報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

パキスタンへ

2006年01月17日 22時04分11秒 | 軽い読み物
これからドムアン空港へ向かいます。
これで6度目のパキスタンですが、
何かはじめての国へ行くような気分です。
911以降、かの地もひどく事情が変わったように感じます。
二週間ほどで戻る予定です。

なかつかさ




バブルもハイパーインフレも国策

2006年01月17日 00時17分02秒 | □経済関連 バブル
日本経済は一見何事もないかのように見えますが、国家財政という視点から見ると、事態は少々違ってきます。すでに償還不能なほど国民から借金していることから、国家財政は事実上破綻していると言えます。ごく一部の専門家を除いて、誰もそのことを言わないだけです。

日本の財政構造は、日本経済の絶頂期に出来上がったシステムです。しかし、バブル崩壊以降、巨額の国債を発行していることから、この構造はすでにまったく機能していないと言えます。国家財政は、国民の金融資産を食い潰しながら賄われてきたというのが実情です。国民の金融資産は有限であり、食い潰された後には何も残りません。

国家の借金も当然返済しなければなりません。永遠に借金をし続けることは不可能です。今回問題にしているのは、日本政府が抱えている莫大な借金を返済する方法があるのか?ということなのです。

これは、製造や商取引など日本経済の活動とはまったく別の問題です。景気に関係なく、国家が償還不能なほど借金を膨らまし続ければ、いつかは財政が破綻します。そしてそれはすでに来るところまで来ているというのが専門家の見解です。

国家が莫大な借金を解決するために執る策は、
①緊縮財政と大増税
②ハイパーインフレ
の二つしかないようです。

懸命な政府なら「緊縮財政と大増税」を選ぶでしょう。しかし現政権は緊縮財政などする気はなさそうです。「小さな政府」というのは単なる見せかけで、まったく緊縮されていません。このような状態では、仮に大増税をしてもほとんど意味がないでしょう。国家債務は減らず、いたずらに国民が苦しむだけです。

「緊縮財政と大増税」をする気がないとすれば、残るはハイパーインフレしかありません。ハイパーインフレとは、勝手に生じるものではなく国策です。国家による借金の踏み倒しです。仮に国家債務を800兆円としても、すでに償還不能なのです。ましてや、1600兆円や2000兆円といった規模なら答えは明白でしょう。

かつて政府は、自らバブルを創造し、それを極限にまで膨らませ、そしてコントロールを失い、破滅を招きました。その結果、莫大な国民の富が失われました。バブルは決して、勝手に膨らんで勝手に弾けたわけではありません。バブルは国策だったのです。誤った国策のため、日本は90年代をまるまる棒にふりました。しかしバブル絶頂期、誰がバブルの崩壊を危惧したでしょうか。

ハイパーインフレも同じです。それは、国家の手によって引き起こされ、バブルの比ではないほどの打撃を国民に与えるでしょう。しかし、誰もそうした危惧を持っていません。

警鐘を鳴らしている専門家は大変少ないです。ほとんどのエコノミストは、日本は安泰であるかのように取り繕っています。しかし腹の内では、国家財政が遠からずたち行かなくなることを知っているはずです。

それを防ぐ方法があるとしたら、国民がその危険性を知ることだと思います。国民が、”ハイパーインフレなんて起こるはずがない”と高をくくっていればいるほど、その危険は増し、それは突然やってきます。バブル崩壊のように。

ハイパーインフレを信じる信じないにせよ、そういうことを言っている奴がいる、ということくらい念頭においても損はないと思います。


※これはコメントへの返信として書いたものですが、長くなりすぎましたので独立した記事としました。

日本の財政について 

2006年01月15日 00時04分35秒 | □経済関連 バブル
日本でのネット中毒気味の環境から、一転してネット接続のない環境で長らく暮らしている。すでにネット環境なしでは何もできないことを痛感する。日本の新聞やテレビなど、とっくの昔に見限ってしまったが、ネット環境は死活問題だ。いまネット・カフェで少しは調べものもするが、必要なときに必要なサイトを閲覧できないというのはかなり不便なものだ。

昨日、まとめてダウンロードした立花隆氏のサイトを読んでいて、”やはり、そうか”と思う記事があった。日本を出るまでずっと、日本の財政について調べていたのだが、書けないまま時間切れとなってしまった。新聞やテレビが絶対に触れない日本の危機的な財政状況について、立花氏のサイトから少し引用したい。


『いま日本経済に充満しているのは、いちど火が点いたら止めようがないほどの大爆発を起こすに違いないような、歴史上いまだかつてない量の過剰運動流動性のガスである。

それは驚くほどの長期間にわたってつづけられてきた、ゼロ金利政策、量的緩和政策によってもたらされた。それは日本を大破綻から救うために人為的に作り出された運動流動性であるが、それがもうギリギリの危険水準まできていることは、日銀がもっと流動性を供給しようと、買いオペをしても、札割れを起こすという現象が、しばらく前から何度も何度も起きているという事実によって証明されている。

