報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

ピピ島は壊滅などしていなかった

2005年06月30日 21時46分00秒 | ●津波後のピピ島
< 津波被害から半年 >

 サイトで「ピピ島 津波被害」で検索してみると、「ピピ島は壊滅」とはっきり表記しているものがある。半年前の日本のメディアによる津波報道でも、ピピ島はまるで全滅したかのような印象を受けた。

 しかし今回、ピピ島を訪れてみて、こうした表記や報道は事実を反映していないことがわかった。ピピ島は壊滅などしていない。津波の破壊力は、ピピ島の特定の地域にしか集中しなかった。そこは確かに「壊滅」し、多くの犠牲者を出した。しかし、そこから離れた地域はごくわずかな損傷しか受けていない。犠牲者もほとんど出ていない。また、ある地域では、水位の上昇は「膝まで」くらいしかなかった。全島が津波に呑まれ、破壊されたわけではないのだ。

 6月26日は、津波被害から、ちょうど半年ということで、海外からのメディアも少しピピに来ていた。日本の某放送局も来ていたので、放送をご覧になった方もいるだろう。その放送を観たある友人は、いまでもピピ島は壊滅状態であるという印象を受けたという。バンコクで同じ放送局の番組を観た友人も、同じ感想を持っていた。「ピピ島は壊滅」した、と。

 しかし、いま述べたように事実は違う。
 ピピ島はもともと壊滅などしていない。
 経済的には、確かに壊滅状態だが。
 物理的には壊滅などしていない。
 損傷を受けなかった多くのバンガロー群が存在し、それらはすでに営業を再開している。
 なぜ、日本の某放送局は、そうした事実を報道しないのか。
 視聴者の眼を釘付けにするセンセーショナリズムばかりを追いかけ、事実と異なる内容、あるいは事実の一部だけを報じる姿勢には異議を唱えざるを得ない。

 ピピ島に着くまでは、僕自身がメディアの報道しか知らなかったので、ピピは壊滅状態だと思っていた。だから、船着場から宿に至るまでの道中、ある意味、眼を疑った。たった半年でここまで復旧したのか!と。
 宿に着き、従業員に話を聞くと、その地域はほとんど被害を受けていないのだ。復旧したのではなく、もとのままなのだ。その地域に建つバンガロー群(200棟くらいだろうか)は、浸水しただけで無傷のまま残った。したがって犠牲者も出ていない。唯一の被害は、芝生が洗い流されたことくらいだ。その地域には、破壊力を持った波は押し寄せてこなかった。そこはほぼ海抜ゼロメートルの位置なのにだ。

 そして、海抜10メートル以上の位置に建っていたバンガローは、当然浸水さえしていない。こうしたバンガローも何百棟と(特に数は数えてはいないが)あるはずだ。
 しかし、メディアの手にかかると、「ピピ島は壊滅」となるようだ。人目を引くセンセーショナルな対象(商品)だけを選んで放映するメディアの姿勢には、ほとほと呆れてしまう。読者や視聴者を根本的に馬鹿にしていなければ、こんなマネはできない。

< Tsunamiの破壊力 >

 ピピ島が壊滅していないからといって、津波の破壊力はたいしたことはなかった、と言っているのではない。
 その破壊力は、想像をはるかに超えるものだった。
 津波の力が集中した地域は、ほぼ完璧に破壊された。
 しかし、津波の破壊力は、一様ではない。海底の地形や陸上の地形、あるいは建物群の密度、配置、構造などによっても破壊力は異なるはずだ。そこのところは、素人なので安易なことは言えない。でも、ピピ島は山岳島であり、地形の起伏が、多くの建物群を津波から守ったことくらいは少し歩けばわかる。
 津波の破壊力は、島で唯一の平野部に集中したのだ。

 平野部に建っていたバンガロー群は、すべてなくなっていた。バンガローは一戸建ての高床式の構造であるため、圧力に弱い。瓦礫を撤去したあとの平野部分は、ほぼ更地になった。かつてそこに建物群があったと説明されても、以前の姿を知らない人には、イメージすることは難しいだろう。もともと何もない風景だったように見えるのだ。
 今回、ピピ島を選んだのは、5年ほど前に訪れたことがあるからだ。以前の状態を知っている方が、被害の実態を具体的にイメージしやすい。記憶の定かでない部分もあるが、はっきり覚えている場所もある。そして、そこにはいまは何もないのだ。
 しかし、平野部でも、建物の密集していたところは、建物同士が支え合い倒壊せずに残っている。また、鉄筋コンクリート構造なら、建物が倒壊する危険はない。ただし、規模の大きなホテルは電気、上下水道などの設備が破壊され、復旧するには時間と費用がかかりそうだ。

