報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

ブログの更新、滞ります

2006年09月18日 15時23分54秒 | ■メディア・リテラシー
ここのところ、ほとんど更新ができていないですが、今後もこの状態が続きそうです。いま、本を出す準備を進めているため、そちらのほうにしばらく集中したいと思います。本の出版予定は年内ですのでこれからが忙しくなりそうです。

これまでブログを毎日のように書き、時事解説などをしてきましたが、世界の動きを読むというのはそれほど難しいことではありません。世界の動きは誰にでも読める、と確信しています。それを証明するために書いてきたようなものです。読み解くヒントはそこらじゅうにあります。

ただ、世界の出来事の深層を読むための、手っ取り早い方法論や方程式はありません。ですから、すぐにできるというわけではありません。あらゆる習い事と同じで、一定の時間と多少の努力は必要です。しかし、”知りたい”という気持ちがあれば、誰にでも世界の出来事の深層を読み解くことができます。

使用するのは主にメディアの報道です。ただし、メディアの報道から深層を読むためには、ある前提が必要です。それは、とても簡単なことを実践するだけですが、単純なことほどかえって難しいものです。すでにこのブログで再三書いてきました。

それは、
”メディアとその報道をいっさい信じない”
という姿勢です。
あるいは、常に疑問の眼を向けておく、ということです。
それさえできれば、世界の出来事の深層は見えてきます。

メディアの報道を利用するためには、メディアの報道を信じてはいけない。矛盾しているようですが、それが絶対条件です。メディアの報道、情報を鵜呑みにしてしまえば、いいように誘導・操作されるだけです。

”メディアの報道は特に間違ってはいないじゃないか”、とおっしゃる方もおられるでしょう。その通りです。事実に反した報道はほとんどありません。すべて「事実」と言っていいでしょう。それを疑えと僕は言っているのです。この機微を納得してもらえるかどうかが、分かれ目です。

国内報道の約半分は、公官庁等からの公式発表をそのまま流しているだけとも言われています。いわゆる「大本営発表」です。メディアは公官庁の発表を忠実に報道しているわけです。もし、公官庁の発表に隠蔽、捏造、改ざんが行われていたとしても、メディアは何の責任も問われませんから、安心して垂れ流すことができます。隠蔽、捏造、改ざんがあるかもしれないという可能性は、最初から排除されています。これが公官庁とメディアの正しい関係です。

「大本営発表」以外の報道でも、ほとんどの報道は「加工」されているかフィルターで濾過されていると思って間違いないです。着色料や防腐剤、あるいは産地偽装などの不当表示もあるかもしれません。

こうした「加工」や「大本営発表」の意図的な垂れ流しが、なぜ行われるのかと言えば、国家の望ましい方向へ国民意識を誘導するためです。メディアの役割とはそれ以外にありません。

あらゆるメディアは民間企業です。社団法人や半官半民という形態もありますが、基本的にはメディアとは民間企業群です。民間企業は、当然、国家の統制や規制を受けます。そのような民間企業群が国家の不利になること、国家の意向に逆らうことを報じるでしょうか。そんなことは、過去にはありませんでしたし、今後もありえません。メディアの掲げる不偏不党、公正中立という概念を国民に保証するものはどこにもありません。それは単なるお題目、幻想に過ぎません。努力目標ですらありません。

また、あらゆるメディアの主収入源は広告料です。日本の場合、その広告配給は、電通という巨大企業によってほぼ独占されています。シェアーは25%ですが、電通はその数字以上の支配力を持っています。メディアは、電通という一企業にさえ、逆らえないのが実情です。電通と政官財は太いパイプでつながっています。つまり、政官財は電通を通じてもメディアをコントロールできるということです。二重に支配されているメディアに自由などありません。

それどころか、「記者クラブ」という特権制度に胡坐をかいて、すでに飼いならされていると言っていいです。全国に無数にあるこの「記者クラブ」が「大本営発表」の受け皿です。

メディアは、国家による規制と監視を受け、広告代理店の支配を受け、そして特権に胡坐をかいています。メディアは決して公権力から独立した存在ではないということを理解する必要があります。今後も、永久に権力から独立することはありません。言論の自由というのは非常に良くできた幻想です。この幻想によって、メディアに対する絶対的信頼が創出されています。まず、幻想によるこの信頼感を絶ち切る必要があります。

