報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

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資源戦争について

2005年01月29日 15時59分41秒 | ●コンゴ内戦
 98年のコンゴ内戦の取材の話が結局全部で9回にもわたってしまった。7年も前の、遠いアフリカの、しかもお膳立てされ、何の核心にも触れることができなかった取材なので、はっきり言ってたいした内容ではない。退屈だったかもしれない。それをイラク戦争真っ只中のいま、長々と書く意味があったのかとも思う。
 しかし身近でないコンゴ内戦もアフガニスタン戦争、イラク戦争もすべて同じ糸で結ばれている。

 戦争とはつまるところ「資源」を獲得するための行為だ。
「資源」を巡る戦争や紛争に、「民族対立」や「宗教対立」「歴史的対立」が利用されているにすぎない。これらは、戦争の本質から目を反らすための煙幕だ。「テロとの戦い」もそのひとつだ。

 現代社会の繁栄は、大量生産、大量消費、大量廃棄によって成り立っている。多くの「富」を獲得するためには、さらに多くを生産し、消費し、廃棄しなければならない。そのためには、当然さらに多くの「資源」が必要になる。あらゆる「資源」が有限である以上、誰よりも早く、そして誰よりも多くを獲得した者が勝者となり富を手にする。より多くの「資源」を支配できるのは、結局より強大な軍事力を行使できる者だ。

 アフリカや中東、中央アジアでの戦乱は、けっして個別の原因や事情によるものではない。すべて「資源」という一本の太い糸でつながっている。ものごとの本質は、皮を剥いていけばひどく単純なものだ。それを意図的に複雑に見せ、本質を見えなくしているだけの話だ。しかし、その本質が単純だからといって単純に解決できるわけではない。

 理屈から言えば、戦争をなくすには、世界中の人間が過度な消費=「浪費」をやめればいいのだ。大量消費しなければ、大量生産の必要性はなくなる。「資源」の争奪戦争もおさえられる。これはあくまで理屈だ。
 そんなことが可能かどうかは考えなくてもわかることだ。経済的繁栄(好景気)とは、すなわち「浪費」が作る状態だ。もし世界中の人間が「浪費」をしなくなったら、世界的不況となる。それは恐慌へと発展するかもしれない。世界中で「浪費」し続けなければ、世界経済の安定を維持できない構造になっている。

「浪費」というものの定義もできない。日本人の適切な消費は、別の国の過度な消費かもしれない。僕の適切な消費は、別の人には耐えられないかもしれない。人の消費行動に基準を設けることなどできはしない。
 たとえば、コンゴには、携帯電話やIT機器の部品に必要不可欠な希少鉱石コルタンが埋蔵されているが、このコルタンもコンゴ内戦の一因になっている。コンゴ内戦を止めるために、世界中の人に、携帯電話なんか必要ない、捨ててしまえ、とは言えない。一度社会に取り入れられた利便性を捨てろというのは現実性を欠いた愚考でしかない。

 戦争をよしとする人間などこの地上にはほとんどいない。しかしそれでも戦争がそこにあるのは、それがこの世界の政治経済構造の一部だからだ。現在の大量消費による物質文明の恩恵を維持し、そこから戦争だけを都合よく取り除くことはできない。排気ガス問題を解決するために、すべての車からエンジンを取り除け、というようなものだ。エンジンのない車が、それでも走るのなら問題はないが。

 この地上の戦争や殺戮を止めるためには、人類がこの政治経済構造そのものを、根底から見直す能力を持つこと以外にない。
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写真:キンドゥ

2005年01月26日 18時37分05秒 | ●コンゴ内戦
































































































































































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写真:キンドゥ

2005年01月25日 18時18分52秒 | ●コンゴ内戦










































































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コンゴ内戦(9)完

2005年01月24日 21時11分20秒 | ●コンゴ内戦
──資源戦争──

 我々の泊まったホテルには、食料がなかった。
 キンドゥ(Kindu)についた翌日の朝、みんなで食料を持ち寄り、貧しい朝食をとった。まさか、食べ物がないなどとは思っていなかったので、食料を持ってきている者は少なかった。水すら満足になかった。前日も、我々はろくに食っていなかった。朝、みんなが飢え、渇いていた。
 僕は、ナイロビの宿で早稲田の探検部の青年にもらったアメリカ製のエマージェンシー・フードを一袋持っていた。それを提供した。
 みんなで、ささやかな食事をしていると、遠くから人が大勢歩いて来るのが見えた。ほとんどの人が、頭に大きな荷物を載せていた。あとからあとから人は流れてきた。
 すぐに、カメラを持って外に出た。
 通りを歩く住民は、戦闘が終わったことを知り、ジャングルから出てきて家に帰るところだった。町中の人々がジャングルに疎開していたのだ。町に入り、頭に荷物を載せたまま通りで立ち話をする女性が多かった。住民の表情は明るいとは言えなかった。戦闘が終わったものの、いつまた戦場になるかわからない。反乱軍は、キンドゥをどのように統治するのかもわからない。そんな複雑な表情だった。それでも不気味だった無人の街は、血液が流れたように生き返った。

 僕とAPのカメラマン、スイス人のフリーランスとで、そのまま街をまわることにした。集合時間の10時までは十分時間があった。
 キンドゥでの市街戦はなかったようだ。建物の損傷はほとんどなかった。唯一、道路に迫撃砲弾らしきあとを、ひとつ発見しただけだ。政府軍は、市街戦をすることなく撤退したようだ。住民にとっては、幸いであった。
 ホテルに戻る途中、頭に木箱を載せた集団に出くわした。どうも木箱は弾薬のようだった。迫撃砲弾を両手に持っている者もいる。集団の周りを反乱軍兵士が警備していた。かなりの弾薬の量だ。
 10時に、ホテルに戻ると、反乱軍プレスセンターの責任者ファストンが目を剥いて怒っていた。しかし、10時までホテルで待機しろとは指示されていない。彼は軍人ではないので、怒ってもあまり迫力はなかった。我々は、はいはい、ごめんねぇ、という感じで受け流した。短時間だったが、自由に町を歩き自由に写真を撮るのは快適だった。

 11時に、トラックに乗り戦利品の取材へ。
 さきほどの集団が運んでいたのは、この弾薬だった。郊外の建物の中に、おびただしい量の武器弾薬が運び込まれていた。政府軍が、打ち捨てていったものだ。政府軍は、よほど慌てていたのだろう。あるいは、武器を捨てて民間人に化けようとした者も多かったのかもしれない。
 反乱軍によると、政府軍は非常に弱いということだが、あながちうそではないようだ。

 コンゴの内戦で、政府軍の主力となったのは、ジンバブエ、アンゴラ、ナミビアの外国軍だ。これら三国がコンゴ政府を支援するのは、コンゴ領内に利権を持っているからだ。
 アンゴラはコンゴ民主共和国とコンゴ共和国の間に、アンゴラ領「カビンダ飛地」を持ち、ここに製油基地がある。ナミビアは、コンゴ南部のTshikapaでダイアモンド鉱山をアメリカの企業と共同運営している。ジンバブエもコンゴ内で企業を運営している。この三国は自国の利権を守るために、コンゴ政府の要請を受けて出兵してきた。そういう事情で、これら諸国の正規軍は、コンゴ正規軍よりも真剣であったのかもしれない。
 周辺諸国の利権に加えて、欧米諸国や多国籍企業の利権もからみ、コンゴの内戦を複雑化長期化させることになった。