< 観光客は10% >

 ピピ島では観光業が復旧し始めているが、観光客数はかつての10%程度という話だ。しかし、僕の印象ではもっと少なく感じた。島のメインストリートでは、通りを歩く観光客より、地元の人の数の方がはるかに多い。
 かつて、日光浴をする人で埋め尽くされていたトンサイ湾のビーチには、数人から10数人ほどがいるだけだ。湾を走るジェットスキーもなければ、急ターンを繰り返しながら子供たちを振り落としていたバナナボートもない。遠浅の静かな湾が広がっているだけだ。
 おそらくバンガローやレストラン、タクシーボートは、営業するだけ赤字をだしているだろう。僕が泊まったロッジは30棟ほどのバンガローが建っていたが、夜、五つほど明かりが点いているだけだった。レストランもそれぞれちらほら客がいるという感じだ。
 かつては、ピピ島一島だけでも、年間計り知れない外貨が落ちていたはずだ。
 それでも、クラビから日に二回来る定期便(かつては四回)で毎回数十人のツーリストがきている。プーケットからも日に二回定期便がある(こちらの方は日帰り客が多いようだ)。

 タイ政府は、一年半でピピやプーケット、カオラックなどのリゾートを復旧する計画だが、地元の人々は3年はかかると覚悟している。
 数年前にピピ島を訪れたことのある友人は、
「大勢の命が失われた海では、とても泳げない」
 と言う。
 もちろん、泳ぐ泳がないの問題ではなく、そういうところにはとても観光気分としては行けない、ということだ。
 ハードの復旧は簡単なことだ。
 しかし、人の心はそうはいかない。
 ”Tsunami”の文字が人のこころから消えることがあるだろうか。
 また、消し去るべき記憶でもないはずだ。
 ピピやプーケットにかつての賑わいが戻るのかどうか、僕にはわからない。
 一年半で戻るかもしれない。
 あるいは、数十年、静かな眠りにつくのかもしれない。

魔法の箱

2005年06月17日 22時57分26秒 | 写真:アフガニスタン

軒を連ねるフォトラボ。
はたして、競争できるほど現像やプリントの需要があるのだろうか。
ないと思う。
カメラを持っている人は、国民のいったい何%だろうか。
カンボジアでもそうだったが、復興が始まるやいなや、
突然フォトラボがあちこちに開店した。
アフガニスタンでも同じだ。
やたらフォトラボが目立つ。
これは先行投資ということなのだろうか。
ビジネスの世界のことは良くわからない。
フォトラボは庶民には、あまり縁のないところである。



庶民は、街頭証明写真屋さんを利用する。
こちらは、そこそこ繁盛している。
こんなもので、本当に写真が撮れるのか?と思われるであろう。
撮れるのである。


1.
撮影する。
  フィルムは使わない。
  印画紙に直接撮影する。
  この箱、いやカメラはシャッターも絞りもない。
  キャップを手で開け閉めする。
露光時間は約二秒。


2.
現像する。
中で何が行われているかは想像におまかせする。


3.
反転像が出来上がる。
ネガフィルムならぬネガプリントである。
これを板にペタリと張り付け、この反転像を撮影する。


4.
また、現像する。 
 1、2の人と服装が違うように見えるのは、あなたの眼の錯覚である。


5.
はい、正転像のできあがり。
3の反転像とこの正転像が別人に見えるのも、あなたの眼の錯覚である。
一枚、5アフガニー(1ドル=49アフガニー)。
  魔法の箱、僕もひとつ欲しい。

肖像

2005年06月15日 17時08分48秒 | 写真:アフガニスタン
 カブールの街を流していると、頻繁に声をかけられる。
「オレを撮ってくれ」 「こっちも撮ってくれ」 「野朗も撮ってやれ」
って感じで。
友人にもらったコンパクトデジカメがなければ、フィルムはすぐに底を突いただろう。
これはそうして撮られた(された)写真のごく一部である。

























































































































































人質解放によせて

2005年06月11日 21時15分13秒 | ●アフガニスタン05
 朝、バンコク・ポストのページをめくっていると、5ページに
"Freed Italian heads home"
 という見出しが飛び込んできた。

