報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

東ティモール報道 : 大国の利益を守るメディア

2006年06月30日 17時09分34秒 | ■東ティモール暴動
この1ヵ月、東ティモールに関して、オーストラリアとの石油・ガス問題を取上げているメディアは、まったくと言ってよいほど存在しない。若干のオーストラリアのメディアが辛うじて報じているが。

世界の大手メディアは、出来事を伝えているにすぎない。それはそれでいいのだが、そうした報道をすべて収集しても、東ティモールで実際は何が進行しているのかを知ることはできない。

いままさに、メディアによって偽りの歴史が創られている。その実例をわれわれは目にしている。これは、『戦争プロパガンダ』の亜流と言っていいだろう。大国にとって都合の悪い人物は「悪」にしてしまえばいいのだ。世界のメディアがこぞって連呼すれば、それは歴史的真実になる。

昨日、翻訳だが以下のような記事がJANJANに掲載された。
今、東ティモールで起こっていることの本質を言い当てている。

オーストラリア - 平和維持者か石油略奪者か
http://www.janjan.jp/world/0606/0606286909/1.php
原文はこちら
Australia - Peacekeeper or Petroleum Predator?
http://ipsnews.net/news.asp?idnews=33714


もちろん、世界の大手メディアが東ティモールとオーストラリアの石油・ガス問題を知らないわけではない。
BBCも過去には次のような記事を載せている。
Australia rapped over E Timor oil
http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/3729807.stm

大手メディアは、知っていて書かないだけなのだ。
なぜなら、いま真実を報じれば大国の掌から巨大な権益がこぼれ落ちてしまう。
大手メディアはそのようなマネはしない。
すべてが終わった後に、したり顔で報じることはあるが。

いま起こっていることは、東ティモールの国内問題ではない。
大国による資源略奪政策が進行中なのだ。



<参考>
「戦争プロパガンダから学ぶ」
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/d/20060509

新たな暴動は大統領派

2006年06月29日 18時53分02秒 | ■東ティモール暴動
アルカティリ首相の辞任を受けて、ディリでは暴動や放火が再発してしまったが、報道をざっと見てみると、内容が食い違っている。欧米のメディアは、暴動はアルカティリ支持派によるものである、という論調が圧倒的に多い。

CNN:アルカティリ派共闘による新たな不安の恐れ
Fears of fresh unrest as pro-Alkatiri forces rally
http://www.cnn.com/2006/WORLD/asiapcf/06/29/timor.violence.ap/index.html

ロイター:与党支持者、東ティモールの首都襲撃
Ruling party supporters descend on East Timor capital
http://www.alertnet.org/thenews/newsdesk/SP77777.htm

BBC:東ティモール、対抗勢力間で衝突の恐れ
Fears over E Timor rival rallies
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/5127752.stm

その中で、意外にもAsahi.com は暴動は”大統領派”によるとものだと報じている。

東ティモール、大統領派が放送局や避難民キャンプ襲撃
2006年06月28日20時01分
http://www.asahi.com/international/update/0628/015.html


アルカティリ派が暴動や放火を行っても、何のメリットもない。それどころか、自分の首をしめるようなものだ。普通に考えれば理解できる。この暴動や放火は、アルカティリ派ではない。

Asahi.com の報道が正しい。なかなかのクリーン・ヒットを飛ばしてくれたが、これが単なる出会い頭の一発でないことを祈りたい。もしかすると、欧米のメディアの論調に押し流されて変化してしまうかもしれない。

今回の暴動は、アルカティリ派の犯行だと見せかけて、アルカティリ氏と与党フレティリン党の息の根を止めることが目的なのだ。


ちなみにシャナナ・グスマン大統領の妻も、暴動の責任はアルカティリ前首相にあると公式に発言し、反アルカティリ・キャンペーンに協力しているようだ。

首相への辞任強要は「憲法違反」であるという、アルカティリ氏の挑発的な抗議に呼応し、怒り狂った若者による新たな暴動や放火の発生によって、ディリの相対的な平穏は、昨日、打ち破ぶられた。

シャナナ・グスマン大統領の妻(オーストラリア生まれ)は、アルカティリ氏は扇情的な演説でディリの緊張状態を激化させている、と発言した。

クリスティ・スワォード・グスマンは、民族的緊張の炎を扇いでいる前首相の無責任な行動によって、人々はアルカティリ氏の支持者の暴力的襲撃の恐怖の中で生活していると、非難した。

「彼は、フレティリン党を支持する群集に、かなり扇情的に語りかけた」と彼女はABCラジオに語った。
Sacked PM blamed for renewed Dili violence
http://www.theaustralian.news.com.au/story/0,20867,19623677-601,00.html


アルカティリ派に見せかけた暴動は、しばらく続くのかもしれない。

グスマン大統領は、混乱を収拾するためには、早急な選挙が必要だと述べている。相手に体勢を建て直す時間的余裕を与ず、さっさと選挙を前倒しして、傀儡政権を樹立してしまおうということなのか。

東ティモールは、濁流に呑まれる木の葉のように見える。

東ティモールで新たに仕組まれた暴動

2006年06月28日 18時27分26秒 | ■東ティモール暴動
久しぶりに世界のメディアが東ティモールのニュースを伝えた。
もちろん、よくないニュースだ。

「東ティモールで再び暴動」

暴徒が家屋に放火し、空港敷地内の難民に投石をしたと報じている。ロイターは、アルカティリ派か反アルカティリ派か、どちらによるものかは分らないとしている。しかし、他のメディアの報じ方は、暴徒はアルカティリ派であるという印象を与えなくもない。

”首相の辞任のテレビ演説の直後から群集が街に出た”
”東部出身者(アルカティリの支持者が多い)が、空港の西部出身者の難民に投石”
普通に読むと、アルカティリの支持者が暴徒化したようにしか受け取れない。しかし、暴徒がアルカティリ支持者であるという根拠はない。

どう考えても不自然な暴動というしかない。
反アルカティリ派にとっては、アルカティリ氏が辞任したいま、暴動を起こす理由はないはずだ。

また、アルカティリ派にとっては、ここで暴動など起こせば、アルカティリ氏の立場がますます悪くなる。来年の選挙を戦おうというアルカティリ氏にとっては致命的だ。

しかし、アルカティリ前首相が復活できないように、彼の政治生命を完全に絶ちたい勢力にとっては、これほどありがたい暴動はない。

アルカティリは、ここ数日でディリ郊外に平和的に集まった約2000人の支持者に対して、彼を中傷する勢力が新しい暴動の背後にいると、告発した。

「彼らは、ディリを破壊し、放火し、略奪し、人々を殺し、そうしておいて、私をテロリスト、コミュニスト、殺人者と言い立てるのだ」
http://www.cnn.com/2006/WORLD/asiapcf/06/27/timor.violence.ap/index.html

アルカティリ前首相の主張は正しい。
3月以降の東ティモールの一連の出来事は、すべて仕組まれたものだ。一見もっともらしく見えるが、良く見れば何もかもが不自然だ。今回の暴動も、アルカティリ前首相にとどめを刺すために仕組まれたものに間違いはない。

このままでは、来年の選挙で誕生するのはただの傀儡政権にすぎない。

アルカティリ首相辞任、豪、東ティモール支配に前進

2006年06月27日 19時03分32秒 | ■東ティモール暴動
マリ・アルカティリ首相が、26日ついに辞意を表明し、大統領に辞表を提出した。
オーストラリアのハワード首相はこれを歓迎。
東ティモール市民も歓喜したとメディアは報じている。
アルカティリ首相は、褒められた人物ではないが、東ティモールの石油とガスをオーストラリアから守ってきた功績は大きい。
だからこそ、ハワード政権は、アルカティリ首相の追い落しに踏み切ったのだ。
アルカティリ首相の辞任を求めていたデモ隊は、決して東ティモール人の総意を表しているわけではない。
彼ら、デモ隊は、1999年の民兵の姿を髣髴とさせている。


反乱軍のリーダー、アルフレド・レイナド少佐は、オーストラリアの国防軍事アカデミーで訓練された。シドニー大学講師ティム・アンダーソンによれば、「彼は、少なくともカトリック教会、オーストラリア、アメリカによって支援されている」ということだ。

