報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

アフガニスタン総選挙

2005年09月19日 02時07分18秒 | ●アフガニスタン05
アフガニスタンで下院と州議会の選挙が行われた。
世界のメディアは、アフガニスタン民主化の大きなステップと報道。
そして、お決まりの映像を流す。
投票用紙と投票箱。
何か特別神聖なもののようなあつかいだ。
議会制民主主義とは、
爆弾をどかどか落として、市民を殺害してでも
持ち込む価値があるものなのだろうか。

情報統制がまねいた惨事

2005年09月03日 23時53分34秒 | ●アフガニスタン05
今回のアフガニスタンの取材の過程で、日本の外務省は、アフガニスタンの情報が日本で流れることを嫌っているという印象を受けた。アフガニスタンに関する情報や写真が一般的に流通すると、アフガニスタンに行ってみたいという人が増える、と考えているようだ。

現在のアフガニスタンの状況で、旅行者が増えれば、事件に巻き込まれる可能性は高くなる。もし、事件が頻発すれば、日本の行っている復興援助を中止し撤退せざる負えない事態も生じる。したがって外務省としては、できるだけアフガニスタンの情報を制限し、日本国民の目に触れないようにしておきたい。

外務省の方針は、まったく逆効果ではないのだろうか。行くな、と言えば人は行きたくなるものだ。情報がなければ、知りたくなるものだ。情報がなければ、”それは安全ということだ”と解釈する人もいるはずだ。本当はアフガニスタンの状況を正確に伝えるべきなのだ。正確な情報こそが、的確な判断をうながす。

また、アフガニスタン政府としては、アフガニスタンはもはや戦場ではない普通の状態であるという印象を海外に与えたい。いつまでも、戦闘状態であれば、政権の国家統治能力を疑われてしまう。平常であることを、装うために観光客の入国を制限しないということは考えられる。現実的には、アフガニスタンの観光ビザは乱発されてはいない。しかし、取得可能であることは事実だ。

『アフガニスタンの治安問題』で述べたように、現在のアフガニスタンは無法状態だ。観光などできる状態ではない。米軍、国際治安支援部隊、アフガン軍は、反政府勢力しか眼中にない。アフガニスタンの警察は犯罪組織を本気で取り締まることはない。タリバーン政権を倒した軍閥は、そのまま武装犯罪集団へと移行した。その軍閥はアフガニスタン全土に国家内国家を形成している。中央政府の権力は、カブール周辺までしか及んではいない。全土に存在する無法武装集団=軍閥を取り締まるものなどいないのだ。

米占領軍、国際治安組織、国連機関、援助国は公式にはこの事実を認めようとしない。復興の進捗状況や武装解除の成果ばかりを強調すれば、誰でも安全になったと勘違いしてしまう。復興は進むけれども、治安は悪化する一方だ。その原因は軍閥だ。国際機関は、この事実をはっきりと認めるべきだ。

今回の痛ましい事件は、不必要に情報を制限する日本外務省の方針と、アフガニスタンは平常だと見せかけたい政府、そしてアフガニスタンの根本的問題を認めない国際機関によって引き起こされた事件だと考えている。

重ねて強調するが、現在のアフガニスタンは無法状態なのだ。
アフガニスタンへの渡航を考えておられる方がいれば、中止することを強くお勧めする。

アフガニスタンの治安問題

2005年08月28日 16時40分25秒 | ●アフガニスタン05
「タリバーンよりも、軍閥の方が問題だ」
カルザイ大統領は、暫定大統領時代に、そう警鐘を鳴らしている。

残念ながら、国際社会はカルザイ氏の発言の真意が、まったく理解できなかった。
軍閥は、タリバーン打倒の「ヒーロー」ではないか、米軍と軍閥がアフガニスタンに民主主義をもたらしたのではないのか、その軍閥がなぜ問題なのか、と。

一見、アフガニスタンは平穏で秩序があるかのように見える。
しかし、極端に言えば、いまのアフガニスタンは無法状態だ。
秩序を守るべき立場のものが、根本的に秩序など持っていない存在だからだ。
つまり、カルザイ大統領が言う「軍閥」である。

現在のアフガニスタンの状況を知るには、まず、軍閥について理解する必要がある。

<ムジャヒディンの正体>

対ソビエト戦争時代、欧米のメディアは「悪の帝国」と戦うムジャヒディンを、手放しで賞賛した。アメリカ政府は、ムジャヒディンの中で有望なものに多量の武器弾薬、資金を提供した。こうしたムジャヒディンは規模を拡大し、各地方で軍閥を形成するようになる。最も有名な軍閥は、パンジシール地方のマスード司令官だろう。他に、マザーリシャリフのドスタム将軍、ヘラートのイスマイル・ハーンなど多数存在する。軍閥は団結して、ソ連をアフガニスタンから放逐した。そこまではいい。

ソ連軍を放逐した軍閥は、アフガニスタン政府の要職を分け合うのだが、すぐに権力闘争になり、結局内戦をはじめてしまった。軍閥は、民族や宗派単位で構成されており、軍閥の覇権争いは、すぐに民族間、宗教間の殺戮へと発展する。軍閥間の内戦により、5万人のカブール市民が虐殺され、カブール市の60%が破壊され廃墟と化した。軍閥の内戦は、ソビエト軍よりもひどい殺戮と破壊をもたらしたと言われている。

結局、軍閥とは「聖戦士(ムジャヒディン)」でも何でもなかった。覇権のために、同じアフガニスタン人を平気で殺戮する凶暴な存在でしかなかった。2年にわたる内戦で、市民生活は完全に破壊された。軍閥は通行税を徴収したり、市民への略奪や乱暴狼藉を繰り返した。移動には、つねに盗賊の危険がつきまとった。盗賊とはすなわち軍閥のことだ。アフガニスタン国内は文字通り、無法地帯と化した。産業は衰退し、国土は荒廃した。

この状況を、見かねて立ち上がったのが、カンダハールのムッラー・ムハマンド・オマル師と30人の弟子だった。武器はたったの15丁だったとされている。ここから、タリバーンの歴史がはじまる。軍閥の横暴に耐えかねていた市民の圧倒的支持を得て、タリバーンはまたたくまに勢力を拡大し、南部から北部に向かって、軍閥を駆逐していった。一部の軍閥は、タリバーンと同盟しようと試みるが、一蹴されてしまう。タリバーンは、2年後に首都カブールを陥落し、国土の90%を平定した。

タリバーンが強力とみるや、それまで互いに虐殺しあっていた軍閥は、あっさり同盟を結ぶ。北部同盟だ。共通の敵が出現したときだけ団結する。しかし、ソビエト軍を放逐した軍閥も、タリバーンの治世には北部を死守することしかできなかった。

