報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

東ティモール 東西対立の捏造

2006年05月31日 23時19分49秒 | ■東ティモール暴動
今回の、東ティモールでの騒乱や暴動の発端となったのは、”西部出身者に対する東部出身者の差別や確執”とされているが、僕はそんな話を今回はじめて耳にした。

僕は、99年の住民投票以来、都合6回東ティモールを取材している。たいていは一軒家を借りて、2ヶ月は現地に滞在する。したがって通算1年近くは現地に滞在したことになる。しかし、その間、”東と西の確執”など聞いたことがない。

そんなものが、今回の動乱の原因で、その結果、オーストラリア軍が東ティモールの治安維持を掌握することになったとは、ほとんど悪夢に近い。ほんとうに”東と西の確執や対立”が存在するのだろうか。

「我々がジャングルで戦っていた頃には、東だの西だのといった話しはなかったが、独立国となってからそうした問題が生じてきた」
国防軍の解体を狙う幾人かの指導者が背後にいるのではとの疑念を示した。

ティモール抵抗民主民族統一党の党首コルネリオ・ガマ氏
(元ファリンティル第3地区司令官)
http://www.asahi-net.or.jp/~gc9n-tkhs/news87.html

世界のどこの社会にも、多少は地域間、民族間、宗教間の確執が存在する。しかしたいていは共存している。殺戮にまで至る地域間、民族間、宗教間の対立は、ほとんどが意図的に引き起こされたものだ。

ルワンダでは、植民者ベルギーが来るまでは、フツ族もツチ族も存在しなかった。ベルギーが勝手な基準を設けてふたつの民族に区分し、支配に都合の良い”民族対立”の構造を作った。ルワンダでの大虐殺も意図的に扇動されたものだ。

フセイン時代のイラクには、シーア派とスンニ派の対立などなかった。互いに隣人として共存していた。しかし、アメリカによるイラク占領政策が失敗の兆しを見せはじめた頃、突然両派の対立が発生した。明らかに誰かが意図的に対立を煽っている。このような例は、いくらでもでてくるはずだ。

対立というのは、簡単に捏造できる。ターゲットの民族や宗派を襲撃し、○○人(派)がやったと言えばいいだけだ。それを双方に対して繰り返せば、あとは自然に互いが恐怖し、憎悪し合う。そして衝突や殺戮に至る。とても簡単なことだ。そして、いったん対立構造が出来上がってしまえば、何十年あるいはもっと長期間、対立や憎悪は持続する。

今回の東ティモールでの、東部出身者と西部出身者の確執や対立も、意図的に捏造されたものだと、僕は考えている。

東ティモールでは、元併合派組織の幹部やメンバー、そして元民兵のメンバーでさえも無事に生活を営んでいる。もちろん、多少肩身は狭いが、住民から襲撃される不安などはない。僕は、そうした人たちに何人もインタビューしている。

したがって、東部と西部の確執が、殺戮にまで至るなど到底考えられない。

過去4ヶ月分のニュース翻訳を読んだが、東ティモールの日刊紙「ティモール・ポスト」にも「スアラ・ティモール・ロロサエ」にも”東西対立”に関する記事も特集もない。殺戮し合うほどの対立が存在するなら普通は特集記事を組むだろう。しかし、存在しなければ記事にしようがない。

地域間の確執は大なり小なり世界のどの社会にも存在する。
当然、東ティモールにも存在する。
それを過剰に拡大して宣伝している連中がいるのだ。
メディアは、それを垂れ流しているにすぎない。
東西対立は、意図的に仕組まれた対立であると見るべきだ。

その結果、オーストラリア軍が東ティモールの治安維持を掌握した。

99年9月の再来

2006年05月30日 16時26分47秒 | ■東ティモール暴動
いま、東ティモールでは、シャナナ・グスマン大統領とラモス・ホルタ外務大臣らが、マリ・アルカテリ首相の罷免の可能性を検討しているようだ。

アルカテリ首相は、議会で圧倒的多数の与党フレテリンの書記長である。権力は彼一人に集中していた。したがって、首相は独断でほとんどのことを決定することできた。そのため、野党はもとより、フレテリン党の内部でも反感を持つものは少なくなかった。国民からの信頼も非常に薄い。

過去の大きな暴動(2002年12月)では、マリ・アルカテリ首相の邸宅が焼き討ちに遭っている。このときの暴動は、些細な事件をきっかけとして自然発生したということになっている。しかし反アルカテリ派のフレテリン党のメンバーが陰で扇動したという証言もあった。与党フレテリン党の反首相派は武装クーデターの準備さえしているとも。2003年の取材でそのようなことを耳にした。

東ティモールには、2000年あたりからすでに強力な反政府勢力が結成されていた。反政府勢力は年々勢いを増し、新たな組織も次々と結成されていった。CPD-RDTL(東ティモール民主共和国防衛人民評議会)やコリマウ2000が代表的だ。それから旧独立派ゲリラ・ファリンティルの一部も反政府勢力を形成している。東ティモールでは、インドネシアの支配から脱し、これから「国づくり」がはじまろうというときに、すでに反政府勢力が存在した。

CPDは全国規模の活動を展開している。活動資金もそれなりに必要になる。地域住民を恐喝してカネを巻きあげるということも行われているが、貧しい東ティモールでは、それもしれた額のはずだ。どこからか活動資金が入ってこない限り、全国規模の組織を維持することはできないだろう。ほとんど産業のない東ティモールに、CPDを含めすべての反政府勢力の活動資金をまかなうほどの余剰資金があるとは思えない。それは、外から来ていると見るのが妥当だ。

反政府勢力を維持し、いつでも東ティモールを混乱の中に放り込めるようにしておきたい誰かがいるような気がする。東ティモールが混乱して誰が得をするのだろうか。

ティモール・ロロサエ情報●ニュース 2004年4月13・14日
豪の諜報担当中佐ランス・コリンズが、豪のハワード首相に豪の諜報体制とその中での政治力学について公平な第三者の調査を行うよう求めた。首相はそれを拒絶するもよう。コリンズ中佐は、豪首相に向けた手紙の中で、豪の諜報の失敗としては、「イラクの大量破壊器・・・バリ島爆破警告、ソロモン島での秩序混乱・・・東
チモール独立時・・・」などなどをあげている。