メディアの唯一絶対の使命とは、国家にとって都合の良い方向へ国民意識を誘導することです。それ以外の使命はありません。米国の大手メディアになると、世界中の世論を誘導しています。そのようなメディアの報道を信じるのは、自分で自分を縛るようなものです。

しかし、メディアに疑問の眼を向けても、われわれはメディアの報道を通してしか、世界に接することはできません。その報道はわれわれを誘導しようとしています。さて、どうすればいいのでしょうか。われわれは、その報道を逆手に取って、メディアはわれわれをどこへ誘導しようとしているのかを読めばいいのです。それさえ読めば、報道の持つ意味が明らかになり、深層が見えてきます。メディアは偉大な風見鶏です。権力から吹く風をわれわれにを教えてくれています。それを利用しなければ損です。

メディアがこぞって大合唱することは、たいてい誤魔化しや捏造が行われています。「大量破壊兵器」などイラクにはありませんでした。フセインは「アル・カイーダ」とは何の関係もありませんでした。これはアメリカの議会が正式に報告しています。しかし、世界のメディアは、証拠も根拠もなく、ただブッシュ政権のアナウンスを垂れ流し続けました。世界を「対テロ戦争」という泥沼に引きずりこむために。

それでも、メディアに対する批判はいっさいありません。「大本営発表」を垂れ流し続けても、メディアは決して批判されないのです。これは驚異というしかないです。まさに、メディアに対する信頼感は絶対的と言えます。したがって、メディアはほぼ半永久的に自国民や世界世論を誘導し続けることができます。

真実の報道をすれば自身に何が起こるかを、欧米のメディアはよく知っています。アルジャジーラ支局は次々と米軍に爆撃され、支局員が殺害されました。欧米のメディアが報じるところの「誤爆」で。

われわれの血の中には、「メディアへの信頼感」が流れているとさえ感じます。メディアへの信頼感は、無条件で絶対的です。それは、理屈を越えています。それを断ち切ることは並大抵の事ではありません。

僕は、メディアへの根拠のない信頼感など簡単に打ち崩せると、安易に考えてきましたが、それは大きな誤りでした。最初のハードルが最も高く、最も強固だということに気づきませんでした。ですから、僕は、メディアとその報道を信じるべきではない、と主張し続けていますが、果たしてどれだけ受け入れてもらえたかはたいへん心もとないです。

しかし、ひとつだけ言えることは、このハードルを越えれば、まったく別の世界が見えるということです。目の前の視界が少しづつ開け、個々バラバラだったものがつながりはじめ、平面だったものが立体的に見えてきます。ただし、見たくないものもたくさん見えます。お花畑には、累々たる屍が横たわっているかもしれません。

ただ、すべてが千里眼のように見通せるわけではありません。人間はあくまで人間です。超人にはなれません。いくら観察し考えてもまったく深層が見えてこない事例もたくさんあります。常に限界を感じながらゆっくり進むしかないです。ダメだ、と諦めたときに見えることもあります。


世界の出来事の深層は誰にでも読み解けます。
それは紛れもない事実です。
ただし読み解くための方法論や方程式はありません。
画期的な大発明をするための方法論がないのと同じです。
たいせつなのはメディアが提示しているのは、偽りの現実でしかないと認識することです。
それだけで、世界の本当の実像が霧の彼方に見えてきます。



疑問のすすめ

2006年06月10日 13時59分02秒 | ■メディア・リテラシー
情報を、”信じられる、信じられない”の二つに分けるべきではない。
選別しようとすると過ちを犯す。

信じるに値する情報など、この世にはないと思っている。なぜなら、情報は人の脳が作るものだからだ。情報が僕のところに届くまでに、無数の脳というフィルターを通ってくる。そのようなものをまともに信じることは、僕には到底できない。

情報の選別は一見合理的なように見えて、実はたいへんな危険を孕んでいる。

2003年3月以前の時点で、「大量破壊兵器」の存在を疑がった人はほとんどいないはずだ。それが実際にあるかどうかは、誰にもわからない。しかし、世界は信じた。いったい、何を根拠に信じたのだろうか。それはメディアの垂れ流す情報だ。あの時点で、どんなに情報の選別作業をしても、「大量破壊兵器」は「ない」という結論には至らない。

情報を選別するというのは、情報の本流を支持するという結果をまねく。つまり、情報選別をしている人は、簡単に情報を使って操ることができるということだ。情報の選別という行為は、自分で自分を縛るようなものだ。