<国際社会の過ち>

2001年、米軍は空から爆弾を降り注ぎ、地上からはこの北部同盟を使って、タリバーン政権を打倒する。カブール市民にとっては、かつての虐殺者である軍閥がパワーアップしてもどってきたことを意味する。しかも、「ヒーロー」という肩書きまでつけて。

軍閥は、まさしく「官軍」としてカブールに乗り込んできた。軍閥の本質は、内戦時代から何も変わっていない。軍閥は、タリバーンがいなくなると、すぐに麻薬栽培と密売を拡大した。その収益は年間23億ドルに達する。軍閥=麻薬組織でもある。そんな軍閥が、アフガニスタン政府、軍、警察で強固な権力を保持してしまった。もちろん、各地方のテリトリーは国家内国家の状態だ。もはや、軍閥にとって怖いものは何もない。やりたい放題なのだ。

「タリバーンより、軍閥の方が問題だ」
とカルザイ大統領が警告したのは、こういう事態を憂慮してのことだった。しかし、国際社会は、自分たちが「ヒーロー」の称号を与えた軍閥を、本気で無力化する気はないように見える。現在、DDR(武装解除、動員解除、社会復帰)が進められているが、単に数字上の成果があるだけで、実質的な効果はない。軍閥はいまでも、戦争ができるだけの十分な武器弾薬を隠匿している。DDRに同意するフリをして、助成金をせしめているに過ぎない。

国際社会は、アフガニスタンの治安を真に攪乱しているのが、軍閥であることを認めようとしない。タリバーンの残存勢力は、市民を巻き込むテロは行わない。アフガニスタンがイラク化しないのはそのためだ。タリバーンには自爆テロという発想はない。市民を傷つければ、それはタリバーンの信念そのものを否定することになるからだ。

しかし、軍閥による襲撃事件は、海外メディアによってタリバーンや「アル・カイーダ」の犯行に摩り替えられて報道される。これをいいことに、軍閥は安心して、政府機関や国際機関への襲撃を行っている。軍閥は、テリトリー内での政府機関や国際機関の活動を嫌う。テリトリー内の住民がこれら機関を頼りにすることによって、テリトリー内での中央政府の影響力が増すからだ。地方での、政府機関、国際機関に対する「テロ」のほとんどは、軍閥によるものと考えて間違いない。

国際社会が小手先の政策でごまかしている限り、軍閥の無力化など夢のまた夢でしかない。

<犯罪者天国>

現在のアフガニスタンの治安が一見安定して見えるのは、軍閥の横暴に対して、市民は耐えるしかないからだ。市民は、軍閥がどれだけ残虐であるかを内戦時代に身を持って経験している。表にはほとんどでないが、地方では金銭目的の誘拐が頻発している。軍閥を母体とする犯罪組織の犯行と見られる。潜在的にはアフガニスタンほど治安の悪い国はない。

カブールに2年半滞在しているフランス人特派員は、最近の一年で治安は急激に悪くなっている、と暗い顔をしていた。一年前は、夜中でも一人で歩けたと言う。いまでは、昼間のカブールでも、外国人など見ない。この5月に、イタリア人の女性NGOワーカーがカブールで誘拐された。当初、誰もがタリバーンか「アル・カイーダ」の犯行と思った。しかし、これも犯罪組織の犯行だった。目的は、逮捕された組織員の親戚を開放させることだった。(24日後、イタリア人女性は解放され、犯行グループは逮捕されたが、これは特殊なケースだ)

軍閥を母体とする犯罪組織にとってカブール市ほど居心地のよいところはない。軍、警察には軍閥の強固な基盤がある。つまり、取り締まられることはないのだ。米軍も国際社会も、軍閥の問題などないかのようなフリをしている。したがって軍閥や犯罪組織はこの世の春を謳歌している。

9月18日には、アフガニスタン下院選と34州の州議会選が同時に行われる。立候補者は6000人という乱立状態だ。軍閥はここでも勢力拡大、影響力拡大を画策することは間違いない。投票日が近づくにつれ、選挙にまつわる軍閥のテロが急増するだろう。もちろん海外メディアは『タリバーンの犯行』と伝えることだろう。

このまま、軍閥の勢力が中央政府で拡大すれば、いずれ軍閥間の争いが再燃することにもなりかねない。軍閥は、武器も兵力も資金も潤沢なのだ。いつでも戦闘を行える状態にある。米軍の撤退を、今や遅しと待っているかも知れない。

いい加減に国際社会が、「ヒーロー」軍閥の正体を認めなければ、アフガニスタンはまた戦乱に陥るかもしれない。

人質解放によせて

2005年06月11日 21時15分13秒 | ●アフガニスタン05
 朝、バンコク・ポストのページをめくっていると、5ページに
"Freed Italian heads home"
 という見出しが飛び込んできた。

 カブールで誘拐されたイタリア人NGOワーカーが、昨日解放され、イタリアに戻ったという記事だった。テレビのない生活なので今日になって知った。

 政府関係者は犯行グループと接触し、イスラム聖職者も人質解放を訴えていた。三週間を経てようやく無事開放された。政府は、身代金は払っておらず、警察はもっか犯行グループを捜索中とあった。

 報道内容が事実だとだとすると、犯行グループは大胆な割にはマヌケだということになる。そんな奴らだとは、僕にはとても思えない。彼らは、残虐で欲深く臆病だ。目的も達成できず(逮捕されたリーダーの釈放)、金にもならず、おまけに今後も追跡される、そんな条件で人質を解放するだろうか。彼らは、十分な金を得、追跡の危険もないからこそ、開放したのだ。
 まあ、そんなことはどうでもいい。
 とにかく、無事開放されたのだ。

 今回の誘拐事件の重要な点は、犯行がタリバーンでもテログループでもなく、単なる犯罪組織によって易々と行われたという点だ。しかも、同じグループにより、以前、誘拐未遂事件も発生していた。犯行グループは次のターゲットを探しているということは広く知られていた。それにもかかわらず、犯罪組織を野放しにし、今回の誘拐事件を発生させてしまった。

 カブールの治安管理とは、その程度のものなのだ。
 テロにばかり気を取られている間に、犯罪組織やその予備軍はカブールに確実に根を張ったのだ。テロリストは少ないが、犯罪者やその予備軍はうじゃうじゃいる。
 わがもの顔で、タダ食いタダ飲みをするグループ。バザールの飲食店や商店、露店に「用心棒代」を請求する酷薄な目つきの男。軍人でも警官でもないのにカラシニコフを下げ、フレンチフライ(フリーダムフライ?)をたかる男。