 コリンズ中佐は、1998年7月の時点で、インドネシア軍が民兵の暴力に資金提供しているという評価報告を提出しており、その後も、東チモール住民投票の際に虐殺が起きると警告していた。

彼は上官から1998年末にインドネシア政府との政策関係を理解していないと訓戒を受けていた。豪は当時インドネシアによる東チモール不法占領を支持していた。99年の暴力を機会にコリンズ中佐は2000年、当時の豪国防相ジョン・ムーアに手紙を書き、豪軍内の上層にいるジャカルタ・ロビーが彼の諜報を差し止めていると述べた。コリンズはコスグローブ司令官のもとで5カ月東チモールに勤務したが、豪に帰国後、警察が2001年8月に彼の名を捜索対象者リストに挙げていたことが発覚。それにより彼は免職となった。その後、昨年末に発表された調査報告でコリンズ中佐の名誉は回復されたが、彼の復職は実現していない(SMH/AFP, Apr 13)。
http://www.asahi-net.or.jp/~gc9n-tkhs/news64.html

1998年のコリンズ中佐の分析は、的中している。
1999年9月4日、住民投票の結果が発表された30分後には、ディリの街に銃声が轟きはじめた。国連とメディアの大部分はチャーター機で東ティモールを脱出した。そのあと、東ティモール全土で破壊と虐殺が巻き起こった。死者は、2週間で1000とも3000とも10000とも言われている。いまだに正確な数字は公表されていない。

豪政府は、事前にこの虐殺発生の可能性を知りつつ意図的に無視したようだ。

しかし、不思議なことに、虐殺が発生すると豪政府は”オーストラリア軍はいつでも虐殺を阻止するために出動できる”と国連をせかした。2週間後、国連の決議が出るとすぐに豪軍は東ティモールに上陸した。豪軍は、またたくまに虐殺の主体となっていたインドネシア国軍、警察、併合派民兵を西ティモールへ追いやった。

後の取材で、豪軍とインドネシア国軍とがいっしょにディリの街をパトロールしていたという証言を得た。破壊と虐殺の主体となっていたのは明らかにインドネシア国軍だ。しかし、豪軍とインドネシア国軍とは緊張感もなく、共に行動していたのだ。豪軍が、インドネシア国軍、警察、民兵と戦闘をしたという報告もなかった。豪軍によって少数の民兵が逮捕されたくらいだ。虐殺と焦土作戦があったことがウソのように、混乱もなく事態は収拾された。豪政府とインドネシア政府とは、あらかじめ合議ができていたかのようだ。

今回の、東ティモールでの暴動と、その後の豪軍の登場は、まるで99年9月の再来のように感じる。
何もかもが、うまくできすぎてはいないか。

権力に酔ったマリ・アルカテリ首相の運命は決まった。
今後は、オーストラリアとうまくやっていく政府ができるだろう。
しかし、ティモール海の石油は東ティモール国民を潤すことは、ついになくなるだろう。

暴徒に焼き払われたマリ・アルカテリ首相邸:ディリ

石油のためなら国際法も無視

2006年05月29日 16時16分13秒 | ■東ティモール暴動
ティモール海の石油をめぐるオーストラリアの歴史的動きを簡単に見ておきたい。

地図:The La'o Hamutuk HPより
http://www.laohamutuk.org/Bulletin/2003/Aug/bulletinv4n34.html

1972年、インドネシアとオーストラリアは、両国の海底領域を当時の原則である大陸棚で画定した(地図、赤線)。しかし、東ティモールの宗主国ポルトガルはこれを拒否。この部分が空白になり、ここに「ティモール・ギャップ」が生まれた。(地図、黄色の区間)

1975年にポルトガルが東ティモールを手放すと、インドネシアは東ティモールを武力占領。このときオーストラリアの関心は「ティモール・ギャップ」の解決だった。

ジャカルタ駐在のオーストラリア大使、リチャード・ウールコットが本国に送った密電の内容が後に明らかにされている。「領海線に関して残っている『ギャップ』を埋める」合意に達するには、「ポルトガルや独立後の東ティモールよりもインドネシアを相手とする方が容易と思われる」。
http://www.diplo.jp/articles04/0411-3.html

かくして、オーストラリア政府は、インドネシアによる不法な東ティモール武力支配を24年間容認することになる。

1989年、72年の大陸棚条約を基にして、オーストラリアはインドネシアと「ティモール・ギャップ条約」を調印。ティモール・ギャップに共同開発地域(ZOC:地図、赤い網部分)を設け、資源を折半にすることを決めた。

1994年、石油発見。インドネシアとオーストラリアによる石油の採掘が開始。インドネシアによる東ティモール支配が不法である以上、これはインドネシアとオーストラリアによる「盗掘」であり「略奪行為」である。

1999年、東ティモールで住民投票。24年におよぶインドネシアの武力支配から開放され、国連による暫定統治がはじまる。

2000年、国連東ティモール暫定統治機構とオーストラリアの間で石油開発で合意がなされる。89年の「ティモール・ギャップ条約」はそのまま継承された。ただし、ZOCはJPDA(合同石油開発)と改名され、資源の分配は東ティモール90%、オーストラリア10%と決められた。しかし、この分配の数字はあくまでJPDA区域に限られている。地図を見れば歴然としているが、青い斜線の部分にも資源がある。実は、青い部分の方が資源は圧倒的に多いのだ。

JPDA区域にある資源は、ティモール海全体の20%に過ぎない。東ティモールはこの20%のうちの90%を得るだけだ。つまり、ティモール海の資源全体のたった18%に過ぎない。

しかし、ティモール海の資源は国際法に照らせば、100%すべてが東ティモールのものになる。それを国連とオーストラリアは18%にしてしまったのだ。

国連海洋法条約(UNCLOS、94年発効)によると、2国間の距離が400海里に満たない場合は、その中間線が領海線とされる。地図の青い点線が両国の領海線だ。そうすると、資源はすべて東ティモール領海にあることが誰にでも分るはずだ。ティモール海の資源は100%東ティモールのものなのだ。それが、18%しか与えられないというのは、国際的な詐欺としか言いようがない。そのような詐欺が、2000年に国連とオーストラリアによって合意されたのだ。