反乱軍の嘆願が沈静化し、経済民族主義のアルカティリとシャナナと政治エリートの間で論争がなされている間、オーストラリアはすばやく、アルカティリの指導力を非難し、東ティモールは「失敗国家」であると宣言した。

ジョン・ハワード首相は、東ティモールは「誤った統治」をされていると非難した。アレキサンダー・ダウナー外相、── 一日100万ドルの東ティモールのオイルとガスの収益の略奪に責任のある人物──は、「起こったことすべては、東ティモール人自身の責任である」と宣言した。そして、防衛大臣ブレンダン・ネルソンは、「もし、我々の地域で、東ティモールが間違った国家になることを許せば、それは国際的な犯罪、そしてテロリズムの標的となるだろう」と相槌をうった。

オーストラリアの支配階級は、東ティモールの政治的出来事への干渉を増大させている。1999年の東ティモールの独立運動の勝利を妨害しようとしたときよりも、さらに大きな計略を模索している。

住民投票のときは、ジャカルタの軍隊による東ティモール占領を支援するオーストラリアの24年間の政策を逆転させ、しぶしぶ住民投票を後援する国連の仲介に同意せざるを得なかった。
EAST TIMOR: Roots of the political crisis
http://www.greenleft.org.au/back/2006/673/673p16.htm


世界の大手メディアは、米英豪連合に遠慮して、こうした見解やアスンソン退役将軍の談話は、いっさい報じようとしない。
世界の大手メディアとは、大国の利益を擁護するために存在している。
しかし、ABCなど、当のオーストラリアのわずかなメディアは、自国政府のおこなっていることを辛うじて伝えている。
今回の記事は、オーストラリアの左派政党民主社会主義党(DSP)が発行する週刊紙「グリーンレフト・ウィークリー」 2006 June 28号の電子版である。

アルカティリ首相の追い落としは確かに成功した。
しかし、まだオーストラリアによる東ティモール支配の第一段階にすぎない。
まだまだ、勝負がついたわけではない。

Don't Steal Our Future !

2006年06月26日 16時05分29秒 | ●東ティモール



























2004年5月19日 オーストラリア大使館前
ディリ・東ティモール

独立2周年記念式典の前日。
オーストラリア大使館前で抗議集会を行う、
東ティモール住民。

オーストラリア政府による石油略奪は、
東ティモールの学生や市民、NGOによって、
頻繁に訴え続けられていた。

いま、まさにスローガンは現実のものとなり、
東ティモールの未来が、
奪われようとしている。



オーストラリアは東ティモールの敵

2006年06月25日 17時42分19秒 | ■東ティモール暴動
東ティモールの今回の事態に関して、ようやく次ぎのような報が現れはじめた。


オーストラリアは、現在の東ティモールの危機に対して責任を負うべき唯一の存在である、と前東ティモール国連(PKF)参謀長(2000-2001)アルフレド・アスンソンは述べた。

金曜にリリースされたインタビューにおいて、ポルトガルのアスンソン将軍(退役)は、キャンベラ政府は、常に東ティモールのすべてをコントロールすることを望んだ、つまり東ティモールの敵だ、と述べた。

オーストラリアが興味を持っているのは、オイルとガスである。そのためには、東ティモールの政治システムと莫大な富の源泉を物理的にコントロールする以上の最良の策はない、と彼は強調した。

オーストラリアは、これまでのところまったく成功してこなかった。なぜなら、シャナナ・グスマン大統領とマリ・アルカティリ首相は結束していたからだ。しかし、オーストラリアはこの結束を破壊し、東ティモール支配への道を開いた。
Australia Blamed for East Timor Crisis
http://www.plenglish.com/article.asp?ID=%7BA8B3D812-3FC0-4606-875B-D7376F49A0D3%7D&language=EN

もはや、付け加えるものは何もない。
東ティモールを現在の状況から救う方法は、この事実を世界が認識することだ。
それ以外にない。




このニュースを取上げているのは、いまのところわずかだ。
ABC NEWSONLINE
http://www.abc.net.au/news/newsitems/200606/s1670775.htm
BIGPOND 
http://www.bigpond.com/news/breaking/content/20060624/1670775.asp
Baliblog.com
http://www.baliblog.com/06-06/australia-blamed-for-east-timor-crisis.html
EU Polotics Today
http://eupolitics.einnews.com/news/EUOilPetroleum?offset=325

写真: 東ティモール 住民投票日

2006年06月23日 17時59分24秒 | ●東ティモール
99年8月30日 住民投票日
ロスパロス 東ティモール

3日前の武装襲撃にもかかわらず、
大勢の住民が投票に訪れた。

このときは、まさかすべての出来事が仕組まれているなどとは
夢にも思わなかった。
不覚にも「独立」という言葉に魅了され、
何も見えていなかった。

東ティモールにまつわる一連の出来事は、
最初の事の起こりから、何もかもが仕組まれていた。
そして現在も、世界は欺かれ続けている。

東ティモール情勢の単純な図式

2006年06月22日 23時39分05秒 | ■東ティモール暴動
東ティモール情勢について書いている途中で、新しいニュースが入り、書きなおすはめになってしまった。
政局には興味はないのだが、少しだけ追っておこう。

2006年06月21日
大統領が首相に辞任迫る 東ティモール

http://www.tokyo-np.co.jp/flash/2006062101003735.html

2006年06月22日
首相、辞任要求を拒否  東ティモール、解任も

http://www.iwate-np.co.jp/newspack/cgi-bin/newspack.cgi?world+CN2006062201002677_1

東ティモールの憲法では、大統領には首相を解任する権限は与えられていない。グスマン大統領とホルタ大臣は、何とか解任の道はないかと模索していたようだが、無理だったようだ。

先ほどのニュースでは、首相を解任できないのなら、グスマン大統領は、自分が辞めると表明している。

2006年06月22日21時40分
東ティモール首相、辞任要求拒否 大統領「私が辞める」

http://www.asahi.com/international/update/0622/019.html

グスマン大統領が辞任したとしても、アルカティリ首相は何とも思わないだろう。グスマン大統領の辞任表明に意味があるとすれば、考えられるのは反アルカティリ暴動のさらなる激化への期待だろう。アルカティリ首相にゆかりのある者は全員、脅威にさらされることになる。首相がどこまで耐えられるかだ。

アルカティリ首相は、驚くほどタフな人物だが、彼の運命はすでに決まっている。今回の東ティモールでの動乱は、決して偶発的なものではない。意図されたものだ。何度も述べているように、マリ・アルカティリ首相の追い落としが目的だ。誰が追い落そうとしているかも、すでにさんざん述べてきた。すべて周到に準備された計画なのだ。アルカティリ首相に勝ち目はない。

アルカティリ首相は、典型的な”悪玉”に仕立て上げられた。いわば、サダム・フセインやミロシェビッチと同じだ。世界には、次のような記事が配信された。

東ティモール武装集団「首相、組織を指示」 幹部が証言
2006年06月13日23時17分

http://www.asahi.com/international/update/0613/010.html

アルカティリ首相が、元民兵に武器を供給するよう内相に命じたという報道だ。武器を渡されたという元民兵の証言だから、第一級の証拠ということになる。よくできた話だ。これで、アルカティリ首相は、打倒されるべき”悪玉”となった。

この”悪玉”を倒す”善玉”が、カリスマ人気のグスマン大統領とノーベル賞のラモス・ホルタ大臣だ。役者も揃い、世界はさんざん繰り返されてきた勧善懲悪のお約束ドラマを見るだけだ。当然、結末は見る前から分かっている。

アルカティリ首相が引きずり降ろされれば、なぜか急に東ティモールの治安は回復されるだろう。
不衛生な難民キャンプで生活をしていた人も、街で暴れていたギャング団や過激政治団体も、なぜか家に帰るだろう。

ホルタ大臣は東ティモールの臨時の首相になり、来年の選挙で正式に首相に選ばれるだろう。
グスマン大統領も再選されるだろう。
そして数年後には、オーストラリアはティモール海の資源のほとんどを手に入れているだろう。

東ティモールでの国連を骨抜きにしたいオーストラリア

2006年06月21日 23時02分15秒 | ■東ティモール暴動
アナン国連事務総長は、東ティモールを再度国連の管理下におこうとしているようだ。
しかし、国連とオーストラリア政府との思惑には大きな隔たりがあるようだ。
オーストラリア政府は、何としても東ティモールの統治を思い通りに運びたい。
そして、おそらくそれは成功するだろう。

