報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

タリバーンのアフガニスタン(5)完

2005年01月06日 09時16分29秒 | ●タリバンのアフガン
──タリバーン or マスード──

 ガズニからカンダハルまでは約300キロ、乗り合いタクシーで24時間もかかる。これは苦しい行程だ。しかもタクシーの後部座席には客を4人詰め込む、そして助手席には2人だ。僕はカメラバッグがあるので、二人分の料金を払って助手席に一人で座った。カメラバッグは膝の上に置いた。暑くてたまらないが、波うつデコボコ道の振動でカメラが壊れて困る。熱風のため、今回も窓は開けられない。この移動で極端に体力が奪われた。

 移動中、お祈りの時間になると車を止め、全員がマッカ(メッカ)に向かってお祈りをした。僕は、日陰でお祈りが終わるのを待つ。何度目かのお祈りのとき、後続のタクシーもお祈りに合流した。お祈りの後、あとから来たタクシーの乗客が、僕に話しかけてきた。黒ターバンなので、タリバーンだ。
 しばらく話をしていると、彼は、
「タリバーンとマスード、どっちがグッドだ?」
 と僕に質問した。困った問いだった。
 マスードとは、対ソビエト戦争の英雄中の英雄だ。ソビエト軍から「パンジシールの虎」と呼ばれ、ひどく恐れられた。欧米のメディアもマスードを大きく取り上げ、欧米でも対ソビエト戦争のヒーローとして広く認知された。日本でも写真集が何冊も出ている。「ランボー・怒りのアフガン」に出てくるムジャヒディンのリーダーもマスードという名前だ。
 しかし、ムジャヒディン同士の内戦に入ってからは、タジク人のマスードは、ハザラ人の村に無差別攻撃をして、大勢の住民を殺害したという報告もある。
 タリバーンが台頭してからは、マスードは北部同盟を結成して、タリバーンと激しい戦闘を繰り返した。
 そのマスードとタリバーンは、どちらがグッドかと訊かれても、
「僕は、ジャーナリストです。ニュートラルでなければなりません」
 と優等生の答えをするしかない。こんな答えは、好きではないが。

 その答えに満足できなかったのか、僕を彼の車のところに案内した。車内には、足にギプスをした若い男が乗っていた。太ももから足先までギプスで分厚く固められていた。精悍な顔つきの若者だった。
「私の弟だ。チャリカールでマスード(軍)に撃たれた。マスードはグッドかね?」
 と再び彼は言った。僕には、答えようがなかった。戦闘では双方が傷つくものだ。
 彼は礼儀正しく物腰の柔らかい紳士だった。彼がそのような質問をしたのは、彼の弟が傷ついたからではないように思う。

 欧米のメディアにとってタリバーンは正体不明の謎の集団だった。それにくらべて、マスードは欧米でもカリスマだった。欧米のメディアは、必然的にマスードに同情的だった。
 しかし、ソビエト軍撤退後のアフガニスタンを、またしても破壊と混乱に導いたのは、マスードやドスタム、イスマイル・ハーンといった軍閥の権力争いだった。治安は極度に悪化し、移動には略奪の危険がつきまとった。庶民にとって、かつてのムジャヒディン(聖戦士)は山賊と変わらない存在となった。
 その内戦を終わらせ、アフガニスタンに秩序をもたらしたのは、タリバーンだった。
 しかし、欧米のメディアはタリバーンを、恐怖政治で国民を抑圧する狂信的なイスラム原理主義者とみなした。
 メディアの報道は、明らかに公平さとは、ほど遠いものだった。
 もし、いま同じ質問をされたら、僕はどう答えるだろうか。

──タリバーンの拠点:カンダハル──

 カンダハルは活気のある街だった。
 といってもここも内戦でかなり破壊されていた。
 泊まった宿も、半壊状態だった。
 そして、ここはタリバーンの指導者ムラー・モハメド・オマルの故郷だ。

 ガズニからカンダハルへの24時間の旅のせいで、僕は極端に衰弱していた。しかし、それに気づかず重いカメラバッグを下げて、毎日カンダハルの街を歩いた。
 宿の向かい側にあるアンティック店のスレイマンという青年と親しくなってからは、よく彼の店でくつろいだ。半壊した宿には、疲れた体を休める空間がなかった。一日中スレイマンの店でごろごろすることもあった。

知り合ってすぐにスレイマンは、
「タリバーンは好きじゃない。オレはモスクにも行かない。タリバーンは怒っているけど、それでも行く気はない」
 とすずしい顔で言った。さすがに、これには驚いた。僕のヒゲや長髪とは次元が違う。ただでは、済まないのではないかと本気で心配した。
 彼の店にはよく人が顔をだした。訪問客とスレイマンと僕とで、巨大なメロンを食べたり、カキ氷を食べたりした。僕は言葉が分からないので、その場で疲れた体を休めているだけだったが、訪問客とスレイマンは、いつまでものんびり話をしていた。
 訪問客はたいていタリバーンだった。タリバーンとスレイマンは、いつものんびり話をしているだけだった。タリバーンが怒ったりするのを見たことがない。彼らはいつも笑みを浮かべながら話をしていた。
 モスクへ行かないスレイマンに対する心配は取り越し苦労だった。

 カンダハルでは、お役所やタリバーンの支部にも行ったが、長髪で洋服姿の僕は、普通にむかえられた。車座になってチャイを飲んでいた初老のタリバーン幹部たちでさえ「日本人かい。まあチャイでも飲んでいきなさい」とにっこり笑って言った。外務省の若いタリバーンは、頼みもしないのに何やら手紙を書いてくれた。後にこの手紙は役に立ったのだが、いまだに何が書かれているのか知らない。
 ムラー・オマルのお膝元、タリバーン発祥の地カンダハルとは、そんな街だった。