 しかし僕がコンゴにいた当時は、利権国の部隊は、まだ戦線に到着していなかった。コンゴ政府軍の中身は、カビラ政権にうんざりしているコンゴ人部隊と、やる気のない傭兵が主体だった。そのため、政府軍は簡単に撃破される結果となった。反乱軍は、2ヶ月ほどの間に広大なコンゴ民主共和国の東半分を確保してしまった。

 反乱軍が捕獲した多量の戦利品を取材したあと、またもや捕虜の取材となった。空き地に200人ほどの捕虜が集められていた。捕虜とは言うものの、彼らに緊迫感はなかった。
 反乱軍によると、政府軍から軍事訓練を受けていたコンゴ人で、いまは、反乱軍に加わって戦うことを望んでいるということだった。
「彼らは捕虜じゃないね」
 スイス人のフリーランス、マイケルが僕に耳打ちした。彼は、スイスのフランス語圏出身なので、ある程度彼らの会話を理解した。コンゴの公用語はフランス語だが、正確にはコンゴ訛りのベルギー・フレンチと言うべきものだ。そのためマイケルにも半分くらいしか理解できないようだった。

 反乱軍としては、内外に反乱の正当性を主張する必要がある。また、勢力を誇示する必要もある。政府軍による虐殺と、捕虜はそのための格好の材料なのだ。したがってこういう「ニセ捕虜」の演出も生まれてくる。
 反乱軍は勢力を誇示することによって、他国からの援助を期待していた。

 コンゴの内戦は、巨大な利権のかかった資源戦争だ。
 反乱軍が蜂起してまだ2カ月、特に欧米諸国や多国籍企業はコンゴの戦況から目が離せない時期だった。カビラ政府を援助した方が得なのか、それとも反乱軍を援助した方が得なのか。通信社の発信するニュースにかじりついている者が大勢いたはずだ。
 ただ、一番賢いやり方は、言うまでもなく両方援助することだ。政府軍が勝っても、あるいは戦線が膠着状態でも、常に利益を得られる。
 無政府状態の方が、都合のよい人たちもいる。コンゴでどれくらいのダイヤモンドが採掘され、それがどういうルートで誰の手に渡っているか、ほとんど把握されていない。
 国連は、デビアスなどのダイヤモンド関連会社が、コンゴでのダイヤ略奪を煽っていると非難したこともある。

 ただ反乱軍としては、国の半分を維持支配すれば十分といえる。政府を倒して政権を取ってしまえば、国家を運営しなければならない。
 しかし国の東半分を支配している限り、法の支配も国際社会の監視も受けず、また住民の福利厚生を行う必要もなく、ただひたすら天然資源から得られる利益を独占できる。国際社会には、カビラ腐敗政権を打倒して民主国家を実現する、と言えば名目は立つ。

 ローラン・カビラ大統領自身が、何十年にも渡り「反政府勢力」として、莫大な利益を得てきたのだが、カビラは最終的に国を丸ごと望んだために自滅した。カビラ大統領は、2001年1月、自分のボディ・ガードに撃ち殺された。
 カビラの息子のジョゼフ・カビラが現在の大統領だ。選挙は行われていない。ただ、父親と違って独裁色は濃くない。反乱軍を支援するルワンダ大統領とも会談し、和平を進める姿勢を持っている。2002年に、ルワンダ政府はルワンダ軍の撤兵に合意した。ジョゼフ・カビラ大統領は、国連軍の派遣も受け入れた。

 しかし、反乱軍の方はその後、さまざまな勢力に分裂し、それぞれの支配地域を死守している。話し合いによって、各勢力すべてと和平合意を取り付けることは、現実的に不可能だ。それぞれの勢力の背後には、利害を共有する国家や企業が存在する。
 あくまでも、この戦争は資源争奪戦争だ。
 資源を取り巻くあらゆる勢力、国家、企業が納得する条件など存在しない。奪ったもの勝ちであり、平等に仲良く分けるなどという観念はない。たとえ仲良く分けたとしても、コンゴ国民は最初から除外されている。それでは、たいした意味はない。もちろん、まず虐殺がなくなることが、先決ではある。しかし、戦乱による虐殺のあと、飢餓と貧困という更なる虐殺が待っているかもしれない。欧米の唱える和平とはそういうものだ。
 国連も、最終的には大国の利益代表であり、大国の不利益になることなどしない。
 コンゴはひたすら、資源を奪われ続ける。
 そして、コンゴの人々は生活を奪われ続ける。

 
「捕虜」を取材した後、我々記者団はジェットに放り込まれ、ゴマへと送り返された。一泊二日のお膳立て取材だった。コンゴ民主共和国での取材は、結局のところ反乱軍のお膳立したものだけを見るというだけの結果に終わった。
 そこで生きる人々とこころを通わせる機会は最後までなかった。人々と同じところに住み、同じものを食べ、同じ空気を吸う。そういうところから、僕は取材をしたい。

 98年8月にはじまったコンゴの内戦で、すでに240万人が死亡している。

 コンゴ内戦 完
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コンゴ内戦(8)

2005年01月23日 13時26分17秒 | ●コンゴ内戦
──特派員──

 タンガニーカ湖畔のカレミ(Kalemie)で、政府軍による虐殺現場、難民、捕虜を流れ作業のように反乱軍に案内され、僕はかなり消化不良を起こしていた。やはり、自由な取材はできない。しかし、すでにそれに乗ってしまったものはどうにもならない。

 ひと通りの「取材」が済むと、我々はまた空港に戻され、ジェットに乗った。次の目的地は、キンドゥ(Kindu)だ。前日、反乱軍が陥落したばかりのホットな街だ。カレミから約500キロ。一時間半ほどのフライトだったが、キンドゥの空港に着いたものの、迎えの車両はなく、かなり空港で待たされた。
 迎えが来るまでの間、空港の中をうろうろしながら、少し写真を撮った。滑走路わきには、壊れたカチューシャ(多連装ロケット発射車両)がポツンと放置されていた。
 運転席に入ってみると、操作盤には「発火器操作方法」と書いてあった。中国製だ。てっきりロシア製だとばかり思っていた。

 迎えの車両が来たころには、あたりはすでに暗くなりはじめていた。
 キンドゥの街は、戦闘で電力供給が止まっていた。我々の宿泊するホテルだけは、自家発電機が設置されていた。発電機が回ると欧米の通信社の面々はパソコンを広げ、さっそく原稿を打ち始めた。APのカメラマンはネガを現像するため部屋にこもった。僕とスイス人のフリーのカメラマンだけが手持ち無沙汰だった。仕方がないので、特派員の仕事の模様を撮って、暇をつぶした。

 彼らは、取材メモを見ながら、あるいは取材テープを聴きながら、パソコンに原稿を打ち込んだ。今日一日のレポートはそれほど長いものではなかったが、何度も推敲し原稿を練っていた。
 原稿を打ち終えると、それをインマルサットで本国へ送った。
 インマルサットは、ノートパソコンほどの大きさの衛星電話だ。船舶用の衛星通信として開発され、四つの衛星が全世界をカバーしている。この地上のどこからでも音声、画像、データ通信ができる。そのため、世界中の通信社が利用している。今回のように、ジャングルの中からでも自由に通信ができる。災害時の通信機器としても注目されている。
 インマルサット(INMARSAT)とは、もともとの名称International Maritime Satellite Organization の略だが、現在は陸海空の全通信を扱うようになり、International Mobile Satellite Organizationという名称に変わっている。ただINMARSATという旧略称は、そのまま使われている。