 おそらく大小様々なグループが存在するのだろう。そして僕が目撃した限りでは、こうしたグループを形成しているのは、特定の地方出身者だ。つまり「官軍」の支配地域出身者だ。しかも「官軍中の官軍」と言っていい。だから、市民は何をされても黙っているしかない。

 たとえは相応しくないが、いわば「新撰組」みたいなものだ。
 知らない人には人気があるが、実際は酷薄で残虐な集団なのだ。
 新撰組の主要なメンバーは同郷出身者で固められた。彼らは官軍をいいことに京都で乱暴狼藉、不法の限りを尽くした。京都人からは「壬生浪(みぶろう)」と呼ばれ、恐れられ、軽蔑された。壬生とは新撰組の屯所があった地域名だ。新撰組内部では私刑も頻繁に行われた。新撰組は、決してロマンチックな集団ではない。

「官軍中の官軍」をダシに、カブールで狼藉を働く連中も、海外でのイメージはたいへんいい。なんといってもソビエト軍も歯が立たず、そしてタリバーン打倒の「ヒーロー」なのだから。
 京都人が新撰組を陰で「壬生浪」と吐き捨てたように、カブール市民は、狼藉を働く集団の背中に向かって、「パンシーリ」と聞こえないように吐き捨てる。
 ただ、その地域出身者がすべて狼藉を働くと言っているのではない。一部の連中が「官軍」をダシに、好き勝手を働いているのだ。

 一部の特権者の横暴がまかり通る風潮は、同様の無法者を排出するものだ。カブールはどんどんこうした無法者に侵食されている。
 米軍やISAFはカブールの治安維持に何の役割も果たしていない。カブール警察も市民を犯罪から守っているわけではない。「官軍中の官軍」はアフガン軍、警察の中枢でも大きな権力を持っている。同郷の犯罪組織は、警察内にも大きな影響力を持っているという指摘もある。このままではカブールは、犯罪組織に乗っとられることにもなりかねない。

 人質を無事取り戻したことは、たいへん評価する。
 しかし、犯罪組織に対して何の有効な手立ても取ってこなかった治安体制こそが問題の根底にある。そしてカブール市民は、こうした特権的無法者に対し、いまのところ何の自衛手段も持たない。

 街は整備され、便利になり、快適になる。今は、様々な期待感によって、市民の不満はあまり表にでてこない。しかし、特権的無法者の横暴がどんどんエスカレートしていけば、市民はかならず自衛し始める。彼らは、すでに自衛のための武器は所持しているのだ。拳銃程度なら国民の七割が持っているという。あるいは一家に一丁はあるという人もいる。市民の怒りと我慢が限界に達したとき・・・

 市民の安寧をおろそかにする政府は、かならず大きな混乱をもたらす。


失われた雇用

2005年06月10日 20時44分04秒 | ●アフガニスタン05
 復興援助真っ只中のアフガニスタン。 
 アフガニスタンのいたるところで、ビル建設や道路整備等が急速に進められている。
 約47億ドルの国家予算の大部分が、援助国が直接管理する復興事業に費やされている。
 アフガニスタンにとって大きな雇用を生んでいるはずだ。

 が、実際はそうでもない。
 急ピッチで進められる様々な復興事業には、多量の熟練技術者や熟練労働者が必要になる。
 そうした人材は、アフガニスタン国内にはいない。
 戦争、内戦、鎖国を経てきたアフガニスタンには、技術者を養成する機関も、職能を磨く機会もなかった。高度な技術や熟練した職能は途絶えてしまったのだ。もちろん、施工を受注できるような企業もない。

 先進国の行う復興事業は、援助各国の企業が管理する。そして実際に施工するのは、近隣国から来た施工業者であり、技術者や熟練労働者である。
 いま、アフガニスタンで復興事業の施工を行っているのは、ほとんどが隣国パキスタンの企業だ。技術者や労働者もパキスタンから来る。アフガニスタン人には、単純労働しかない。
 つまり、膨大な復興資金は、元受の先進国の企業と下請けのパキスタン等の施工業者に落ちる。アフガニスタンにはほとんど落ちないのだ。

 それでも、無償援助で電気、上水道、道路等各種インフラが整備され、市民生活が楽になるのだからいいではないか、という見方もできる。
 しかし、それはこちらの見方であって、アフガニスタン人の見方ではない。彼らは感謝し喜びつつも、一方で割り切れないものを感じている。
 つまり、パキスタン人に仕事を奪われ、パキスタンばかりが得をしている、と彼らは感じている。
 復興事業に従事するパキスタン人のことをアフガン人が悪く言うのを、僕は頻繁に耳にした。

 ニューズ・ウィークの記事に端を発したジャララバードでの暴動の際、パキスタンの領事館も焼き討ちに遭った。グアンタナモでのコーラン冒涜とパキスタンとは何の関係ない。しかし暴動を機に、パキスタンへの不満が噴出したのだと考えている。焼き討ちの煽りでカブールのパキスタン大使館も5日間閉鎖された。

 パキスタンで難民生活を送り、教育を受けてきた帰還難民の若者の中には、こうしたパキスタンに対する悪感情に対して、少なからぬ危機感を感じている者もいる。
 彼らは、アフガニスタン人でもあり、「外国人」でもあるのだ。
 英語やコンピュータ操作といった職能を持つ帰還難民の若者たちは、米軍や国連、外国NGOで働き、一般アフガニスタン人よりもはるかに高給を得ている。
 パキスタンへの悪感情がさらにつのっていけば、彼ら帰還難民への反感も生まれるかもしれない。
 ただでさえ多民族国家のアフガニスタンに、あらたに亀裂の種が加わることになりかねない。
 

単身赴任の帰還難民

2005年06月08日 19時21分39秒 | ●アフガニスタン05
 8年前にくらべ、アフガニスタンでは英語を話す人が圧倒的に増えた。
カブールの街を歩いていると、頻繁に若者から英語で話しかけられた。

 しかし、かつては英語を話す人はほとんどいなかった。戦争と内戦、そして鎖国。アフガニスタンにはイスラム教育以外の教育というものが、ほぼ存在しなかった。したがってアフガニスタン国内で育った若者はほとんど英語を話せない。

 英語で話しかけてくる若者の多くが、ようするに帰還難民だった。そして英語を話す彼ら帰還難民の若者たちは、米軍や国連、NGO、外国企業で働いていた。給与水準はアフガニスタンではかなり高い。こうした外国機関や企業で雇用を得るには、英語やコンピュータ操作がほぼ必須条件となる。
 アフガニスタン国内で育った若者には、どちらの職能もないため、こうした高給の職を得られる機会はまずない。

 アフガニスタンで割のいい職を得ているものの、20数年間を外国で過ごしてきた彼らは、ある種の疎外感を味わっている。彼らはアフガニスタン人であってアフガニスタン人でない。アフガニスタンの社会に受け入れられているとも感じていない。