 カブールで誘拐されたイタリア人NGOワーカーが、昨日解放され、イタリアに戻ったという記事だった。テレビのない生活なので今日になって知った。

 政府関係者は犯行グループと接触し、イスラム聖職者も人質解放を訴えていた。三週間を経てようやく無事開放された。政府は、身代金は払っておらず、警察はもっか犯行グループを捜索中とあった。

 報道内容が事実だとだとすると、犯行グループは大胆な割にはマヌケだということになる。そんな奴らだとは、僕にはとても思えない。彼らは、残虐で欲深く臆病だ。目的も達成できず(逮捕されたリーダーの釈放)、金にもならず、おまけに今後も追跡される、そんな条件で人質を解放するだろうか。彼らは、十分な金を得、追跡の危険もないからこそ、開放したのだ。
 まあ、そんなことはどうでもいい。
 とにかく、無事開放されたのだ。

 今回の誘拐事件の重要な点は、犯行がタリバーンでもテログループでもなく、単なる犯罪組織によって易々と行われたという点だ。しかも、同じグループにより、以前、誘拐未遂事件も発生していた。犯行グループは次のターゲットを探しているということは広く知られていた。それにもかかわらず、犯罪組織を野放しにし、今回の誘拐事件を発生させてしまった。

 カブールの治安管理とは、その程度のものなのだ。
 テロにばかり気を取られている間に、犯罪組織やその予備軍はカブールに確実に根を張ったのだ。テロリストは少ないが、犯罪者やその予備軍はうじゃうじゃいる。
 わがもの顔で、タダ食いタダ飲みをするグループ。バザールの飲食店や商店、露店に「用心棒代」を請求する酷薄な目つきの男。軍人でも警官でもないのにカラシニコフを下げ、フレンチフライ(フリーダムフライ?)をたかる男。

 おそらく大小様々なグループが存在するのだろう。そして僕が目撃した限りでは、こうしたグループを形成しているのは、特定の地方出身者だ。つまり「官軍」の支配地域出身者だ。しかも「官軍中の官軍」と言っていい。だから、市民は何をされても黙っているしかない。

 たとえは相応しくないが、いわば「新撰組」みたいなものだ。
 知らない人には人気があるが、実際は酷薄で残虐な集団なのだ。
 新撰組の主要なメンバーは同郷出身者で固められた。彼らは官軍をいいことに京都で乱暴狼藉、不法の限りを尽くした。京都人からは「壬生浪(みぶろう)」と呼ばれ、恐れられ、軽蔑された。壬生とは新撰組の屯所があった地域名だ。新撰組内部では私刑も頻繁に行われた。新撰組は、決してロマンチックな集団ではない。

「官軍中の官軍」をダシに、カブールで狼藉を働く連中も、海外でのイメージはたいへんいい。なんといってもソビエト軍も歯が立たず、そしてタリバーン打倒の「ヒーロー」なのだから。
 京都人が新撰組を陰で「壬生浪」と吐き捨てたように、カブール市民は、狼藉を働く集団の背中に向かって、「パンシーリ」と聞こえないように吐き捨てる。
 ただ、その地域出身者がすべて狼藉を働くと言っているのではない。一部の連中が「官軍」をダシに、好き勝手を働いているのだ。

 一部の特権者の横暴がまかり通る風潮は、同様の無法者を排出するものだ。カブールはどんどんこうした無法者に侵食されている。
 米軍やISAFはカブールの治安維持に何の役割も果たしていない。カブール警察も市民を犯罪から守っているわけではない。「官軍中の官軍」はアフガン軍、警察の中枢でも大きな権力を持っている。同郷の犯罪組織は、警察内にも大きな影響力を持っているという指摘もある。このままではカブールは、犯罪組織に乗っとられることにもなりかねない。

 人質を無事取り戻したことは、たいへん評価する。
 しかし、犯罪組織に対して何の有効な手立ても取ってこなかった治安体制こそが問題の根底にある。そしてカブール市民は、こうした特権的無法者に対し、いまのところ何の自衛手段も持たない。

 街は整備され、便利になり、快適になる。今は、様々な期待感によって、市民の不満はあまり表にでてこない。しかし、特権的無法者の横暴がどんどんエスカレートしていけば、市民はかならず自衛し始める。彼らは、すでに自衛のための武器は所持しているのだ。拳銃程度なら国民の七割が持っているという。あるいは一家に一丁はあるという人もいる。市民の怒りと我慢が限界に達したとき・・・