東ティモール側が、国際司法裁判所に提訴する姿勢を見せると、なんとオーストラリア政府は、国際司法裁判所の管轄から脱退してしまった(2002年3月)。国際海洋法裁判所での審判も拒否。オーストラリアによるこの暴挙に対して、国際社会は見て見ぬフリを決め込んだ。

2002年5月、東ティモールは正式に主権を回復(独立)する。21世紀最初の国家となった。

オーストラリアは、東ティモールとの間で領海を画定しないまま、現在でも石油採掘を続けている(ラミナリア・コラリナ油田)。つまり東ティモールの石油を「盗掘」し続けている。その額はすでに10億ドルとも言われている。




チモール海油田・天然ガス田の見取り図
http://www.asahi-net.or.jp/~gc9n-tkhs/lao35.html#oil
オーストラリアに横取りされる東ティモールの石油資源
http://www.diplo.jp/articles04/0411-3.html

続・東ティモールと石油

2006年05月27日 23時02分59秒 | ■東ティモール暴動
国際社会は24年間も、インドネシアによる東ティモールの武力占領を容認してきた。
それがなぜ、1999年に手のひらを返して東ティモールの「独立」を支援したのか。
まず、その理由を知る必要がある。


1998年にインドネシアで大事件が起こった。32年間続いたスハルト独裁体制が終焉したのだ。スハルト大統領は、アメリカのバックアップによって長期独裁を維持してきた。しかし32年間の絶対的独裁によってスハルトは、信じ難い傲慢な人間になったようだ。彼は自分をアメリカと対等の存在と思い込んだのだろう。

97年のアジア通貨危機に際して、IMF(国際通貨基金)はインドネシアに緊急融資を行ったのだが、このときの融資条件をスハルトは一向に実行する気配がなかった。スハルトの違反行為を諌めるため、98年に、フィッシャーIMF副専務理事(当時)、ラリー・サマーズ米財務副長官(当時)、モンデール元副大統領という豪華メンバーがジャカルタにやってきた。

ワシントンの大物たちは、スハルトに対して高圧的な態度でIMFの融資条件を実行するよう要求した。しかし、高慢な独裁者スハルトは、相手の高圧的な態度に激怒して、会談を途中で打ち切ってしまった。

そして数ヵ月後、インドネシア全土は暴動と破壊に呑み込まれた。暴動発生から、たった1週間後にスハルト大統領は辞任した。32年におよんだ独裁体制があっけなく幕を閉じた。しかし暴動がいかに激しかったとはいえ、たったの1週間でスハルトが辞任を決断したのは少々不自然だ。

この暴動は、実は自然発生したものではなかったと見られている。暴動によって華人系ビジネスだけが徹底的に襲撃破壊された。そのため華人資本はインドネシアから逃避してしまった。スハルト政権を支えている経済基盤が失われたのだ。メディアは、”経済を支配する裕福な華人への嫉妬と不満”という報道で満足していたが、それはステレオタイプの報道にすぎない。華人への襲撃は、非常に組織だっていたといわれている。ワシントンの高笑いが聞こえてきそうである。スハルトに選択の余地は残されていなかった。

スハルト辞任後、副大統領のハビビが大統領に就任した。そしてハビビは就任後まもなく唐突に東ティモールの「独立」を容認する発言を行った。このタイミングから言って、ハビビの発言には外的な力が働いていると見るべきだ。

スハルトが失脚したのは、IMFの権威を無視したためだ。つまりIMFはスハルトに勝利したわけだ。勝利した以上、IMFはインドネシア政府を自由に操れる。ハビビ大統領の発言には、IMFや世界銀行、そしてその背後に控える米財務省や国際金融資本などの意向が強く反映されていると見るべきだ。

ハビビの発言以降、東ティモールの「独立」に一番熱心だったのは誰か。

オーストラリアだ。
24年間、インドネシアによる東ティモールへの武力支配を支持し続けてきたオーストラリアだ。オーストラリア政府は、99年に突然「人道」に目覚めたのだろうか。その後オーストラリアは、米英軍と共にイラクに戦闘部隊を派遣している。人道に目覚めたようには見えない。

結局のところ、オーストラリア政府が24年間インドネシアの東ティモール支配を支持してきたのも、1999年に手のひらを返して東ティモールの「独立」を支援したのも、すべてはティモール海の石油のためだ。98年にスハルトが失脚したため、オーストラリア政府はこの機会に、インドネシア政府に東ティモールを手放すよう要求したと考えられる。

そして今回、東ティモールの治安回復のためにオーストラリアが軍隊を派遣したのも、決して「人道」のためではない。やはり石油のためだ。東ティモールの治安維持の実権を握り、東ティモール政府への発言権を強めるためだ。なぜなら、99年以降、オーストラリア政府と東ティモール政府は、石油権益でもめにもめているからだ。その東ティモールの治安維持を担当するということは、相手の首根っこをつかんだようなものだ。


オーストラリア政府にとって、東ティモールは常に不安定な方が好都合なのだ。


99年11月 ディリ港に停泊するオーストラリア軍艦船

東ティモールと石油

2006年05月26日 19時55分16秒 | ■東ティモール暴動
東ティモールという、人口たった80万人ほどの小さな島は、なぜ24年間(1975年~99年)もインドネシアに武力占領されたのだろうか。そして2002年の主権回復(独立)後もなぜ安定することがないのだろうか。

それは、石油があるからだ。
それ以外の理由はない。

東ティモールは16世紀から1975年までポルトガルの植民地だった。しかし、1974年にポルトガル本国で革命が起こったのを機に、東ティモールでも独立運動が生まれた。

1975年、ポルトガル政府は「東ティモールの非植民地化」を発布。これで東ティモールは独立をするはずだった。しかし、同年、インドネシア軍が東ティモールに侵攻し、武力支配した。

国連安保理は、再三にわたってインドネシアを非難する決議を採択するが、オーストラリアをはじめ日米欧などによって常に否決されてきた。つまり、インドネシアの不当な武力支配が、国際社会から支持され続けたのだ。

なぜならインドネシアは国土も広く、2億人という人口を抱える大国であり、地政学的な要衝でもある。周辺諸国にとっては無視できない存在なのだ。特に日本にとっては、マラッカ海峡は中東の石油を運ぶ重要なルートである。米軍の艦船にとってもこの海域は重要である。アメリカは一貫して独裁者スハルトに軍事援助を与えてきた。オーストラリアは、隣国と友好的関係を保つことが安全保障上必要である。オーストラリアは「東ティモール併合」を正式に承認さえした(1979年)。