 パキスタンで高等教育を受け、現在外国NGOで働く帰還難民の二十歳の男性は、
「ここでは、わたしは、あなたと同じ外国人なのです。パキスタンで生まれ育ったわたしは、少し違った言葉を話します。ここでのしきたりや習慣も知りません。この国の人々が怖くなることがあります」
 と語った。
 彼は、アフガニスタンの人々との間に、一種の溝を感じていた。
 家族の中で、アフガニスタンに来ているのは彼だけだった。家族はパキスタンのカラチにいる。

 僕が接した帰還難民の若者のほとんどが、いわば「単身赴任」だった。家族とともにアフガニスタンに帰還した者は少ない。高給の仕事があるのでアフガニスタンに来たが、そのままアフガニスタンに定住するかどうかも決めかねているという感じだった。
 彼らが働く米軍、国連、NGO、外国企業というのは安定雇用の場ではない。あくまで臨時雇いの職なのだ。いずれは、職を失うのがわかっている。そのとき、彼らは生まれ育ったパキスタンへもどっていくのかもしれない。難民認定を受けた彼らは、パキスタンを自由に行き来できる。

「単身赴任」の彼らを「帰還難民」と呼ぶのは、あまりふさわしくない。
 アフガニスタンに定住するかどうかは、彼ら自身未知数なのだ。
 彼らは逆出稼ぎ労働者と言うべきか。
 パキスタンでは、難民の身分であり決して安定した生活は保障されない。
 しかし、アフガニスタンでの生活にも大きな不安を感じている。

 当分の間は、多くの難民がパキスタンとアフガニスタンとを天秤にかけながら生活することになるだろう。
 いまだ300万人の難民が帰還をためらっている。
 ほとんどの難民が、アフガニスタンでは職がないこと、住居がないことを理由にあげている。



歪んだ経済構造

2005年06月03日 21時33分06秒 | ●アフガニスタン05
 アフガニスタン滞在中ずっと、妙な違和感を感じ続けた。
 人や車や物はあふれているのだが、人の生活の匂いというものが流れていない。とても抽象的な表現だが・・・。この違和感を何とか具体的に表現するとしたら、消費者層が形成されていないのに、物だけが先行して存在している状態、とでも言えばいいのだろうか。都市生活に必要な消費財は、すでに揃っているが、それを購買する消費層はいまだ登場していない。そんな風に見えるのだ。供給過剰という言葉は当てはまらないような気がする。北極点の周りをバザールが取り囲んでも、それを供給過剰とは言わない。
 20年に及ぶ戦乱とその後のタリバーンの鎖国時代によって、アフガニスタンには消費経済というものが形成されなかった。タリバーン政権の崩壊からまだ3年しか経っていない。産業も雇用もないところに、消費層が形成されているとはとても思えない。

 お店の人に聞いてみた。
「商売の具合はどんなものですか?」
「リトル、リトルだね」
 たいていがそんな答えだ。
 店番をしながら道行く人々を眺めるのが、一日の大半の仕事という感じだ。それでも、彼らの表情は明るい。これから商売はよくなるという期待感があるからだ。
 彼らが期待感を持つのも当然だろう。街は目に見えて、どんどん整備されている。瓦礫は撤去されビルが建ち、20年ほど車や戦車が掘り返していた道路が、またたくまに舗装されていく。通信などなかった国に、モバイルが登場し、本体(とICチップ)さえ買えば、誰でも歩きながら通信ができる。テレビを買ってケーブルに加入すれば、人気のインド映画をいつでも見ることができる。ケーブル料金は、月200アフガニー(4ドル)ほどだ。CNNやBBC、ディスカバリー・チャンネルだって見ることができる。たった3年で便利で自由な世の中になったものだ。
 これからどんどんよくなる。便利になる。そして豊かになる。
 人々はそう信じている。
 はたして、そうだろうか。

 アフガニスタンの国家予算47億5000万ドルの93%は国際援助金で賄われている。ただし援助金の四分の三は援助国自身が管理する復興事業に費やされる。アフガニスタン政府が自由になる予算はごくわずかしかないのだ。関税も所得税もいまのところない。税収など存在しないのだ。ただし、軍閥は、支配地域で勝手に税を徴収しているようだ。

 先進各国は、いまはアメリカの手前、アフガニスタンを援助しなければならない。アフガニスタンの存在価値は、中央アジアの石油を安定的にパキスタンの積出港に送るためのパイプライン建設にある。アフガニスタンは地政的な要衝なのだ。しかし、それはアメリカの国益であって、他の国の国益には関係ない。ひとえにスーパー・パワー=アメリカのご機嫌を損ねないために、アフガニスタンの復興援助に参加しているにすぎない。アフガニスタンの民主化を真に願っている国があるのだろうか。実も蓋もない言い方だが、それが事実だ。

 各国の援助がいつまで続くかはわからない。援助が終了したあと、インフラのメンテナンスにまわす資金があるかどうかもあやしい。数年でインフラは使い物にならなくなるかもしれない。
 ある国が舗装した道路は、ほんの数ヶ月で痛み始め、「見てくれ、これを。まるで10年経った道路のようだ」と車を運転しながら憤懣を述べる人もいた。「援助はありがたい。とても感謝している。しかし、巨額の援助金は、結局、粗悪な工事をする外国企業を潤しているだけではないのか」と。

 いま最も必要とされているのは、できるだけはやくひとり立ちしていけるように、農業と産業を整備することだ。農業と産業の育成は、安定した雇用を生む。しかし、そんな援助を、僕は見たことがない。開発途上国に形成された主要な産業は、破壊される傾向にある以上、アフガニスタンに大規模な雇用を創出する産業が形成される希望は非常に少ない。
 途上国の役割とは、「生産」や「自立」ではなく、先進国の「市場」となることにある。「市場」となる程度の復興しか許されないのだ。

 ただし、前回述べたように、アフガニスタンには世界の需要の75%を生産している「主産業」がひとつだけある。
 ケシ栽培だ。
 この汁液はアヘンやヘロインの原料となる。
 唯一、タリバーン政権時代、このケシ栽培のほとんどが消滅したと言われている(これには異論もある。タリバーンを評価する一片の事例も許されないのかもしれない)。タリバーン政権の崩壊とともに、ケシ栽培は急速に再開された。