”あらゆる情報に疑問の眼を向ける”という習慣を身につけない限り、永遠に情報にコントロールされてしまう。情報というのは、いまこの時点も、われわれを一定の方向に押し流そうと濁流となって流れている。

ただ、僕が情報を扱う場合、保存する情報とやり過ごす情報がある。確かにここで選別が行われている。しかし、保存した情報を信じているわけではない。あくまで、こころの中の問題だ。

極端に言えば、正しい情報を得る得ないというのは、どうでもよいことだ。情報に正しいも間違ったもない。すべての情報は正しいし、すべての情報は間違っている。

現代社会を生きる上で、情報に疑問を持つという行為そのものが、最も重要な意味を持っていると考えている。

僕は自分の考えや自分の書くものすら、疑うよう努めている。

特殊指定にしがみつく新聞業界

2006年05月20日 22時32分03秒 | ■メディア・リテラシー
新聞の特殊指定、存続で一致 自民独禁法調査会
2006年05月18日01時20分
 自民党の独禁法調査会(保岡興治会長)は17日、公正取引委員会が検討している新聞の特殊指定の廃止に反対することで一致、保岡会長らが特殊指定存続に向け公取委側と協議に入ることを決めた。
http://www.asahi.com/politics/update/0518/002.html

このニュースの全文を読んでも、おそらく何のことかさっぱり分らないと思う。
特殊指定?再販制度?
新聞業界というのは、この二つの法律の規定で、50年間完璧に競争から守られてきた。

新聞特殊指定 1964年(昭和三十九年公正取引委員会告示第十四号)

第1項:新聞発行本社が行う地域又は相手方により異なる定価設定や値引行為を禁止。ただし,学校教育教材用や大量一括購入者向けなどの合理的な理由がある場合は例外として許容。

第2項:販売店が行う地域又は相手方による値引行為を禁止。(第1項のような例外は存在しない。)

第3項:発行本社による販売店への押し紙行為(注文部数を超えて供給すること及び自己が指示する部数を注文させること)を禁止。
http://www.jftc.go.jp/tokusyusitei/siryou060327.pdf


再販制度(再販売価格維持制度:独占禁止法第23条 1953年)

再販制度(再販売価格維持制度)とは、いわゆる「定価販売」を義務付ける法律の事です。新聞・書籍・雑誌・音楽CD・音楽テープ・レコードの6品目の商品は、著作権保護の観点から再販価格制度に指定されており、定価販売が義務付けられています。出版社側(メーカー)がそれぞれの出版物の小売価格(定価)を指定して、書店などの販売業者が指定価格通りに販売することを義務付ける制度です。
http://homepage3.nifty.com/bom-money/houritu/index.html


この二つの法令は、同じことを別表現で述べているにすぎない。特殊指定は「値引きの禁止」、再販制度は「定価販売の義務」だ。新聞販売というのは、独占禁止法の定める二つの法律によって、全国一律の定価販売を保証された。その定価を決めるのはもちろん新聞業界だ。つまり、新聞業界というのは、この50年間「談合」が許されてきたようなものなのだ。

しかし、この二つの法律は、決して談合を許してはいない。また様々な価格設定を禁じているわけでもない。長期割引や学生割引があってもいいということなのだ。にもかかわらず、三大紙はたったひとつの価格帯しかない。しかも三大紙の価格が一桁の単位まで同じだ。新聞業界は、都合の良いように勝手に法律を拡大解釈して事実上の「談合」を行ってきた。法律はそこまで許したわけではない。

競争があっても消費者不在の業界は多い。競争のない業界はもっと堕落する。いま、公正取引委員会は、「特殊指定」を撤廃して、資本主義の基本である競争を新聞業界にも求めている。

しかし、新聞業界は猛烈に反発している。言論の自由が脅かされるとか、宅配制度が崩壊するなど。言論の自由を蹂躙しているのは新聞業界そのものだ。大本営発表しか流さないのだから。宅配制度は、とっくのむかしに制度疲労をおこしている。新聞業界は、50年も守られてきたから、いまさら一人立ちする自信がないのだろう。経営努力をする必要がないぬくぬくした制度にしがみつきたいのだ。

他業界は激しい競争に晒されているにもかかわらず、新聞業界は50年間守られてきた。結局のところ、こうした制度が新聞業界と政府の癒着につながった。新聞業界は、既得権益を維持するために、常に政府のご機嫌をうかがい、大本営発表を垂れ流してきた。現在も新聞は小泉政権の応援団でしかない。それによって国民が不利益を被ってきたことは言うまでもない。