 APのカメラマンは、長い間部屋にこもってフィルムを現像していた。フィルムの現像は、三段階の行程があり、設備の整った暗室の中でも、面倒な作業だ。それをジャングルの中のホテルで行うのは、かなり気を使う。現像後、乾燥もしなければならないので、とにかく時間がかかる。

 98年の時点では、まだAP通信も、デジタルカメラを使っていなかった。性能にまだ信頼がなかったのだろう。しかし、2000年あたりを境に通信社、新聞社の撮影機器は、銀塩フィルムからデジタルへと急速に交代した。現像、乾燥、スキャンという行程を省くことのできるデジタルカメラは、特に辺境地帯で撮影する報道カメラマンの負担を格段に改善した。

 現像を終えてやっと部屋から出てきたAPのカメラマンは、ドライヤーでフィルムの高速乾燥をはかったが、自前の小型発電機(そんなものまで持ってきていた!)がすぐに壊れてしまった。超タコ足配線のコンセントのひとつを空けてもらってようやく乾燥が完了した。しかし、ここまでは、まだ準備段階だ。
 乾燥したネガを切り、スリーブに入れ、小型のビュアーでコマを確認する。選んだコマをニコンのスキャナーでスキャンし、パソコンに取り込んでいく。取り込んだ画像をパソコンの画面でチェックし、必要に応じてフォトショップで修正加工。そしてキャプションをつけ、ようやくインマルサットで送信する。
 現像から送信まで、実に手間のかかる作業だ。しかも蒸し暑い熱帯で、一日中撮影してヘトヘトになったあと、ホテルでこれだけの作業をする。報道カメラマンは、タフでなければやっていけない。












 彼が作業している間、僕とスイス人のフリーの若者は、後ろからずっとパソコンを覗き込み、なにかと話しかけた。実に迷惑な奴らだ。
「これはどこで撮った?」
 軍用ヘリに負傷兵が運ばれている写真だった。
「コンゴへ来る前にウガンダで撮ったやつだ。いいと思うかい?」
「すばらしいよ」
 彼は、白くつぶれた雲を、フォトショップで加工した。空だけに濃淡がつき、雲が鮮やかに現れ、熱帯の空気感が強調された。当時、僕はパソコンなど持っていなかった。フォトショップというソフトも当然知らなかった。当時の僕としては、手品を見るようだった。しかしいまでは、このくらいプロでなくてもしている。
「さっき空港で撮影したこの写真は、どっちがいいと思う?」
 と彼は訊いた。
「こっちかな」
「OK。じゃあ、これを送信する」
 その日撮った写真を、その日見ることができるなんて、当時はほんとにうらやましかった。ポジフィルムを使っている僕は、数ヵ月後日本に帰るまで、自分の写真と対面できない。

 彼の仕事が終わった後、我々三人はずっと話をして夜を過ごした。
 キンドゥの街で、電気が点いているのは、このホテルだけだった。ホテルと言っても、従業員はひとりもいない。ホテルどころか街そのものがからっぽだった。政府軍と反乱軍の戦闘で住民は街を逃げ出していた。

 ジャングルの真っ只中の街は、漆黒の闇に包まれていた。町の規模もわからない。大きな町なのかもしれないし、朝起きたらこのホテルだけがジャングルの中に建っているのかもしれない。これほどの深い闇はそんなには経験しない。そして、不気味なほど静かだった。
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コンゴ内戦(7)

2005年01月21日 19時16分55秒 | ●コンゴ内戦
──タンガニーカ湖畔──

 反乱軍のヤコブレフ40で快適な空の旅を楽しんだあと、我々「記者団」はカレミ(Kalemie)に着いた。
 空港へ降り立つと反乱軍の車両で、我々は何もないタンガニーカ湖畔の砂浜へ運ばれた。

 砂浜を歩いていくと、遠くに青いビニールシートが何ヶ所か広げられているのが見えた。砂浜を掘った穴も見える。さらに近づいていくと、シートの上には布に包まれた細長い塊がずらりと並べられていた。遠めにも、それが遺体であるとわかる。20体くらいだろうか。シートのところまでいくと、布が広げられた。異臭が鼻を衝く。砂にまみれ半分白骨化した遺体だ。

 別のシートには、掘り出されたままの遺体が並べられていた。やはり砂にまみれ白骨化している。すべての遺体がほぼ同じ状態なので、同じ時期に埋められたことが分かる。虐殺されたのは、二ヶ月前だという。
 掘り出されたのは、40体ほどだが、まだ発掘中のものもある。ほとんどの遺体が、後ろ手にきつく縛られていた。
 反乱軍のコメントによると、ここでの虐殺はカビラ政府軍によって、三日間のあいだにおこなわれたらしい。軍人、市民問わず虐殺の対象となった。

 ナイロビの爆弾テロ以降、遺体ばかり目にしている。あまりにも多くの遺体を目にしていると、次第に何も感じなくなる。そして「被写体」として淡々と写真を撮るようになってしまう。半腐乱半白骨化した遺体の30センチの近さからでも、平気で撮っていた。
 かつてインドのベナレスで、犬が人間の遺体を食っているのをはじめて見たときは、顔をそらして二度と見ることができなかったのだが。

 砂浜に並べられた40体あまりの遺体を、淡々と撮り続ける自分に、少し戸惑いを感じた。
 目の前の遺体は、自然死ではない。おなじ人間に殺されたのだ。
 しかし、そのときの僕には、あくまで「被写体」でしかなかった。AP通信のカメラマンもスイス人の若いフリーランスも、同じように淡々と仕事をこなした。
 報道写真家には、ある種の感覚麻痺がおこるのだろう。知らず知らずの間に、人の死に対して無感覚になってしまう。目の前の虐殺遺体が、単なる「被写体」と化すのは異常事態だ。自分は人間として何かが欠けてしまったのか、とも思った。でも、一瞬だ。つぎの一瞬には、アングルを変え、何度もシャッターを切っていた。

 しかし、一年後、僕は人の死を撮ることに苦痛を感じるようになった。苦痛というより、恐怖と言った方がいいのかもしれない。「僕もこの人のように死体になっていたのだろうか・・・」。遺体を前にすると、そう思ってしまう。ファインダーの中に、僕自身の遺体を見て震えてしまう。別に幻覚を見るわけではなく、観念的なものだ。人の命を奪うことがどれだけたやすく、そして殺される者の恐怖がどれだけ凄まじいかを知ってしまったからだろう。「この人は、あの凄まじい恐怖の中で殺されていったのか・・・」と、その恐怖を何度も体感してしまう。彼の恐怖は、僕の恐怖なのだ。彼の命は奪われ、僕はなぜ生き延びたのか。死と生に、とても混乱してしまう。しかし、それはまだ一年後のことだ。