先週の国連安保理で、現在のオーストラリア軍に率いられた軍から正式な国連の治安維持活動に移行するというコフィ・アナン国連事務総長による提案に、オーストラリア大使ロバート・ヒルが反対した時、両者の差異が公然と表面化した。
http://www.worldproutassembly.org/archives/2006/06/australian_gove_8.html


本来、東ティモールにおける国連のマンデートは今年の5月20日で完全に終了するはずだったが、今回の動乱で、ひとまず8月まで延長された。
東ティモールにおける国連のマンデートは、次のように変遷している。

UNAMET(ウナメット)
United Nations Mission in East Timor
1999年6月11日~1999年10月25日
http://www.un.org/peace/etimor99/etimor.htm

UNTAET(ウンタエット)
United Nations Transitional Administration in East Timor
1999年10月25日~2002年5月20日
http://www.un.org/peace/etimor/etimor.htm

UNMISET(ウンミゼット)
United Nations Mission of Support in East Timor
2002年5月20日~2005年5月20日
http://www.un.org/Depts/dpko/missions/unmiset/index.html

UNOTIL(ウノティル)
United Nations Office in Timor-Leste
2005年5月20日~(現在)
http://www.unotil.org/

この中で、とりわけ重要な役割を担ったのが、UNTAETである。なんといっても、ゼロからの国造りを行ったのだから。このUNTAETの2年半の暫定統治期間の仕事として、注目しなければならないのが「ティモール海峡条約」だ。

ティモール海の石油と天然ガスを、東ティモールとオーストラリアでどのように分けるかという重要事項だ。この件に関しては、すでに『石油のためなら国際法も無視』でお伝えしているが、そもそもUNTAETが国際法や国際司法慣行に照らして、オーストラリア政府と的確な交渉をしていれば、何の問題もなかったはずだ。しかし、UNTAETは非常に中途半端な形でしか折り合いをつけなかった。


2000年10月9日
東ティモールとオーストラリアは本日、ディリにおいて、Timor Gapにおける資源管理に関する条約作成について交渉を開始した。東ティモールを代表するUNTAETは、現行の国際海洋法に沿って、東ティモールとオーストラリアの中間地点より北部での全収益を得る資格を有する、との立場を取っている。

2000年10月24日
東ティモールとオーストラリアとの間のティモール海峡(Timor Gap)における石油開発に伴う使用料の支払い(300万ドル以上)が、東ティモールに対して初めて行われた。
現在、同海峡における東ティモールとオーストラリアの石油開発に関する取り決めは、暫定的な措置として、ティモール海峡条約に依拠している。しかし、これはインドネシアとオーストラリアの合意であり、国連は認めていない。今後、オーストラリアと東ティモールの間でこれに替わる新しい条約をつくるべく、現在、交渉が進められている。
国連広報センター
http://www.unic.or.jp/recent/timor00.htm

国連は、国連海洋法条約や国際司法慣行に従えば、東ティモールとオーストラリアの海上国境は、両国の中間線であるということを十分自覚していた。しかし、オーストラリア政府は、これを拒み、あるいは無視し続け、国際司法裁判所に提訴されそうになると、すばやく国際司法協定から離脱してしまった。UNTAETは、このようなオーストラリア政府に対して、何の有効な手段も講じていない。そして、非常に中途半端な形で折り合いをつけて重荷から開放された。

2001年7月3日
東ティモール内閣はきょう、ティモール海で産出される石油やガスの収入の90%を東ティモールに与える趣旨の取り決めを承認した。この取り決めは、東ティモール暫定行政機構とオーストラリア政府が2000年3月以降、交渉を続けてまとめあげた。

2001年7月5日
東ティモールとオーストラリアはきょう、ティモール海底資源に関する協定に署名した。協定の下、石油やガスの収益の90%は、東ティモールに配分される。ディリで行われた署名式典には、フレシェット副事務総長も出席した。
国連広報センター
http://www.unic.or.jp/recent/timor01

この国連の広報では、「収益の90%は、東ティモールに配分される」となっているが、この調印はあくまでJPDA区画についての配分であって、資源全体からすると、これはたった18%にしかすぎない。

結局、UNTAETは海上国境という根本的な問題を先送りしたまま、JPDA区画についての資源開発の調印を東ティモールに行わせた。「東ティモール内閣」と表記されているが、このときはまだ東ティモールは「独立」していない。UNTAETの決定を拒否できるような時期ではない。あとは「独立」後に両者で進めてくださいということだ。これでは、UNTAETは責任を放棄したようなものだ。

UNTAETやアナン事務総長は、オーストラリア政府に対して、なぜこれほどまでに弱腰で、やりたい放題を許したのだろうか。

おそらくオーストラリア軍が、INTERFET(インターフェット:国際軍)として、真っ先に東ティモールに上陸し、単独でインドネシア国軍や民兵による虐殺と破壊を止めたからだ。当時、誰もがオーストラリア軍を救世主だと感じた。これによってオーストラリア政府は、東ティモールのマンデートにおいて強力な発言権を得たと考えられる。自腹で軍費を出し、虐殺者を放逐したのだから。

しかし、すでにお伝えしたようにオーストラリア政府は、虐殺の発生を事前に知っていた。そしてそれを止めようとしなかった。
『99年9月、虐殺を放置したオーストラリア政府』
『続・99年9月、虐殺を放置したオーストラリア政府』

UNTAET時代には、虐殺と破壊から東ティモールを救出したことになっているオーストラリアに対して、強く主張できる者はいなかったと言える。そういう雰囲気をオーストラリア政府はうまく利用した。虐殺をうまく利用したオーストラリア政府は、最初から国連を出し抜くことも考えていたようだ。

「(ハワード)首相のキーアドバイザーは、オーストラリアとインドネシアの親密な防衛関係によって、インドネシアを抑制し、東ティモールにおける暴力を沈静化でき、そして、すべての必要な外部からの援助は、国連よりもオーストラリアによって行われるべきである、と信じていた」
http://www.etan.org/et2000c/december/24-31/24silent.htm

99年9月に国際軍を派遣したオーストラリア政府首脳は、その後の東ティモールでの自国のあり方もすでに計画していたことは間違いない。国連に取って代わるか、国連のミッションを乗っ取るか、そのくらいのことを考えていても決しておかしくはない。虐殺をみすみす放置するような政府なのだから。

そして、実際、オーストラリアはUNTAETをうまくコントロールしていたと言っていいだろう。ほとんどすべてを望みどおりに運んだ。

しかし、オーストラリア政府にはひとつだけ誤算があった。東ティモール首相マリ・アルカティリだ。彼は非常にタフな人物だった。いつまでたってもティモール海の資源開発が進まなかった。無駄に時間が過ぎていった。もはや資源開発を進めるためには、アルカティリ首相を強引に引きずり降ろすしかなかった。

冒頭に紹介したように、今回、オーストラリア政府とコフィ・アナン事務総長の見解は、真っ向から対立している。しかし、オーストラリア政府はどんな手を使ってでも、思い通りに事を運ぶだろう。

今後、もし国連の名において、東ティモールが統治されたとしても、UNTAETと同じ茶番が繰り返されるだけだ。
そして今度こそ、オーストラリアは欲しい物を手に入れるだろう。
国連はわかっていながら、それを阻止する事はできないだろう。
なぜなら、オーストラリアは親分アメリカと同じ事をしているにすぎないのだから。


写真 : 99年8月27日 ロスパロス・東ティモール

2006年06月19日 17時54分40秒 | ●東ティモール
武装民兵の襲撃情報が入ったため、ヴェリッシモ氏宅を守るために来た独立派の若者たち。
右端がヴェリッシモ氏の長男セルジオ。現在、ディリで判事を務めている。





裏庭で襲撃に備える。
独立派の若者たちが手にしているのは、たきぎ用の薪だけである。
そのため僕ものんきに構えていた。

この直後に、武装民兵が現れたのだが、撮影はできなかった。



最初の銃撃から、数十分後(時間は定かでないが)に、乱射がピタリと止んだ。
襲撃者は去ったものと勘違いして外に出た。
裏の木造家屋が業火をあげて炎上していた。
三回だけシャッターを切り、家人を探しに家屋にもどった。
