ハイパーインフレで国民は貧乏のドン底に

この状況を目ハシよく利用して、たまげるほどの大儲けをすでにしている連中の話が大衆的なメディアに載るようになる(すでにそれは起きている)と、大爆発⇒大破綻が近いのである。

日銀首脳は、リアルなデータにもとづいて、この危険な状況を誰よりもよく知っているが故に、繰り返し警告を発しているのだろうが、それに反発する政治家連中は何を考えているのだろう。

事態がよく理解できないバカ(経済音痴)である可能性も強いが、もしかするとあの連中が心中秘かに考えていることは、日銀の行動をおさえることによって、日本経済を大爆発=大破綻(ハイパーインフレ)に導き、それによって日本経済の最大の難問、すなわち救い難いレベルにまで達した財政破綻を一挙に暴力的に解決してしまおうとしているのではないかとさえ思えてくる。

それは、あの大戦争(赤字国債のたれ流しによって遂行した)に敗れた後に日本に現実に起きたことで、政府は、とても返済不可能な額に積みあがってしまった赤字国債を、ハイパーインフレで全部チャラにしてしまったのである。それは言葉を変えていえば、国民のすべてを貧乏のドン底に追いこみ、その犠牲によって、すべてを清算したということである。

口に出しては、誰も死んでもそうはいわないが、内心もうそれしか手がないと思っている政治家が少なくないだろう、と私は疑っている。

だいたい、小泉首相があと一年で何がなんでもやめるといっているのも、ポスト小泉の最有力候補といわれる安倍晋三官房長官が、言を左右にしてポスト小泉になかなか手をあげないのも、この破局が目の前に迫っているのを知っているからではないのか。破局を避けようとするなら、大増税しかないのだろうが、政治家たちはそれもやりたくないのだ。』

立花隆のメデアソシオ・ポリティックス
2006年の日本経済を展望する量的緩和巡る政府・日銀の攻防
http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/051226_kouboh/


簡単に言ってしまえば、いま日本政府が抱えている約800兆円(実際は1600兆円とも2000兆円とも言われている)の借金をチャラにする最も手っ取り早い方法がハイパーインフレなのだ。それは極端に言えば、日本の通貨を紙切れにしてしまうということだ。それによって日本国債も紙切れとなり借金は消える。もちろん、日本国民の預貯金も紙切れになり、日本国民は貧乏のどん底に追いやられる。立花隆氏が言っているのはそういうことだ。日本の財政の専門家は、はるか以前から言い続けている。

なぜ日本政府はハイパーインフレを画策しているかと言えば、すでに日本政府の借金は償還不能な域に達しているからだ。つまり、日本の財政は事実上破綻しているのだ。なぜ、実際に破綻しないかと言えば、日本国民の金融資産1400兆円を食い潰して誤魔化しているからだ。もし、日本政府の借金が800兆円なら、まだ600兆円あることになる。しかし政府の借金は、実際は1600兆円あるいは2000兆円と専門家は見積もっている。すでに国民の金融資産は食い潰されていることになる。明日にでも、日本が破綻しておかしくはないのだ。

立花隆氏が「~この破局が目の前に迫っている~」と表現しているのも、この事実の裏づけを取っているからに違いない。

氏が指摘しているように、政府は日銀に圧力をかけ、過剰な通貨供給を行わせ、かつ国民をマネーゲームへと煽りに煽って、日本を破局へと導いているように思える。小泉首相がなぜこの絶頂期に退任しようとしているのかという答えも、その破局の責任からとっとと逃れるため、と考えることができる。

これは架空の話しではない。
いま日本国債を買う勇気のある国はまずない。
日本の資産家はすでに資産を海外に逃避しているという指摘もある。

イサンの正月

2006年01月07日 17時24分12秒 | 軽い読み物
イサン(タイ東北部)、ウドンタニ市郊外の静かな農村。

冷たく気持ちよいタイルの床に茣蓙が引かれ、
料理とビールが並べられる。
親戚やとなり近所の人が集まってくる。

こちらのお正月も朝から酒盛りとなる。
お酒は、ビールを”ロック”で飲む。
元旦前後の4日間は毎日宴会の日々だった。
宴会と言っても、盛大でもなく堅苦しくもなく、
質素で、輪に入りやすい気さくなもの。

道行く人も酒盛りに引きずり込まれる。
隣近所を仕切る無粋な塀もなく、
腰の高さほどのわずかな垣根があるだけ。
通りを行きかう人も見えるし、通りからこちらも見える。
仕切りのない、とてもオープンな空間。
こころの垣根がとても低いからなのだろう。

豊かな自然に囲まれた酒盛りの輪の中にいると、
とても満ち足りた気分になってくる。
都会で育った我々は、回り持ちのように、
”日本も昔はこんな感じだったんだろうなあ”
と、順番につぶやいた。