 市民の安寧をおろそかにする政府は、かならず大きな混乱をもたらす。


失われた雇用

2005年06月10日 20時44分04秒 | ●アフガニスタン05
 復興援助真っ只中のアフガニスタン。 
 アフガニスタンのいたるところで、ビル建設や道路整備等が急速に進められている。
 約47億ドルの国家予算の大部分が、援助国が直接管理する復興事業に費やされている。
 アフガニスタンにとって大きな雇用を生んでいるはずだ。

 が、実際はそうでもない。
 急ピッチで進められる様々な復興事業には、多量の熟練技術者や熟練労働者が必要になる。
 そうした人材は、アフガニスタン国内にはいない。
 戦争、内戦、鎖国を経てきたアフガニスタンには、技術者を養成する機関も、職能を磨く機会もなかった。高度な技術や熟練した職能は途絶えてしまったのだ。もちろん、施工を受注できるような企業もない。

 先進国の行う復興事業は、援助各国の企業が管理する。そして実際に施工するのは、近隣国から来た施工業者であり、技術者や熟練労働者である。
 いま、アフガニスタンで復興事業の施工を行っているのは、ほとんどが隣国パキスタンの企業だ。技術者や労働者もパキスタンから来る。アフガニスタン人には、単純労働しかない。
 つまり、膨大な復興資金は、元受の先進国の企業と下請けのパキスタン等の施工業者に落ちる。アフガニスタンにはほとんど落ちないのだ。

 それでも、無償援助で電気、上水道、道路等各種インフラが整備され、市民生活が楽になるのだからいいではないか、という見方もできる。
 しかし、それはこちらの見方であって、アフガニスタン人の見方ではない。彼らは感謝し喜びつつも、一方で割り切れないものを感じている。
 つまり、パキスタン人に仕事を奪われ、パキスタンばかりが得をしている、と彼らは感じている。
 復興事業に従事するパキスタン人のことをアフガン人が悪く言うのを、僕は頻繁に耳にした。

 ニューズ・ウィークの記事に端を発したジャララバードでの暴動の際、パキスタンの領事館も焼き討ちに遭った。グアンタナモでのコーラン冒涜とパキスタンとは何の関係ない。しかし暴動を機に、パキスタンへの不満が噴出したのだと考えている。焼き討ちの煽りでカブールのパキスタン大使館も5日間閉鎖された。

 パキスタンで難民生活を送り、教育を受けてきた帰還難民の若者の中には、こうしたパキスタンに対する悪感情に対して、少なからぬ危機感を感じている者もいる。
 彼らは、アフガニスタン人でもあり、「外国人」でもあるのだ。
 英語やコンピュータ操作といった職能を持つ帰還難民の若者たちは、米軍や国連、外国NGOで働き、一般アフガニスタン人よりもはるかに高給を得ている。
 パキスタンへの悪感情がさらにつのっていけば、彼ら帰還難民への反感も生まれるかもしれない。
 ただでさえ多民族国家のアフガニスタンに、あらたに亀裂の種が加わることになりかねない。
 

単身赴任の帰還難民

2005年06月08日 19時21分39秒 | ●アフガニスタン05
 8年前にくらべ、アフガニスタンでは英語を話す人が圧倒的に増えた。
カブールの街を歩いていると、頻繁に若者から英語で話しかけられた。

 しかし、かつては英語を話す人はほとんどいなかった。戦争と内戦、そして鎖国。アフガニスタンにはイスラム教育以外の教育というものが、ほぼ存在しなかった。したがってアフガニスタン国内で育った若者はほとんど英語を話せない。

 英語で話しかけてくる若者の多くが、ようするに帰還難民だった。そして英語を話す彼ら帰還難民の若者たちは、米軍や国連、NGO、外国企業で働いていた。給与水準はアフガニスタンではかなり高い。こうした外国機関や企業で雇用を得るには、英語やコンピュータ操作がほぼ必須条件となる。
 アフガニスタン国内で育った若者には、どちらの職能もないため、こうした高給の職を得られる機会はまずない。

 アフガニスタンで割のいい職を得ているものの、20数年間を外国で過ごしてきた彼らは、ある種の疎外感を味わっている。彼らはアフガニスタン人であってアフガニスタン人でない。アフガニスタンの社会に受け入れられているとも感じていない。