二回目の銃撃が終わったあと、燃える家屋を脱出。
ヴェリッシモ氏の隣人に救われた。

この写真は、隣家から撮影した燻りつづけるヴェリッシモ氏の家屋。
裏の木造家屋は茅葺だったので、すでに燃え尽きた。




翌朝、ようやくUNAMETの文民警官がきた。欧米の文民警官は凄まじい銃撃に恐怖して、明るくなってからインドネシア警察と共にやってきた。

僕が泊めてもらっていた部屋はこのようになっていた。




Sr.Verissimo Dias Quintas
ヴェリッシモ・ディアス・キンタス氏
ロスパロスのリウライ(酋長・王)
1999年8月27日没
享年65歳






<参考記事>
PTSD
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/ca59f3cc08b6118a5b4d360a3c307308

取材準備:覚悟
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/ae549105fb264dc9183b9d135701eba3

武装襲撃  (99年8月27日ロスパロス・東ティモール)

2006年06月18日 17時29分23秒 | ●東ティモール
<まさかの襲撃>

「ミリシアの襲撃があるかも知れないぞ!」
 ヴェリッシモ氏の長男セルジオが言った。
 僕にはまったくピンとこなかった。こんなのどかな田舎町で?
 まさかね?
 平然としている僕に、
「お前、怖くないのか?」
 と彼は険しい表情で言った。
 僕はまだ、ミリシア(併合派武装民兵)がどれほど残忍なのかを知らなかった。
 そして凄まじい殺戮と破壊が一週間後にはじまることも。

 しばらくして、独立派の若者が五、六人警備のためにやってきた。薪用に積まれていた棒を手にし、民兵を迎え撃とうとしていた。棒で戦おうというのだから、たいしたことにはならないだろう。カメラを構え、僕は彼らから少し離れたところに立った。
 それからほどなくして、生け垣越しに五、六人の頭が見えた。民兵は本当にやってきた。先頭の男だけ、バラクラバ帽(目出し帽)を被っていた。ゆうゆうと歩いて敷地の中に入ってきた。そして先頭の男が何かを叫んだ。その瞬間、独立派の若者たちは一斉に棒を捨てて、血相をかえて逃げ出した。
 僕は、その瞬間までは乱闘になったら写真を撮ろうなどと、のんきに考えていたのだが、若者たちの表情と逃げ方に、ようやくただならぬものを感じた。

 僕を含めて八人ほどが逃げ遅れた。女性や子供もいた。全員あわてて家の中に散った。
 僕の飛び込んだ部屋には、女性と子供、そして独立派の幹部A氏がいた。あわてすぎたため、手が滑って、ドアを閉めることができなかった。
 民兵たちは、家の中を破壊しはじめた。家屋内に怒号とは破壊音が響いた。僕は、開いたままのドアから顔を乗りだして、写真を撮ろうと試みた。こん棒で台所を破壊している男の背中が見えた。あわてて身を引いた。写真を撮るのは危険すぎた。見つかれば、他の三人も危険に晒してしまう。A氏は内側のドアを開け、となりの部屋に移った。

 家の中のあちこちで破壊の音が響いた。
”この部屋も、もう見つかる”、そう思うと恐怖で体が強ばる。捕まればどうなるのだろうか。ただ恐怖だけがつのっていく。子供はベッドの下で震えていた。女性は小さな声で必死に祈っていた。女性が引きつった顔で部屋の上を指差した。空気窓から濃い黒煙が部屋の中に吹きこんできた。
”火をつけやがった!”
 カメラは二台ともバッグの中に突っ込んだ。写真どころではない。もう何をしていいかわからない。僕は部屋の真ん中に棒立ちになっていた。

 いきなり激しい射撃音がした。壁一枚外で、自動小銃の連射がはじまった。軍用の自動小銃の音だ。セミオートで連射しているが、まるでフルオートなみの撃ち方だ。
 銃撃が始まった瞬間、女性をベッドの下に押し込み、僕ももぐった。狂気に満ちた射撃に身がすくむ。もはや見つかれば、確実に殺される。
”どうやってここから逃げればいいんだ!”

<嵐の前>

 僕が東ティモールヘ着いた当初は、後の武装襲撃や大殺戮など想像もできないほど、静かでのんびりした雰囲気だった。

 東ティモールの人口は八〇万人ほど。住民投票の登録者は、約四六万人。投票の管理運営や集計作業は、国連東ティモール派遣団(UNAMET:ウナメット:United Nations Mission in East Timor)が行なう。投票の規模も小さいし、何といっても国連が間に入っているのだ。何かが起ろうはずがない。僕はそう安易に考えていた。

 ディリには世界各国の報道陣が三〇〇人近く滞在していた。フリーランスがいてもあまり意味がないので、僕は地方へ行くことにした。

<ロスパロスのキング>

 まずディリからミニバスで三時間ほどのバウカウという街へ行った。
 もともとは日本軍が作った飛行場がある。岩をくり抜いた地下基地なども残っている。第二次大戦中、東ティモールは日本軍に占領されていた。
 バウカウから、さらに東に進みロスパロスへ。とても小さな町だ。

 ロスパロスには、宿というものはなく、僕はたまたま独立派のヴェリッシモ氏(六五歳、当時)の家に泊まることになった。ヴェリッシモ氏は、独立派組織CNRT(ティモール民族抵抗評議会)の幹部であり、CNRTの事務所は、彼の家の敷地内にあった。

 彼は、国連関係者のために、ささやかなレストランを営んでいた。おいしいポルトガル料理を出すので、毎日のように国連関係者が食事に来ていた。
 はじめての客は、ヴェリッシモ氏の履歴を聞くことになる。
「私はロスパロスのキングだ」
 氏の家系は神話にもでてくるらしい。東ティモールで一番古い家系だという。
 国連関係者からは”オールド・キング”と呼ばれ、親しまれていた。
 彼は、独立派ゲリラ・ファリンテルの兵士だったこともある。四一歳当時の写真は、いかにも独立の闘士といった面構えだった。彼の三男セザールは、ジャカルタでシャナナ・グスマンのボディガードをしていた。

 そんなヴェリッシモ氏の家に寝泊りし、独立派の投票キャンペーンに同行して、口スバロス郊外の村々をまわった。しかし、出かける度に、民兵に気を付けるように注意された。当初、僕にはCNRTのメンバーは民兵に対して神経質すぎるのではないかと思った。しかし、それは誤りであった。
 
 八月二七日、午後五時三〇分。
 ヴェリッシモ氏宅は武装民兵に襲撃された。

<脱出不可能>

 外の銃撃は止むことがなかった。とんでもない事態になってしまった。
 ベッドの下では女性と子供が一心不乱にお祈りをしている。僕もさすがに成す術がない。相手は自動小銃を乱射し続けているのだ。もはや単なる脅しではない。前日はディリで四人の独立派が殺害されている。民兵は本気だ。見つかれば命はない。

 民兵は、銃撃を加え、家の中を破壊し、火をつけてまわっている。いずれこの部屋も発見される。ドアは開いたままだ。もう、来るに違いない、と思うと恐怖が全身に走る。

 いったいどのくらい時間が経っただろうか。いきなり銃声がやんだ。静寂がおとずれ、いままでの狂気に満ちた銃撃が嘘のようだ。銃弾が尽きたに違いないと思った。数百発は撃っただろう。外に人の気配はなかった。

 すぐベッドの下から出て、他の人たちを探した。いったん外に出た。すでに日は落ちていた。しかし、外は明るかった。裏の木造家屋がすさまじい勢いで燃えていた。裏口から家の奥に入ると、突然A氏が現われた。しかし他には誰もいない。皆無事に逃げたのだろうか。

 子供と女性のいる部屋に戻ろうとした時、裏口の方から、ガラスや皿の破片を踏む音がした。A氏はあっという間に近くの部屋に消えた。一瞬おくれて僕も、そばの棚の裏に隠れた。ここでは隠れたことにならない。後悔したがもう遅い。民兵はまだいたのだ。なんてことだ。しばらく裏口の気配をうかがい、そっととなりの部屋に移った。ベッドが三つあるだけで他に何もない。仕方がない。ベッドの下にもぐった。