しかし、政府に忠実なこんな新聞業界に対して、なぜ政府機関である公取委が「特殊指定」撤廃に取り組んでいるのだろうか。少し不可解である。新聞業界は、小泉政権からご褒美をもらってもいいくらいの大活躍をしてきたはずだが。

公取委は、2003年に総務省から内閣府へ移っている。これはアメリカ政府の「年次改革要望書」に記載されていた。小泉首相はそれを忠実に実行した。公取委は、防衛庁、金融庁、国家公安委員会と並ぶ最重要機関に昇格した。公取委の意向とはすなわち、内閣の意向である。

これまでのところ、新聞業界というのは、非常に政府に協力的であった。しかし、今年に入って新聞業界は小泉首相が凋落傾向と読んだのかもしれない。今年2月に朝日新聞論説主幹・若宮啓文と読売新聞主筆・渡辺恒雄による対談が行われ(『朝日・読売の論説トップが批判 小泉靖国外交の危険な中身』)、両者は小泉首相の政策を正面切って批判したようだ。

「しかし、小泉という人は、ご存知のように、自分にさからう人間は、絶対に許さないというタイプの人ですから、この対談の論調に大反発したわけです。」
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/060216_gaiko/index1.html
内閣府直属の公取委による「新聞の特殊指定撤廃案」というのは、小泉首相から新聞業界への熱いメッセージなのだろう。いま、メディアが「共謀罪」に対して腰の引けた報道しかしていないのも納得だ。結局のところ、国民不在の内閣と国民不在の新聞業界との内輪もめというところだ。政府は、公取委を使っていつでも新聞業界を揺さぶることができるということだ。

そもそもこんな腐った優遇措置にいつまでもしがみつくような新聞業界には未来はないだろう。


特殊指定の見直しについて(公取委HP)
http://www.jftc.go.jp/tokusyusitei/index.html
公取委委員長に対する新聞側のインタビュー
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/shinbun/news/20060425ddm012040140000c.html
再販制度の存続を訴える新聞労連
http://www.shinbunroren.or.jp/hanbai/hanbai.htm

崩壊寸前の新聞ビジネス

2006年05月17日 22時55分05秒 | ■メディア・リテラシー
「新聞読む」「戸別配達支持」9割超 日本新聞協会調査
 日本新聞協会が新聞、テレビ、ラジオ、雑誌、インターネットの主要五メディアへの接触状況や評価を調べたところ、92・5%の人が新聞を読んでおり、多メディア時代にも新聞が引き続き高い評価を受けていることが分かった。
http://www.sankei.co.jp/news/060517/sha044.htm

この数字だけを見ると、新聞は高い支持を受けているように見える。しかし、同じ日本新聞協会のデータを元にして購読率を出すと次のようになる。

1993年---1.06部
2000年---1.00部
2005年---0.93部     購読率=発行部数÷世帯数http://www.pressnet.or.jp/

確実に購読率は低下している。しかも、”無料購読1年”とか、様々な”景品”、あるいは押し売りまがいの強引な営業を行って、なおかつ購読率は下降している。普通に営業していれば、購読率はもっと下がっているはずだ。

じりじりと購読率は下がっており、2012年には1世帯当たり0.8部になると推計されています。(中略)
これが0.6部や0.7部に落ちると、販売網を維持できなくなります。

新聞社が宅配から上げている年間販売収入は約1兆7500億円。ここから販売店に配達料6500億円と拡張補助金として1500億円が戻される。つまり、8000億円が店の取り分であり、新聞社は9500億円を得る。実に売上げの4割以上が新聞の出前費用に使われているのです。
部数が落ちるとこのようにカネをかけたビジネスモデルは壊れるしかない。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/interview/64/02.html

このまま購読率が低下して行けば、いつか必ず新聞ビジネスは崩壊するということだ。20代の新聞購読率はこの10年で30ポイントも低下している。少子化も進んでいる。日本の新聞ビジネスというのは制度的に完全に行き詰っている。100年前にできた制度をいまだに使っているのだ。新聞業界は根本的な解決を模索するよりも、崩壊確実な古い制度にしがみつこうとしているようだ。日本の新聞業界の知的状況とはこの程度だ。