 ケシ栽培とその密輸による利益は、年間23億ドルに達すると推計されている。麻薬ビジネスは、アフガニスタンの国家予算の半分規模に達する。
 アフガニスタンの表の経済が国際援助資金なら、裏の経済は麻薬資金だ。しかし、この表と裏の資金の区別はほとんどつかない。マネーロンダリングの必要などなく、麻薬で得た資金は、そのまま表の経済で流通するからだ。
 数字だけが存在して、実際は外国企業の懐に消えていく援助資金よりも、麻薬資金こそがアフガニスタンの経済を支えているという観測もある。いま麻薬ビジネスを撲滅すれば、アフガニスタンの経済も同時に破壊することになる。カルザイ政権のケシ撲滅キャンペーンは政治的ポーズにすぎない。
 このままの状態が続けば、アフガニスタンの経済や政治は、麻薬組織や軍閥に乗っ取られることにもなりかねない。しかし、そうなったとしても、アメリカの国益には影響しない。

 アフガニスタンで、僕がずっと感じていた違和感とは、脆弱な表の経済と強力な裏の経済が相互に作り出す歪んだ構造によるものなのかもしれない。表の経済によってインフラは整備されていく、裏の経済によって多量の輸入消費財が街にあふれる。しかし、国民には雇用もなければ、消費にまわす蓄財もない。

 いまは、外国の援助によって、多くのものが目に見えて良くなり、改善され、新しくなっている。人々に希望を与えるには十分な変化だ。その希望と期待によって、人々は現在の窮乏生活や治安の悪化に耐えている。しかし、忍耐はいつまでも続くものではない。希望や期待が裏切られたと知ったとき、いったい何が起こるだろうか。

カブールの治安

2005年06月01日 22時08分41秒 | ●アフガニスタン05
 カブールに着いて4,5日は、取材許可や式典、ビザ延長手続きなどで、あまり写真に集中できなかった。
 特にビザは15日間だったので、延長手続きが済まなければ落ち着かない。
そういう性分だ。

 報道関係者の場合、ビザの延長には外務省の延長許可が必要になる。本来はビザが切れる2,3日前に行うべきものなのだが、もしカンダハールで不測の事態が発生すれば、その間にビザが切れてしまうかもしれない。そうなると面倒だ。お役所は一見して、前時代的で非効率的かつ官僚主義的な空気が流れている。いざというとき、まごつかないために、あらかじめ備えておくのが得策だ。
 
 延長許可書をもらって、内務省のパスポート・オフィスへ。西部劇に出てくるメキシコの警察署といった感じだ。銀行振り込みの用紙を渡され、アフガニスタン銀行へ。10ドルを振り込む。銀行はあまりにも複雑怪奇なシステムのため、振込みに一時間ほどかかった。どのくらい時代を遡ったのかよくわからない。タイム・トラベルがお好きな方にはお薦めだ。振込み証明書をもらって、パスポート・オフィスへもどる。こうしてようやくビザ延長手続きは完了した。
 しかし、パスポートの預かり書などはない。もし、パスポートをなくされても、こちらには延長のために預けたと証明するものはなにもない。オフィスにはよくわからない人が頻繁に出入りしていた。妙にそういうことが心配になる。そういう性分なのだ。

<犯罪集団を形成する「ヒーロー」>
 ムジャヒディン勝利式典とビザ延長が終わり、ようやくカメラを下げ、気の向くままに街を歩いた。
 僕はどこを歩いても、歓迎され、いたるところでチャイをいただき、長々と話を聞いた。僕が歓迎されていたというより、日本人が歓待されているわけだ。日本人は、非常に友好的にむかえられる。
 カブールの街は、一見平穏に見えた。
 伝え聞く感じとは、かなり違った。もっと緊張感があるかと思っいたのだが。しかし、街のいたるところに武装警官や武装警備員がいる。武装警備員を伴って食事をしたり、買い物をしているビジネスマンも見た。その必要がある街なのだとわかる。
 しかし、カブール市民の歓待ぶりに、僕のガードは下がっていった。それでも、アフガニスタンの状況を侮っていたわけではない。人通りのない通りは避け、暗くなってからは絶対に出歩かなかった。

 カブールには、職とチャンスを求めて、大勢の人々が流れ込んできている。いわゆる人口の都市集中がはじまっている。世界のどの都市でもこの場合、治安が悪化するのが常だ。
 それを念頭においた上で、常に行動していた。それでも、のちにカブールの治安の悪さを身をもって体験することになった。撮影中、ピストル強盗に遭ったのだ。その地域の若者三人がついていてくれたにもかかわらずだ。さすがに予想を超えた事態だった。
 この事件によって、いくつかのことを学んだ。
 まず、こうした犯罪に携わるのは、たいてい「ヒーロー」であること。
 そして、彼らは警察のことなど、現行犯逮捕以外はほとんど意に介していないこと。
 したがって、機会があれば躊躇なく犯罪を行うこと。
 といったところだ。

 タリバーンが登場するまでの内戦の2年間、アフガニスタンの治安は最悪の状態が続いていた。カブールの街は破壊され、虐殺も発生し、約5万の市民が犠牲になった。各軍閥が支配する地域内でも、武装強盗が跋扈し市民生活を脅かした。軍閥そのものが乱暴狼藉の盗賊とも言えた。都市間の移動も常に危険が伴った。この時期、多量の難民が発生した。
 こうした状況を一気に改善したのがタリバーンだった。タリバーンの治世は、「道路にお金を置いても誰も手をつけないくらい治安がよかった。三日後でも、まだそこにある」と人が言うくらい治安は改善された。移動の安全も確保された。

 しかし、いまや、かつての軍閥は支配地域だけでなく、中央政府内でも権力を持つにいたった。
 軍閥(北部同盟各派)は、アメリカの軍事的、資金的支援のもと、対タリバーン戦争に勝利した。欧米のメディアでも対タリバーン戦争の「ヒーロー」として喝采された。そのため現政権は、軍閥に一定の権力を与えざるを得ない。とくに、軍、警察での軍閥の権力は大きい。アフガニスタン市民にとっては、かつての乱暴狼藉と虐殺の軍閥が、「ヒーロー」としてさらにパワーアップして、戻ってきたのだ。アフガニスタンの治安が悪化するのは、理の当然といえる。

 中央政府の権力は微弱だ。
 軍閥は自由に軍事力を行使し、テリトリー内で麻薬を栽培し、それを密輸し、また勝手に税金も徴収している。つまり各軍閥勢力には、アフガニスタンの憲法も法も及ばないのだ。
 カルザイ大統領がコントロールしているのは、カブールとその周辺地域だけだ。しかし、そのカブールでさえ、日々治安が悪化している。
 武装強盗団や犯罪組織は、軍閥勢力から派生している。つまり、犯罪集団は、軍閥、そして軍や警察の中にも有力な仲間を持っているということだ。しかも彼らは「ヒーロー」としてこの街に戻ってきたのだ。
「ヒーロー」たちが軍服を羽織り、街を闊歩し、タダ食いタダ飲みをしているところを、僕は何度も目撃している。若者から、いい年をしたオヤジまで。飲食店に「ミカジメ料」を要求している「ヒーロー」も目にした。
 この「ヒーロー」達の出身地の軍閥の代表者(故人)は、公式に「ナショナル・ヒーロー」とされている。したがって彼ら犯罪集団の助長はとどまることを知らない。市民にとってこんな恐ろしいことはない。
「ヒーロー」による横暴や凶悪犯罪が拡大していけば、大きな社会不安となり、民族的反感や対立が拡大する。彼らは「官軍」ではあるが、民族的には少数派なのだ。「賊軍」の多数派民族の堪忍袋の尾が切れたとき、アフガニスタンはまた混乱の中に放り込まれるかもしれない。アフガニスタン国民のほとんどが、何らかの武器を所有しているのだ。

