かつて、某メトロポリスにはとてもたくさんのストリート・ミュージシャンがいた。
彼らの存在が街に活気さえ与えていたと思う。
いまでもいるのかどうかは知らない。
当時は、地下鉄の通路やホームが彼らの拠点だった。
僕はあまり音楽を聴くほうではないのだが、彼らの演奏が素人離れしていることくらいはわかった。彼らの演奏や歌は楽しみだったが、いちいち吟味していたわけではない。いい演奏や歌には、耳よりも先に足が止まるものだ。足が止まったら聴けばいい。そんな風に思っていた。でも、足が止まることはほとんどなかった。技術的にはプロ顔負けなのだが、それだけでは足はなかなか止まらないものだ。
いま、覚えているのは、15,6才の白人の少年と60才位の黒人のおじさんとのブルース・ギター。エネルギーが爆発するような少年のギターと、円熟したおじさんのギターが、絶妙な味を出していた。それでも、20分ほどしか聴いていなかったように思う。
あれだけプロはだしのミュージシャンがいながら、ほかにどんな人たちがいたかさえ、いまではほとんど記憶に残っていない。いかに優れたテクニックを持っていても、存在したという記憶さえ残してもらえない。
そんな中で、唯一、僕の足を地下鉄のホームに釘付けにした人がいた。ちょっと太った風采の上がらないヒスパニックのおじさんだ。スペイン語でギターの弾き語りをしていた。
それはもう、お話しにならないほどヘタクソな歌だった。どのくらいヘタクソかを、文章で表現する自信はない。そのくらいヘタクソだった。
オヤジは、僕の最寄の駅で歌っていたので、頻繁に出くわした。そして、毎回釘付けになった。釘を引き抜いても、靴はまだホームに糊付けになっていた。おかげで地下鉄を一本やり過ごすことも度々あった。
聴きなれたスペイン語の歌だから、僕には懐かしいのかなと思った。しかし、少し離れたところでそっぽを向いて立っていた女性が、後ろ髪を引かれるように地下鉄に乗っていったのを見た時、僕だけが聴いているのではないという確信を持った。
回りの人を観察してみると、誰もオヤジの方を見ていないのだが、歌を聴いているとおぼしき人はたくさんいた。間違いない。聴いているのは、僕だけではないのだ。みんな、おやじの歌に足が糊付けになっているはずだ。
あのヘタクソなオヤジの歌のどこからそんな魅力がでてくるのか。
そんなこと、誰にもわかるわけがない。
ただ、ひとつ学んだことは、テクニックなんかで人のこころを打つことは決してできない、ということだ。
それは、音楽に限らず、あらゆる表現に共通すると思う。
もちろん書くこともまた同じだ。
本当に何かを伝えたければ、技巧などかえって邪魔だと思う。
文章はヘタクソでいいのだ、と確信して僕はものを書いている。
もし、あのオヤジの歌に出遭っていなければ、僕はもっと臆病にものを書いていたに違いない。
彼らの存在が街に活気さえ与えていたと思う。
いまでもいるのかどうかは知らない。
当時は、地下鉄の通路やホームが彼らの拠点だった。
僕はあまり音楽を聴くほうではないのだが、彼らの演奏が素人離れしていることくらいはわかった。彼らの演奏や歌は楽しみだったが、いちいち吟味していたわけではない。いい演奏や歌には、耳よりも先に足が止まるものだ。足が止まったら聴けばいい。そんな風に思っていた。でも、足が止まることはほとんどなかった。技術的にはプロ顔負けなのだが、それだけでは足はなかなか止まらないものだ。
いま、覚えているのは、15,6才の白人の少年と60才位の黒人のおじさんとのブルース・ギター。エネルギーが爆発するような少年のギターと、円熟したおじさんのギターが、絶妙な味を出していた。それでも、20分ほどしか聴いていなかったように思う。
あれだけプロはだしのミュージシャンがいながら、ほかにどんな人たちがいたかさえ、いまではほとんど記憶に残っていない。いかに優れたテクニックを持っていても、存在したという記憶さえ残してもらえない。
そんな中で、唯一、僕の足を地下鉄のホームに釘付けにした人がいた。ちょっと太った風采の上がらないヒスパニックのおじさんだ。スペイン語でギターの弾き語りをしていた。
それはもう、お話しにならないほどヘタクソな歌だった。どのくらいヘタクソかを、文章で表現する自信はない。そのくらいヘタクソだった。
オヤジは、僕の最寄の駅で歌っていたので、頻繁に出くわした。そして、毎回釘付けになった。釘を引き抜いても、靴はまだホームに糊付けになっていた。おかげで地下鉄を一本やり過ごすことも度々あった。
聴きなれたスペイン語の歌だから、僕には懐かしいのかなと思った。しかし、少し離れたところでそっぽを向いて立っていた女性が、後ろ髪を引かれるように地下鉄に乗っていったのを見た時、僕だけが聴いているのではないという確信を持った。
回りの人を観察してみると、誰もオヤジの方を見ていないのだが、歌を聴いているとおぼしき人はたくさんいた。間違いない。聴いているのは、僕だけではないのだ。みんな、おやじの歌に足が糊付けになっているはずだ。
あのヘタクソなオヤジの歌のどこからそんな魅力がでてくるのか。
そんなこと、誰にもわかるわけがない。
ただ、ひとつ学んだことは、テクニックなんかで人のこころを打つことは決してできない、ということだ。
それは、音楽に限らず、あらゆる表現に共通すると思う。
もちろん書くこともまた同じだ。
本当に何かを伝えたければ、技巧などかえって邪魔だと思う。
文章はヘタクソでいいのだ、と確信して僕はものを書いている。
もし、あのオヤジの歌に出遭っていなければ、僕はもっと臆病にものを書いていたに違いない。
伝えたいという強い気持ちが、表現の基本なんだと、僕も思っています。
技巧というのも、習得するのはそうとうの努力が必要ですが、それでもその基本を忘れてはいけないのだと思います。
プロが人を振り向かせるには、それなりのテクニックや経験が必要になってきますが・・・
誰かに何かを伝えようと思えば、やはりテクニックや見た目ではない、その人自身の「気持ち」や「心意気」や「誠意」が最も大切なんだとおもいました。
彼には、どうしても歌いたい何かがあったのでしょう。
某メトロポリスの72 Street駅で、まだ歌っておられるかも知れないです。
そして誰もが表現者になれるんだと教えられました。
技巧があとからついてくれば、それはそれでいいでしょうね。
でも、ついてこなかったとしても、それはそれでまたいいではないか、と。
しみる歌でした。
やっぱりどれだけ言いたいことがあるか、なんですね。
歌友達の間でも、時々「うまさ」でない「魅力」についての話になります。
歌修行中の私はつい、うまくなりたいと思ってしまうのですが、基本は「言いたいことを表現する」なんですね。
その人の歌を聴いてみたい、周りの人の様子を見てみたいです。
「うまさ」と「魅力」は、あらゆる表現者にとってのテーマですね。これを解明するのは永遠に無理なのかもしれません。
技巧を高めることは可能ですが、自分の思いを自由にあやつることはできないですから。
でも、そういう思いがこころにあるというのは、とても幸せなことだと思います。
その思いをたいせつにしてくださいね。
あのオヤジさんの周りにはけっして人だかりができることはありませんでしたが、何十年たっても多くの人のこころに残りつづけると思います。僕のように。