新聞業界は、自らの業界に対しては決して「自由競争」を持ち込もうとはしない。価格競争はなく、値上げも値上げ幅も各社同列。これをカルテルというのではなかったか。「再販制度」にしがみつく新聞業界の姿は醜悪というしかない。新聞には、他業界の談合やカルテルを紙面で批判する資格はない。

しかし、新聞購読数の減少の本当の原因は制度疲労ではないと思う。結局、新聞とは大本営発表のための存在でしかない。そんな新聞を誰が読みたいと思うだろうか。新聞業界は「共謀罪」のような国民の基本的権利を侵害するような法律を、本気で取り上げようとはしない。こんな新聞は、制度疲労をおこす前に読者に葬り去られるだろう。

ネットの情報というのは玉石混交だが、必要とする情報はたいてい手に入る。玉石混交なだけに、誰もがネットの情報には注意深く接する。そこがいいのだ。真贋を見極める眼が養われる。

ネットの情報に接するような姿勢で、新聞の情報にも接するべきだ。
新聞が消えてなくなる日までは。

コソボ紛争と石油の関係

2006年05月15日 23時00分06秒 | ■メディア・リテラシー
ミロシェビッチ元ユーゴ大統領、自然死と断定

 【ベルリン=黒沢潤】オランダの検察当局は(4月)5日、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(オランダ・ハーグ)の拘置所内で先月11日に死亡したミロシェビッチ元ユーゴ大統領の死因について、毒殺などではなく、「自然死」だったとする結論をまとめ、捜査を終了した。(04/06 08:15)
http://www.sankei.co.jp/news/060406/kok029.htm

ミロシェビッチ元ユーゴスラビア大統領は、大量虐殺や人道に対する罪で国際法廷で訴追されていた。そのミロシェビッチ元大統領が拘置所内で死亡したため多少憶測をよんでいた。しかし、彼の死因よりももっと重要な事実がある。

コソボ紛争とは何だったのか。
ユーゴ爆撃とは何だったのか。
その真相が明らかになる日はこないだろう。
しかし、ミロシェビッチが「民族浄化」の悪魔でないことだけは確かなようだ。

1999年3月24日、NATO軍は、旧ユーゴスラビアのセルビア人が、コソボのアルバニア人に対して「民族浄化」を行っているとして空爆を開始した。空爆は6月10日まで続き、民間人に大勢の犠牲者がでた。空爆は、「民族浄化」を止めるための人道的介入とされているが、はたして本当だろうか。


後年、欧州安全保障協力機構(OSCE)の国際政治専門家は、ドイツ政府の内部文書に以下のような記述を認めている。

「三月二十四日、NATOがユーゴスラヴィア空爆を開始、ベオグラードは、コソヴォのアルバニア系住民に対する暴力行為でこれに応酬する。だが、空爆が始まる以前、三月二十四日までのコソヴォでは、ユーゴスラヴィア警察によるアルバニア人への暴力行為がごく一部に見られただけであり、アルバニア人全体を対象とする『民族浄化』は存在しなかった」

p50

西側メディアは、(中略)セルビア人の脅威にさらされたアルバニア系被害者の数は何十万人にものぼると数字を挙げて解説する。戦後、コソヴォに入ったスペイン系法医学者グループが、コソヴォ紛争における死者の数は、国籍の区別なく集計して、全体で4000人程度だろうと発表している(後略)
p105
アンヌ・モレリ著『戦争プロパガンダ 10の法則』より

空爆以前に、「民族浄化」などはなかったのだ。存在しない理由でユーゴは空爆された。そう、ありもしない「大量破壊兵器」を口実にイラクが爆撃されたのとまったく同じだ。

西側メディアは、事実を曲げて、ミロシェビッチを「民族浄化」の悪魔にしたてあげた。そして、空爆への口実作りに全面協力した。おかげで、いまでもミロシェビッチは現代のヒットラーとして多くの人々の記憶に焼きついている。彼の死によって、それは正史として残るだろう。ミロシェビッチが善人だったとは言わない。しかし、それが空爆の理由にはならない。

NATO諸国はなぜ「民族浄化」をでっちあげて、ユーゴスラビアを空爆し、ミロシェビッチを失脚させたかったのか。その真相を探ることは難しそうだ。いまのところ、はっきりしたことは言えない。これからも、はっきりするかはわからない。