<市民の安全に無関心の米・国連>
 アメリカや国連は、対テロにばかり気を奪われ、市民の安全には無関心だ。悪く言えば、自分たち外国人に危害が及ばないものはどうでもよい、ということだ。

 現在のアフガニスタンは、米軍とISAF(国際治安支援部隊)のプレゼンスと援助国資金によって、かろうじて国家としての体裁を保っているが、その実態は、いまだ国家内国家が乱立する群雄割拠状態なのだ。この国家内国家を統一することは、ほぼ不可能だ。

 なぜなら、この国家内国家群は、国家よりも資金を持っているからだ。2005年度のアフガニスタンの国家予算は47億5000万ドル。しかもそのうちの四分の三は、援助国が直接管理する復興事業に費やされる。つまり、アフガニスタン政府が自由にできる資金はごくわずかということだ。
 しかし、軍閥や麻薬組織はケシ栽培とその密輸で、年間23億ドルを稼ぎ出している。アフガニスタンの国家予算の半分に達する規模だ。軍閥と麻薬組織は、この資金を全額自由に使えるのだ。

 ケシ栽培は、タリバーン政権時代にはほぼ壊滅し、年間の生産量は190トンだった(これに反対する説もある)。しかし、北部同盟の勝利とともに一気に栽培が復活し、いまや年間4000トンを生産している。これは世界の生産量の75%にあたる。

 カルザイ大統領は、ケシ撲滅キャンペーンを展開しているが、その効果のほどは、たいへん怪しい。ケシ栽培業者は、宣戦布告的な発言さえしている。すでに、ケシ撲滅部隊に死者もでている。年間23億ドルの巨大麻薬ビジネスを根絶することなど、いまのアフガニスタン政府には不可能だ。したがって、ケシ撲滅も軍閥の解体も不可能と言える。

 アフガニスタン政府は実質的にアメリカ政府の統治下にある。そしてアフガニスタンの役割とは、中央アジアの石油をパキスタンの積出港に輸送するためのパイプライン建設にある。アメリカ政府にとっては、将来建設されるパイプラインの安全さえ確保できればいいのだ。軍閥や麻薬組織がパイプラインを爆破する危険はない。タリバーンとテロ部隊さえ抑止すれば問題ない。アフガニスタンの民主化は単なる建前にすぎない。たとえ軍閥や麻薬組織に国家が乗っ取られたとしても、パイプラインの安全には問題がない。そういうことだ。

 今後ますますアフガニスタンの治安が悪化することは間違いない。いまは、アフガニスタン国民は「フリーダム」と「デモクラシー」への期待で何とか我慢している。しかし、いつまでたっても生活が楽にならず、「官軍」の威を背景にした蛮行や凶悪犯罪が市民生活を脅かし続ければ、いつか国民の憤懣が一気に爆発する恐れもある。
 しかし今後も、アメリカ政府、国連、カルザイ政権が国民生活の安定的向上に目を向けることはないだろう。

 5月16日にカブールでイタリア人女性が誘拐された。カブール在住の全外国人に激震が走った。ついにアフガニスタンでもイラク型の誘拐が始まったか、と。しかし、そうではなかった。彼女を誘拐したのは、タリバーンでもテロ組織でもなかった。一般の犯罪集団なのだ。目的は、逮捕された組織幹部を取り戻すことだ。しかも、この犯罪組織による外国人誘拐は、あらかじめ予想されていたことなのだ。にもかかわらず防ぐことができなかった。
 アフガニスタン市民の安全をないがしろにしてきた占領政策のツケが、こういうかたちで露呈したと言える。
 彼女は、アメリカの占領政策の犠牲者だ。
 一刻も早く開放されることを切に願う。

ムジャヒディン勝利式典

2005年05月30日 14時42分08秒 | ●アフガニスタン05
 カブールに着いて、報道関係者が最初にしなければならないのが、取材許可書を取ることだ。在日アフガニスタン大使館のサイトにも明記してある。これがなければ取材は許されない。
 カブールは二度目とはいえ、最初に訪れてから8年も経っている。街の様子も激変している。まったく地理が分からないので、タクシーを利用したが、官庁街は歩いていける距離だった。しかも常に道路が渋滞しているため、歩いたほうが速い。

 取材許可書は外務省で発行している。タリバーン時代と同じだ。オフィスは二階から三階に移動していた。
 オフィサーから簡単な質問を受けた。取材地や滞在期間など基本的なことだ。
「ところで、アフガニスタンは初めてですかな?」
「いえ、二度目です」
「前回はいつで?」
「1997年です」
「・・・タリバーン・タイム」
「ええ、タリバーン・タイムです」
「当時は取材に支障はありませんでしたかな?」
「まったく問題ありませんでした」
 それは意外ですな、という感じで取材許可書は発行された。取材許可書はA4用紙で、それに写真をステイプラーで留め、スタンプで割印をするというものだった。こういうのが一番困る。二つ折りや四つ折りにして持ち歩くとすぐにボロボロになる。ラミネートすると下敷きみたいになってとても不便だ。大事な取材許可書なので、滞在中は大切に保存したい。一日中歩き回るカメラマンにとってはA4用紙は処置に困る。オリジナルは部屋において、コピーを持ち歩くしかない。
 はやくももらったばかりの取材許可書の処置に困ってしまった。カメラバッグには入らないし、ましてやポケットには入らない。結局、手に持つしかなかった。部屋を辞すときに、
「そうそう、二、三日後に大きな式典があるので、国防省へ行ってカードをもらってきなさい」
 と言われた。
 まだまったく地理が分からないのに、次は国防省を探さなければならない。結局、外務省からそれほど離れてはいなかったが、5人くらいに道を訊ねた。国防省は、セキュリティが厳しかった。二つのゲートですべてのカメラのシャッターを切らなければならない。中に爆弾が仕込まれていないかを確認するためだ。建物に入るときも、またシャッターを切らされた。6コマが無駄になった。 式典取材用のカードを受け取るときにもやはり、6コマが無駄になった。ただ、このカードはアフガニスタン滞在中、取材許可書の代わりとして大いに役立った。フォルシー(ダリ語)で「カルタ・ジョナリスタ」とでかでかと書かれていた。

