので、それを引くと200兆円になる。

たいへんややこしいが、
日本の本当の国家予算というのは約200兆円ということだ。

日本の税収というのは、約40兆円しかない。
では、残りの160兆円はどこで賄われ、何に使われているのか。

○石井(紘)委員 二百兆円、国税収入が税プラスその他でもって五十兆円になるかならないかというのに、二百兆円の予算を組まれているということは、これはすなわち国債の発行だとか、あるいは郵貯の資金二百五十五兆円、年金資金百四十兆円、あるいは簡保の資金百十兆円、その他の資金五十兆円というようなものを、投資とか融資に主として充てている。公共事業なんというのは、こういうものでもってかなり投資活動として行われているわけです。

つまり、日本の国家予算の大部分は、国民の財産を使っておこなわれる公共事業である、ということだ。毎年、160兆円も使うほどの公共事業が、はたして本当に必要なのだろうか。


故・石井紘基 衆院議員HP
http://www014.upp.so-net.ne.jp/ISHIIKOKI/

乱読時代の遺産

2006年04月19日 23時06分54秒 | 軽い読み物
もう少しだけ、言葉について。
ほとんど蛇足の部類だ。

十代半ばから後半にかけて、僕は乱読多読、活字中毒の類だった。
文字であれば何でもよかったのだと思う。
そうして読んだ作家諸氏の作品をいま読むことはもうない。
二十歳をすぎると、蔵書はあっさり処分された。

短い乱読多読時代のささやかな遺産が、ふたつだけある。
ひとつは、開高健が引用していた古いトルコの諺。
「本はすでに書かれすぎている」

それから、坂口安吾の言葉。
「文章ではなく、もっと物語りにとらわれなさいよ」

開高健は、ある時期から書けずに相当悩んでいたようだ。
井上靖との対談で、
「書けないんですよ。どうしたら書けるようになるんでしょう?」
とすがるように質問していた。井上靖は、
「書けばいいんですよ。どんどん書けばいいんですよ」
と、ものすごい答えを返していた。
開高健は、頭の中で「本はすでに書かれすぎている」とこだましていたにもかかわらず、それでも書くことにこだわった。

坂口安吾は、いまでも根強い人気のある作家ではないだろうか。
既成概念にとらわれず、戦後の時代の本質を見抜いていた数少ない作家だと思う。小説を美文で固めるよりも、内容にこそこだわれと言い切った。十代半ばの僕は、小説の文章とは技巧を尽くすものだと思いこんでいたので、坂口安吾の言葉は衝撃だった。

開高健は言葉にこだわりつづけた作家だ。その語彙力は並外れていたし、文章は練りに練りあげられていた。それにくらべると、安吾の文章は実に平易を極めている。開高健の凄まじい語彙力には敬服するが、残念ながら一言一言に込められたものは、それほど深くはなかったのかもしれない。坂口安吾の文章は極めて平易だが、そこに込められたものは、とても深いのだと思う。

「坂口安吾研究」を検索エンジンにかけると無数にヒットするが、「開高健研究」は三件だった。生きた時代が違うのでフェアではないが、同じ時代に生きたとしても結果はそれほど変わらないだろう。

書きたいものがなければ、文章なんて書く必要はないし、書くなら、文章などにこだわらず、自由に書きたいものを書けばいい。それだけのことだ。

何十年も文章を書く必要を感じなかったが、いまは少し書きたいことがある。いずれ書かなくなるかもしれない。そうあって欲しいと思う。そのときは、きっといい時代なのだ。

大統領執務室の最高機密

2006年04月18日 22時11分27秒 | ■メディア・リテラシー
いま参考文献としてチャルマーズ・ジョンソンの『アメリカ帝国の悲劇』を読んでいるのだが、プロローグにおもしろいことが書いてあった。チャルマーズ・ジョンソンは冷戦時代、CIAの国家評価局の顧問をつとめていた民間の学者だ。