──タリバーンとピンクフロイド──

 スレイマンの友人にタリバーン軍のドライバーがいた。その若いタリバーンは車を自由に使える身分だった。おそらくタリバーンの中でもそこそこの地位にあるのだろう。彼はスレイマンと僕を、夕方ドライブに連れて行ってくれた。
 アフガニスタンの風景は、草木もほとんどない荒涼とした大地だ。しかし、それが妙に美しい。日が傾き、暑熱がようやく去ったころ、夕日に染まるアフガニスタンの大地を走るというのは、この上ない贅沢に思えた。
 若いタリバーンはしばらく夕日の大地を走ると、窓を閉めるように言った。なぜ、窓を閉める?昼の暑熱が去り、熱風がやわらかい涼風になったというのに。おかしいなあ、と思った。窓を閉めると、彼は座席の下を探り、カセットテープを取り出した。カーステレオにするりとテープが消えた。そしてスピーカーから大音響の、

 ピンクフロイド

 の曲が流れてきた。
「まさか・・・」
 タリバーンはあらゆる娯楽音楽を禁止しているのではないのか。西洋音楽は堕落と退廃の象徴ではないのか。お前はタリバーンではないのか。そのテープはどこから手に入れたのだ。オレがチクッたらどうするのだ。などという質問をする気にもならないほど、景気のよいピンクフロイドだった。
 対向から砂塵をあげてタリバーンの車が近づいてくると、スレイマンがボリュームをするりと下げた。すれちがうと、またドカーンとピンクフロイドが鳴り響いた。

 我々三人を乗せた車は、夕日に染まる美しいアフガニスタンの大地に、堕落と退廃を撒き散らしながら走り続けた。


タリバーンのアフガニスタン(完)

タリバーンのアフガニスタン(4)

2005年01月05日 16時08分28秒 | ●タリバンのアフガン
 ソビエトは10万の軍隊で、10年の歳月をかけてもアフガニスタンを制圧できなかった。
 なぜタリバーンはたった2万の兵力で、1年足らずの間に国土の90%を掌握できたのか。

──灼熱の大地──

 たった三日のカブール滞在で、手持ちのドルキャッシュの半分近くを使ってしまった。
 タクシー135ドル。通訳料130ドル。ホテル189ドル。しめて454ドル。残りは546ドルだ。あと一日カブールに滞在すれば、もはや他の都市をまわる余裕はなくなる。
 「前線」から帰ると、通訳のサレザイ氏にカブールを出ることを告げた。サレザイ氏は、地方都市までついてくるつもりでいたようだ。なんと言っても二日で一月分の生活費を稼げるのだ。しかしこちらにはもはや金銭的余裕はない。それに、彼がいるとアフガニスタン市民と接触できない。いいことが何一つないのだ。サレザイ氏には、「もう仕事は終わった。あとは、イランへ抜けるだけだから通訳は必要ない。いろいろとありがとう」とごまかした。サレザイ氏は、いい人物だが、彼のエリート気質がどうしても庶民との接触を遠ざけてしまう。カブールでの三日間で、僕はかなり消化不良をおこしていた。

 翌日、乗り合いタクシーでガズニという街をめざした。カブールから南へ約150キロ、6時間かかった。平均時速25キロだ。幹線道路は、シケの大海のように大きくうねり、スピードが出せない。自然条件によって、できたものではなかった。軍事的な目的で、道路が掘られたのだ。
 走り出すと、窓を閉めるように言われた。そんなバカな。車内はオーブンになってしまうではないか。これはもはや苦行の域だ。途中で少し窓を開けて、外に手を出してみた。外の空気は強力なドライヤーのようだった。なるほど、こんな熱風が車内に吹き込んでは、ガズニに着く前にミイラになってしまう。この地上には、こんな厳しい自然環境があるのかと驚愕してしまった。
 途中にある検問所では、けっこう歓待された。身を焦がす灼熱の太陽の過酷さに比べ、人々のこころはとてもやわらかくやさしかった。

──タリバーンのビンタ──

 次の検問所で、車のオイルを交換するために、しばらく停車した。その間我々乗客は、車の中で待っていた。強い日差しが差し込むので、僕は布を頭にかぶせた。
 近くにいたAK47を持ったタリバーンの兵士が近づいてきて、僕に車から降りるよう指示した。 僕はドアを開け、上半身を車の外に出した。その瞬間、右ほほに力まかせの強烈なビンタを食らった。でかい分厚い手の感触があった。反射的に車の中に身を引いた。何が起こったのかわからない。とにかく殴られたらしい。
 後部座席の乗客があわてて、兵士に向かって「ジャパニ!」「ジョルナリスタ!」と口々に叫んだ。乗客はタリバーンの兵士に、こいつは日本人のジャーナリストだ、と説明してくれたのだ。
 すぐにIDカードを示したが、その兵士は一瞥もくれなかった。目を見開き、口は半開き、右手は虚空を泳いでいた。あれほどうろたえた人を見たことがない。今度は、兵士の方が、何が起こったのかわからないといった感じだった。

 タリバーンの兵士は僕の方を見ながら、何か言おうとしているのだが、まったく声が出ない。彼は、どうやらとんでもないことをしてしまったようだ。
 僕は、あえて長髪、洋服姿で通している以上、別にこのくらいのことで怒る気にはならなかった。アフガニスタンに入る前に旅行者に髪を切ってもらったが、それでもまだ長かった。カブールでサレザイ氏に、髪の毛はもっと短くしたほうがいいよね、と相談したことがあった。しかし、サレザイ氏は「君は、外国人だから関係ない」とそっけなく言った。あれほどタリバーンを避けていたサレザイ氏が、あまりにも当たりまえのように言うので、あえて長髪のまま様子を見ることにした。しかし、はっきり言って僕の身だしなみは、かなり礼を欠いているという自覚があった。
 そんなわけだから怒るどころか、彼に申し訳ないと思った。僕は笑顔で「どうってことないよ」という仕草を何度もした。彼は、タクシーが発つまで、暗鬱な表情をしていた。彼は、別れ際にはなんとか笑顔を作った。彼には、まったく悪いことをした。
 しかし、この件で、案外タリバーンは外国人に気を使っているということが分かった。同時に、アフガニスタン人には、やはり厳しい面があるということも。彼は、僕をアフガニスタン人だと思ったのだ。僕のような顔立ちはアフガニスタンではめずらしくない。