 
 最初の数日間は、申請や手続き、そして式典でつぶれた。
 式典は、「ムジャヒディン勝利式典」というものだった。
 報道陣は、朝5時30分に集合させられ、バスで会場に運ばれた。しかし式典は11時からだ。
 会場に着くと、徹底的な身体検査と荷物チェックをされた。カルザイ大統領やドイツの国防大臣などが出席するため、セキュリティは最高レベルだった。つまり、誰も信用しないということだ。チェックが厳重なのは理解できるが、ほとんど犯罪者扱いだった。高圧的で、絶対服従を強いる非常に気分の悪い態度だった。厳しい中にも節度というものが必要なはずだ。我々でさえ犯罪者扱いするくらいだ。収容所の中の人々がどんな扱いを受けているかは、想像に難くない。
 チェックが済むと、狭い囲いの中に詰め込まれ、絶対にそこから出てはいけない。約30人が、朝の6時から、昼の2時までそこに閉じ込められた。炎天下の中、水もない。
 囲いの周りには、M4A1自動小銃を持った5,6人のセキュリティが目の前でこちらを監視している。銃はいつでも発射できる状態だ。要人席と報道陣の囲いとは100メートルは離れている。空には、アパッチ攻撃ヘリが2機展開している。ここまですれば、確かにテロの危険はないだろう。
 アホくさくて、終始、本を読んでいる白人記者もいた。その気持ちは大いにわかる。あるいは一種の抗議だったのかもしれない。普通こうした式典などでは、カメラマン同士で場所取りの激しい攻防が繰り広げられるのだが、それさえもまったくといってなかった。会場の片隅に閉じ込められては、どこから撮っても同じだ。
 見所もない退屈な式典がようやく終わると、報道陣はセキュリティから犬猫のように追い払われた。態度の悪い、つまり優秀なセキュリティから、僕は背中を突き飛ばされ、行け!と命令された。彼らは、人に高圧的な態度をとることが職性であり、それを行使したくてしかたがないといった感じに見えた。不必要に高圧的なのだ。グアンタナモやイラク、アフガニスタンの収容所の様子が推し量られる。

 一応、カルザイ大統領だけは真剣にショットしておいた。アメリカの石油会社ユノカルの最高顧問としてタリバーン政権との交渉を担当し、そしてアフガニスタンの大統領に据えられた男、ハミド・カルザイ。ほんの数秒だが、ジープに乗ってわれわれの前を笑顔で通過していった。

ブログ再開にむけて

2005年05月27日 19時20分35秒 | ●アフガニスタン05
 アフガンの乾燥大地から、熱帯のタイに。
 空から見るアフガンの大地には、ほとんど植物が見当たらなかった。
 それとは対照的に東南アジアの大地は、一面森林に覆われている。
 同じ陸続きのアジアでもこんなにも環境が違うのだと、あらためて驚く。
 東南アジアの、体にまとわりつく不快な湿気が、実は豊富な生命の源であると知る。
 そう思うと、バンコクのこのベタベタの空気にも、多少親しみを感じなくもない。

 この濃厚なタイの湿度の中で、乾燥大地アフガニスタンの報告をさせていただきます。
 しかし、まだあまり頭が整理できていません。
 フィルムも少しずつ現像しているところです。
 いましばらく準備が必要かと。

 留守中に、訪問いただいた方々、コメントをいただいた方々にお礼を申し上げます。
 コメントは、カブールでひととおり読ませていただきました。かの地より返信したかったのですが・・・。遅ればせながら、今後ご返信させていただきます。


アフガニスタンを出ました

2005年05月26日 19時31分31秒 | ●アフガニスタン05
 21日、アフガニスタンを出て、バンコクに戻りました。
 アフガンから、せめてあと一回はブログを更新するつもりでしたが、残念ながら出来ませんでした。
 物理的には可能でしたが、心理的に不可能でした。
 というのも、5月4日に当ブログを更新した3日後、そのネット・カフェが自爆テロで爆破され、二人が死亡するという事件が起こったからです。
 自爆テロの当日は、僕はカブールから遠く離れたカンダハルという街にいました。利用していたネット・カフェが爆破されたことも知りませんでした。カブールに戻り、自分が利用していたネット・カフェが自爆テロに遭ったことを知らされ、恐怖しました。米軍施設でもない、米軍関係者が利用するわけでもない、ただの民間のネット・カフェが自爆テロの対象になるなんて・・・誰が予想しただろうか。もちろんアフガニスタンでは、はじめてのことです。もはや外国人を殺傷できるなら、なんでもするということなのか。

 そのネット・カフェは、僕の泊まっていたゲスト・ハウスから一番近く、歩いて3分ほどでした。20台以上のパソコンがあったと思います。ノートパソコンを持ち込む客のために、大きなテーブルもあり、真ん中からケーブルが10本ほど出ていました。いつ行ってもすぐに利用できる理想的な店でした。通信速度も100Mbpsと申し分ない。そのため利用客は外国人がほとんどでした。

 カンダハルに発つ前に、二日続けて利用しました。初日は、友人にメールを送り、次の日に当ブログを更新しました。ブログを更新した日は、二時間半いました。そしてその3日後に自爆テロ・・・。

 もはや、ネット・カフェに行こうなどという気にはなれませんでした。「外国人の行かないネット・カフェなら大丈夫さ」と宿の連中は言いましたが、僕自身が外国人です。僕が利用することで、店番の人がヒヤヒヤするかもしれない。いや、僕自身が一分も座っていられないでしょう。
 ネット・カフェどころか、自爆テロの話を聞いてから二日間は、僕はほとんど宿からでませんでした。宿の周辺を少し歩いたものの、道行く人がすべて自爆テロ犯に見えてしまう。そそくさと宿にもどりました。情けないが仕方がない。一度恐怖に取り付かれると、もうどうしようもない。爆弾テロの恐怖とは、その破壊力とともに、いつどこで爆発するか予測できない点にあります。少なくとも僕は、これまでに二度、爆弾テロを目の当たりにしています。爆弾テロの怖ろしさ、無慈悲さは身に染みています。
 3日後には、ようやく普段どおり街を歩くようにはなりましたが、いままでのような暢気な気分では歩けなくなりました。僕は、アフガニスタンの状況を楽観視しすぎていた。