 パキスタンで高等教育を受け、現在外国NGOで働く帰還難民の二十歳の男性は、
「ここでは、わたしは、あなたと同じ外国人なのです。パキスタンで生まれ育ったわたしは、少し違った言葉を話します。ここでのしきたりや習慣も知りません。この国の人々が怖くなることがあります」
 と語った。
 彼は、アフガニスタンの人々との間に、一種の溝を感じていた。
 家族の中で、アフガニスタンに来ているのは彼だけだった。家族はパキスタンのカラチにいる。

 僕が接した帰還難民の若者のほとんどが、いわば「単身赴任」だった。家族とともにアフガニスタンに帰還した者は少ない。高給の仕事があるのでアフガニスタンに来たが、そのままアフガニスタンに定住するかどうかも決めかねているという感じだった。
 彼らが働く米軍、国連、NGO、外国企業というのは安定雇用の場ではない。あくまで臨時雇いの職なのだ。いずれは、職を失うのがわかっている。そのとき、彼らは生まれ育ったパキスタンへもどっていくのかもしれない。難民認定を受けた彼らは、パキスタンを自由に行き来できる。

「単身赴任」の彼らを「帰還難民」と呼ぶのは、あまりふさわしくない。
 アフガニスタンに定住するかどうかは、彼ら自身未知数なのだ。
 彼らは逆出稼ぎ労働者と言うべきか。
 パキスタンでは、難民の身分であり決して安定した生活は保障されない。
 しかし、アフガニスタンでの生活にも大きな不安を感じている。

 当分の間は、多くの難民がパキスタンとアフガニスタンとを天秤にかけながら生活することになるだろう。
 いまだ300万人の難民が帰還をためらっている。
 ほとんどの難民が、アフガニスタンでは職がないこと、住居がないことを理由にあげている。



歪んだ経済構造

2005年06月03日 21時33分06秒 | ●アフガニスタン05
 アフガニスタン滞在中ずっと、妙な違和感を感じ続けた。
 人や車や物はあふれているのだが、人の生活の匂いというものが流れていない。とても抽象的な表現だが・・・。この違和感を何とか具体的に表現するとしたら、消費者層が形成されていないのに、物だけが先行して存在している状態、とでも言えばいいのだろうか。都市生活に必要な消費財は、すでに揃っているが、それを購買する消費層はいまだ登場していない。そんな風に見えるのだ。供給過剰という言葉は当てはまらないような気がする。北極点の周りをバザールが取り囲んでも、それを供給過剰とは言わない。
 20年に及ぶ戦乱とその後のタリバーンの鎖国時代によって、アフガニスタンには消費経済というものが形成されなかった。タリバーン政権の崩壊からまだ3年しか経っていない。産業も雇用もないところに、消費層が形成されているとはとても思えない。

 お店の人に聞いてみた。
「商売の具合はどんなものですか?」
「リトル、リトルだね」
 たいていがそんな答えだ。
 店番をしながら道行く人々を眺めるのが、一日の大半の仕事という感じだ。それでも、彼らの表情は明るい。これから商売はよくなるという期待感があるからだ。
 彼らが期待感を持つのも当然だろう。街は目に見えて、どんどん整備されている。瓦礫は撤去されビルが建ち、20年ほど車や戦車が掘り返していた道路が、またたくまに舗装されていく。通信などなかった国に、モバイルが登場し、本体(とICチップ)さえ買えば、誰でも歩きながら通信ができる。テレビを買ってケーブルに加入すれば、人気のインド映画をいつでも見ることができる。ケーブル料金は、月200アフガニー(4ドル)ほどだ。CNNやBBC、ディスカバリー・チャンネルだって見ることができる。たった3年で便利で自由な世の中になったものだ。
 これからどんどんよくなる。便利になる。そして豊かになる。
 人々はそう信じている。
 はたして、そうだろうか。

 アフガニスタンの国家予算47億5000万ドルの93%は国際援助金で賄われている。ただし援助金の四分の三は援助国自身が管理する復興事業に費やされる。アフガニスタン政府が自由になる予算はごくわずかしかないのだ。関税も所得税もいまのところない。税収など存在しないのだ。ただし、軍閥は、支配地域で勝手に税を徴収しているようだ。

 先進各国は、いまはアメリカの手前、アフガニスタンを援助しなければならない。アフガニスタンの存在価値は、中央アジアの石油を安定的にパキスタンの積出港に送るためのパイプライン建設にある。アフガニスタンは地政的な要衝なのだ。しかし、それはアメリカの国益であって、他の国の国益には関係ない。ひとえにスーパー・パワー=アメリカのご機嫌を損ねないために、アフガニスタンの復興援助に参加しているにすぎない。アフガニスタンの民主化を真に願っている国があるのだろうか。実も蓋もない言い方だが、それが事実だ。