わたしはきわめて高度の機密取り扱い許可を与えられていたが、じきにうっかり国家機密を漏らしてしまう心配をしなくてもいいことに気づいた。わたしはかつて、国家情報評価を秘密にする最大の理由はその完璧な陳腐さにある、と妻に話したことがある。たぶんそれが高度の機密事項に指定されているのは、こんな新聞雑誌にのっているようなありふれた雑文が大統領執務室で戦略的な思考として通用していることが知れたら恥ずかしいからだろう。
プロローグ 17p

冷戦時代、世界の誰もが、米ソは熾烈な諜報戦を展開していると思い込んでいた。情報を制するものが冷戦を制すると。しかし、大統領執務室では、普通の新聞や雑誌の内容が真剣に吟味されていたということだ。これが、諜報戦の正体だった。ソ連邦の脅威そのものが、もともとアメリカの演出でしかなかったのだから、諜報戦など必要なかったということだ。

結局、熾烈なスパイ合戦というのは、映画や小説の中にしか存在しなかったのだ。しかし世界は、アメリカが莫大な情報を収集し、赤い脅威から世界を守っていると信じ込んでいた。冷戦中の最高の国家機密が、実は、”機密など存在しない”ということだったとは、ばかばかしいにもほどがある。

現在の、「対テロ戦争」も同じ仕組みなのだと僕には思えてならない。マドリッド、ロンドン、アンマンの爆弾事件には、不可解な事例がいくつも指摘されている。

マドリッドの爆弾事件について、欧米のテロ対策関係者は「アルカイダの犯行ではない。(地元のグループによる)自前の犯行だ」と結論づけている。ロンドンの事件では、主犯とされる英国籍の人物はMI-6(英国情報機関)のメンバーであった、と指摘されている。アンマンの事件は、自爆ではなく、爆薬は天井に仕掛けられていた可能性が非常に高い。

これらの爆弾事件は、「アル・カイーダ」なる組織が実在するかのように誰かが演出しているだけではないのか。

いつどこで爆弾が炸裂するかわからない時代を演出すれば、いずれ世界中の人々が、となりの住人はテロリストではないかと、疑心暗鬼になり、戦々恐々とするようになるだろう。そして、イスラム教徒に迫害を加え、生活難に追い込み、その結果、実際に過激な行為に走らせる、というのが「対テロ戦争」の真相ではないのだろうか。

チャルマーズ・ジョンソンは、冷戦時代のCIAの役割とは、「情報の収集と分析ではなく秘密活動である」とも述べている。

オヤジの歌

2006年04月17日 23時31分51秒 | 軽い読み物
かつて、某メトロポリスにはとてもたくさんのストリート・ミュージシャンがいた。
彼らの存在が街に活気さえ与えていたと思う。
いまでもいるのかどうかは知らない。
当時は、地下鉄の通路やホームが彼らの拠点だった。

僕はあまり音楽を聴くほうではないのだが、彼らの演奏が素人離れしていることくらいはわかった。彼らの演奏や歌は楽しみだったが、いちいち吟味していたわけではない。いい演奏や歌には、耳よりも先に足が止まるものだ。足が止まったら聴けばいい。そんな風に思っていた。でも、足が止まることはほとんどなかった。技術的にはプロ顔負けなのだが、それだけでは足はなかなか止まらないものだ。

いま、覚えているのは、15,6才の白人の少年と60才位の黒人のおじさんとのブルース・ギター。エネルギーが爆発するような少年のギターと、円熟したおじさんのギターが、絶妙な味を出していた。それでも、20分ほどしか聴いていなかったように思う。

あれだけプロはだしのミュージシャンがいながら、ほかにどんな人たちがいたかさえ、いまではほとんど記憶に残っていない。いかに優れたテクニックを持っていても、存在したという記憶さえ残してもらえない。