ただ、バルカン半島には、カスピ海の石油や天然ガスをアドリア海に運ぶパイプライン・ルートの構想がいくつもある。ちょうどコソボ上、あるいはコソボの近くを通るAMBOというパイプラインの計画もあった。AMBO計画にはエクソンモービルやシェヴロン・テキサコなどが参加していたが、後に撤退し計画は頓挫している。構想自体はいまも残っているようだ。アメリカの石油メジャーがバルカンのパイプラインルートを模索していたことは間違いない。NATO軍と言いながら、空爆の70%を米軍が担ったというのも納得できる。

石油メジャーにとっての重要課題は、カスピ海の豊富な石油をいかにして、積出港まで運ぶかだ。ひとつはアフガニスタンを経てパキスタンの積出港に至るルート。それから、トルコルート。そして、バルカンルートだ。石油メジャーはすべてのルートを手に入れたということだ。

メディアが、誰かを悪魔と呼ぶとき、たいていこういうカラクリがある。
ミロシェビッチ元大統領は、「民族浄化」の悪魔にされたまま獄中死してしまった。
そして、メディアは、これからも悪魔を生産し続けるだろう。

「共謀罪」という戦争プロパガンダ

2006年05月11日 22時23分36秒 | ■メディア・リテラシー
「共謀罪」をめぐる法学者の見解について見てみたい。
これが日本の法学関係者を代表する見解なのかはわからないが、特に法学関係者から反論もないようだ。

 桜美林大学の加藤朗教授(国際政治学)は「テロから身体の安全を守ることを優先するのか。それとも思想信条の自由を優先するのか。重大な選択を迫られているのだと思う。無差別爆弾事件が起きたとき、犯人に爆弾の作り方を教えた人間は処罰されなくていいのか。危険な薬品が管理されているように、危険な知識も管理されるべきではないのか。何らかの法律は必要だろう。ただし運用は厳格な枠にはめられなければならない」との見方だ。

 慶応大学の小林節教授(憲法学)は「この類(たぐい)の法律がなければ、日本がテロリストにとって極めて居心地がよい国になってしまい、国際的に孤立してしまうのはまちがいない。ただし日本の警察が法律を乱暴に運用するのは昔からの体質で十分な監視は必要だろう。従って法案を通すときには厳格な運用をするようにと付帯決議を必ず付けて、乱用するなよ、と念を押すべきだ」と話す。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060510/mng_____tokuho__000.shtml

二人の学者は、テロと「共謀罪」を関連付けて述べておられる。一見自然な流れであるかのように語っているが、ちょっと待って欲しい。「共謀罪」は、国際組織犯罪防止条約の批准のための法整備の一環だとされている。しかし、国際組織犯罪防止条約の中では”テロ””テロ組織”という言葉は一切でてこない。”テロ”が扱われているのは国連テロ対策関連条約だ。二人の学者は、条約とは関係のないテロの話しを持ちだして「共謀罪」を納得させようとしていてはいないか。

もちろん、国際組織犯罪にテロ行為は含まれると言われればそれまでだが。そのためには、テロとは何かから議論をはじめなければならないだろう。少なくとも、条約の文言には”テロ””テロ組織”という言葉はない。

しかし、いまや、テロに関連づけさえつければ国家は何でもできるようだ。テロ対策のためなら、人権侵害も許される。「テロ」「テロリスト」「テロ対策」というのは実に便利な魔法の言葉になりつつある。

しかしそもそものアメリカによる「対テロ戦争」は、架空の脅威に対する戦いだと僕は考えている。テロとは、捏造され、演出された脅威にしかすぎない(ここでは詳しくは述べない)。したがって、それに付随するあらゆるものは茶番だ。もちろん、条約や法律もだ。

ありもしない「脅威」と戦うために、われわれの人権がどんどん狭められようとしている。
これは「対テロ戦争」に対する「戦争プロパガンダ」と言えるだろう。
「共謀罪」のような法律こそが人権に対するテロ行為だ。
ロマン・ロランがこの状況を見たら何と言うだろうか。

戦争プロパガンダから学ぶ

2006年05月09日 23時16分24秒 | ■メディア・リテラシー
アンヌ・モレリ(ブッリュッセル自由大学教授)は、戦争があるたびに、まったく同じプロパガンダが繰り返され、世論が操作されてきたと述べている。戦争が終わると、世論は騙されていたことに気付く。しかし、次の戦争がはじまると、また同じプロパガンダに騙されてしまう。今度こそ、プロパガンダは本物だと信じてしまうからだ。