24年間、国際社会はインドネシアによる東ティモールでの占領や虐殺に目をつぶりつづけてきた。その結果、20万ともいわれる人々の命が奪われた。(この数字には飢饉による餓死者も含まれるが、飢饉もインドネシアの占領によって間接的に引き起こされた)

この非情というべき国際社会が、1999年になって、なぜか東ティモールの「独立」を支援することになった。国際社会は突然「人道」に目覚めたのだろうか。

そんなことはあり得ない。国際社会が「人道」を声高に叫ぶとき、必ず「非人道的行為」が行われる。旧ユーゴ爆撃、アフガニスタン爆撃、イラク爆撃の前にどれだけ「人道」が叫ばれたか。

国際社会は、なぜ突然「人道」を叫び、東ティモールの「独立」を支援したのか。
それはひとえに、ティモール海に石油と天然ガスがあるからだ。
国際社会が「人道」を叫ぶとき、たいていそこに石油がある。

99年11月東ティモール 破壊と虐殺後のディリ市内をパトロールするオーストラリア軍兵士



東ティモールはなぜ安定しないのか

2006年05月25日 23時45分38秒 | ■東ティモール暴動
今日、東ティモール政府の要請を受けて、オーストラリア軍の部隊が東ティモールに到着した。目的は、東ティモールの治安回復。

東ティモールでは、先月末から不穏な状況が続いていた。待遇改善を求めたために免職された兵士約591人が激しい抗議行動をおこしていた。デモ隊と警官隊が衝突して死者もでている。反乱兵士は山にこもり、政府軍と散発的に戦闘を繰り返してきた。他の反政府組織もこの機会に乗じて活動を活発化させ、首都ディリや地方都市で騒乱を起こしているようだ。

暴動は過去にも何度かあり、それほど気にしていなかったのだが、外国部隊の派兵が必要なほど悪化しているとは思わなかった。

東ティモールは、21世紀になって最初に誕生した国家で、人口は約80万人、国土は四国の半分ほどの大きさだ。24年におよぶインドネシアの占領に終止符を打ち、2002年5月に、主権を回復(独立)した。2005年5月には、国連のPKF部隊も撤退し、国際社会の庇護からも自立しはじめたところだった。

しかし、国連・PKFが去れば、反乱が起こるだろうというのは、東ティモールでビジネスをしている外国企業にとっては、ほぼ常識だった。外国企業は、反乱や反政府活動の兆候に常に神経を尖らせていた。

今回の、兵士による「反乱」、そして外国部隊(オーストラリア)の派兵は、東ティモールの政治を根底から変えてしまうかもしれない。他国の軍隊がいなければ治安も維持できない国は、自立した独立国家とは言えない。そして、それはオーストラリア政府にとっては実に都合のよい状態だ。

いままで難航し続けていたティモール海の石油交渉において、オーストラリアに有利になることは間違いない。
できすぎてはいないだろうか。
今後の成り行きに注目する必要がある。


東ティモール騒乱 外国部隊が相次ぎ到着
http://www.sankei.co.jp/news/060525/kok110.htm
東ティモール騒乱激化、豪など4カ国に軍派遣要請
http://www.asahi.com/international/update/0525/001.html

米イージス艦、ついに宿毛に入港

2006年05月24日 17時04分48秒 | □イージス艦宿毛寄港
イージス駆逐艦ラッセルが、今日、宿毛湾に入港した。埠頭には有刺鉄線が張りめぐらされ、寄港に反対する人々は、イージス艦から遠く閉め出された。

宿毛では、少しでも地元が潤うなら、という声が多いようだ。しかし、それは甘すぎる考えだ。宿毛が潤うことは決してない。

イージス艦によって潤うのは地元ではない。落ちるおカネの大部分は、地元を素通りして大都市の企業や業者のところへ流れる。在日米軍と日本の業者というのは、すでにパイプが出来上がっており、米軍の行くところにはこうした業者がついてくる。地元には、おこぼれ程度しか落ちない。

高知新聞でも、このことは触れられている。さらりと書いてあるが、こういう記載が最も重要なのだ。

宿毛の海事代理業者は、宿毛湾港に足場を置いている。後に分かるのだが、米海軍はこうした地方の業者と直接は契約しない。米海軍艦船の入港を引き受けているのは横浜市にある「大興産業」。社長を含む数人は自衛官出身者だ。
http://www.kochinews.co.jp/rensai06/06aegis02.htm

米海軍の艦船のめんどうをみるという特殊な仕事は、こうした専門の企業に独占されており、地元はその下請けか孫請けとして使われるだけだ。地方経済の疲弊をいいことに、相当足元を見られることになるだろう。安易に歓迎する前に、どういう仕組みになっているのかを十分調査する必要がある。

国連やPKFのミッションなどでも、同じようなことが起こっている。ミッションには必ず欧米の業者がついて来る。こうした業者によって食材から機材まであらゆる物資の納入がおこなわれる。国連やPKFに納入する物資には、レギュレーションで品質が規定されている。地元の食材や産品は間違いなく不適格とされる。業者は輸入食材や物資を納入する。

ミッションがあらかじめ長期とわかっている場合は、外資系のホテルやスーパーマーケット、レンタカーの会社が次々とオープンしたりもする。そしてミッションの終了と共に企業も業者も撤退して行く。結局、国連が落した莫大なおカネは、こうした企業群が持ってでていくのだ。地元にはほとんど何も残らない。

確かに一定の雇用が生まれ、一定のおカネは地元に落ちる。しかし、それで潤っているのは、ごく少数の人に過ぎない。地元が潤っているわけではない。

米軍が宿毛にきても、これと同じことが起こるだけだ。
米軍の経済効果など幻に過ぎない。
大都市の企業が米軍の落すおカネの大部分を持ってでていく。
得るものよりも、失うものの方がはるかに大きいはずだ。



イージス艦入港を伝える高知新聞
http://www.kochinews.co.jp/0605/060524evening01.htm#shimen1
http://www.kochinews.co.jp/0605/060524evening02.htm#shimen2
高知新聞特集記事
http://www.kochinews.co.jp/rensai06/06aegisfr.htm