 カメラマンと記者がそれぞれの仕事を終えるのを見計らって、反乱軍プレスセンター責任者ファストンは車に乗るように言った。いや、命令にちかい。
 カビラ政府軍の攻撃で難民になった村人がいるので、そこへ案内するという。車に分乗し、少し離れた村の集会所のようなところへ案内された。集会所には300人ほどの人がいたが、難民となった人は全部で3500人。この人たちの村では112人が政府軍に殺害された。
 しかし、お膳立てされた難民を前にしても、僕はとてもインタビューしようという気にはなれなかった。彼らが難民ではないとは思わなかったが、セットアップされた環境では、セットアップされたコメントしか出てこないものだ。

 そして、まだあった。次に案内されたのは、巨木にたたずむ二人の捕虜だ。
 流れ作業のような展開にうんざりし始めた。
 ウガンダのメディアがインタビューをはじめた。その模様を何となく撮影した。
 僕には、彼らが殺されることはないという確信めいたものがあった。彼らの表情にも、不安は読み取れない。そのかわり、何か、鋼鉄のような無を感じる。それは、彼らが運命を受け入れたからなのか、それとももっと別の理由からなのか・・・僕にはわからない。僕の「確信」は、単に戦争を知らない日本人の淡い希望なのだろうか。 

 










 戦争の前に、人間の運命はあまりにもはかない。
 
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コンゴ内戦(6)

2005年01月20日 01時22分52秒 | ●コンゴ内戦
──拡大する反乱軍のテリトリー──
 キサンガニに着いて7日目、ようやくゴマから航空機が来た。
 空港には、ちょうどプロペラ機が到着したところだった。今回の航空機は、ロシア製の中型輸送機アントノフ8型機だった。やはりパイロットは白人でロシア語を話していた。彼らがロシア人であるという確信はない。彼らが話す言葉がロシア語だという確信もない。ウズベク語かもしれないし、グルジア語かもしれない。
 アントノフ8型機や超大型のアントノフ-124がコンゴに持ち込まれた経緯や、パイロットの素性について知りたくはあったが、たとえ話しかけるチャンスがあったとしても、彼らは何も答えはしなかっただろう。操縦以外に何の興味もないといった感じだった。パイロットはかなり年配で少し太り気味だった。

 反乱軍は、コンゴ東部を自由に飛びまわり、兵員を必要な地域に速やかに移送していた。部隊を首都キンシャサ近郊まで運び、カビラ大統領を慌てさせたこともある。反乱軍の破竹の進撃も、航空機という輸送手段がなければ、あり得なかった。
 アントノフ8型機には、100人ほどの兵士が乗り込んだ。搭乗する前に指揮官は、兵士の銃の薬室が空か確認させた。弾倉をはずし、AK-47のボルトをガチャガチャ引く音が、ジャングルの中の静かな空港にこだました。一発の暴発で、墜落しないとも限らない。
 戦闘は、東南部へ移っていたが、この部隊はゴマの手前で降ろされた。あとは、僕とコンゴの民間人4人だけとなった。身なりの良いお金を持っていそうな感じだった。
 眼下には、地平線の彼方まで熱帯雨林が広がっていた。アマゾンに匹敵する広大なジャングルだ。資源としての価値も高い。

 夕方、ゴマに着いた。
 搭乗責任者の軍人が笑顔で迎えてくれた。
 ようやくキサンガニを脱出したのだが、翌日また飛ぶことになった。
 この日、反乱軍が新たに東南部のエリアを陥落したのだ。
 またキサンガニの、にのまえになるかもしれないが、行くことにした。 ゴマに着いてすぐ、担当指揮官のヴェッソンに連絡を入れておいた。

 翌朝、空港へ行くと、笑顔の搭乗責任者がすぐに来て、名簿に僕の名前を書き込んだ。「これで君はちゃんと乗れるよ」というようなことを彼は言った。前回、僕の搭乗をめぐって、彼と空港セキュリティがかなりもめた。セキュリティは権威を傘に着るタイプだった。今回も僕は搭乗許可書を持っていない。彼は、間違いなく僕が乗れるように、わざわざ来て名簿に書き込んでくれたのだ。
 十数人のジャーナリストがすでに待機していた。欧米に加え、アフリカ諸国のジャーナリストもいた。一人だけスイス人の若いフリーランスのカメラマンがいた。ゴマに着いたところだった。おなじフリーランスがいるというのは嬉しい。大手メディアでは、アメリカのAP通信(カメラマン一人)、フランスのAFP(記者二人)、イギリスのロイター(記者二人)がいた。ちょっと敷居の高いメディアだ。ウガンダの新聞、テレビからも来ていた。こちらは気さくで何かとやりやすそうだった。しめて十数人だ。
 メディアに加えて、反乱軍政治部高官の、前外務大臣ビジマ・カラハ氏がいた。大物の視察があるということは、重要拠点が陥落したということだ。












 今回は輸送機ではなく、ヤコブレフ40という小型ジェットだった。舗装していない滑走路にでも着陸できるという頑丈な作りだ。後部ドアが階段になり、地面からそのまま乗機できる。これもロシア製だ。もちろんパイロットは白人でロシア語を話していた。二人のパイロットは制服を着ていた。パイロットの制服だ。これまでの輸送機のパイロットは、短パンにTシャツだった。
 空港で三時間ほど待たされて、11時に搭乗がはじまった。荷物を担いで、滑走路の機のところまで行った。搭乗責任者が名簿を見ながら、搭乗するジャーナリストをひとりひとり確認した。定員は20名ほどなのだが、あきらかに人数が多かった。何人かは、取り残されることになる。搭乗責任者が名簿を指差して「君はだいじょうぶ」と笑顔で言った。ほんとにいい人だ。結局、名簿に名前のないウガンダの何人かのジャーナリストが取り残された。本来なら、僕も居残り組みだった。

 ヤコブレフ40は、熱帯雨林がつくる巨大な積乱雲の谷間を縫うように飛んだ。大型輸送機と違って、高度が低く、直線で飛ぶことができなかった。入り組んだ積乱雲の谷間を右に左に飛行した。雲の渓谷は、とても美しかった。
 となりの席はAPのカメラマンだった。陽気な男で、こころから仕事を楽しんでいるようだった。丸太のような腕をしていた。カメラマンは一に体力。この機内に限れば、誰がカメラマンで誰が記者かは一目瞭然だった。

 小型ジェットは、雲を縫いながら、カレミに到着した。
 カレミは、ゴマから南へ約450キロ。タンガニーカ湖畔の街だ。
 ここでも、二ヶ月前に政府軍による虐殺が行われたという。
 タンガニーカ湖畔では、遺体の発掘作業が行われていた。
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写真:キサンガニ

2005年01月19日 22時47分33秒 | ●コンゴ内戦
【キサンガニ市内】
陸の孤島、キサンガニ。
昼間でも、ほとんど人通りがない。



【ダイアモンド取引所】
かつてはキサンガニでは盛んにダイアモンド取引が行われていた。
市内各所にダイアモンド取引所がある。
内戦で業者は逃げ出したが、取引がなくなったわけではない。
デビアスなどのダイアモンドシンジケートは、反乱軍ともカビラ政府とも取引を行っている。
それが双方の資金となる。



【パピと司令官】
左が、キサンガニ地区MP指揮官パピ。
もう少し自由時間が欲しかったぞ、パピ。
悪い奴ではない。
部下に対する面倒見はとてもよい男だった。
右は、RCDキサンガニ地区司令官ベレンラ・ウィリアム。