そんな中で、唯一、僕の足を地下鉄のホームに釘付けにした人がいた。ちょっと太った風采の上がらないヒスパニックのおじさんだ。スペイン語でギターの弾き語りをしていた。

それはもう、お話しにならないほどヘタクソな歌だった。どのくらいヘタクソかを、文章で表現する自信はない。そのくらいヘタクソだった。

オヤジは、僕の最寄の駅で歌っていたので、頻繁に出くわした。そして、毎回釘付けになった。釘を引き抜いても、靴はまだホームに糊付けになっていた。おかげで地下鉄を一本やり過ごすことも度々あった。

聴きなれたスペイン語の歌だから、僕には懐かしいのかなと思った。しかし、少し離れたところでそっぽを向いて立っていた女性が、後ろ髪を引かれるように地下鉄に乗っていったのを見た時、僕だけが聴いているのではないという確信を持った。

回りの人を観察してみると、誰もオヤジの方を見ていないのだが、歌を聴いているとおぼしき人はたくさんいた。間違いない。聴いているのは、僕だけではないのだ。みんな、おやじの歌に足が糊付けになっているはずだ。

あのヘタクソなオヤジの歌のどこからそんな魅力がでてくるのか。
そんなこと、誰にもわかるわけがない。

ただ、ひとつ学んだことは、テクニックなんかで人のこころを打つことは決してできない、ということだ。
それは、音楽に限らず、あらゆる表現に共通すると思う。

もちろん書くこともまた同じだ。
本当に何かを伝えたければ、技巧などかえって邪魔だと思う。
文章はヘタクソでいいのだ、と確信して僕はものを書いている。
もし、あのオヤジの歌に出遭っていなければ、僕はもっと臆病にものを書いていたに違いない。

言葉の魅力と罠

2006年04月15日 19時53分13秒 | 軽い読み物
言葉というものの魅力は、言葉では言い表せない。
コンセントの正しい取付け方から文学まで表現できる。
言葉は言葉以上の存在かもしれない。
でも僕は、単純に道具だと思って言葉に接している。
たとえば、金槌のようなものだ。
家を建てることもできれば、人を殴ることもできる。


かつて、某カルト団体の書物を一冊だけ読んだことがある。
いつだったかは忘れたが、かなり前だ。
阪急梅田駅前で、街頭勧誘販売していた。
「読んでもいいけど、買う気はないよ」
「タダでは差し上げられません」
「じゃあ、いらない」
「いくらでもいいんです。100円でも、10円でも」
「読んでみるまで、1円の価値があるかどうかさえわからない。悪いけど1円も出せない。でも、くれるんなら最初の一行から最後の一行まで確実に読むと約束する」

大阪から京都に帰るまでの電車の中で、約束どおりすべて読んだ。
読み終えると同時に、
”こんなものでいいなら、10冊でも20冊でも書ける”
と思った。
宗教用語の中に、美しい心地よい言葉が散りばめられていた。しかし、意味内容は一切ない。何かすばらしいものが表現されていると、読み手を錯覚させている文章にすぎなかった。意味内容がなくて、ただ美しいだけでいいのだから、これほど簡単な文章はない。いくらでも書ける。

しかし、読み手の中には、すばらしい内容が込められているに違いないと錯覚して読む人もいるはずだ。そして、あるはずのない意味を必死になって求める。いつまでも意味を発見できない読み手は、自分の至らなさを恥じ、よりいっそう意味のない言葉に没頭していく。これほど不毛な作業はない。しかし、本人にとっては麻薬に等しい魔力があるのではないだろうか。麻薬におぼれた人間を操ることほど簡単なものはない。

知識が豊富で、能力の高い人ほど、案外、このシンプルなマジックに引っかかりやすいことを多くの事例が示している。”こんなもの自分に理解できないはずがない”、という思いが落し穴なのだ。

