報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

言葉の魅力と罠

2006年04月15日 19時53分13秒 | 軽い読み物
言葉というものの魅力は、言葉では言い表せない。
コンセントの正しい取付け方から文学まで表現できる。
言葉は言葉以上の存在かもしれない。
でも僕は、単純に道具だと思って言葉に接している。
たとえば、金槌のようなものだ。
家を建てることもできれば、人を殴ることもできる。


かつて、某カルト団体の書物を一冊だけ読んだことがある。
いつだったかは忘れたが、かなり前だ。
阪急梅田駅前で、街頭勧誘販売していた。
「読んでもいいけど、買う気はないよ」
「タダでは差し上げられません」
「じゃあ、いらない」
「いくらでもいいんです。100円でも、10円でも」
「読んでみるまで、1円の価値があるかどうかさえわからない。悪いけど1円も出せない。でも、くれるんなら最初の一行から最後の一行まで確実に読むと約束する」

大阪から京都に帰るまでの電車の中で、約束どおりすべて読んだ。
読み終えると同時に、
”こんなものでいいなら、10冊でも20冊でも書ける”
と思った。
宗教用語の中に、美しい心地よい言葉が散りばめられていた。しかし、意味内容は一切ない。何かすばらしいものが表現されていると、読み手を錯覚させている文章にすぎなかった。意味内容がなくて、ただ美しいだけでいいのだから、これほど簡単な文章はない。いくらでも書ける。

しかし、読み手の中には、すばらしい内容が込められているに違いないと錯覚して読む人もいるはずだ。そして、あるはずのない意味を必死になって求める。いつまでも意味を発見できない読み手は、自分の至らなさを恥じ、よりいっそう意味のない言葉に没頭していく。これほど不毛な作業はない。しかし、本人にとっては麻薬に等しい魔力があるのではないだろうか。麻薬におぼれた人間を操ることほど簡単なものはない。

知識が豊富で、能力の高い人ほど、案外、このシンプルなマジックに引っかかりやすいことを多くの事例が示している。”こんなもの自分に理解できないはずがない”、という思いが落し穴なのだ。

知識を広げ、能力を高める努力は、もちろん大切だ。
でも、それ以上に、単純に疑ってみるということもとても大切だと思っている。

言葉の持つすばらしい魅力と隠れた罠には十分注意したい。