【非番の反乱軍兵士】
非番で、僕の部屋にぞろぞろ暇つぶしに来た反乱軍兵士。
素朴で気さくな連中だ。
本来、銃を手に撃ち合いをするような奴らにはとても見えない。
32年間のモブツ大統領の独裁のあと、今度は内戦だ。
アフリカを、飢餓と貧困と紛争の大地に変えたのは、いったい誰なのか。



【フツ族捕虜】
反乱軍の捕虜になったルワンダ人のフツ族兵士。
カビラ軍にリクルートされた。
彼らの部隊は、ウガンダとルワンダの領内を襲撃することだった。
彼らの部隊5000名のうち3000名が死亡。

警備の反乱軍兵士も、捕虜のフツ族にもあまり緊迫感はなかった。
キサンガニの反乱軍が、ツチ族ではないからだろう。
94年、ルワンダでは、フツ族によってツチ族がおよそ100万人殺害されたと言われている。



【スーダン人捕虜】
負傷し、反乱軍の捕虜となったスーダン人傭兵。
彼と共に7名のスーダン人傭兵が捕虜になった。
スーダンでカビラ政府軍にリクルートされた。
スーダン人傭兵部隊は全部で1200名いたらしい。
コンゴに到着すると、指揮官はウガンダのゲリラ、イディ・アミン軍から来ていた。しかし、戦闘がはじまると指揮官はさっさと逃げでしまったという。

「私はもともとはビジネスマンでした。リクルートされたとき、戦闘はないと言われた。もうスーダンには帰れない。もし釈放されたらウガンダへ行ってビジネスをしたい」
と彼は言った。
インタビューの間、彼は心ここにあらずといった様子だった。
当然だろう。彼の運命は、反乱軍に握られている。

MP指揮官パピに、彼はどうなるのかと訊ねた。
パピは、スーダンに送り返す、と言った。
たぶん本当だと思う。反乱軍の幹部も兵士も、淡々とした感じで、凶暴さは微塵もなかった。
殺すつもりなら、とっくに殺しているだろう。
彼のうつろな目を見ていると、とてもはかない気分になった。
生きてビジネスにもどってほしい。




【政府軍による虐殺現場】
キサンガニ空港のはずれで、政府軍による虐殺が行われた。
この現場だけでも、約千人のツチ族兵士が虐殺された。
ローレン・カビラは、モブツ政権を打倒するためにツチ族と共闘したが、大統領になると、用済みになったツチ族部隊を「処理」しはじめた。
案内してくれた元カビラ軍のコマンダも捕らえられ「処理」されるはずだったが、反乱軍の蜂起により危うく難を逃れた。

「わたしもここに埋まるはずだった・・・」
現場を無言で見つめていたコマンダがポツリと言った。
彼の言葉が、滑走路にこだまするようだった。



【政府軍による虐殺現場】
地表に露出し白骨化した虐殺体。
この下に千体の遺体が眠っている。



【キサンガニ市内】
キサンガニには、フランス統治時代の建物も多い。
本来、落ち着いた美しい街だ。
街はザイール河に隣接しているが、河の輸送ルートも戦闘により利用できない。
まったくの陸の孤島だった。
燃料もないので、反乱軍の車両以外は、自転車しか走っていない。
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コンゴ内戦(5)

2005年01月18日 16時26分27秒 | ●コンゴ内戦
──キサンガニ:MPの監視──

 反乱軍の東北部の拠点都市キサンガニに着き、ようやく取材がはじまった。
 と言いたいところだが、僕の行動は、実質的に反乱軍のMP指揮官に握られていた。そんな話は聞いていない、と抗議するわけにもいかなかった。陸の孤島なのだ。嫌なら陸路で帰れ、とでも言われたらどうにもならない。
 結局、反乱軍の見せたいものだけを、取材させらるはめになった。
「俺たちが捕まえた捕虜の写真を撮れ」
「ここが政府軍の虐殺現場だ」
「彼が市長だ。インタビューしろ」
「オレをかっこよく撮って、今度写真をもってこい」
 そんな具合だ。
 街を歩くのは一応自由だが、そんな時間などほとんど与えられなかった。

 朝、MP指揮官(パピ)が車で来て、彼の仕事に連れまわされる。パピが仕事中は、彼の護衛とともにただ待っているだけだった。兵士と暇つぶしの話をしても「インタビューは許可していない!」とMPが飛んできた。兵士にも迷惑がかかるので、うかつに話しかけることもできない。憲兵が一緒では、市民も警戒して何も話してくれない。

 いったい、何のためにここまできたのか。
 こんな取材などやっていられるか。
 窮屈極まりない取材に、数日で窒息しそうになってしまった。
 ゴマで五日もかけずりまわって、ようやく許可を取り、ここまで飛んで来たのだが、窒息する前にゴマへ帰ろうと思った。少なくともゴマなら、MPの監視もなく自由に動き回れる。

 キサンガニでの自由な時間とは結局、メシを食っているときと、夜だけだった。話にならない。
 朝は、6時に起きて、MPの迎えが来るのを待たなければならなかった。決まった時間には来ない。7時のときもあれば、10時になることもあった。その間、どこへも行けず、何もできない。いつ来るか分からないものを待つことほど疲れるものはない。朝起きたときから、自由がないのだ。三日で我慢の限界に達した。しかし、キサンガニを脱出できたのは、それからさらに三日後だった。
 ゴマから輸送機が来ないのだ。
 最後の二日間は、ただひたすら輸送機が来るのを待った。

 結局、キサンガニでの大半の時間を、僕はただ待つことに費やした。パピの迎えが来るのを待ち、パピの仕事が終わるのを待ち、捕虜が連れて来られるのを待ち、輸送機が飛んでくるのを待つ。

 輸送機が来るのを、待ち続けているうちに、同じ宿の兵士たちとは親しくなった。前線は南西へと移り、キサンガニの守りを担当する彼らは戦闘に出ることもなく、ゆとりがあった。僕の部屋へぞろぞろ遊びに来た。言葉は通じないが、余興にヌンチャクを振り回してみせると、みんなの目の色が変わった。


 いまや世界でヌンチャクを知らない奴はいない。目の前で、ヌンチャクを振り回せば、子供から大人まで味方につけることができる。もちろん兵士もだ。
 海外でカラテができるかと訊かれて、できないと答えるのはよくない。相手をがっかりさせてしまう。子供は広場にかえり、大人は昼寝をし、女の子は背を向け、犬は勝手に散歩に行ってしまう。いいことがないのだ。余興になるくらいのカラテは身につけておいて損はない。カラテを余興などと言えば、本物の空手家が怒るかもしれない。しかし、言葉の通じないところで相手の心をつかむには、それなりの工夫が必要なのだ。許していただきたい。

 ジャージ姿で、僕の部屋に遊びに来た兵士たちに、ヌンチャクを教えた。心配することはない。僕が教えたヌンチャクで人が死ぬことはない。戦場でヌンチャクなど何の役にも立たない。
 不器用にヌンチャクをふりまわし、体のあちこちにぶつけて痛い思いをしている兵士を見ながら、皆で大笑いをして夜を過ごした。歩哨の兵士もやってきて、軍服姿のままヌンチャクをふりまわした。そのとき腰の手榴弾に思いっきりヌンチャクがぶつかった。そのくらいで爆発するものではないが、ちょっとビビッた。彼らは、飽きずにヌンチャクを振り回していた。