知識を広げ、能力を高める努力は、もちろん大切だ。
でも、それ以上に、単純に疑ってみるということもとても大切だと思っている。

言葉の持つすばらしい魅力と隠れた罠には十分注意したい。

記述の難しさ

2006年04月14日 21時10分10秒 | 軽い読み物
この一週間ほどの間に、ドルの話しから始まり、IMFと世界銀行、そして多国籍企業と国際金融資本へと話しが進んできたが、最初から何を書くか決めていたわけではなく、これを書いたら、これも書いておきたい、という感じで進んできた。少し統一感がなかったかもしれない。

また、あまりこと細かく記述せず、全体像だけを描くようにした。論証・検証の部分はほとんど省いている。ブログという媒体はもともと時系列の日記として始まったので、連続ものはあとさきが逆になっていく。分割して論述するのにはあまり適していない。そこがかねてからの悩みだ。

一回に書く分量も、パソコンの画面内に納まるのが理想だ。実際は、はみ出るが、最長でも二画面分が限界だろう。それ以上になると読んでもらえるかはあやしい。ここにブログで記述することの限界があるかもしれない。雑誌や本のような分量はとても読めない。ページをくるのとスクロールとはかなり違う。PDFファイルなどはかなり厄介だ。

今回、時系列と文字分量という制約の中で、戦後60年の流れをたった一週間ほどで描いてきた。補足事項はすべて剥ぎ取ったため、おそらく説得力としては弱いと思う。読み方によっては荒唐無稽なヨタ話ともとれるかもしれない。

記述の緻密さをとるか、解りやすさをとるか。パソコンの画面の中で両立は不可能だと感じている。こと細かく記述しても、最後まで読んでもらえなければ意味がない。過去に書いたものの中には、自分で読んでいても長くて厭になるものがある。やはり、解りやすさの方が大切だ。

受け入れてもらえるか、もらえないか、博打のような書き方とも言えなくもない。でも、読んでもらえないよりはずっといいだろう。

ブログの可能性には大いに期待しているが、限界も理解した上で利用していきたいと思う。

ドル支配の起源

2006年04月10日 13時33分23秒 | ■ドル・ユーロ・円
第二次大戦中、アメリカ政府はあることでひどく頭を痛めていた。
ゼロ戦やヒトラーの秘密兵器よりもこちらの方が大きな問題だった。

「完全雇用」だ。
戦後のアメリカでどのようにして「完全雇用」を確保するかについて、戦争中からアメリカの政府首脳は悩んでいた。

戦争が終われば、アメリカの生産規模は縮小せざるを得ない。そうなれば多量の失業者が出る。そこへ戦場から兵士も帰還してくる。アメリカ中に失業者があふれることになる。

たとえ戦争に勝っても、多量の失業者を出せば、アメリカ国内は社会不安におちいり、社会は左傾化に向う。アメリカ政府は、それをひどく恐れた。戦後も、生産規模や農業生産を縮小せず完全雇用を確保しなければならないと考えた。

つまり、戦後の世界を、アメリカの余剰生産物の市場としなければならなかったのだ。

戦前、ドル経済圏とポンド経済圏はしのぎを削っていた。戦争が終結し、イギリスが復興すれば、必然的にポンド経済圏は復活してしまう。このポンド経済圏を丸ごと奪う必要があった。アメリカはその方法を考えなければならなかった。

アメリカの結論は、戦後の貿易通貨をドルに限定すること、そして英ポンドから競争力を奪うことだった。

そのために考え出されたのが、IMF(国際通貨基金)と世界銀行の設立だった。(1944年ブレトンウッズで協議、1947年正式発足)

アメリカはIMFを使って、ドルを戦後の貿易通貨と決めた(ドル金本位制)。そして世界の通貨の為替レートを高めに固定し、他国の通貨の競争力をあらかじめ奪ってしまった(通貨の固定相場制)。

アメリカは、IMFによるドル金本位制と通貨の固定相場制を世界に承諾させるエサとして、世界銀行による経済援助を用意した。単純に言ってしまえば、たったこれだけのことで、アメリカはポンド経済圏を奪ってしまった。そして最終的にドルは世界を支配することになる。