 突然、外で銃撃がはじまった。またしても凄まじい銃撃が途絶えることなく続いた。尋常ではない撃ち方に、恐怖がつのった。
 民兵は襲撃の前には、アンフェタミンのような薬物を与えられるという話しを聞いた。外での銃撃は、まさに”キレ”ていた。
 裏口の方で人の動く気配がした。こんどこそ見つかるのではないか。裏口の方が明るくなった。さらに放火したようだ。そして家の中にも火炎ビンが投げ込まれた。リビング内がぱっと明るくなった。
 外は銃撃、内は炎と煙。
 外に出れば間違いなく撃たれるだろう。家の中で火と煙に耐えているほうがましだ。幸い、壁と床はモルタル造りになっているので燃えない。燃えるものは家具、調度品と天井の梁だ。おそらく焼け死ぬことはない。ただ、すべての窓は襲撃に備えて閉じられていたので、煙は外へ逃げずどんどん濃くなっていった。煙を耐えられるところまで耐えるしかない。

 外の銃撃はおさまる気配がない。自動小銃の音に混じって、散弾銃のような音がまじっていた。おそらく手製銃だろう。家の周りの数ヶ所で銃声が響ている。まるで戦争のような連射が一秒たりとも止まなかった。
”ここで殺される!"
”死にたくない。生きたい!"
 頭のなかではそんなことばかりが明滅する。
 しかし、助かる見込みのないことは明白だった。
 狂気の銃撃から逃げられるわけがない。
 天井から煙が濃くなってじわじわ降りてきた。
 体も心も、すでに半分死んでいるような状態だった。
 時間の感覚もなく、ただ死ぬのを待っていた。

 突然、銃声が止んだ。
 そのまま様子をうかがった。さきほど銃声が止んだときは、民兵が去ったものと勘違いして、危うく発見されかけた。できるだけ煙に耐えようと思った。が、それも数分だった。すでに限界にきていた。これ以上とどまると窒息してしまう。

 とにかく銃声は止んだのだ。賭けるしかない。ドアを恐る恐る開けた。煙が外に流れだす。裏で燃える続ける木造家屋の炎で、外はかなり明るい。暗ければどれだけ気が楽だったろうか。意を決して煙とともに外に飛び出す。すぐ目の前に屋外のトイレがある。トイレのドアは外からかんぬきがしてあった。連中はここは調べていないということだ。トイレの中に入った。窓から煙は入ってくるものの、呼吸に支障はない。水槽にはたっぷり水も入っている。ここならかなり耐えられる。そう思うと気分も少し落ち着いた。

 窓から外を何度も窺った。人の気配はない。脱出するなら今だ。いよいよ脱出と思うと、撮りためたフィルムを火の中に置いていくのが辛くなった。僕の部屋は火元から一番遠く、まだ燃えてはいなかった。今ならまだ間に合う。いや、そんなことよりとにかく逃げることだ。
 ちょっとの間、俊順したが、やはりフィルムは捨てていけなかった。家の中を隠れ回っている間もカメラ・バッグを持ったままだった。息を止めて家の中に飛び込み、煙の中を走り、ザックをひっつかんで、すぐ外に飛び出した。
 あとは暗闇に向って一目散に走った。ザックとカメラ・バッグを抱えていては走ったとは言えなかった。二〇メートルも行かないうちに、視界に人の姿が見えた。
”民兵か!”
 全速力で走った。振り返ると、人影が手招きをした。そのまま走ったが、人影は手招きを続けた。人影には殺気がなかった。僕は足を止め、その人の所までもどった。
 彼は黙って、納屋を示し、ここにいなさいという、しぐさをした。
 時計を見ると六時三〇分だった。襲撃から一時間がたっていた。
 僕と主人は長い間、焼けていく家屋を見ていた。
 あたり一体の家々は明りを消し、廃村のように静かだった。

<信用できない軍、警察>

 夜一〇時頃、くすぶり続けるヴェリッシモ氏の家の方から車両の音がした。窓の隙間から、息を殺して覗いた。インドネシア警察だった。一〇人ほどの警官は、一五分ほどいて、去って行った。ほっと胸を撫で下ろした。

 住民は、軍や警察は併合派民兵を強力にバックアップしていると見ている。時として、軍人は私服に着替え、民兵に混じって襲撃の指揮をとっているのだという。もちろん証拠などない。しかし、ほとんど公然の秘密なのだ。
 独立派の住民にとって、警察も軍も、恐怖の対象でしかない。

 真っ暗な納屋の中で一人、まんじりともせず夜を過ごした。頭の中では襲撃時の模様が、エンドレステープのように何度も回っていた。

 翌朝五時、空が明るくなると、再び警官がやってきた。窓の隙問から、ずっと観察した。焼け落ちた家のまわりに、もっともらしくテープをめぐらしていた。しばらくして、ニュージーランドの国連文民警察官の制服が見えた。僕は、納屋から出て、文民警官に事情を説明した。

<A氏と再会>

 UNAMETロスパロス支部の建物に着いて、ようやく助かったんだと実感できた。しかし体には恐怖がべったり張り付いたままだった。

 UNAMETで働くティモール人の通訳から「街中に民兵が俳個している」と聞かされた。国連の敷地から出るのは危険だ。文民警官から事情聴取を受けた。そのあと、僕は最も気がかりなことを文民警官に訊ねた。昨晩の襲撃の犠牲者についてだ。
 犠牲者は一名。
 家長のヴェリッシモ氏だった。全身滅った斬りだったそうだ。
 ヴェリッシモ氏は家族を守るため、民兵に立ち向かったのだと思う。あの場で怯えていなかったのはヴェリッシモ氏ただ一人だった。その姿をありありと覚えている。
 
 昼すぎ、昨夜の襲撃から逃げ延びた人たちが保護されてきた。ヴェリッシモ氏を除く全員がいた。誰もが極度の緊張状態か虚脱状態だった。A氏もいた。幽霊のような表情だった。僕の姿をみとめ、ゆらゆらと歩いてきた。
 力なく握手をし、少し話しをした。
「あれから、どうやって逃げましたか?」
 A氏は、燃える家から脱出したあと、近くの溝の中に潜み続け、明るくなってから教会に匿ってもらったそうだ。
 そしてA氏はこんな言葉を口にした。
「わたしは、あの家の中で、民兵に捕まったのだよ」
 あの状況で民兵に捕まり、無事にすむなど信じられない。
「どうやって逃げたんですか!?」
「連中はわたしを捕まえたものの、すぐわたしを放して、外国のカメラマンの君の方を探したんだよ」
「・・・・・」
「君が先に捕まっていれば、わたしも生きてはいなかっただろう」
 
 襲撃後すぐに写真をあきらめて、つくづく良かった思う。へたにカメラマン根性など出していたら、自分はおろか他の人たちまで犠牲になっていたところだ。

<あらかじめ計画された大殺戮>

 襲撃から生き延び、僕はディリに戻った。
 しかし、投票結果の発表をひかえたディリにも不穏な空気が流れていた。
 BBCやオーストラリアのジャーナリストが民兵に襲われて怪我をしていた。
 開票結果が発表されれば、民兵が大暴れすることは間違いなかった。
 民間機は、不穏な東ティモールへの運行をストップしてしまった。

 負傷者を出したBBCは、国連の開票発表の前日に、チャーター機を呼んで東ティモールを離れた。BBCがいち早く現場を離脱したことで、全メディアが浮き足立った。

一九九九年九月四日、午前九時。
開票発表。於:マコタ・ホテル(現ホテル・ティモール)

独立:三四、四五八〇票(七八、五%)
併合: 九、四三八八票(二一、五%)

開票結果は、ラジオを通じて東ティモール全土にアナウンスされた。
それからしばらくしてディリの街に銃声が鳴り響いた。


<完>
=====================================================================

これは、一九九九年九月に書いたルポを加筆修正したものである。

後の取材で、ヴェリッシモ氏を殺害した襲撃者は十一名であることがわかった。
全員が東ティモール重大犯罪部から訴追されている。
十一名の中には、インドネシア国軍特殊部隊コパススの隊員が二名含まれている。
襲撃者は、このコパスス隊員に指揮命令されて襲撃を行った。
襲撃実行犯十一名に加えて、当時のラウテム県の知事エルムンド・コンセッソンも訴追されている。
襲撃を立案・指示したのは、知事エルムンド・コンセッソンである。
エルムンドは現在、バリ島で悠々自適の生活を送っている。