 タクシーが走り出すと、10秒もしないうちに、後ろの乗客は堪え切れずに大爆笑した。僕も緊張が解けて笑った。僕は、自分の髪の毛をつまんで「これか?」と彼らに訊いた。どうも長い髪の毛よりも、僕のヒゲがいけないらしい。僕は精いっぱいヒゲをのばしていたが、僕のヒゲはもともと薄く、まばらにしか生えていなかった。
 タリバーン体制下では、ヒゲを切ることを禁止している。僕のようにまばらなヒゲは大変ふとどきになるようだ。が、これだけは、どうしようもない。いま思えば中途半端に伸ばすより、きれいさっぱり剃った方がよかったのかもしれない。僕の長い頭髪とまばらなヒゲは、どの文化圏でも汚らしい姿だったと思う。
 灼熱のアフガンの大地を走りながら、ドライバーも客も酷暑を忘れて、はしゃいでいた。「お前、痛かったか?」と訊かれた。強烈なビンタだったが、不思議と痛いという感覚はなかった。とにかくびっくりした。殴られるとわかっていたら痛かったかも知れない。

──タリバーン・グッド・ピープル──

 タクシーは目的地のガズニに着くまでのあいだ何度もチャイ休憩を取った。波打つ道路と熱風の中を時速20キロほどで、よろよろ走るのは、ドライバーも客も極度に疲労する。途中チャイ休憩を取らないと体がもたない。アフガンのチャイは熱い緑茶に砂糖を入れて飲む。くそ暑い中で熱いチャイとは拷問のようだが、アフガニスタンには冷たい飲物など存在しなかった。人間の体というのは何にでも慣れるものだ。暑熱の中でも熱いチャイを楽しめるようになった。

 乗客はチャイを飲みながら、さきほどの”ビンタ事件”の一部始終を嬉しそうに、チャイハネの客に話しはじめた。言葉は僕にはさっぱり解らないが、乗客の身振り手振りでだいたい分かる。娯楽のないアフガンでは、恰好の茶飲み話しだろう。チャイハネの客はときに大笑いしながら愉しそうに話を聞いていた。ビンタは強烈だったが、アフガンのみなさんに茶飲み話を提供できてよかったかな、と思った。
 そのチャイハネでタクシーの乗客の話を、愉しそうに聞いていた客は、実は全員タリバーンだった。 
 話しをひとしきり愉しんだあと、タリバーンのひとりは、「”事件”のことは、気を悪くしないでほしい」というようなことを言った。静かで凛々しく素朴な男たちだった。同時に強い信念の持ち主であるとも感じた。しかし、狂信的なところは微塵もない。とにかく彼らは、「静」なのだ。

 タリバーンの一人が、「写真を撮ってくれないか」と控えめに頼んできた。まさかタリバーンの方から撮ってくれと頼まれるとは思わなかった。願ってもない申し出だった。(ギャラリー:アフガニスタン、「タリバーンの兵士」がそのときの写真)

 出発するとき、タリバーンの兵士たちは、タクシーのところまで来て、我々を見送ってくれた。
 写真を撮ったタリバーンが、別れ際、一言一言噛みしめるように言った。
「タリバーン・・・グッド・・・ピープル」

──ガズニ──

 ドライヤーの熱風の中を6時間、やっとガズニに着いた。ガズニではチィハネ(茶店)の二階に泊まった。チィハネには、人が集まるので、アフガニスタンの人々と接するいい場所だった。僕はめずらしがられ、かつとても友好的に迎えられた。
 カブールでの隔絶された生活とは大違いだった。夜遅くまで、気さくな男たちに混じってくつろいだ。
 夜、異様にパリッとした身なりの少年がチャイハネへやってきた。純白のターバンをしていた。大人たちは、少年を指して「タリバーンだよ」と言った。その少年タリバーンは、ひどく大人びていた。不届きな大人たちをボクが監視するのだ、と本気で思っているようだった。子供が背伸びしすぎると、滑稽でもあり醜悪でもある。少年は、大人たちを監視しているつもりのようだったが、大人たちは、それが可笑しくてならないようだった。

 翌日の朝、カンダハールへ向かった。乗り合いタクシー乗り場へ向かって、歩いていると、一人の若者が話しかけてきた。若者は、
「カンダハールは、タリバーンの拠点だぞ。カンダハールへ着いたら、お前はタリバーンに捕まって、その髪の毛を切られるんだぞ。わかってるか」
 というようなことを言った。
 若者は、しばらく僕に付きまとい、「お前は、カンダハルでタリバーンにボウズにされるんだ。わかったか」と繰り返した。
 カブールを出て、まだ一日だったが、すでに様々なタリバーンと出会った。そして僕にはタリバーンは、若者が言うような狼藉を働くようなことはないという確信があった。

タリバーンのアフガニスタン(3)

2005年01月04日 10時36分37秒 | ●タリバンのアフガン
『 タリバンは訳が分からない狂信的集団のように言われますが、我々がアフガン国内に入ってみると全然違う。恐怖政治も言論統制もしていない』  (ペシャワール会・中村哲氏発言より)

──前線──

「タリバーンの取材許可は取らなくていいのか?」
 前線に向かう車の中で、通訳のサレザイ氏に訊いた。
「現地で、取る」と彼は答えた。ちょっと不安がよぎった。そういうものは、どう考えても事前に取っておくべきものだ。彼が、タリバーンと太いパイプでもあるならいざ知らず。それどころか、彼はタリバーンを極度に避け続けていた。
 彼は外交官としての教育と訓練を旧ソビエトで受けていた。つまりソビエト支配時代の傀儡政権の国家公務員だった。タリバーン政権になってからも、そのまま同じ職場で働いているが、少々肩身の狭い環境にある。彼が必要以上に、タリバーンを避けるのはそういう事情があるようだ。
 しかし、逆に考えれば、タリバーンはけっして排他的狂信的な集団ではないとも言える。