米イージス艦は宿毛寄港をなぜ延期したか

2006年05月23日 13時50分34秒 | □イージス艦宿毛寄港
今日、23日に予定されていた米イージス艦ラッセルの宿毛(すくも)湾寄港が、明日24日に延期された。この一日の延期が意味するものは非常に大きい。

駐大阪・神戸米国総領事館フィリップ・カミングス領事は、
「運航上の問題で遅れている、とのことだった。あくまで船のことで、日本側の事情によるものではない」
「こうした入港遅れはままある」
と、コメントしている。
http://www.kochinews.co.jp/0605/060523headline01.htm#shimen1

年間約40兆円の軍事費を使う、世界一整備された軍隊には、それほど運行上の問題が起こるとは考えにくい。シンガポール~宿毛間の洋上は、悪天候でもなく、敵もいない。イージス艦ラッセルの宿毛寄港は、意図的に一日ずらされたと見るべきだろう。

宿毛市では、イージスを歓迎する声の方が多い。経済的に疲弊した地方としては、たとえ外国艦船であっても、少しでもおカネを落してくれるものはありがいたい。それほど地方の経済というのは疲弊し切っている。

しかし、イージス艦寄港の目的を懸念する人々も存在する。京都にいては、現地でどれほどの反対運動が展開されているのはわからない。しかし、現在宿毛入りしているカミングス領事は、反対運動は予想以上と認識しているのではないだろうか。状況を本国に報告した結果、ラッセルの寄港が一日延期されたに違いない。

一日ずらすのは反対運動に「肩透かし」を食らわすためだ。反対の声は、イージス艦寄港が発表された8日からすでに起こっている。その声は徐々に盛り上がり、そして23日に最高潮に達する。盛り上がった声の中に飛び込むのはあまり得策ではない。

そこで「ガス抜き」のために寄港をわざと一日ずらす。すこぶる単純な手法だが、実は非常に効果的だ。一度萎んだ気分をもう一度盛り上げるのはとても難しい。さらに一日延期すると、より効果的だ。そしてもう一日延期すると、ほぼ完璧だ。人間、待たされることほど、気分の萎えるものはない。

しかし逆に言えば、米国側は、宿毛の反対運動に少なからず脅威を感じていることを物語っている。たいした反対運動でなければ、ラッセルは予定通り、今日、宿毛湾にその姿を現しているはずだ。

もし米軍が宿毛の基地化を画策しているとしたら、すでに大きな後退を余儀なくされていることになる。
この一日の延期が意味するものは非常に大きい。


高知新聞電子版
http://www.kochinews.co.jp/

写真 : 学校

2006年05月21日 20時53分14秒 | ●パキスタン地震
ムザファラバード・パキスタン


被災地ムザファラバードの学校は、
ほとんどがテント、もしくは青空だったが、
わずかながら、建物を利用した学校もあった。
ドアも窓も開け放たれていたのは、
避難のためだったのだろう。

特殊指定にしがみつく新聞業界

2006年05月20日 22時32分03秒 | ■メディア・リテラシー
新聞の特殊指定、存続で一致 自民独禁法調査会
2006年05月18日01時20分
 自民党の独禁法調査会(保岡興治会長)は17日、公正取引委員会が検討している新聞の特殊指定の廃止に反対することで一致、保岡会長らが特殊指定存続に向け公取委側と協議に入ることを決めた。
http://www.asahi.com/politics/update/0518/002.html

このニュースの全文を読んでも、おそらく何のことかさっぱり分らないと思う。
特殊指定?再販制度?
新聞業界というのは、この二つの法律の規定で、50年間完璧に競争から守られてきた。

新聞特殊指定 1964年(昭和三十九年公正取引委員会告示第十四号)

第1項:新聞発行本社が行う地域又は相手方により異なる定価設定や値引行為を禁止。ただし,学校教育教材用や大量一括購入者向けなどの合理的な理由がある場合は例外として許容。

第2項:販売店が行う地域又は相手方による値引行為を禁止。(第1項のような例外は存在しない。)

第3項:発行本社による販売店への押し紙行為(注文部数を超えて供給すること及び自己が指示する部数を注文させること)を禁止。
http://www.jftc.go.jp/tokusyusitei/siryou060327.pdf


再販制度(再販売価格維持制度:独占禁止法第23条 1953年)

再販制度(再販売価格維持制度)とは、いわゆる「定価販売」を義務付ける法律の事です。新聞・書籍・雑誌・音楽CD・音楽テープ・レコードの6品目の商品は、著作権保護の観点から再販価格制度に指定されており、定価販売が義務付けられています。出版社側(メーカー)がそれぞれの出版物の小売価格(定価)を指定して、書店などの販売業者が指定価格通りに販売することを義務付ける制度です。
http://homepage3.nifty.com/bom-money/houritu/index.html


この二つの法令は、同じことを別表現で述べているにすぎない。特殊指定は「値引きの禁止」、再販制度は「定価販売の義務」だ。新聞販売というのは、独占禁止法の定める二つの法律によって、全国一律の定価販売を保証された。その定価を決めるのはもちろん新聞業界だ。つまり、新聞業界というのは、この50年間「談合」が許されてきたようなものなのだ。

しかし、この二つの法律は、決して談合を許してはいない。また様々な価格設定を禁じているわけでもない。長期割引や学生割引があってもいいということなのだ。にもかかわらず、三大紙はたったひとつの価格帯しかない。しかも三大紙の価格が一桁の単位まで同じだ。新聞業界は、都合の良いように勝手に法律を拡大解釈して事実上の「談合」を行ってきた。法律はそこまで許したわけではない。

競争があっても消費者不在の業界は多い。競争のない業界はもっと堕落する。いま、公正取引委員会は、「特殊指定」を撤廃して、資本主義の基本である競争を新聞業界にも求めている。

しかし、新聞業界は猛烈に反発している。言論の自由が脅かされるとか、宅配制度が崩壊するなど。言論の自由を蹂躙しているのは新聞業界そのものだ。大本営発表しか流さないのだから。宅配制度は、とっくのむかしに制度疲労をおこしている。新聞業界は、50年も守られてきたから、いまさら一人立ちする自信がないのだろう。経営努力をする必要がないぬくぬくした制度にしがみつきたいのだ。