ひとたび戦争が始まると、メディアは、批判能力を失う。たとえ、「民主主義国家」でも、情報および映像の製作、放送に関しては画一化が著しく、政府の意図に反する映像、反対する意見はマスコミにもとりあげられない。
(中略)
現代の「洗脳」技術は、かつてゲッペルスが実現できなかった集団幻想よりもさらに遠くへわれわれを導こうとしている。あるユーモア作家がこう言っている。

「現代人は、かつてのように何でもかんでも信じてしまうわけではない。彼らは、テレビで見たことしか信じないのだ」


アンヌ・モレリ著『戦争プロパガンダ 10の法則』p182~183

アンヌ・モレリは、その著書で戦時におけるメディアがいかに狡猾に人々を戦争に導くかを述べている。戦争プロパガンダは10項目に集約できるという。この10項目は、1928年にアーサー・ポンソンビーによって書かれた『戦争の嘘』をもとにしているが、その分析が現代にもぴたりとあてはまっている。

戦争をはじめようとする国家元首は、まずこう呼びかける。「われわれは戦争を望んでいるわけではない」と。「しかし敵側が一方的に望んだ」のだと続ける。そして、「敵の指導者は悪魔のような人間だ」と決めつけ、戦争突入へのためらいを押し切り、「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」のだと、正義の動機づけを行う。

第一次世界大戦、湾岸戦争、コソヴォ紛争、アフガニスタン戦争など具体的事例をあげ、そこでまったく同じプロパガンダのパターンが繰り返されていることを証明している。世界は毎回、ワンパターンの詐術にまんまと嵌められているということだ。

8項目目は「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」となっている。

第一次世界大戦のプロパガンダに参加したフランスの大学教授たちについて、ロマン・ロランはこう書いている。

「すべての文学者が動員された。もう個は存在しない。大学は、まるで飼いならされた知性による省庁のようになってしまった」

近年の湾岸戦争やコソヴォ紛争でも、芸術家や知識人はプロパガンダに協力を求められた。感動とは常に世論を動かす力であり、彼らは感動を呼び起こす才能を持っている。
 同p144、p148

戦争や紛争時には、動員できるものはすべて動員し、メディアによってあの手この手のプロパガンダがおこなわれる。そこで展開されるのもののほとんどがウソや誇張、ゴマカシなのだ。

確かに、戦時においてメディアは露骨なプロパガンダを行う。しかし、現代の世論操作は”戦時”に限ったことではない、と付け加えておきたい。平時においても、われわれはたえまない情報操作を受け続けている。戦争プロパガンダは形を変えて、つねにわれわれを取り巻いていているはずだ。

メディアによる情報操作の最たるものは”メディアはいつも正しい”という自らへの権威付けかもしれない。なぜなら、正しいと信じているメディアが、”サダム・フセインは悪魔だ”と叫ぶからこそプロパガンダは効果的になる。最初からメディアを信じていなければ、プロパガンダも効果を持たない。

メディアのプロパガンダに対して、われわれはどう対処すべきか。
アンヌ・モレリはこう述べている。

超批判主義を通せば、良心を殺すこともない。行き過ぎた懐疑主義が危険であるとて、盲目的な信頼に比べれば、悲劇的な結果につながる可能性は低いと私は考える。メディアが日常的にわれわれを取り囲み、ひとたび国際紛争や、イデオロギーの対立、社会的な対立が起こると、戦いに賛同させようと家庭の中まで迫ってくる。こうした毒に対しては、とりあえず何もかも疑ってみるのが一番だろう。
疑うのがわれわれの役目だ。武力戦の時も、冷戦の時も、あいまいな対立が続くときも。
 同p189

僕は、最後の言葉に、”平時も”と付け加えたい。



戦争プロパガンダ10の法則
「われわれは戦争をしたくはない」
「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」
「敵の指導者は悪魔のような人間だ」
「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」「われわれも誤って犠牲をだすことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる」
「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」
「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」
「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」
「われわれの大儀は神聖なものである」
「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794211295/249-0187609-4547569

情報に対する免疫機能

2006年05月06日 22時43分54秒 | ■メディア・リテラシー
われわれにとって、メディアの流す情報というのはほとんど空気のようになっている。日々多量の情報がわれわれを取り囲んでいるが、特別に意識することはない。情報はあって当たり前になっている。そして情報はわれわれの体内に酸素のように取り込まれていく。