 前線のチャリカールまで、北へ一直線の道が続いていた。
 途中、タリバーン軍の小規模な陣地がいくつか点在していた。陣地での検問は問題なくクリアーできた。順調に北へと走った。平坦な地形で、はるかかなたまでよく見渡せた。
 あと数キロで前線というあたりで、前方に小さな爆発が見えた。道路わきに車を止めて様子をみた。さらに数度、爆発がおこった。
 前方から、一台の乗用車がやってきて、我々のところで停車した。数人のタリバーンの兵士が乗っていた。タリバーンは車から降りてきて、通訳のサレザイ氏に、なにかどなった。ちょっとまずい。
「”こんなところで何をしている。すぐにうせろ”と言っています」
 とサレザイ氏は言った。タリバーンの剣幕に交渉の余地はなかった。
 車に乗る前に、前方の風景を撮った。荒野の一本道で、何の変哲もない風景だが、去る前に一枚くらいは「前線」を撮っておこうと思った。シャッターを切った瞬間、タリバーンの兵士が銃を構えて、僕に突進してきた。目が怒りで燃え上がっていた。ものすごい勢いだった。車のドアがちょうど盾になったおかげで、兵士の突進を防いだ。僕は両手を高く上げて、腰から車に滑りこんだ。サレザイ氏もドライバーも、車に飛び込んだ。
 ドライバーが車をUターンさせたとき、前方300メートルくらいの地点で、大爆発が起こった。砲弾かロケット弾か?かなり巨大な爆発だった。撮りたいと思ったが、ここでシャッターを切ったら、今度こそ本当に、ただではすまないかもしれない。タリバーンはマスード軍(北部同盟)の攻撃に、退却してきたのだ。かなり殺気立っていた。撮影はあきらめた。
 しかし、なんのかんのと言っても、やはり目の前で起こっていることは撮りたいというのがカメラマンの本能だ。いまでも、少し悔しい写真だったと思っている。しかし、一か八かで写真を撮るものではない。

 カブールへもどる途中のタリバーンの陣地で、兵士を乗せるよう命令された。若い兵士三人がタクシーに乗り込んできた。後部座席に男が4人。しかもカメラバッグに彼らの武器もあるので、かなり窮屈だった。三人の若い兵士は、しばらくして居眠りをはじめた。かなり疲れているようだった。前線での生活が長かったのかもしれない。三人とも精悍な顔つきで、瞳は透き通るように澄んでいた。
 次の、タリバーンの陣地で止まったとき、陣地の兵士と車内の三人の兵士が口論をはじめた。陣地の兵士は、三人を車から降ろそうとした。三人は、激しく怒り抵抗した。数分間、激しい口論が続いたが、陣地のタリバーンはあきらめ、我々の車を通した。
 その次の陣地でも、また同じことが起こった。若い三人を車から引き摺り出そうとした。しかし、三人も激しく怒鳴り、車から降りようとはしなかった。陣地のタリバーンはサレザイ氏にも、何か激しく怒鳴っていた。サレザイ氏も必死で何かを説明していた。
 タリバーンの兵士に車を囲まれ、外と内とでどなり合いが続いた。いったい何がどうなっているのか、僕にはさっぱりわからない。ただ、誰も僕には関心がなかったようだ。僕だけが、窮屈な姿勢でポツンと放って置かれた。何のためにここまで来たのか。陣地のタリバーンは怒り狂っていたが、なぜか今回も最終的に車は通された。

「いったいどういうことなんだ?」
 と僕はサレザイ氏に訊いた。
「この三人は、休暇で国もとへ帰るところなのさ」
 つまり、彼らに休暇が許された直後、マスード軍の攻撃がはじまったということだ。戦闘がはじまったのに、前線を離れるとはどういうことか、と陣地のタリバーンは怒ったようだ。もっともな話だ。しかし、三人の若い兵士にしてみれば、正式に休暇が許されのだ。いまさら戻れるか、といったところだろうか。普通なら、敵前逃亡にあたるかもしれない。それでも、タリバーンは腕ずくで引き摺り下ろそうとはしなかった。

 サレザイ氏は、全員撃ち殺されると本気で思ったらしい。僕は、言葉が分からない分、冷静に状況を観察していた。陣地のタリバーンはかなり怒り狂ってはいたが、撃つほどの殺気はなかった。
 それよりも僕は、うんざりしていた。180ドルもの大金を使って、ここへ何をしに来たのか・・・。たった一枚、何の変哲もない風景を撮っただけではないか。そして、この大騒ぎだ。

 この日、僕は180ドルもの大金を使って、若いタリバーンの兵士三人を、前線からバスターミナルへと無事に送りとどけた。僕が、前線へ行かなかったら、当然彼ら三人は前線から出られなかっただろう。そういう意味では、価値のある180ドルだったのかもしれない。

タリバーンのアフガニスタン(2)

2005年01月03日 16時20分10秒 | ●タリバンのアフガン
 タリバーンが歴史の中で許された唯一の役割は、「悪魔」として記されることだ。
 ここで、タリバーンの歴史や政策について語るつもりはない。
 ましてや、弁護するつもりなど毛頭ない。
 単に、僕が接したタリバーンと、メディアが伝えるタリバーンの違いについて、ささやかな提示をしたいだけだ。
 「歴史」もまた添加物にまみれた加工食品のひとつにすぎないのだ。

──カブール──

 巨大な廃墟。
 アフガニスタンの首都カブールは、そう呼ぶ以外に適切な言葉がなかった。
 市内の60%が破壊されていると説明された。
 しかも、この完膚なき破壊はアフガニスタン人自身によってもたらされたのだ。
 つまり、対ソビエト戦争が終わった後の、10年にわたるムジャヒディン同士の勢力争いによる内戦によってもたらされた。
 その内戦を終結させたのがタリバーンだ。