他業界は激しい競争に晒されているにもかかわらず、新聞業界は50年間守られてきた。結局のところ、こうした制度が新聞業界と政府の癒着につながった。新聞業界は、既得権益を維持するために、常に政府のご機嫌をうかがい、大本営発表を垂れ流してきた。現在も新聞は小泉政権の応援団でしかない。それによって国民が不利益を被ってきたことは言うまでもない。

しかし、政府に忠実なこんな新聞業界に対して、なぜ政府機関である公取委が「特殊指定」撤廃に取り組んでいるのだろうか。少し不可解である。新聞業界は、小泉政権からご褒美をもらってもいいくらいの大活躍をしてきたはずだが。

公取委は、2003年に総務省から内閣府へ移っている。これはアメリカ政府の「年次改革要望書」に記載されていた。小泉首相はそれを忠実に実行した。公取委は、防衛庁、金融庁、国家公安委員会と並ぶ最重要機関に昇格した。公取委の意向とはすなわち、内閣の意向である。

これまでのところ、新聞業界というのは、非常に政府に協力的であった。しかし、今年に入って新聞業界は小泉首相が凋落傾向と読んだのかもしれない。今年2月に朝日新聞論説主幹・若宮啓文と読売新聞主筆・渡辺恒雄による対談が行われ(『朝日・読売の論説トップが批判 小泉靖国外交の危険な中身』)、両者は小泉首相の政策を正面切って批判したようだ。

「しかし、小泉という人は、ご存知のように、自分にさからう人間は、絶対に許さないというタイプの人ですから、この対談の論調に大反発したわけです。」
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/060216_gaiko/index1.html
内閣府直属の公取委による「新聞の特殊指定撤廃案」というのは、小泉首相から新聞業界への熱いメッセージなのだろう。いま、メディアが「共謀罪」に対して腰の引けた報道しかしていないのも納得だ。結局のところ、国民不在の内閣と国民不在の新聞業界との内輪もめというところだ。政府は、公取委を使っていつでも新聞業界を揺さぶることができるということだ。

そもそもこんな腐った優遇措置にいつまでもしがみつくような新聞業界には未来はないだろう。


特殊指定の見直しについて(公取委HP)
http://www.jftc.go.jp/tokusyusitei/index.html
公取委委員長に対する新聞側のインタビュー
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/shinbun/news/20060425ddm012040140000c.html
再販制度の存続を訴える新聞労連
http://www.shinbunroren.or.jp/hanbai/hanbai.htm

米イージス艦はなぜ高知をめざすのか

2006年05月18日 23時45分59秒 | □イージス艦宿毛寄港
イージス艦宿毛寄港打診 県が核の有無照会中
 米海軍が核兵器の搭載も可能なイージス艦の宿毛湾港への寄港を県に打診していることが、8日までに分かった。予定では今月23日から4日間停泊。県は県議会の決議を基に、核搭載の有無を日米両政府に文書で照会中。橋本大二郎知事は9日に今後の対応を検討する方針だが、橋本県政は平成11年の県議会2月定例会で外国艦船が核兵器を搭載していないことを外務省に証明するよう求める「非核港湾」の条例化を目指した経緯(継続審査の末に廃案)があり、判断が注目される。
2006年05月09日
http://www.kochinews.co.jp/0605/060509headline01.htm#shimen1

全国ネットではほとんど報じられていないが、アメリカのイージス艦が高知県宿毛(すくも)湾にやってくる。戦後、高知には外国艦船が寄港したことはない。それが今なぜ突然、宿毛にイージス艦が立ち寄ることになったのか。公式には「親善と休養」ということになっているが、そんなものを額面どおりに受け取れるわけがない。

米国防総省は意味のないことは絶対にしない。あらゆる行動には理由がある。シンガポールからハワイに帰るだけなのに、わざわざ宿毛で休養をとる必要があるとは思えない。それとも、海軍兵士はそんなにヤワなのか。

1997年、高知県議会は「県の港湾における非核平和利用に関する決議」を全会一致で可決し、県内のすべての港で非核三原則を守ると宣言した。つづいて1999年、橋本知事は、「非核神戸方式」を県議会に提案した。これは、外国艦船入港時に非核証明書の提出を義務づけるものだ。

しかし、高知県のこうした動きに対して、外務省は猛反発した。「外国軍艦の寄港を認めるか否かは国の事務。地方自治体が関与、制約することは許されない」との見解を示した。当時の小渕恵三首相も橋本知事の動きを批判した。橋本知事の「非核神戸方式」は廃案となった。
http://mytown.asahi.com/kochi/news.php?k_id=40000000605100003

その頃、宿毛湾では、池島地区と呼ばれる広大な地区が埋立中だった。1993年に着手され、2001年頃にはほぼ完成している。この広大なエリアはいったい何のために埋め立てられたのだろうか。この岸壁は水深が約13メートルもある。かなりの大型船の停泊を想定して設計されたということだ。しかし、大型船による商業航路の予定はいまのところない。おそらく今後もないだろう。産業がないのだから。

池島地区の埋め立てが完成する頃に、外務省が高知県の「非核神戸方式」を叩き潰したのは、単なる偶然なのだろうか。

宿毛湾には、大戦中、日本海軍の訓練泊地があった。戦艦長門を旗艦とする連合艦隊が訓練の合間に休息した港だった。宿毛湾は、深く切れ込み、水深も深く軍港にはたいへん適している。日本には数少ない天然の軍港と言えるかもしれない。

一連の流れから見ると、国は宿毛湾を米海軍の基地として差し出すつもりであると考えるのが妥当だろう。水深13メートルの岸壁を持つ広大な池島地区が、地方切り捨て政策で疲弊する人口2万の都市に必要とは思えない。イージス艦”ラッセル”は、将来の基地の下見に来るのだろう。

米国防総省は、米軍再編費用は3兆円などと気軽におっしゃる。
米軍再編といっても、気がついたら基地が増えているということになりかねない。
しかも、われわれの税金を何兆円も使ってだ。
これ以上日本に米軍基地を造らせるわけにはいかない。
宿毛以外にも、われわれの知らないところでこうした動きが進行しているのかもしれない。