<参考記事>
PTSD
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/ca59f3cc08b6118a5b4d360a3c307308

取材準備:覚悟
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/ae549105fb264dc9183b9d135701eba3

「 アルマンド 」(仮題)

2006年06月16日 17時35分35秒 | ●東ティモール

 アルマンドの車は真っ暗な山中でパンクした。すぐ先の道路には民兵によって殺された大勢の遺体がいまだ打ち捨てられている。そこには女性や子供の遺体さえある。二〇〇mほど先のその地点は、東ティモール併合民兵の待ち伏せ場所だった。しかし、そんなところでパンクしたとはアルマンドは知る由もなかった。


一九九九年九月。
 東ティモールはインドネシア国軍、警察、そして併合派民兵の殺戮と破壊と略奪の真只中にあった。ディリの街のいたるところに殺害された遺体があった。路上にころがる遺体。家屋内、商店内にはガソリンを撒かれ焼かれた遺体。井戸の中には折り重なるように投げ込まれていた。特に海岸には多くの遺体が打ち捨てられていた。地方のある街では、多くの住民が生きたまま、高さ数百メートルの崖から突き落とされた。東ティモール全土で一〇〇〇~三〇〇〇人あまりの市民が虐殺されたというが、いまだ正確な数字は判然としない。海に流された遺体やワニのいる川に流された遺体もあるからだ。
 インフラの八十%は破壊され、ビルといえるものはすべて炎上した。一般家屋も破壊、焼打ちを免れたものは少ない。破壊を免れた家屋も全ての財産を略奪された。車、バイク、電化製品あらゆるものが消えた。
 あれから二年(二〇〇一年当時)近くたった今でも、インフラのほとんどは破壊されたままである。どの街を訪れても、破壊され炎上した建物や民家ばかりが目につく。地域によって差はあるが、現在でも電気、水道の供給すら完全ではない。


 九九年九月一七日、その殺戮と破壊の真只中の街から、アルマンドは単身、車を運転してディリを脱出した。この車は、民兵の略奪を恐れた彼の友人が、西ティモールのクパンまで運んでくれるよう依頼したものだった。ティモールでは車はたいへんな財産である。


<暗闇>
 左前輪がパンクしていた。西ティモールとの国境まであと数十キロの山の中である。もっとも危険な地帯だ。速やかにタイヤを交換し、出発しなければならない。
 しかし、パンクした車を前にアルマンドは途方にくれていた。車にはタイヤのボルトを外す工具がなかった。工具と呼べるものはジャッキ、ペンチ、ドライバーにプラグレンチくらいだった。あとはゴムのり、ハサミ、ヤスリ、ビニールホース、針金、そして壊れたプラグ。これだけで一体どうすればいいというんだ。

"こんなところでもたもたしていたら民兵に見つかってしまう"  
 アルマンドは恐怖した。すぐそばには民兵に襲撃されたものであろう一台の焼かれた車があった。
 パンクした車の前でアルマンドは知恵をしぼった。
 とにかく車をジャッキアップした。
 どうやってタイヤをとめている四つのボルトを外すか。ペンチなどでは緩まない。タイヤレンチの代わりになるものはないか。しかし車にはそんなものはない。
 "考えろ!考えれば、なんとかなる。"
 アルマンドは普段から、何でも工夫することが好きな質だった。
 一般に途上国の人々は、あるだけの道具、あるだけの材料で、物を修理することに長けている。車種に合わないフロントガラスをばっちりはめ込んだりもする。工夫次第でたいていのものはなんとかなるものなのだ。

 アルマンドはジャッキをポンプアップするためのステンレスパイプに目を付けた。幸いパイプの内経はボルトよりも大きかった。彼はパイプの端を石で叩いた。タイヤのボルトに合わせて、また叩いた。ボルトにはまるように狭めるためだ。ボルトにがっちりはまるまで叩いた。それが完了すると、そのパイプを傍らの焼かれた車の頑丈な部分に差し込み、ゆっくりL字型に折り曲げた。
 タイヤレンチができあがった!
 即席レンチをボルトに差し込み、力いっぱい回すと、きしみ音をたててボルトは緩んだ。急いで、四つのボルトを外し、パンクしたタイヤを車から取り外した。アルマンド安堵した。あとは、スペアータイヤを取り付れば脱出できる。アルマンドはトランク・ルームからスペアータイヤを取り出した。
 しかし、スペアータイヤはぺしゃんこに空気が抜けていた。
 午前一時。アルマンドは暗闇の中にひとり呆然と立っていた。


<ディリ>
 アルマンドが脱出してきたディリの街では、この世の地獄が続いていた。
 彼は、民兵が女性を殺す現場さえ目撃している。しかし助けたくともどうすることもできなかった。見つかれば自分も殺される。隠れて、ただ見ているしかなかった。
 しかし彼もついにインドネシア国軍兵士に見つかってしまう。 が、幸い、アルマンドは西ティモールのフローレス生まれだった。
西ティモール生れで東ティモールに移住してきた者は、すなわち併合派(支持)と単純に受け取られていた。彼は六才の時に両親に連れられて東ティモールに移り住み、以来二七才の今日まで東ティモールの人間として生きてきた。ただし独立を指示する人間として。彼は独立派ゲリラ・ファリンティル(現国防軍)に多量の弾薬を寄付したことさえある。国連が来てからはUNAMET( United Nations Mission in East Timor)のセキュリティ・ガードとして働いた。
 国軍兵士はアルマンドが独立支持だとは夢にも思わなかった。しかし、西ティモールに去らねば、撃ち殺すと脅かした。虐殺と破壊の中、併合派の市民はすべて強制的に西ティモールに送られていた。併合派の家屋も容赦なく破壊された。強制避難に従わなければ併合派でも容赦はなかった。アルマンドはディリ退去をよぎなくされた。しかし、ディリに留まるのも、退去するのも、同じくらい危険に満ちていた。


<暗闇>
 アルマンドは役に立たないスペアータイヤを前に途方にくれていた。
どうすればいいのか・・・タイヤレンチを自作して、ようやくタイヤを外したというのに。
 そのときディリの方角から車のライトが近づいてきた。アルマンドはその車を止めた。家族を乗せ同じくディリを脱出してきた車だった。事情を説明した。その車にはスペアータイヤが積まれていた。が、無情にも、彼はそのタイヤをアルマンドに与えることを拒否した。しかし無理もない。家族まで乗せているのだ。スペアータイヤを失ったあと、今度は彼の車がパンクするかも知れない。アルマンドは、相手を恨む気にはならなかった。

 スペアータイヤは諦めるしかなかった。しかしアルマンドは彼に五分だけ待ってくれるように頼んだ。先を急ぐ相手は苛々しながらも、なんとか聞き入れてくれた。
 アルマンドは急いでパンクした前輪と、スペアータイヤをヘッドライトで照らされた路上に並べた。
 彼はこれからパンクしたタイヤのチューブを修理するしかなかった。タイヤからチューブを取り出す作業は一見単純だが、人力で行うのは容易ではない。ホイールのリムにがっちりはまっているタイヤの縁を一度リムの内側に外す必要がある。人力で行おうと思えば、大型の鉄のハンマーでもない限り不可能だ。どうやって外せばいいのか。それをアルマンドは思い付いたのだ。
 路上に並べた二つのタイヤ。それを車のタイヤでゆっくり踏んでもらった。車の重みでタイヤの縁はリムの内側に外れた。タイヤを踏んでしまうと車はそのまま去って行った。

 アルマンドはヘッドライトの明かりの中に、またひとり残された。
 彼は次のことを考えなければならなかった。
 チューブを取り出すためには、いったんホイールのリムの内側に外したタイヤの縁を、今度は逆に外側へ外さなければならない。これも本来専用の金属の板二枚がなければ容易にはいかない。
 が、当然そんなものはここにはない。
 "丈夫な金属の板はないか!"
 アルマンドは闇夜の中で恐怖と闘いながら、次から次へと考え続けなければならなかった。
 板状の丈夫な金属・・・。
 アルマンドは焼かれた黒焦げの車を見た。そこに板状の金属を発見した。彼は車の下にもぐった。そしてそれを取り外した。
 サスペンション用の板バネだった。
 専用の工具より幅も厚みもはるかに大きい。それ自体ではとてもリムとタイヤの縁の間に入るしろものではなかった。彼はドライバーを取り出し、リムとタイヤの縁の間に差し込んで、こじあげた。なんとか分厚い板バネを差し込む隙間ができた。板バネをその隙間にねじ込み、力一杯こじあげた。タイヤの縁はリムの外側に外れていった。これでチューブが取り出せる。ヘッドライトの明かりの中で
黙々と作業を進めた。