 ジャララバッドから首都カブールまでバスで5時間。
 カブールでは、外国人はインターコンチネンタル・ホテルに泊まらなければならない。カブールのバスターミナルに降り立ったものの、インターコンチへ直行する気にはならなかった。試しに、タクシーのドライバーに中級ホテルに行ってもらった。しかし、やはりダメだった。外国の方はインターコンチへ行ってくださいと丁寧に言われた。素直に従うことにした。トラブルは避けた方が懸命だ。
 インターコンチネンタル・ホテルは、カブール郊外の丘の上にそそり立っていた。直撃弾は受けていなかったが、窓ガラスの半分は吹き飛んでいた。内部のメンテナンスは行き届いていた。ただ、客は4、5人しかいなかった。パキスタン人のジャーナリストが1人と、欧米のNGOスタッフが数人だけだった。つまり、カブールには欧米のメディアはいっさいいないということだ。

 巨大ホテルには縁がないので、入った瞬間から居心地が悪かった。
 しかも、料金は一泊60ドル。タックス3ドル。
 僕はドルキャッシュを1000ドルしか用意していなかった。もちろんT/Cの両替などできない。カブールをさっさと出ないとドルがなくなってしまう。
 ホテルのフロント係りは、宿泊の手続きをしながら、当たり前のようにこんなことを言った。
「お客様は、前線には行かれますか?」
 あまりにも当たり前のように訊かれたので、こちらも、あまりにも当たり前のように「はい」と答えてしまった。
 僕は、前線などに行く気はなかった。アフガニスタンに来たのは、「決定的瞬間」のためではない。ましてや、スリルを求めてアフガニスタンにきたわけではない。戦乱の中で生きる「人と生活」を記録したかった。
「はい」と答えてしまったのは、「いいえ」と答えると怪訝な顔をされそうだったからだ。彼は、そのセリフを明らかに言いなれている感じだった。おそらくかつてここに泊まったジャーナリストは、すべて前線に行くことを望んだのだろう。ジャーナリストは、そういうものと彼は思っているのだ。
「前線に行かれるのでしたら、プレスカードが必要になります。それからタクシーのチャーターは一日30ドルですが、前線に行くときは100ドルになります」
 とフロント係は必要最低限の情報をコンパクトにまとめて言った。
 プレスカードか・・・それは欲しい。僕のビザは「エントリービザ」としか書かれていない。そのビザで写真撮影をすることに大きな不安を感じていた。
「プレスカードはどこで取れますか」
 と僕は訊ねた。
「外務省のプレスセンターです」

 翌日、タクシーで外務省に向かった。
 外務省の中は静まり返っていた。ほとんど機能していないといった感じだった。閑職のプレスセンターは非常に分かりづらい場所にあった。プレスセンターも、蛇口の水滴が響くほど静まり返っていた。
 責任者のアミンザイ氏に要件を告げると、まず質問を受けた。アフガニスタンで何を撮りたいのか、どこをまわるのか、といった内容だった。プレスカードの発行は何の問題もなく、その場で作成された。ただ問題は、カブール滞在中は、外務省の付ける通訳を同行すること、移動はタクシーを使用することの二つが義務付けられた。
 通訳料は、一日いくらですかと恐る恐る訊ねると、「一日40、50ドルです」という返事が返ってきた。
 インターコンチが一泊63ドル。外務省の通訳が一日50ドル。タクシーが一日30ドル。合計143ドル。頭がクラクラしてきた。これはとっととカブールを出なくてはならない。
 プレスカードを作成しながら、外務省の職員も当たり前のように、
「前線には行きますか?」
 と訊ねた。
 今回も当たり前のように「ええ」と答えてしまった。

 プレスカードを受け取り、通訳のサレザイ氏を同行し、さっそくタクシーで市内をまわった。サレザイ氏は、その物腰から通訳が仕事ではなく、れっきとした外務省の職員であると思われた。つまり、ちょっとやりにくかった。タクシーの中でサレザイ氏は注意事項を話し始めた。
 撮影は車内からすること。白い日本製のピックアップトラックはタリバーンだから絶対撮影しないこと。白いターバンと黒いターバンの男はタリバーンなので絶対撮影してはならないこと。ざっと、そんなところだった。
 彼は、異常にタリバーンに神経を使っていた。外務省の役人がそんな感じなので、自然と僕にもそれがうつった。外の世界で聞かされていたタリバーンのイメージしか持っていないので、当然僕はタリバーンは写真撮影を極端に嫌っているものと思い込んだ。

 車内からでは、いい写真など撮れるわけがない。それに、ときおりサレザイ氏が「カメラを隠せ、タリバーンの車が来る!」などと言うものだから、まったく撮影に集中できない。隠し撮りみたいなまねは、生に会わない。すぐに、うんざりしはじめた。人と接することができないのも苦痛に近い。さっさとカブールを出よう。

 レストランで昼食のケバブを食べながらサレザイ氏と話をしていると、
「前線には、いつ行く?」
 と訊ねられた。実に気軽な訊ね方だった。
「戦闘はしているのか?」
「いや、ここのところほとんどない」
 前線は、カブール北方60キロほどのチャリカールという地域だった。首都からたった60キロの地点が前線なのだ。
 現れたかと思うと、破竹の勢いでアフガニスタンの90%の地域を制圧したタリバーンも、マスード軍にはかなり苦戦していた。しかし前線は膠着状態で、あまり戦闘は行われていないようだった。
 サレザイ氏は、前線へ行くときの日当は30ドルほど高くなると言った。つまり80ドルだ。前線へ行くときのタクシーのチャーター料が100ドル。これは、ホテルの料金表にちゃんと書かれている。しめて180ドル。はたしてそんな価値があるのかと思ったが、サレザイ氏もタクシーのドライバーも、すでに行く気まんまんだった。
 アフガニスタンの平均年収は約500~900ドルと推定されている。月平均、40~75ドル。一回前線へ行くだけで、最低ひと月は食っていけるのだ。しかも戦闘は行われていない。

 車の中からの撮影にはうんざりしていた。カブールにはもう用はなかった。180ドルも使って、昼寝をしている兵士を撮る気もなかった。
 しかし、翌日、前線へ行くことにした。
 というより、行かざるを得なかったと言った方がいいだろうか。
 ひと月分の収入をたった一日で稼げるチャンスはそうあるものではない。プレスセンターで僕は、「行く」と言ってしまったのだ。通訳もドライバーもすでに、その収入をあてにしてしまっている。前線へ行くと決めたのは、彼らをがっかりさせられなかったからだ。ただ、それだけの話だ。
 昼寝しているタリバーンの兵士を撮るのも悪くはないかもしれない。
 しかし、市内でさえ撮影できないタリバーンを、前線で撮れるのか?