宿毛湾港 航空写真
http://www.pa.skr.mlit.go.jp/kouchi/A/A13.html
高知新聞電子版
http://www.kochinews.co.jp/

崩壊寸前の新聞ビジネス

2006年05月17日 22時55分05秒 | ■メディア・リテラシー
「新聞読む」「戸別配達支持」9割超 日本新聞協会調査
 日本新聞協会が新聞、テレビ、ラジオ、雑誌、インターネットの主要五メディアへの接触状況や評価を調べたところ、92・5%の人が新聞を読んでおり、多メディア時代にも新聞が引き続き高い評価を受けていることが分かった。
http://www.sankei.co.jp/news/060517/sha044.htm

この数字だけを見ると、新聞は高い支持を受けているように見える。しかし、同じ日本新聞協会のデータを元にして購読率を出すと次のようになる。

1993年---1.06部
2000年---1.00部
2005年---0.93部     購読率=発行部数÷世帯数http://www.pressnet.or.jp/

確実に購読率は低下している。しかも、”無料購読1年”とか、様々な”景品”、あるいは押し売りまがいの強引な営業を行って、なおかつ購読率は下降している。普通に営業していれば、購読率はもっと下がっているはずだ。

じりじりと購読率は下がっており、2012年には1世帯当たり0.8部になると推計されています。(中略)
これが0.6部や0.7部に落ちると、販売網を維持できなくなります。

新聞社が宅配から上げている年間販売収入は約1兆7500億円。ここから販売店に配達料6500億円と拡張補助金として1500億円が戻される。つまり、8000億円が店の取り分であり、新聞社は9500億円を得る。実に売上げの4割以上が新聞の出前費用に使われているのです。
部数が落ちるとこのようにカネをかけたビジネスモデルは壊れるしかない。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/interview/64/02.html

このまま購読率が低下して行けば、いつか必ず新聞ビジネスは崩壊するということだ。20代の新聞購読率はこの10年で30ポイントも低下している。少子化も進んでいる。日本の新聞ビジネスというのは制度的に完全に行き詰っている。100年前にできた制度をいまだに使っているのだ。新聞業界は根本的な解決を模索するよりも、崩壊確実な古い制度にしがみつこうとしているようだ。日本の新聞業界の知的状況とはこの程度だ。

新聞業界は、自らの業界に対しては決して「自由競争」を持ち込もうとはしない。価格競争はなく、値上げも値上げ幅も各社同列。これをカルテルというのではなかったか。「再販制度」にしがみつく新聞業界の姿は醜悪というしかない。新聞には、他業界の談合やカルテルを紙面で批判する資格はない。

しかし、新聞購読数の減少の本当の原因は制度疲労ではないと思う。結局、新聞とは大本営発表のための存在でしかない。そんな新聞を誰が読みたいと思うだろうか。新聞業界は「共謀罪」のような国民の基本的権利を侵害するような法律を、本気で取り上げようとはしない。こんな新聞は、制度疲労をおこす前に読者に葬り去られるだろう。

ネットの情報というのは玉石混交だが、必要とする情報はたいてい手に入る。玉石混交なだけに、誰もがネットの情報には注意深く接する。そこがいいのだ。真贋を見極める眼が養われる。

ネットの情報に接するような姿勢で、新聞の情報にも接するべきだ。
新聞が消えてなくなる日までは。

コソボ紛争と石油の関係

2006年05月15日 23時00分06秒 | ■メディア・リテラシー
ミロシェビッチ元ユーゴ大統領、自然死と断定

 【ベルリン=黒沢潤】オランダの検察当局は(4月)5日、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(オランダ・ハーグ)の拘置所内で先月11日に死亡したミロシェビッチ元ユーゴ大統領の死因について、毒殺などではなく、「自然死」だったとする結論をまとめ、捜査を終了した。(04/06 08:15)
http://www.sankei.co.jp/news/060406/kok029.htm

ミロシェビッチ元ユーゴスラビア大統領は、大量虐殺や人道に対する罪で国際法廷で訴追されていた。そのミロシェビッチ元大統領が拘置所内で死亡したため多少憶測をよんでいた。しかし、彼の死因よりももっと重要な事実がある。

コソボ紛争とは何だったのか。
ユーゴ爆撃とは何だったのか。
その真相が明らかになる日はこないだろう。
しかし、ミロシェビッチが「民族浄化」の悪魔でないことだけは確かなようだ。

1999年3月24日、NATO軍は、旧ユーゴスラビアのセルビア人が、コソボのアルバニア人に対して「民族浄化」を行っているとして空爆を開始した。空爆は6月10日まで続き、民間人に大勢の犠牲者がでた。空爆は、「民族浄化」を止めるための人道的介入とされているが、はたして本当だろうか。


後年、欧州安全保障協力機構(OSCE)の国際政治専門家は、ドイツ政府の内部文書に以下のような記述を認めている。

「三月二十四日、NATOがユーゴスラヴィア空爆を開始、ベオグラードは、コソヴォのアルバニア系住民に対する暴力行為でこれに応酬する。だが、空爆が始まる以前、三月二十四日までのコソヴォでは、ユーゴスラヴィア警察によるアルバニア人への暴力行為がごく一部に見られただけであり、アルバニア人全体を対象とする『民族浄化』は存在しなかった」

p50

西側メディアは、(中略)セルビア人の脅威にさらされたアルバニア系被害者の数は何十万人にものぼると数字を挙げて解説する。戦後、コソヴォに入ったスペイン系法医学者グループが、コソヴォ紛争における死者の数は、国籍の区別なく集計して、全体で4000人程度だろうと発表している(後略)
p105
アンヌ・モレリ著『戦争プロパガンダ 10の法則』より

空爆以前に、「民族浄化」などはなかったのだ。存在しない理由でユーゴは空爆された。そう、ありもしない「大量破壊兵器」を口実にイラクが爆撃されたのとまったく同じだ。

西側メディアは、事実を曲げて、ミロシェビッチを「民族浄化」の悪魔にしたてあげた。そして、空爆への口実作りに全面協力した。おかげで、いまでもミロシェビッチは現代のヒットラーとして多くの人々の記憶に焼きついている。彼の死によって、それは正史として残るだろう。ミロシェビッチが善人だったとは言わない。しかし、それが空爆の理由にはならない。