 各国の援助がいつまで続くかはわからない。援助が終了したあと、インフラのメンテナンスにまわす資金があるかどうかもあやしい。数年でインフラは使い物にならなくなるかもしれない。
 ある国が舗装した道路は、ほんの数ヶ月で痛み始め、「見てくれ、これを。まるで10年経った道路のようだ」と車を運転しながら憤懣を述べる人もいた。「援助はありがたい。とても感謝している。しかし、巨額の援助金は、結局、粗悪な工事をする外国企業を潤しているだけではないのか」と。

 いま最も必要とされているのは、できるだけはやくひとり立ちしていけるように、農業と産業を整備することだ。農業と産業の育成は、安定した雇用を生む。しかし、そんな援助を、僕は見たことがない。開発途上国に形成された主要な産業は、破壊される傾向にある以上、アフガニスタンに大規模な雇用を創出する産業が形成される希望は非常に少ない。
 途上国の役割とは、「生産」や「自立」ではなく、先進国の「市場」となることにある。「市場」となる程度の復興しか許されないのだ。

 ただし、前回述べたように、アフガニスタンには世界の需要の75%を生産している「主産業」がひとつだけある。
 ケシ栽培だ。
 この汁液はアヘンやヘロインの原料となる。
 唯一、タリバーン政権時代、このケシ栽培のほとんどが消滅したと言われている(これには異論もある。タリバーンを評価する一片の事例も許されないのかもしれない)。タリバーン政権の崩壊とともに、ケシ栽培は急速に再開された。

 ケシ栽培とその密輸による利益は、年間23億ドルに達すると推計されている。麻薬ビジネスは、アフガニスタンの国家予算の半分規模に達する。
 アフガニスタンの表の経済が国際援助資金なら、裏の経済は麻薬資金だ。しかし、この表と裏の資金の区別はほとんどつかない。マネーロンダリングの必要などなく、麻薬で得た資金は、そのまま表の経済で流通するからだ。
 数字だけが存在して、実際は外国企業の懐に消えていく援助資金よりも、麻薬資金こそがアフガニスタンの経済を支えているという観測もある。いま麻薬ビジネスを撲滅すれば、アフガニスタンの経済も同時に破壊することになる。カルザイ政権のケシ撲滅キャンペーンは政治的ポーズにすぎない。
 このままの状態が続けば、アフガニスタンの経済や政治は、麻薬組織や軍閥に乗っ取られることにもなりかねない。しかし、そうなったとしても、アメリカの国益には影響しない。

 アフガニスタンで、僕がずっと感じていた違和感とは、脆弱な表の経済と強力な裏の経済が相互に作り出す歪んだ構造によるものなのかもしれない。表の経済によってインフラは整備されていく、裏の経済によって多量の輸入消費財が街にあふれる。しかし、国民には雇用もなければ、消費にまわす蓄財もない。

 いまは、外国の援助によって、多くのものが目に見えて良くなり、改善され、新しくなっている。人々に希望を与えるには十分な変化だ。その希望と期待によって、人々は現在の窮乏生活や治安の悪化に耐えている。しかし、忍耐はいつまでも続くものではない。希望や期待が裏切られたと知ったとき、いったい何が起こるだろうか。

カブールの治安

2005年06月01日 22時08分41秒 | ●アフガニスタン05
 カブールに着いて4,5日は、取材許可や式典、ビザ延長手続きなどで、あまり写真に集中できなかった。
 特にビザは15日間だったので、延長手続きが済まなければ落ち着かない。
そういう性分だ。

 報道関係者の場合、ビザの延長には外務省の延長許可が必要になる。本来はビザが切れる2,3日前に行うべきものなのだが、もしカンダハールで不測の事態が発生すれば、その間にビザが切れてしまうかもしれない。そうなると面倒だ。お役所は一見して、前時代的で非効率的かつ官僚主義的な空気が流れている。いざというとき、まごつかないために、あらかじめ備えておくのが得策だ。
 