 反乱軍の兵士とは。
 もちろん普通の人間だ。
 我々と何の変わりもない。
 我々と、違うところと言えば、キサンガニのように陸の孤島となった地域は、兵士になること以外に、収入の道がないということだ。あらゆる商取引が途絶え、物資も燃料も雇用もない。あるのは、反乱と多量の武器弾薬だけだ。兵士になれば生きている間は収入を得る。

 キサンガニ滞在中、兵士にちゃんと給与が渡されるのを見た。
 いつものように、パピの車で引き回されているとき、車が銀行へ入った。銀行は営業していない。反乱軍は、銀行を金庫に使っていた。パピは、ズタ袋いっぱいの現金を下げて戻ってくると、さっそく部下たちに給与をわたした。MP兵士の給与額は、よくわからない。適当につかんだコンゴ・フランがわたされた。そして数えもせずポケットに突っ込まれた。たぶん実際の給与よりも大目なのだろう。パピもレンガのような札束を確保した。ズタ袋は、MP本部に届けられ兵士に給与が配られた。一ヶ月、約20ドル。

 さて、反乱軍の資金の出所は?
 分かるわけがない。
 ダイアモンドなどを採掘して、それを欧米の業者に卸していると見るのが一般的だ。「コルタン」という希少鉱石も反乱軍の資金源になっているようだ。コルタンは、IT関連製品に使われる小型コンデンサーなどの最先端製品に欠くことのできない原料だ。欧米の鉱山会社と密約を交わしし、豊富な資金を得ているようだ。それから数種類のロシア製の航空機とパイロット、整備士を見ても、大国も陰に陽に関わっていることも明らかだ。

 コンゴの内戦は、コンゴの周辺諸国と欧米(系多国籍企業)の利益が絡んだ資源戦争だ。すでに多くの国の利権が複雑に絡んだコンゴの内戦が解決する見通しは暗い。一度つかんだ利権を簡単に手放す国はない。
 コンゴ民主共和国は、アフリカ大戦の危険さえはらんだ火薬庫と言える。
 さて国連は、これをどう解決するのか。
 結局のところ、いつものように、大国の利益だけを確保するつもりだろう。
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コンゴ内戦(4)

2005年01月17日 05時17分45秒 | ●コンゴ内戦
──陸の孤島キサンガニ──

 ゴマでの五日間を、手続きのためだけに費やし、もしかすると何もできないままコンゴを出る羽目になるのではないかと心配したが、地元カメラマンのワボ氏のおかげで、すべての準備を整えることができた。
 98年10月6日、コンゴに着いた六日目、反乱軍の航空機でキサンガニ(Kisangani)というコンゴ東北部の都市へ飛ぶことになった。反乱軍の重要な拠点のひとつだ。

 反乱軍の正式名称は、フランス語で「Rassemblement Congolais pour la Democratie;コンゴ民主連合」という。一般的には英語でRally for Democratic Congo(RDC)と呼ばれている。
 しかし、反乱が始まったばかりの当時の新聞では、この名称はまだ見ることはなかった。組織自体はすでに存在したが、新聞でも単に「rebel;反乱軍」としか表記されていなかった。一定の勢力がなければ、メディアは「反政府組織」には「昇格」させない。ここでは、当時のまま「反乱軍」として表記する。

 反乱軍は、一般的には「ツチ族」勢力と認識されているが、実際はコンゴの他民族勢力との共闘だ。ツチ族だけの勢力ではない。僕が同行した反乱軍は、そうしたコンゴ人部隊だった。ただ、兵士の顔立ちを見て、その民族を見分けることは僕には無理だ。しかし、明らかに単一民族で構成されてはいなかった。
 膨大な地下資源の眠るコンゴ東部を支配することは、強大な利権を獲得することを意味する。ウガンダ、ルワンダ、ブルンジが反乱軍をバックアップするのはこのためだ。そうした国の後ろには、大国や多国籍企業がからんでいる。
 同時にコンゴ政府にも、周辺国や大国、多国籍企業がからみ、この内戦を複雑化させ、今日にいたるまで解決していない。解決したときには、コンゴの富がまたしても外国に奪われることを意味するだろう。

 反乱軍のコマンダンテ(指揮官)の指示で、6日の早朝、ゴマの空港へ行った。空港を管轄している軍人は、搭乗を承諾したが、空港のセキュリティがNOと言った。「担当指揮官ヴェッソンから許可を得た。電話で確認してくれ」と伝えたがダメだった。プレスセンターとヴェッソンの書類がないと乗せられない、の一点張りだった。そして軍の車で、市内へ追い返されてしまった。
 すぐにヴェッソンへ電話を入れると、「お前の面倒はテオドールというコマンダンテにまかせてある。ビクトリアホテルへ行って会え」とのことだった。ホテルに行くと、テオドールはとっくに空港へ向かったという。なんてこった。タクシーですぐに空港へ取って返した。
 今度は、タクシーで空港の中まで入り、ドライバーに遠くに見える輸送機のところまで行けと命じた。滑走路をタクシーで走り、輸送機の真横に乗りつけた。かなり強引だが、とろとろ空港を歩いていると、またセキュリティに見つかって押し問答になる。セキュリティに見つかる前に、コマンダンテを捜さなければならない。
 輸送機の横には大勢の兵士が待機していた。コマンダンテ・テオドールもすぐに見つかった。「遅いぞ!」と怒鳴られたが、説明するのもめんどくさい。とにかくこれで乗れるという保証を得た。内戦の取材は楽ではない。

 輸送機は、四発ジェットの巨大な迫力ある機体だった。国連機のように真っ白に塗られていた。ロゴはいっさいない。パイロットやスタッフはすべて白人だった。聞き耳をたてると、話す言葉はどうもロシア語のようだった。ということはロシア製の輸送機だろう。空港内での撮影は禁止されていたので写真はないが、特徴のある機体なので、あとで調べることができた。この輸送機はロシア製のアントノフ-124という機種だった。世界最大の航空機らしい。
 コンゴではそのほかに、反乱軍所有の双発ターボプロップのアントノフ8型輸送機とヤコブレフ40小型ジェットにも乗ったが、いずれもロシア製で、パイロット、整備士ともロシア語を話していた。
 この反乱は、あらかじめロシアのサポートがあったのだろう。でなければ、蜂起してたった一ヶ月で、反乱軍が何機もの航空機を準備できはしないだろう。なんと言ってもコンゴ東部には、金、コバルト、ダイアモンドなどの希少鉱物資源が豊富に眠っている。反乱軍がコンゴ東部を支配すれば、それらの利権が手に入る。

 輸送機に多量の兵糧を積み込んだ後、兵員の搭乗がはじまった。ロシア人の係員が人数を数え、定員に達したところで、有無を言わさずリフトを閉め始めた。持ち上がっていくリフトに兵士が群がり、何人かが飛び乗った。大変な混乱となった。
 僕は乗れないということか・・・
 側面のドアから、テオドールが手招きした。そこにも兵士が群がっていたが、MPが兵士を押しのけ、僕を乗せてくれた。まったく最後まで気が抜けない。
 機内は、100人ほどの兵士で満杯だった。飛び立つまではひどく蒸し暑かった。離陸すると、一部の兵士は窓に張り付いて外を見ていたが、ほとんどの兵士は、緊張しっぱなしだった。機内の温度はすぐに下がったが、冷や汗をながしている兵士もいた。はじめてのフライトなのだろう。民間人も7人ほど乗っていたが、かなりお金を持っていそうな身なりだった。
 巨大な機内を見ていると、航空機というより倉庫が飛んでいるような感じだった。
 ほんの一時間ほどで、キサンガニへ着いた。