タリバーンのアフガニスタン(1)

2005年01月02日 10時22分08秒 | ●タリバンのアフガン
 この地上からほとんど消滅したタリバーンについて語ることは、もはや何の意味もない行為かも知れない。
 しかし、公平を喫するために、多少なりともここで語ることは、ゆがめられ、元に戻ることのない「歴史」に対するささやかな抵抗くらいにはなるかも知れない。

──プロローグ──

 旅をしながら写真を撮り続けていた僕は、パキスタンのラワールピンディから20分ほどの距離の首都イスラマバッドに向かうバスの中で「報道写真家」になった。遡って考えればそういうことになる。
 日本大使館から身分証明のレターを発行してもらい、タリバーン政権からのビザ発給の許可もおり、はれてアフガニスタンのビザを手にした。
 しかし、そのビザには単に「entry visa」としか書かれていなかった。
 はたして、このビザで写真を撮って、問題にならないだろうか。ビザを申請するとき、アフガニスタン大使館の高官が、「本国の、タリバーン本部は、写真撮影をいたく嫌っております」と言ったくらいなのだから。
 それから滞在期間の欄が(Two)Months/Weeks となっていた。
 本来、Months か Weeks のどちらかを傍線で消すはずだ。
 このままでは、2ヶ月なのか2週間なのか分からない。
 アフガニスタン大使館の窓口の人に、
「これは2ヶ月?、それとも2週間?」
 と訊ねた。すると係りの男性は、パスポートのビザスタンプを見て、
「ツー、マンスウィーク」
 と言った。
 はい、わかりました、と言って大使館を出た。ま、いいか。それほど大きな問題ではない。「entry visa」の方はずっと気がかりだった。もし、アフガニスタンで写真が撮れなかったら、ほとんど意味がない。

 アフガニスタンへ入国したのはビザを取得してからちょうど二週間後のことだった。この二週間何をしていたかと言えば、アフガニスタンで起こるかもしれない様々な事態を想定して、その対策を考えていた。アフガニスタンでは、どのような危険があるだろうか。内戦中の国へ入って、はたして無事に出てこれるのだろうか。ホテルは安全なのか。盗難の危険は。弾丸は飛んでくるのか。タリバーンは、僕をどうあつかうだろうか。不安は尽きなかった。

 メディアによる情報はゼロだった。ただ、アフガニスタンとの国境の街ペシャワールにはアフガニスタン人が大勢いて、様々な仕事についていた。ペシャワールからアフガニスタンまでは、タクシーで数時間の距離だ。ある程度、情報は入ってくるはずだ。もし、ペシャワールの人々が、やめたほうがいいと言えば、それに従うことが最も懸命な判断だ。しかし、そうした忠告は、ペシャワール滞在中いっさい聞かなかった。それでも、僕は慎重だった。

 ただ、手続きだけは進めておいた。
 国境を越えるためにはペシャワールのホーム・セクレタリアットでトライバルエリアへの入域許可書とパキスタンの出国許可書を取らなくてはならない。そして国境へ向かうときは車にポリティカル・エージェントの武装警官を同行しなくてはならない。この護衛の警官には自腹で日当を払う。130ルピー(4ドル)くらいだったと思う。
それから念のため、パキスタンの再入国ビザも取っておいた。アフガニスタンからイランへ抜ける予定をしていたが、途中でトラブルがあればパキスタンへ戻れるようにしておいた。

 この間に、僕は旅行者から150万分の1のアフガニスタンの立派な地図を譲り受けた。その地図は、予約済みだったらしいが、予約者はまだアフガンのビザを取得していなかった。ビザが取れたら、その地図を買うという約束だったらしい。しかしそれよりは、すでにビザを持っている僕に、譲りたいと申し出てくれた。ありがたくお受けした。
 彼は、おまけとして他の旅行者が自作したアフガニスタンの各都市の手書きの地図もくれた。これには、ホテルやレストラン、簡単な街の説明が書き込んであった。この手書きの地図はホテルの情報ノートに貼り付けられたり、旅行者から旅行者へと手渡されたりしてきたものだ。コピーにコピーを重ねた地図は、文字がつぶれて判読できない部分も多かったが、それでもアフガン全土の地図とともにとても心強かった。

 150万分の1の地図を広げると、アフガニスタンの国土のほとんどは山岳地帯だった。南部には砂漠地帯が広がっている。幹線道路は、北部のカブールから南部のカンダハルへ、そしてまた北部のヘラートへと山岳地帯を巻くように延びている。この幹線道路をそのままたどるのが無難だと考えた。山岳部にも、ある程度道路網はあるが、おそらく交通の便はいいとはいえないだろう。

 ペシャワールでグズグズしている間に、僕の体力は知らず知らずのうちにかなり奪われていた。夏のパキスタンは酷暑といっていい。じっとしていても体力を奪われる。アフガニスタンへ行くころには、体重は7キロほど落ちていた。この間の体力の消耗は、大きな誤算だった。かといって、あわててアフガニスタンへ行ってもロクなことはない。

 ビザを取ってから、二週間後にようやく出発の覚悟を決めた。
 国境へは、護衛の武装警官を同行しなければならないので、タクシーでなければならない。何かの用事で乗ったタクシーの運転手がたまたまアフガニスタン人だった。英語はほとんど話せなかったが、人の良さそうなドライバーだったので、国境までの料金を訊ねた。確か500ルピーほどだったと思う。旅行代理店の国境ツアーは、その3倍近くした。英語が話せないのは難点だったが、でもこの人に頼むことにした。そのまま彼のタクシーでポリティカル・エージェントへ行き、翌日アフガニスタンへ出発すると伝えた。
 ホテルに戻り、タクシーのドライバー氏に、時計を示して明日の朝8時にホテルまで来て欲しいと頼んだ。通じているのか不安なので、しつこいほど繰り返した。