 延長許可書をもらって、内務省のパスポート・オフィスへ。西部劇に出てくるメキシコの警察署といった感じだ。銀行振り込みの用紙を渡され、アフガニスタン銀行へ。10ドルを振り込む。銀行はあまりにも複雑怪奇なシステムのため、振込みに一時間ほどかかった。どのくらい時代を遡ったのかよくわからない。タイム・トラベルがお好きな方にはお薦めだ。振込み証明書をもらって、パスポート・オフィスへもどる。こうしてようやくビザ延長手続きは完了した。
 しかし、パスポートの預かり書などはない。もし、パスポートをなくされても、こちらには延長のために預けたと証明するものはなにもない。オフィスにはよくわからない人が頻繁に出入りしていた。妙にそういうことが心配になる。そういう性分なのだ。

<犯罪集団を形成する「ヒーロー」>
 ムジャヒディン勝利式典とビザ延長が終わり、ようやくカメラを下げ、気の向くままに街を歩いた。
 僕はどこを歩いても、歓迎され、いたるところでチャイをいただき、長々と話を聞いた。僕が歓迎されていたというより、日本人が歓待されているわけだ。日本人は、非常に友好的にむかえられる。
 カブールの街は、一見平穏に見えた。
 伝え聞く感じとは、かなり違った。もっと緊張感があるかと思っいたのだが。しかし、街のいたるところに武装警官や武装警備員がいる。武装警備員を伴って食事をしたり、買い物をしているビジネスマンも見た。その必要がある街なのだとわかる。
 しかし、カブール市民の歓待ぶりに、僕のガードは下がっていった。それでも、アフガニスタンの状況を侮っていたわけではない。人通りのない通りは避け、暗くなってからは絶対に出歩かなかった。

 カブールには、職とチャンスを求めて、大勢の人々が流れ込んできている。いわゆる人口の都市集中がはじまっている。世界のどの都市でもこの場合、治安が悪化するのが常だ。
 それを念頭においた上で、常に行動していた。それでも、のちにカブールの治安の悪さを身をもって体験することになった。撮影中、ピストル強盗に遭ったのだ。その地域の若者三人がついていてくれたにもかかわらずだ。さすがに予想を超えた事態だった。
 この事件によって、いくつかのことを学んだ。
 まず、こうした犯罪に携わるのは、たいてい「ヒーロー」であること。
 そして、彼らは警察のことなど、現行犯逮捕以外はほとんど意に介していないこと。
 したがって、機会があれば躊躇なく犯罪を行うこと。
 といったところだ。

 タリバーンが登場するまでの内戦の2年間、アフガニスタンの治安は最悪の状態が続いていた。カブールの街は破壊され、虐殺も発生し、約5万の市民が犠牲になった。各軍閥が支配する地域内でも、武装強盗が跋扈し市民生活を脅かした。軍閥そのものが乱暴狼藉の盗賊とも言えた。都市間の移動も常に危険が伴った。この時期、多量の難民が発生した。
 こうした状況を一気に改善したのがタリバーンだった。タリバーンの治世は、「道路にお金を置いても誰も手をつけないくらい治安がよかった。三日後でも、まだそこにある」と人が言うくらい治安は改善された。移動の安全も確保された。

 しかし、いまや、かつての軍閥は支配地域だけでなく、中央政府内でも権力を持つにいたった。
 軍閥(北部同盟各派)は、アメリカの軍事的、資金的支援のもと、対タリバーン戦争に勝利した。欧米のメディアでも対タリバーン戦争の「ヒーロー」として喝采された。そのため現政権は、軍閥に一定の権力を与えざるを得ない。とくに、軍、警察での軍閥の権力は大きい。アフガニスタン市民にとっては、かつての乱暴狼藉と虐殺の軍閥が、「ヒーロー」としてさらにパワーアップして、戻ってきたのだ。アフガニスタンの治安が悪化するのは、理の当然といえる。

 中央政府の権力は微弱だ。
 軍閥は自由に軍事力を行使し、テリトリー内で麻薬を栽培し、それを密輸し、また勝手に税金も徴収している。つまり各軍閥勢力には、アフガニスタンの憲法も法も及ばないのだ。
 カルザイ大統領がコントロールしているのは、カブールとその周辺地域だけだ。しかし、そのカブールでさえ、日々治安が悪化している。
 武装強盗団や犯罪組織は、軍閥勢力から派生している。つまり、犯罪集団は、軍閥、そして軍や警察の中にも有力な仲間を持っているということだ。しかも彼らは「ヒーロー」としてこの街に戻ってきたのだ。
「ヒーロー」たちが軍服を羽織り、街を闊歩し、タダ食いタダ飲みをしているところを、僕は何度も目撃している。若者から、いい年をしたオヤジまで。飲食店に「ミカジメ料」を要求している「ヒーロー」も目にした。
 この「ヒーロー」達の出身地の軍閥の代表者(故人)は、公式に「ナショナル・ヒーロー」とされている。したがって彼ら犯罪集団の助長はとどまることを知らない。市民にとってこんな恐ろしいことはない。
「ヒーロー」による横暴や凶悪犯罪が拡大していけば、大きな社会不安となり、民族的反感や対立が拡大する。彼らは「官軍」ではあるが、民族的には少数派なのだ。「賊軍」の多数派民族の堪忍袋の尾が切れたとき、アフガニスタンはまた混乱の中に放り込まれるかもしれない。アフガニスタン国民のほとんどが、何らかの武器を所有しているのだ。