 空港から、反乱軍高官の泊まる一泊75ドルもする白亜のホテルに連れて行かれたが、そこは遠慮して、兵士の泊まる安い宿へ行った。
 キサンガニは、内戦でほとんど陸の孤島状態だった。陸路での移動は、ほぼ不可能だった。他の都市からきたコンゴ人ビジネスマンは、この街に閉じ込められた。反乱軍の航空機に乗るにはかなりの金を積まなくてはならない。いや、金を積んでも順番待ちだろう。
 物資や燃料も入ってこないので、反乱軍の車両以外はほとんど車が走っていない。街は静まり返っていた。
 宿の主人は、政府軍によって大勢の市民が殺害されたと訴えた。
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コンゴ内戦(3)

2005年01月16日 05時52分16秒 | ●コンゴ内戦
──内戦のコンゴへ──

 ルワンダの首都キガリからコンゴ民主共和国の国境までミニバスで3時間半。
 途中チェックポストもあるが、それほど厳しいものではなかった。国境地帯の治安は安定しているということだろう。
 国境に到着し、ルワンダを出国。遮断機を越えて、コンゴへ。

 ようやくコンゴに着いたと安心したのもつかの間、イミグレーションで、ビザなしの滞在は8日間と宣告された。費用は60ドル。延長も8日ごとに60ドルが必要。しかも、パスポートはイミグレーションに預けなければならない。これではゴマから他の地域へ移動できない可能性もある。パスポートは預けられないと粘ったが、聞き入れられなかった。「ちゃんとこの机の引き出しに保管するから安心しなさい」と言われたが、粗末なイミグレーションの机を見るとかなり不安になった。パスポートはあとで何とかするしかなかった。
 カスタムでは、荷物を徹底的にチェックされたあげく、カメラの持ち込み料が100ドルと言われ、キレそうになった。しかし、ウソだろ、とも言えない。ノートのはしっこを少し破いた即席の領収書を渡された。100ドルが何の価値もない紙切れに化けた。

 タクシーで市内のホテルまで行き、荷物を降ろすと、すぐに地元のカメラマンのワボ氏という人物にコンタクトを取った。見るからに人の良さそうな人物で、あらゆることに協力してくれた。
 撮影許可証の取得、ビザの取得、反乱軍の航空機の搭乗許可などだ。

 撮影許可書は、ワボ氏のはからいと、ウガンダで取ったプレスカードのおかげで問題なく発行された。費用100ドル。しかし、この紙切れは、その価値がある(はずだ)。
 パスポートを取り戻すためには、ビザを取得しなければならなかった。ビザの取得には、反乱軍から許可書を取り、国境のイミグレでパスポートを回収し、そしてイミグレ本部へパスポートを提出するという手順だった。しかし、反乱軍へ電話連絡したうえで、指定された時間にオフィスを訪れても、いつも担当者がいなかった。
 同時に別の部署で、キサンガニという街への搭乗許可を申請したかったのだが、これも指定された時間に行っても担当者がいなかった。ビザの許可書とフライト許可書のため、反乱軍のオフィス二ヶ所を行ったり来たりしているうちに、日がすぎていった。

 しかし、どちらの許可書もついに手にすることはなかった。
 だが、ビザも取れたし、反乱軍の輸送機にも乗れた。
 最終的には、フライトを翌日に控えた日に、反乱軍の広報担当者が痺れを切らして、勝手に口頭で許可を出した。というより、「かまわんから、イミグレに行ってこい」と言われた。国境のイミグレへ行き、「許可が出た」と伝えると、あっさりパスポートを渡してくれた。パスポートを持ってゴマのイミグレ本部へ行き、ここでも「許可をもらった」と伝えると、ビザ申請は受理された。数日前には、「反乱軍の許可書が必要だ」と追い返されたのに。力が抜けそうだった。書式料10ドル、ビザ代107ドル。ようやくビザスタンプの押されたパスポートを手にした。

 パスポートを持って、反乱軍オフィスへ行くと、翌日の朝6時に空港へ来いという。結局、搭乗も口頭での許可になった。
 この二つの許可を取るために、五日間走り回ったのだが、口頭の許可でいいのなら、初日にすべて完了していたはずだ。この五日間は何だったのか。疲れた。でも、内戦中の国だから、こんなものか。

 まあ、とにかく撮影許可書、ビザ、フライト許可がそろい、これですべての準備は完了した。

 地元カメラマンのワボ氏がいなければ、ゴマでまったく身動きが取れなかったかもしれない。カンパラのムゲルワ氏もそうだが、カメラマン仲間というのは、実にありがたいものだ。黙っていても、こちらが必要としているものをすべて理解してくれる。そして二人とも惜しみなく協力してくれた。
 ワボ氏には、コンゴを出るときに、カメラの三脚を進呈した。安いが、バンコクで買ったばかりの新品だった。飛び上がるほど喜んでくれた。彼のアルバイトに役立つはずだ。カンパラにもどったときに、ムゲルワ氏にもレンズ保護のフィルターやレンズクリーニングのセットなどを進呈した。
 二人とも、古いカメラを大事に使っていた。
 いまもいい写真を撮っているに違いない。
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コンゴ内戦(2)

2005年01月14日 19時34分02秒 | ●コンゴ内戦
──コンゴへの道のり──
 内戦勃発のコンゴまで、ケニアから六日かかった。ウガンダとルワンダを経由したが、このルートでも一気に行けば三日あれば着ける。しかし、状況を把握せずに内戦中のコンゴへ入るのは無謀だ。的確な情報がなければ、的確な判断はできない。判断を誤れば、無駄に身を危険に晒すことになる。

「無謀」と「リスクを負う」こととはまったく次元が異なる。
 僕が観察する限りで言えば「無謀」とは、「最初に行動ありき」という精神だ。状況も判断せず、やると決めたことはやる、という直情的な精神だ。ごく一部のグループは、それを「勇気」と定義づけているように見える。こうした行動パターンには、頭脳の関与する余地がない。つまりとても楽なのだ。人間、楽な方に向かうものだ。「無謀」であればあるほど「勇気」の証明などと思い込むのは、人間の価値を損なう行為だ。僕自身は、「勇気」などに興味はないので、「勇気とは何か」について論じる気はない。しかし少なくとも「勇気」とは、そんな行為で証明できるようなチンケなものではないはずだ。

 僕は、必要があれば「リスクは負う」。
 情報を収集し、分析検討したうえで、あらゆる状況を想定し、それに対する対策を立てる。不測の事態が想定される場合は、それが解消されるまでは結論を出さない。新しい情報が入るまで、いつまででも待つ。待ちくたびれて死んだ奴はいない。
 ケニアを出るまでに、僕は二週間ほどかかった。コンゴから遠く離れたケニアでは、確実な情報が手に入らなかったからだ。ケニア人からは、「行ったら死ぬからやめろ」と言われ続けた。ケニアを出る決心をしたのは、コンゴを旅行中に内戦に巻き込まれ、そこから脱出してきた旅行者に出会ったからだ。彼は、コンゴでウガンダのジャーナリストに助けられた。そのジャーナリストの名と勤め先の新聞社を教えてもらったのだ。
 コンゴを取材した同業者の情報なら、信頼度トリプルAの情報だ。 ケニアをようやく出て、僕は隣国ウガンダのカンパラに向かった。