 ふたつのタイヤからチューブを取り出し、チェックした。前輪のタイヤのチューブは裂けていた。パンクというとり破裂したのだ。スペアータイヤの方のチューブは穴が空いているだけだった。チューブの修理をはじめた。穴の修理は簡単だ。裂けた方のチューブをハサミで切り取った。ハサミは小さく切れない代物だったが、あるだけでありがたかった。切り取ったチューブ片にヤスリをかけた。
チューブの穴のあいた部分にもヤスリをかけ、両方にゴムのりを塗り一〇分待った。張り合わせたあとを石で叩いて密着させた。修理の完了したチューブをタイヤの中に戻した。そしてホイールの外側にはずしたタイヤの縁を、再度板バネを使って、ホイールのリムの内側にもどした。
 終わった・・・
 これであとは空気を入れるだけだ。
 そこまでを恐怖と闘いながら、必死になって考え続け、アルマンドはやり遂げた。

 しかし、彼は最後の段階になって呆然自失となった。
"どうやってタイヤに空気を入れたらいいんだ!"
 続けざまにおとずれる目の前の難問を、一つずつ解決するのに必死だったアルマンドは、先のことなど考える余裕はなかった。ここまでやり遂げながら、空気を入れられなければ、何の意味もないではないか!風船をふくらますのとはわけがちがう。コンプレッサーかポンプがなければどうにもならない。こんな山の中にそんなものがあるわけがない。いままでの努力は一体何だったんだ。
 アルマンドは泣き崩れた。
 泣きながら神に祈った。
 "生まれたばかりの子供の顔をもう一度見せてください。妻の顔を見せてください"と。
 民兵がいつやってくるかもしれない。そう思うと気が狂いそうになった。アルマンドは絶望感で泣き続けた。
 漆黒の闇夜だけが彼の味方だった。


<ディリ>
 そもそもアルマンドは、いったん西ティモールのクパンに避難していたのだ。それをわざわざ殺戮と破壊の真只中の東ティモールのディリに舞い戻ってきたのだ。「給料」を受け取るために。
 併合派民兵が大暴れする混乱の中で、彼は国連(UNAMET)のセキュリティ・ガードとしての給料を受け取れないまま西ティモールに避難した。先にクパンに避難していた妻は子供を出産していた。クパンで彼は無一文に近い状態だった。それで彼はディリに戻って、UNAMETから未払いの給料を受け取ろうと決心した。無謀といえばあまりにも無謀な行為だ。安全な西ティモールのクパンから、わざわざ殺戮の街にやってくるとは。しかし、それほど金に困っていた。まさにミルク代もなかったのだ。西ティモールには金を借りられるような友人、知人はいなかった。たよりはUNAMETの給料だけだった。
 しかし、危険を冒してディリに着いてみると、国連の姿はどこにもなかった。いったい何のために舞い戻ってきたのか・・・。


<暗闇>
 アルマンドは泣き続けた。
 そして祈り続けた。
 "生まれた我が子の顔を、妻の顔を見せてください"
 そしてアルマンドは何度も自分に言い聞かせた。
 "考えるんだ!あきらめるな!考えろ!"
 "生きてここを脱出するんだ!"
 しかし、ポンプもコンプレッサーもないこの山の中で、どうやってタイヤに空気を入れることができるのか。不可能だ。いくら工夫することに長けたアルマンドでも、もはや答などないことは明白だった。
 彼は絶望の淵にいた。
 それでも、彼は自分に言い続けた。
 "考えろ!あきらめるな!"と。
 泣き、祈り、考え続けた。
 考える続けることだけが、恐怖から逃れる唯一の方法だった。
 長い時間が経ったように感じた。
 そしてアルマンドの頭に、ひとつのイメージが浮かんだ。
 "やってみる価値がある!"  
 アルマンドは、トランクに転がるスパークプラグに飛びついた。古びて壊れ、使いものにならない代物だった。彼はペンチと釘を使ってスパークプラグに細工をしはじめた。それが完了したら、車のボンネットを開け、四気筒のエンジンからスパークプラグをひとつ取り外した。そしてそこに細工したスパークプラグを取り付けた。


<ピックアップ>
 このとき、ディリの方向から車のライトが近づいてきた。そしてアルマンドの車の後方で止まった。ピックアップトラックだった。アルマンドはスペアータイヤを持っているか尋ねようと思った。運転席に三人、荷台に一人の男がいた。男たちが降りてきた。二人はアルマンドの右側に、一人は左側に、残る一人は車の後方に立った。四人の内三人はAK四七自動小銃を持ち、一人だけ拳銃だった。
 ついに恐れていたことがおこった。
「ここで、何をしている」
 男の一人が冷たい声で言った。
 アルマンドの心臓は高鳴った。
「パンクの修理をしている・・・」
 アルマンドは答えた。心臓は高鳴り続けた。
 男たちは冷たい目でアルマンドを見続けた。
 彼らは制服は着ていなかったが、インドネシア国軍兵士に違いなかった。四人そろってアーミーカットだった。民兵はどちらかといえば長髪が多い。
 アルマンドのズボンのポケットには国連のセキュリティ・ガードのIDと国連旗があった。国連で働くものは独立派であるとみなされる。ボディ・チェックされれば、まちがいなく命はない。
 男たちは、アルマンドを見定めるように、黙ったまま睨み続けていた。そして、
「ここに長居するな・・・死にたくなければ・・・」
 と低い声ですごんだ。
 それだけを言うと男たちはピックアップで走り去った。
 アルマンドは胸をなで下ろした。
 兵士のピックアップには略奪してきたものであろう様々な物品が満載されていた。彼らは先を急いでいたのだろう。

 我が身の好運を喜んでいる暇はなかった。もはや一刻も早くここを去りたかった。第二第三の略奪兵士や民兵が来るかも知れない。
 アルマンドは急いで作業の続きに入った。


<暗闇>
 彼は、トランクにある一メートルほどのビニールホースを取り出した。そして、兵士が来る前に、エンジンに取り付けた”細工をしたスパークプラグ”に、そのホースをかぶせ、はずれないように針金できつく巻いた。ホースの反対側を、パンク修理をすませたタイヤの空気注入口にかぶせ、おなじく針金でしっかりと巻いた。エンジンとタイヤがホースでつながった。

 そしてアルマンドは運転席に飛び込み、キーを回した。エンジンをかけると、アクセルをめいいっぱい踏み込んだ。
 夜の静寂を打ち破りエンジンが唸る。
 ポンプはあったのだ。エンジンとはすなわちポンプそのものではないか。
 ペンチと釘を使って中身を引き抜き「中空」にしたスパークプラグを通り、シリンダー内の混合気はビニールホースからタイヤへ送られた。

 三分ほどエンジンを吹かし続けた。長い時間に感じた。そして運転席から飛び出し、タイヤの圧を確かめた。すでに十分入っている。完璧ではないが、走るのに問題はない。もはや一秒も長居したくはなかった。アルマンドはホースを引きはずした。細工をした中空のプラグを外し、正常なプラグを取り付けた。そしていまや「混合気」で膨らんだタイヤを、手製タイヤレンチで車に取り付けた。
 時計は午前三時を差していた。二時間かかった。いや、たった二時間でやってのけたのだ。


<脱出>
 アルマンドは車を走らせた。
 二〇〇メートルほど走ると、車は急な登りの右カーブに差し掛かった。アルマンドの車のヘッドライトは道路脇の多くの遺体を照らし出した。二〇~二十五体。殺害され、血にまみれた男性、女性、老人、若者、そして子供の遺体。信じられない光景だった。アルマンドはそこが民兵の待ち伏せ場所だったことを悟った。
 アルマンドは涙を流しながら、ハンドルを握った。


 夜が明ける前に、彼は危険地帯を抜けた。
 そして、生まれたばかりの我が子と妻の待つ、クパンに着いた。
 クパンを出た時と同様、無一文で。
 車の所有者である友人は、車を受け取ると礼を言っただけで、何の謝礼も支払わなかった。 