 翌日、ホテルの前にザックとカメラバッグを出して待っていると、8時ちょうどにタクシーは来てくれた。旅行者二人が見送ってくれた。ポリティカル・エージェントへ行き、パーミットを提出し、AK-47を持った武装警官を乗せた。
 国境まで2時間くらいだったろうか。美しい景色だった。景色に見とれているうちにカイバル峠を通り過ぎ国境に着いた。
 国境での出国手続きは、武装警官が先にたって案内してくれた。さっさと日当を受け取って早く帰りたい、というようにも見えたが、おかげで手続きはすぐに完了した。国境を越えるためのパーミットを提出し、台帳にサインをし、出国スタンプをもらった。
 出国手続きが済み、護衛の警官に日当を払うと、彼は、あっという間にタクシーに乗って消えていった。チャイくらい飲んでいけばいいのに。

 あたりは国境という雰囲気はまったくなかった。ゲートもなく、舗装していないほこりっぽい道がまっすぐどこまでも続いているだけだった。大勢の人々がぞろぞろ行き来していた。フリーパスといった感じだ。なるほど、これなら変装して国境を越えてやろうという旅行者もいるわけだ。
 しかし、見張りがいないわけではなかった。
 アフガン側に歩いていくと、道路ぎわに座っていた普段着の男が手招きをした。どうやらそこが”国境線”らしい。男は僕のパスポートをチェックすると、「行け」とそっけない仕草をした。
 本当にここが国境なのだろうか。まっすぐな道のどこにもアフガニスタン側のイミグレーションが見当たらなかった。まだ国境ではないのか?どこまで歩けばいいのか・・・。不安になるくらい何もない一直線の道だった。そして、暑い。とにかく暑い。灼熱といっていい。ザックとカメラバックが重い。イミグレはない。

 道端の両替屋で20ドルと600ルピーをアフガニスタンの通貨「アフガニー」に替えた。両替屋にはレンガのような札束が幾つも積み上げられていた。それもそのはず、1ドル=22000アフガニー。最高額紙幣は10000アフガニー札。最高額紙幣が、たった50セントなのだ。
 そこから500メートルくらい歩くと、土壁の古びた物置小屋のような建物がポツンとあった。この一本道にはそれ以外の建物はなかった。小屋を横目で見ながら歩いていると、小屋の前にいた男が手招きした。「イミグレーション?」と訊くと、そうだと言う。こんなにみごとなイミグレーションもそうはない。
 古い小屋の机の上に、すり減った四角いスタンプがあった。確かにイミグレーションのようだ。
 擦り切れたスタンプがパスポートに押された。
「アフガニスタンに入った!」
 という思いは、あまりの暑さの前に掻き消されていた。
 とにかく暑い。

 国境近辺はまったく建物らしいものもなく、不毛の大地が広がっていた。
 イミグレの近くにボロバスが何台か止まっていた。カブールへ直行したかったが、ジャララバッドまでしかなかった。料金はたったの10,000アフガニー。
 ほぼ満員のボロバスには、奥の方にしか席が空いていなかった。通路には荷物がひしめいていた。カメラバッグを足元に置き、ザックを抱きかかえて座った。
 ガラスには強烈な太陽光を避けるためにスモークスクリーンが張られていた。アフガニスタンの大地は、草木一本生えていない。それが妙に美しい。

 ジャララバッドまで、二時間ほどだったと思う。
 オートリキシャのドライバーに安いホテルまで行くようにたのんだが、連れていかれたのは、かなり高そうなところだった。しかし一泊10ドル(ドル払い)。よそを探す気力もないので泊まることにした。
 疲れていたが、ジャララバッドには一泊しかしないのでカメラを持って街に出た。
 水売りの子供がぞろぞろ後ろをついてきた。ふりかえると、彼らはあわてて逃げた。そして小石やスイカのヘタが背中に飛んできた。まわりの大人が叱りつけても、しばらくするとまたスイカが飛んできた。あまりのしつこさに苛々した。ものめずらしさというより、明らかに敵意のようなものを感じた。洋服姿がよほど奇怪に見えたのかも知れない。
 子供の攻撃を避けるため、ケバブ屋に入った。さすがに店の中にまでは入ってはこなかったが、入口からずっと中を見ていた。コーラを飲み、ケバブを食べて子供がいなくなるのを待つしかなかった。ケバブ屋で働く少年が写真を撮ってくれというので、無造作に一枚撮った。しかし、アフガニスタンで撮った写真の中でこれがベストショットだろう。子供にスイカを投げつけられなかったら撮ることのなかった一枚だ。その意味では、感謝するべきだが。

 初日の、子供によるスイカ攻撃で、服装について少し迷った。シャルワルカミーズ(アフガン服)を着たほうが、アフガニスタン人に化けることができる。日本人のような顔立ちの人は、アフガンにはたくさんいるのだ。しかし、あえて目立つ方を選んだ。遠くからでも明らかに外国人と分かる者が、アフガンの人々にどう扱われるのかを知ることができる。
 結果、どの街でも、タリバーンがやってきた。英語を話すタリバーンはほとんどいなかったが、何を言っているかはわかる。「何者か?」である。国籍と職業を告げると、タリバーンの表情は意外にも柔らかくなり、にっこり笑って去っていく。実にあっさりしたものだった。こちらもにっこり笑って別れを告げる。どこでも、同じパターンだった。
 タリバーンは、ジャーナリストを嫌い、写真撮影を極端に嫌うというのが、当時のタリバーンに対する一般的なイメージだった。外からは、そう信じられていた。いや、アフガニスタンの大使館高官ですらそう信じていた。
 しかし、実際はちがった。僕が、カメラをぶら下げ、日本人のジャーナリストだと名乗っても、彼らは何とも思っていなかった。写真撮影を咎められたこともない。僕が接した限りのタリバーンは、皆礼儀正しく紳士的だった。さっぱりして気持ちがいい若者たちと言い換えてもいい。
 別にタリバーンの肩を持つ気はない。事実を言っているまでの話だ。