 ウガンダの首都カンパラで、さっそく英字新聞「ニュービジョン」を訪ね、カメラマンのムゲルワ氏を呼び出してもらった。単刀直入に用件を告げた。カメラマン同士というのは、こういうとき、垣根がなくていい。彼から、コンゴの戦況や治安状況、コンゴへ入る最良のルート、そしてゴマでコンタクトをとるべき人物まで教えてもらった。現地の治安状況は良く、反乱軍側からの取材もまったく問題がないということだった。ルワンダとコンゴはビザなしで入国できる(98年時点。ツーリストは除外。念のため)。

 ゴマへ入るルートは、カンパラからルワンダの首都キガリ、そして国境の街ジセインへ。国境を越えれば、反乱軍の拠点ゴマだ。ムゲルワ氏によると、ゴマからは、反乱軍の車両や航空機を使えるという。費用はかからない。民間の交通機関は、停止状態らしかった。
 また、コンゴではウガンダの部隊も活動しているので、念のためウガンダのプレスカードを取った。一ヶ月間有効で、30ドルもしたが。
 コンゴから帰ったばかりの同業者からの直接情報なので、もはや検討の余地はなかった。
 ただし、コンゴ政府軍は、ウガンダ領内を空爆しているようだった。地上部隊は、ゴマ近郊に迫まりつつあった。
 戦況の変化については、ゴマで収集する。ゴマ以降の行動は、現地であらためて判断する。
 僕が負うリスクとは、この程度だ。

 カンパラに四日滞在し、ルワンダの首都キガリへ向かった。
 ルワンダは、アフリカのスイスと呼ばれている。
 確かに美しい国だった。
 意外にも、茶畑が多かった(写真)。
 僕の地元は、お茶の産地なので、アフリカで見る茶畑にとてもこころが踊った。

 しかし、一般にはルワンダは94年の大虐殺によって知られている。
 94年、大統領(フツ族)が暗殺されたのをきっかけに、ツチ族への大虐殺が勃発し、80万人から100万人が殺害された。途方もない数字だ。数週間前にナイロビの爆弾テロ現場で幾多の遺体を目にし、撮影することになったが、100万という遺体はとても想像できるものではなかった。目の前に広がる美しい大地にも、無数の遺体が散らばっていたのだろうか。

 虐殺を行ったフツ族は多数派であったが、結局ウガンダ、ブルンジに支援されたツチ族が巻き返し、フツ族はコンゴのゴマへ逃避し、難民となった。難民キャンプは、フツ族武装民兵にコントロールされ、武装民兵の隠れ家となった。ツチ族政権は、難民の帰還を奨励したが、200万人のフツ族難民は、報復を怖れコンゴに居座り続けた。
 しかし、96年のモブツ大統領に対するローレン・カビラの反乱によって、フツ族の難民は一気にルワンダに帰還した。反乱のどさくさで何が起こるかわからなかったからだ。こうして解決不能と思われていた200万のフツ族難民問題があっさり解決された。ルワンダに帰還したフツ族に対する報復もほとんどなかったはずだ。
 僕が訪れた限りでは、街にも道路にも目立った警備もなく、静かでのどかな空気だった。
 ただし、難民キャンプをコントロールしていたフツ族武装民兵組織はゲリラ化し、たびたびルワンダやウガンダを襲撃している。

 モブツ政権を倒し、勝手に大統領となったローレン・カビラは、このフツ族武装民兵を利用して、コンゴ内のツチ族を排除しようとしていた。ややこしいが、カビラはモブツを倒すために「ツチ族」と共闘したが、政権をとると「ツチ族」が邪魔になり、今度はフツ族ゲリラを使って排除しようとしたのだ。

 僕が取材しようとしていたのは、カビラに蜂起した「ツチ族」勢力だった。
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コンゴ内戦(1)

2005年01月13日 19時57分56秒 | ●コンゴ内戦
──爆弾テロのナイロビから内戦のコンゴへ──

 ナイロビの米大使館爆破テロから二週間も経つと、爆破テロ跡は、きれいに瓦礫が撤去された。そこで凄まじいテロがあったという記憶も撤去されたかのように、ナイロビの街も普段の生活へともどっていった。

 しかし、爆弾テロは、アフリカをのんびり旅をしながら撮影するという僕の計画を吹き飛ばしてしまった。とてもそんな気分ではなかった。

 爆弾テロの数日前、コンゴ民主共和国(旧ザイール:以下コンゴ)で内戦が勃発していた。
 カビラ大統領に対して、反乱軍が蜂起したのだ。
 このコンゴの内戦を取材しようと決めた。

 カビラ大統領について、僕が知っていたのは、反乱軍を組織し、32年間のモブツ大統領の独裁体制を終焉させ、選挙もなく勝手に大統領に就任し、国名をザイールからコンゴ民主共和国へと変更した、ということくらいだった。

 しかし、反乱軍を組織し、モブツの絶対体制を終わらせたカビラだが、大統領になって一年で、今度は自分に対して反乱軍が蜂起した。ケニアの新聞には、カビラも結局モブツと同じ独裁者にすぎなかったと書かれていた。

 カビラは、かつてアフリカに来たチェ・ゲバラと共に戦ったこともある。しかし、ゲバラはすぐに愛想をつかしてキューバに帰ってしまった。カビラは革命家でも何でもなく、ダイヤモンドの採掘と密輸で財を成し、その財力で武器と兵士を調達し、国を乗っ取りたいだけの男だった。さすがに、ゲバラは人を見る目がある。
 カビラはそんな男だったが、32年後ついに国を乗っ取ってしまった。
 モブツの独裁政権にうんざりしていた国民は、カビラを開放の闘志と思い込み、カビラの反乱を支持した。モブツは国を逃げ出し、あっさりカビラが政権をとった。しかし、ようやく民主政治が実現されるという国民の期待はみごとに裏切られた。国を私物化したカビラは、モブツとまったく同じ独裁体制を敷いたにすぎなかった。

 大統領に就いたカビラが、まず行ったのが、モブツを倒すために共闘した「ツチ族」を国から追い出すことだった。それがカビラの命取りとなった。カビラに利用され、そして裏切られた「ツチ族」勢力がまず蜂起の狼煙をあげた。そこへコンゴ人の勢力が次々に合流し、反乱軍の勢力は拡大した。そこへ、ツチ族政権のルワンダやウガンダ、ブルンジが反乱軍を全面的にサポートした。
 さらに豊富な鉱物資源を狙う多国籍企業が暗躍し、コンゴの内戦を長期化・泥沼化した。

 現在、コンゴ民主共和国は、国を東西に二分する形で、膠着している。
 国連が介入しているが、豊富な資源の眠るコンゴの内戦が、収拾することは期待できないだろう。
 国連は、所詮、大国の利益代表にすぎない。


 98年9月、ナイロビの爆弾テロの余韻も冷めぬまま、僕はコンゴへ向かった。
 めざすは反乱軍の拠点ゴマだ。
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