 それから数日後の5月16日、イタリア人のNGO女性スタッフがカブールで誘拐されました。カブールに滞在するすべての外国人に激震が走りました。

 アフガニスタンを取り巻く状況は、今後ますます悪くなっていきそうです。

 中司達也
 アフガニスタン取材を終えて



アフガニスタンより

2005年05月04日 17時31分26秒 | ●アフガニスタン05
 みなさん、おひさしぶりです。
 カブールより、お送りします。

 8年ぶりのカブールです。
 その第一印象は、
「ここは本当にアフガニスタンなのだろうか・・・」
 というものです。

 もちろん前回訪れたのは、タリバーン政権下の鎖国時代でしたから、様変わりしているのは当然ですが、それにしても変わりすぎではないかという気がしてなりません。

 米軍の空爆とタリバーン政権の崩壊からまだ3年ほどです。パキスタンやイランに滞在していた多くの難民が帰還して人口が増えたのは理解できます。しかし、道路にあふれる車、くるま、クルマ。軒を連ねる商店にあふれかえる物、もの、モノ。3年あれば十分、人や車や物があふれるのかもしれません。しかし、東ティモールは3年でこんなにも変化しませんでした。
 多くの国と国境を接するアフガニスタンと島国の東ティモールとを比較するのは適切ではないかもしれませんが、それにしてもアフガニスタンの変化はあまりにも急速すぎるような気がします。

 すでにモバイルなどもやは当たり前という社会になっています。おしゃれなモバイル・ショップがそこらじゅうにあります。通りで中古モバイルを手にぶら下げて売っている人もいます。中古は20~30ドルくらいです。

 こうした急速な変化がいいことなのか悪いことなのかを、外国人の僕が判断するべきではありませんが、何かアフガニスタンの人々を物質漬けにしているような気がしないでもありません。自足的な社会ではなく、消費型の社会を押し付けようとしているような・・・。商店には、日用雑貨から加工食品、コンピュータ関連機器、化粧品まで、ありとあらゆるものが並んでいます。いったい誰がこんなものを買えるというのか、理解に苦しみます。産業もほとんどなく高失業率のいまのアフガニスタンでは、消費者層などまだ形成されているとは思えません。
 いまのところアフガニスタンには関税がないようなので、富裕層がいまのうちにできるだけ輸入しておこうとしているのかもしれません。

 鎖国から転じて、急速な消費型社会への移行は、そこから取り残される多くの人々を輩出していくことになると思います。ごく一部の富裕層と圧倒的大多数の貧困層です。途上国が歩まされる典型的なパターンとなるのでしょう。あくまで西欧主導による復興援助ですから。
 しかしいまのところ、何がなんだかよく分からないというのが正直なところです。


 アフガニスタンでの写真撮影は、問題もなく快適です。アフガニスタンの人々の応対は極めて好意的で、安心して撮影ができる環境にあります。カブール市内の治安もいまのところ良好です。ただし、いたるところに武装警官が配置されているということは、その必要があるからでしょう。欧米人の泊まるゲストハウスには、民間の武装警備員がいます。お金持ちは武装ガードマン付で食事や買い物をしています。夜は出歩かないことにしています。

 そこらじゅうを歩き回って撮影していますが、人とクルマの洪水の街中を歩くのはとても疲れます。あまりにもすべてがせわしなく、落ち着いて腰を下ろせる場所さえない。たいていのイスラム社会には、チャイハネでチャイをすすり、うだうだ話をして時間を過ごす”文化?”のようなものがありますが、カブールからはそうした”文化”は消えてなくなっています。

 僕が見つけた安息の地は、山の斜面の住居群です。ブラジルのファベーラを彷彿とさせる光景ですが、入ってみたいという衝動を抑えられずに、上ってみました。こういう不便な場所に住んでいる人たちは間違いなくもっとも低所得の人々か、所得のない人々でしょう。カブールにいる間は頻繁に通うことになりそうです。



< 写真 >




ムジャヒディン勝利記念式典。
周囲一帯を完全閉鎖し、隔離された敷地での式典。
アフガニスタンに来て、まさかカルザイ大統領を撮ることになるとは思わなかった。






米兵とISAF(国際治安支援部隊)のドイツ兵。
彼らは警備とは関係がなく、のんきにしていた。

式典上空を警戒するアパッチ攻撃ヘリ。
第一級の警備体制だった。
記者団は狭い囲いの中に閉じ込められた。
記者団専属のセキュリティが5、6人いた。
もちろん記者団を守るのではなく、
記者団の中に変なそぶりをする人物がいたら即座に撃つためである。





カブール市内のおもだった通りはどこもクルマの洪水。
歩いた方が早い。

旧市街のオールド・バザール。
バザールは広いエリアに広がっているが、
いつも人でごった返している。
どこの国でも市場やバザールは活気があり、一番好きな場所だが、
カブールのバザールは活気とは違う何か別の空気を感じる。
普通は、売り手と買い手の攻防が発する熱気が
バザールの活気と魅力を生むのだが、
ここには、売り手ばかりが存在するような気がする。



カブール市内には山がふたつほどそそり立つ。
その麓には山肌に張り付くように家屋が建っている。
カブール市内のたいていの場所から見える。
ブラジルのファベーラ(スラム)を彷彿とさせる光景だ。
毎日見ているうちに上ってみたくなった。
リオだったら、身ぐるみ剥がされる。
しかし、カブール市街の喧騒に辟易して、恐る恐る上ってみた。
そして、こんな人たちに出会った。



















































































中司達也
カブールにて

最終取材地、アフガニスタンへ

2005年04月22日 21時31分49秒 | ●アフガニスタン05
最終取材地、アフガニスタンへ

水掛祭りのタイからパキスタンへ来ました。
いま、首都のイスラマバードにおります。
そして明日(23日)、アフガニスタンへ行きます。
アフガニスタンが今回の最終目的地です。

最初からアフガニスタンへ行きますと書きたかったのですが、ビザが取得できるかどうか、まったく未知数だったので明らかにできませんでした。完全な見切り発車でパキスタンまで来ましたが、イスラマバードのアフガニスタン大使館から無事ビザをいただきました。
2002年には、パキスタンのビザが”ツーリスト”であったため、アフガニスタンへ出国させてもらえないという悪夢を経験しているので、今回アフガニスタンのビザが取れてホッしています。同じ経験を二度するのは悲惨です。

アフガニスタンはこれで二度目となります。前回ははるか97年(タリバーン政権時代)ですから8年ぶりです。かなりブランクが開いてしまいました。アフガニスタン滞在は一ヶ月ほどになると思います。できるだけ長く滞在したいと思っていますが、資金的に今回は一ヶ月くらいしか居られないでしょう。

アフガニスタンにインターネットの通信インフラがあれば、何回かはレポートしたいと思っていますが、これも行ってみないことにはわかりません。
では、行ってきます。

中司達也
イスラマバード、パキスタンにて