<市民の安全に無関心の米・国連>
 アメリカや国連は、対テロにばかり気を奪われ、市民の安全には無関心だ。悪く言えば、自分たち外国人に危害が及ばないものはどうでもよい、ということだ。

 現在のアフガニスタンは、米軍とISAF(国際治安支援部隊)のプレゼンスと援助国資金によって、かろうじて国家としての体裁を保っているが、その実態は、いまだ国家内国家が乱立する群雄割拠状態なのだ。この国家内国家を統一することは、ほぼ不可能だ。

 なぜなら、この国家内国家群は、国家よりも資金を持っているからだ。2005年度のアフガニスタンの国家予算は47億5000万ドル。しかもそのうちの四分の三は、援助国が直接管理する復興事業に費やされる。つまり、アフガニスタン政府が自由にできる資金はごくわずかということだ。
 しかし、軍閥や麻薬組織はケシ栽培とその密輸で、年間23億ドルを稼ぎ出している。アフガニスタンの国家予算の半分に達する規模だ。軍閥と麻薬組織は、この資金を全額自由に使えるのだ。

 ケシ栽培は、タリバーン政権時代にはほぼ壊滅し、年間の生産量は190トンだった(これに反対する説もある)。しかし、北部同盟の勝利とともに一気に栽培が復活し、いまや年間4000トンを生産している。これは世界の生産量の75%にあたる。

 カルザイ大統領は、ケシ撲滅キャンペーンを展開しているが、その効果のほどは、たいへん怪しい。ケシ栽培業者は、宣戦布告的な発言さえしている。すでに、ケシ撲滅部隊に死者もでている。年間23億ドルの巨大麻薬ビジネスを根絶することなど、いまのアフガニスタン政府には不可能だ。したがって、ケシ撲滅も軍閥の解体も不可能と言える。

 アフガニスタン政府は実質的にアメリカ政府の統治下にある。そしてアフガニスタンの役割とは、中央アジアの石油をパキスタンの積出港に輸送するためのパイプライン建設にある。アメリカ政府にとっては、将来建設されるパイプラインの安全さえ確保できればいいのだ。軍閥や麻薬組織がパイプラインを爆破する危険はない。タリバーンとテロ部隊さえ抑止すれば問題ない。アフガニスタンの民主化は単なる建前にすぎない。たとえ軍閥や麻薬組織に国家が乗っ取られたとしても、パイプラインの安全には問題がない。そういうことだ。

 今後ますますアフガニスタンの治安が悪化することは間違いない。いまは、アフガニスタン国民は「フリーダム」と「デモクラシー」への期待で何とか我慢している。しかし、いつまでたっても生活が楽にならず、「官軍」の威を背景にした蛮行や凶悪犯罪が市民生活を脅かし続ければ、いつか国民の憤懣が一気に爆発する恐れもある。
 しかし今後も、アメリカ政府、国連、カルザイ政権が国民生活の安定的向上に目を向けることはないだろう。

 5月16日にカブールでイタリア人女性が誘拐された。カブール在住の全外国人に激震が走った。ついにアフガニスタンでもイラク型の誘拐が始まったか、と。しかし、そうではなかった。彼女を誘拐したのは、タリバーンでもテロ組織でもなかった。一般の犯罪集団なのだ。目的は、逮捕された組織幹部を取り戻すことだ。しかも、この犯罪組織による外国人誘拐は、あらかじめ予想されていたことなのだ。にもかかわらず防ぐことができなかった。
 アフガニスタン市民の安全をないがしろにしてきた占領政策のツケが、こういうかたちで露呈したと言える。
 彼女は、アメリカの占領政策の犠牲者だ。
 一刻も早く開放されることを切に願う。