「完全雇用」を国民に提供しなければならないというアメリカ政府の強迫観念が、今日のドル支配の構造の起源だ。1930年代のアメリカは大恐慌の影響で失業率が25%に達していた。しかし、第二次世界大戦が雇用状況を一気に改善した。アメリカ政府が、戦後もその雇用を維持したいと考えたのはごく自然なことかもしれない。

かたや戦争で廃墟と化したヨーロッパ諸国は、「完全雇用」どころの話しではなかった。アメリカの差し出したエサに見事に食らいついてしまった。ヨーロッパがほんの少し慎重であれば、戦後史は少し違ったものになっていただろう。

トンネル国家、アメリカ

2006年04月08日 23時35分24秒 | ■時事・評論
ここのところ、さんざんアメリカ、アメリカと書き散らしているが、、「アメリカ」と表記するたびに、一種の居心地悪さを感じる。

「ブッシュ大統領」と表記するときも似たようなものを感じる。というのもブッシュ氏がアメリカをコントロールしているわけではないからだ。あくまで彼は利益代表にすぎない。当然アメリカの最高司令官などでもない。彼は所詮パペットにすぎない。

いまアメリカの政治経済軍事の影響力から自由な国家は存在しない。しかし、そのアメリカという国家も、さまざまな勢力から成立っており、一口に「アメリカ」という言葉では括れない側面がある。

アメリカの政治経済を実際に動かしているのは、複雑に入り組んだ多数の勢力だ。「ネオ・コンサーバティブ:新保守主義」もそのうちのひとつだし、軍需産業や石油業界もそうだろう。そしてウォール街に代表される金融界。それから宗教界も巨大な勢力だ。しかし、こうしたさまざまな勢力の総体や駆け引きだけで、アメリカの政治経済が動いているわけでもない。他にも役者がいる。

「多国籍企業」と「国際金融資本」だ。

この両者は、従属する国家を持たない。書類上はどこかの国家に属しているが、実際には国家から独立した存在だ。多国籍企業は必要なら本社機能を出身国から他国へいつでも移転させるだろう。国際金融資本のほとんどは、タックス・ヘイブン(租税回避地)のバージン諸島やバハマにペーパー本社を置いて、国家の影響力から離脱している。つまり、多国籍企業や国際金融資本は「無国籍」であり、自己の利益だけを追求する存在なのだ。

多国籍企業は世界に6万社以上あるが、上位500社(アメリカ、ヨーロッパ、日本の企業)で世界の貿易の三分の一を占めている。こうした多国籍企業はWTOによりその利益を保証されている。WTO(世界貿易機関)は途上国の関税障壁を取り除き、途上国の産業と市場を多国籍企業に差し出した。WTOの前身であるGATTはアメリカによって設立された。

国際金融資本は、グローバリゼーションというマヤカシを提唱し、世界の金融市場の規制を撤廃させ、まんまと世界の金融市場を手中に収めた。その尖兵となったのがIMFと世界銀行だ。IMFと世界銀行もアメリカによって設立された。国際金融資本には、日本やヨーロッパ、産油国の資本が多数参加している。

世界の多国籍企業や国際金融資本は、アメリカの利益共同体と言って間違いない。つまりアメリカ国内の勢力や産業だけがアメリカを動かしているのではない、ということだ。世界の企業や資本も直接間接にアメリカに影響を与え利用しているのだ。

アメリカというのは巨大なトンネル国家と言えるかもしれない。ドルや軍事力を利用してアメリカが吸い上げた世界の富は、多国籍企業や国際金融資本の懐にも流れているのだ。もちろん、その中には日本の企業や資本が数多く含まれている。

僕が「アメリカ」と表記するとき、一抹の居心地悪さを感じるのはそのためだ。アメリカだけを諸悪の根源のように書くのは決してフェアではない。ただ便宜上どうしてもそう表記することになってしまうのだ。

アメリカというトンネルを利用して多国籍企業や国際金融資本が、世界の富を貪っているということも念頭においていただきたいと思う。