NATO諸国はなぜ「民族浄化」をでっちあげて、ユーゴスラビアを空爆し、ミロシェビッチを失脚させたかったのか。その真相を探ることは難しそうだ。いまのところ、はっきりしたことは言えない。これからも、はっきりするかはわからない。

ただ、バルカン半島には、カスピ海の石油や天然ガスをアドリア海に運ぶパイプライン・ルートの構想がいくつもある。ちょうどコソボ上、あるいはコソボの近くを通るAMBOというパイプラインの計画もあった。AMBO計画にはエクソンモービルやシェヴロン・テキサコなどが参加していたが、後に撤退し計画は頓挫している。構想自体はいまも残っているようだ。アメリカの石油メジャーがバルカンのパイプラインルートを模索していたことは間違いない。NATO軍と言いながら、空爆の70%を米軍が担ったというのも納得できる。

石油メジャーにとっての重要課題は、カスピ海の豊富な石油をいかにして、積出港まで運ぶかだ。ひとつはアフガニスタンを経てパキスタンの積出港に至るルート。それから、トルコルート。そして、バルカンルートだ。石油メジャーはすべてのルートを手に入れたということだ。

メディアが、誰かを悪魔と呼ぶとき、たいていこういうカラクリがある。
ミロシェビッチ元大統領は、「民族浄化」の悪魔にされたまま獄中死してしまった。
そして、メディアは、これからも悪魔を生産し続けるだろう。

アメリカの庭先での荒波

2006年05月13日 18時41分40秒 | ■中南米カリブ
かつて、一年半という時間をかけて中米と南米を旅したことがある。
中南米の広大な自然の中に、外国企業が所有する見渡す限りのバナナ農園やコーヒー農園が広がっていた。
そこでわずかな賃金で重労働を強いられる大勢の人々。
コロニアル式の美しい街並みには、職にあぶれた若者が泥棒やかっぱらいを働いていた。
コロンビアではまんまと両替詐欺に遭って40ドルを失った。
パナマでは、米軍が激しい戦闘のすえマヌエル・ノリエガ将軍を逮捕し、アメリカへ連れ去った。
街には米軍の新型車両ハンビィーがわがもの顔で徘徊していた。
国家元首を勝手に逮捕連行していいのか?
いいのだろう。アメリカの庭なのだから。
中南米は、どうしようもない貧困と独裁と搾取の中にあった。
それは固定され永遠に続くように見えた。

「対テロ戦争」の名の下に、世界がアメリカに翻弄される中、いまアメリカの庭先では異変が起こっている。キューバのカストロ議長の戦いはすでに半世紀におよぶが、21世紀になってベネズエラのチャベス大統領が現れた。そして、いま新たにもう一人加わった。昨年12月の民主的選挙で勝利したボリビアのモラレス大統領だ。

モラレス大統領、天然ガス以外の事業も国営化を検討と
2006.05.12- CNN/AP
「過去500年以上続いてきた搾取を、終わらせねばならない。我々が求めているのはパートナーで、我々の天然資源を搾取する主人じゃない」「かつて、ボリビアには人がいないと思われていたが、昔から生活を続けている我々の土地だ。我々の領土と天然資源を守ろうとしているのだ。我が国の天然資源を取り戻し、貧困と闘っていく」
http://www.cnn.co.jp/business/CNN200605120034.html

5月1日、モラレス大統領は、天然ガス資源を国有化する政令を発表。外資系企業の天然ガス関連施設56カ所を軍によって占拠した。モラレス政権は、企業の取り分を18%とし、残り82%をボリビア政府のものとする新契約を提示。6カ月以内に新契約を結ばなければ、外国企業は国外退去しなければならない。対象となるのは、米、英、仏、スペイン、ブラジル、アルゼンチンなどの企業。

続く12日に、天然ガス以外の鉱物や森林などの天然資源についても、国有化を目指すと宣言した。モラレス大統領は、外国による経済支配を拒絶し、天然資源の国有化によって、貧困撲滅に向けて歩みはじめた。また、モラレス大統領は、ブッシュ政権の世界政策を痛烈に批判している。ブッシュはテロリストで、イラク戦争は国家テロだ、と。

このようなモラレス大統領に対して、
ブッシュ政権は、かねてからモラレスを「麻薬密売人」とののしっていたが、彼の(大統領選挙)勝利に対して嫌悪をあらわにしている。

 12月20日付け(2005年)の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、モラレス候補の勝利を「反帝国主義者がボリビア大統領に当選」というセンセーショナルな見出しで報じた。同紙は、これによってキューバのカストロ、ベネズエラのチャベスとともに西半球での反米トリオが結成される、と分析している。

同時にこれをもって、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、エクアドルなどと共に南米大陸3億6,500万の人口のうち3億人近くが左翼政権の下に住むことになった、と報じている。
http://www.jca.apc.org/~kitazawa/undercurrent/2006/bolivian_new_president_2006.htm

アメリカにとって、南米でのこうした動きは許しがたいことに間違いない。しかも、南米諸国は独自の路線を歩みつつも、その結束は強固だ。

モラレス大統領の天然ガス国有化宣言に対して、ブラジル、アルゼンチン政府は、最初は強く反発した。しかし、この宣言から数日後に、モラレス大統領は、ブラジル、アルゼンチン、ベネズエラの大統領と首脳会談を持った。会談は紛糾することなく、4時間後には、「天然ガス事業の国営化という、ボリビア大統領の決定を尊重する」という共同声明が発表された(5月5日)。

また、モラレス大統領は、チャベス大統領、カストロ議長と貿易協定「米州ボリバル代替構想」に調印し、アメリカが進める自由貿易地域構想を拒否した。そのほか、IMFをしりぞけ、南米内での独自の通貨基金の構想もある。

「対テロ戦争」に世界が呑み込まれつつあるこの時代に、アメリカの庭先では荒波がおこっている。
搾取からの開放と貧困の撲滅だ。
アメリカ政府にとるべき策はあるだろうか。
もはや、パナマ作戦のようにはいかないだろう。
腐敗したノリエガ将軍は国民に見捨てられただけだ。
南米大陸は、本当に500年の支配から脱するのかもしれない。




フアン・エボ・モラレス・アイマ大統領略歴(ウィキペディア)