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これはインタビューをもとに構成した真実の物語である。
中司達也

続・99年9月、虐殺を放置したオーストラリア政府

2006年06月15日 21時00分08秒 | ■東ティモール暴動
オーストラリア国立大学・戦略防衛研究センターのデス・ボールという教授が、2000年に次のような報告をしている。


(東ティモールで)何が起ころうとしていたかを、もし世界が知り、そして、もしオーストラリアが隣人による殺戮を止めることを強要されたら、インドネシアとの貴重な同盟関係が砕けてしまうであろうことを政府は恐れていた。オーストラリア政府は、殺害と蛮行の冷徹な報告を無視し続けたので、諜報筋は東ティモールからの報告に手を加えた。その報告に政府は満足した。それによって情報機関と外務省には亀裂が広がって行った。

「政府の望まない、正確な予測情報」を、情報機関が生み出したので、政策立案者は不快な情報を無視し、情報当局の専門技術を無力化したのだ。
http://www.etan.org/et2000c/december/24-31/24silent.htm


オーストラリア政府は、非常に優秀な情報機関を持っていたようだが、東ティモールの住民投票に関しては、都合の悪い正確な情報ばかりがもたらされたため、自国の情報機関の能力を無力化してしまった、ということだ。

もしオーストラリアが得た情報がもれれば、インドネシアが国際社会から悪の烙印を押され、インドネシアとの関係が悪化してしまう。それは、オーストラリアの安全保障を揺るがす問題となる。

かくしてオーストラリア政府は、情報機関からもたらされる虐殺計画に関するレポートを無視し、情報機関を無力化し、虐殺の発生をみすみす許した。

軍情報部の職員は虐殺が発生後も、、東ティモールの状況をモニターし続けた。殺戮の真っ最中のインドネシア軍の無線を傍受し、殺戮の生中継を記録した。そうした報告も、オーストラリア政府首脳はいっさい聞こうとはしなかった。

オーストラリア軍が、東ティモールに上陸した後も、部隊は虐殺の証拠や痕跡を隠滅し、虐殺の規模をできるだけ小さく記録するよう命令された。かつその記録もオーストラリア政府によって封印された。

オーストラリア政府は、インドネシアと友好関係を保ち、互いの安全保障体勢を強固にするために、すべての情報を握りつぶし、東ティモールの何千人という住民の命を犠牲にしたのだ。

1999年9月4日 東ティモール

2006年06月14日 17時20分26秒 | ●東ティモール
1999年9月4日 東ティモール ディリ

住民投票の結果がアナウンスされた直後のディリ市内。
独立派が圧勝したにもかかわらず、
通りに人影はなく、
インドネシア国軍、警察の車両以外はほとんど走っていない。

不気味な静寂につつまれた街に、
散発的な銃声が轟く。
木霊が去ると、より深い静寂がおとずれた。
いったい、何が起こっているのか。
これから何が起ころうとしているのか。

99年9月、虐殺を放置したオーストラリア政府

2006年06月13日 21時50分54秒 | ■東ティモール暴動
1999年9月4日、午前9時。
マコタ・ホテル(現ホテル・ティモール)のホールで、独立を問う住民投票の結果が国連から発表された。

独立:78.5%
併合:21.5%

圧倒的多数で、独立が決定した。
しかし、ディリの通りのどこにも勝利を祝う人々の姿はなかった。
住民は、みな家屋に潜んでいた。
静寂の街に、銃声が轟いた。
ホテルには、300人ほどのメディア関係者がいたが、ほとんど誰も通りに出なかった。
怖れていたことが、ついにはじまったのだ。
この日から、インドネシア国軍、警察、併合派民兵による容赦ない虐殺と破壊がはじまった。

9月20、ようやくインドネシア政府は国際軍の受け入れを承諾した。
まっさきに東ティモールに上陸したのはオーストラリア軍だった。
東ティモール住民も国際社会も、オーストラリア軍が救世主に見えた。

しかし、オーストラリアは救世主などではなかった。
どちらかというと悪魔に近いことを、当のオーストラリア軍の軍人が暴露している。


東ティモールの独立支持者を虐殺しようとするインドネシアの計画に関する重要な情報を、オーストラリアが差し止めたことは、オーストラリアは虐殺の共謀者であったと言える、とオーストラリア軍の情報将校高官(アンドリュー・プランケット大尉)は主張した。

プランケット大尉によれば、オーストラリアの情報部はインドネシアによる殺害計画を知っていた。しかし、政府官僚の外交上の理由のため、国連スタッフには告げられなかった。その結果、知らず知らずに国連スタッフは、独立支持者を武装した暗殺者のもとへと導いた。つまり、大虐殺の場面となる警察署へ、何百人ものマリアナの人々に避難することを促したのだ。
http://news.sbs.com.au/dateline/index.php?page=archive&daysum=2001-05-16#


同じく、オーストラリア軍の情報将校ランス・コリンズ中佐は、1998年の時点で、住民投票を機に東ティモールで虐殺が発生するという報告書を提出していたが、これは上層部によって握りつぶされている。
 コリンズ中佐は、1998年7月の時点で、インドネシア軍が民兵の暴力に資金提供しているという評価報告を提出しており、その後も、東チモール住民投票の際に虐殺が起きると警告していた。
ティモール・ロロサエ情報●ニュース 2004年4月13・14日
http://www.asahi-net.or.jp/~gc9n-tkhs/news64.html


前回、INTERFET(東ティモール国際軍:主力はオーストラリア軍)が調査した虐殺の犠牲者数を発表していないと書いたが、次のような証言もある。
プランケットは、部隊が死亡者数を控え目に言うように命令された、とはっきり言った。その結果、 マリアナで記録された公式のボディカウントは、約12であった。一方、情報部将校は、60を超える遺体に関する証拠をみた。そして、オーストラリア兵たちは、多くの遺体がおそらく海や川へ打ち捨てられたことに気づいていた。
http://www.wsws.org/articles/2001/may2001/timo-m15.shtml

はっきりとは書かれていないが、オーストラリア軍は遺体を海や川に遺棄して、ボディカウントを少なくしていた可能性が高い。それでも結局、総計は発表されなかったが。
デス・ボール教授は、インドネシアの殺害計画についてオーストラリアが知っていたことを実証した。

デス・ボール教授 : コパスス(インドネシア軍特殊部隊)指揮官が、特定の個人の殺害を、民兵のリーダーと共に命令、もしくは協議していたことが、テープに録音されている。

しかし、外務大臣アレクサンダー・ダウナーは、事前にどのような情報も持っていなかったと、否定している。
http://news.sbs.com.au/dateline/index.php?page=archive&daysum=2001-05-16#

なぜオーストラリア政府は、東ティモールでの虐殺の発生を知りながら放置したのか。そして、虐殺発生後の遺体の数を少なくカウントしたり、あるいは調査資料を公表しないという行動をとったのか。プランケット大尉は次のように記述している。
すべての初めから、東ティモールにおけるオーストラリア軍への上層部からの伝達事項は明瞭であった。東ティモール・ハンドブックの最初のページの最初の文章に、それは明記されている。
「インドネシアとの我々の防衛関係は、この領域の最重要事項である。この領域における防衛上の結束に向けてオーストラリアは積極的に働きかけなければならない。」
そして、東ティモールでのオーストラリア軍の活動期間中、この伝達事項はさらに強化された。
http://news.sbs.com.au/dateline/index.php?page=archive&daysum=2001-05-16


オーストラリア政府にとって、インドネシア政府との良好な関係は、安全保障の最優先課題なのだ。つまり、オーストラリア政府は、インドネシア政府の利益を極力守る同盟国なのだ。

虐殺が発生するのを放置し、虐殺の真っ只中に救世主のような顔をして乗り込んで来たオーストラリア軍。
そのオーストラリア軍が、いままた東ティモールに乗り込んできたのだ。
反乱軍のリーダー、レナルド少佐は、かつてオーストラリアに亡命していた人物だ。
暴徒は、決してオーストラリア軍を傷つけない。
オーストラリア軍は、インドネシアによる虐殺の証拠資料を保全する気がない。
今回の、出来事に偶発的な要素は一切ない。
最初からシナリオはすべてできているのだ。
東ティモールの石油を奪い、インドネシアにも大恩を売ることができるのだ。