 911テロ後の、タリバーンに関する報道の99%は捏造だ。
 捏造が言いすぎならば、こう言い換えよう。
 まったくウラも取らずに垂れ流された、こども新聞なみの報道だ。 はっきり言えば、アフガニスタンへ行ったことがなくても簡単に見破れる程度のお粗末な報道だった。それを、世界が信じたのだから、驚異というしかない。
 
 アフガニスタン戦争でも、イラク戦争でも、世界中の大手メディアは、いかさま情報を垂れ流すだけの、こども新聞に変身した。
 こども新聞やこども放送を見ながら、僕は暗澹たる気分になった。世界中のメディアがこれ見よがしの「大本営発表」しか流さなくなった。それが、どんな時代を意味するかは、ここで書く必要もないだろう。
 BBCとアルジャジーラだけは、かなりがんばったが、ついに刀折れ、矢尽きた。
 いまや世界の大手メディアは、コントロールされた情報しか流さないということを知っておくべきだ。メディアが得意満面になって「暴露」や「すっぱ抜き」を行っても、それはあらかじめコントロールされ意図された「暴露」であり「すっぱ抜き」にすぎない。
 報道の自由とは、権力に媚を売る自由さえ含まれている。
 政治家の言葉を、額面どおりに受け取る人はほとんどいないだろう。
 メディアの報道も同じようなものと考えた方がよい。

写真:少女

2004年12月31日 16時07分21秒 | ●タリバンのアフガン
カンダハルで、一泊だけ民家に泊めてもらった。
その家の少女。
アフガニスタンでは、屋外でほとんど女性を見ることはない。
外出するときは、ブルカという服を頭からすっぽりかぶる。
西側の優秀なメディアによると、買い物のときこのブルカをまくって顔を見せてしまった女性が、タリバーンにその場で殴り殺されたそうだ。
そんなことがあるわけがない。
メディアは、タリバーンを悪魔にするための様々なウソを捏造した。
この写真の少女の叔父さんは、モスクに礼拝に行かない人だった。
「タリバーンはモスクへ行けって言うが、私はいく気はない」
と僕にはっきり言っていた。
タリバーンが本当にメディアの伝えるような悪魔なら、彼の命はないはずだ。
少女の叔父と僕とタリバーンは、何度かメロンやカキ氷をいっしょに食った。
なごやかなものだった。

写真:モスク

2004年12月31日 15時31分18秒 | ●タリバンのアフガン
地方都市の小さなモスク。
最初は、一体何の建物か分からなかった。
素朴な材料で作られた小さなモスクだ。
都市を離れると、アフガニスタンの時間は、急速に巻き戻される。
何百年も遡った時代へやってきたような気分になる。
シルクロードの時代から地勢的要衝にありながら、
かえってアフガニスタンは、閉ざされた空間だったのかもしれない。
だからといって、ソビエトやアメリカがやってきてむりやりこじ開けていいはずはない。
アメリカが携えてくる民主主義が、安定と平和をもたらした例を僕は知らない。

写真:ナンを焼く店の小僧

2004年12月31日 09時30分25秒 | ●タリバンのアフガン
子供たちは、生まれてこのかた、戦争と内戦の中で成長してきた。
戦争と内戦は、子供のこころに複雑なダメージを与えているに違いない。
子供の中には、洋服姿の僕に、小石やスイカのヘタを投げてくるものもいた。
大人たちが叱ると散っていくが、すぐもどってきて、いろんなものを投げてきた。
どの街でも何度かは経験した。
このナン屋の小僧とは仲良しだった。

写真:チャイハネにて

2004年12月31日 09時09分44秒 | ●タリバンのアフガン
チャイハネの男たち。
右から二人目はタリバーンである。普通に撮影に応じてくれた。
タリバーンの存在におびえる人など出会ったことがない。
西側のメディアが伝えるような、タリバーンによる市民の抑圧という場面も目撃したことがない。
どの街も平穏であり、ひとびとは普通に暮らしていた。
洋服姿の僕は、アフガニスタンではたいへん目立つので、よくタリバーンが来て、何者かと尋ねられた。
身分を告げると、ああそうですか、と言ってみんな去っていった。
僕に接するタリバーンの態度はたいてい紳士的だった。
写真撮影を禁止されたことなど、一度たりとてない。

写真:コーク

2004年12月29日 12時23分56秒 | ●タリバンのアフガン
タリバーン政権下でも、コーラやファンタ、マールボロは普通にあった。
パキスタンからの輸入品だ。
ただ、困ったのはミネラル・ウォーターがなかったことだ。
インフラの破壊ぶりを見ると、とても水道水を飲む気にはならなかった。
アフガニスタン滞在中、コーラやファンタ、マンゴージュースしか飲まなかった。
しかし、それはそれで、体を壊した。
判断を誤ったかもしれない。

写真:幹線道路

2004年12月29日 12時19分20秒 | ●タリバンのアフガン
判りづらいかもしれないが、道路が波打っている。
都市と都市を結ぶ幹線道路は、全域このように波打っていた。
そのため、車の時速は10~20kmくらいしかだせない。
本来なら2時間の行程でも、10時間はかかる。
夏場の長距離移動は、ほとんど苦行にちかい。
これは敵の進攻を阻むための軍事的措置だ。

写真:地雷に注意

2004年12月29日 12時17分31秒 | ●タリバンのアフガン
地雷を警告する壁画。
アフガニスタンにも、無数の地雷が敷設されている。
その数もさることながら、種類も非常に多い。
地雷は改良され続け、殺傷力を高めるため、より巧妙になっている。
プラスチック製の地雷は、金属探知機に反応しない。
一見地雷とは見えないものもある。これは、主に子供を狙う。
空中に飛び出してから、爆発するものもある。