よい情報は、酸素のように体内で活用されエネルギーとなる。しかし、いまの日本のメディアの情報はわれわれの体内でいったい何をしているだろうか。意図的に操作された情報というのは、活性酸素のようなものだろう。それを日々取り込むと、体は蝕まれ老化が進む。

われわれは、情報を選り分けて摂取しているわけではない。情報というのは、意識しなくてもどんどん体内に取り込まれていく。そこが恐ろしいところだ。文字や音声、視覚情報としてどんどん取り込まれ、体内に流れていく。そうして固定観念が生まれるのだと思う。一度芽生えた固定観念というのは、そう簡単には払拭したり、書き変えたりはできない。

まず、情報の持つ意味を知らなければならない。しかし、情報をいちいち精査し、その意図や裏を読むのは至難の業だ。毎日毎日そんなことをしている余裕は現代人にはない。

しかし、メディアの情報のすべてを、ひとまず懐疑の眼で見る習慣をつければ、取り込まれた情報はいきなり血中に流れ込むことはなくなるだろう。免疫系の査察を受け、パスしたものだけが体内に流れエネルギーとなる。

抽象的な表現だが、これは非常に効果的だと考えている。情報を何んとなく受け流すのではなく、ひとまず懐疑の眼を向けることが大切だと思う。疑うというのは非常に能動的な行為であり、情報に対する免疫機能が活性化されるはずだ。

ベネズエラの民衆は、富裕層の所有するメディアによる反大統領キャンペーンなどはなから信じていない。ベネズエラの石油をコントロールしたいアメリカに、富裕層がバックアップされていることを誰もが知っているからだ。ベネズエラの民衆には、情報に対する強力な免疫機能が培われている。

われわれもしっかりとした免疫をつけたいものだ。

メディアとどう接するか

2006年05月05日 20時07分27秒 | ■メディア・リテラシー
ロスの50万人デモ、DJ協力 スペイン語ラジオで動員
2006年 3月30日 (木) 21:34
 50万人ものデモ参加者をどうやって動員したのか――。25日にロサンゼルスであった不法移民取り締まり法案に反対するデモについて、その規模に驚いた人々の間で動員の「謎」に関心が集まっている。主催者によると、デモ成功の陰にはスペイン語ラジオFM局のDJたちの全面的な協力があったという。
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/kokusai/20060330/K2006033004440.html

不法移民取り締まり法案に反対するデモについての古いニュースだが、今回は法案について論じるわけではなくラジオについて。

このデモは、ヒスパニック団体やカトリック関係者、人権団体などが連携し、約2カ月かけて平和的デモを準備したものだが、主催者が予測した動員数は数万人ほどだった。

しかし、デモ主催者がスペイン語FM局に出演したとき、番組のDJが趣旨に賛同し、他のスペイン語ラジオ局10局に声をかけ、他のラジオ局もデモ参加を呼びかけた。

DJ達は、主催者の意向である平和的デモを実現するため、「白を着て家族連れで参加すること」を呼びかけた。そして視聴者はその趣旨に賛同し、結果的に50万人もの人々がデモに参加した。テレビやインターネット全盛の時代に、意外にもラジオというメディアが大きな影響力が発揮した。


しかし、まったく逆の例もある。
1994年、アフリカのルワンダでは、ラジオがすさまじい凶器となった。

ルワンダで行われた虐殺は、ハビリマーナ大統領の政党系列の「千の丘自由ラジオ・テレビ」を通じて、ツチ族に対する憎悪をかきたてる煽動によって、実行を促された。

 ラジオは、ツチ族を繰り返し「ゴキブリ」と蔑称し、アフロ・ビートを伴った「ゴキブリをたたき殺せ」というメッセージを農村の隅々まで流した。素朴なフツ族農民が男も女も子どもたちも村をあげて、近くのツチ族めがけて農作業用のナタをふりおろした。また、民兵組織インタラアメは、ラジオが指名するツチ族系要人を直ちに現場で殺害することができた、という。
http://www.issue.net/~sun/se/com20000123.html

ルワンダでの虐殺において、ラジオが一定の影響力を持ったことは間違いはないが、もともとツチ族に対する反感や憎悪を掻き立てる政策が執られ続けていた。ラジオの突然の呼びかけだけで、フツ族民衆が虐殺に走ったわけではないようだ。ラジオがどこまでの役割を果たしたのかは議論が分れている。
NHKによって、「なぜ隣人を殺したか~ルワンダ虐殺と扇動ラジオ放送~」という番組も作られている。

ロサンゼルスとルワンダの例は、とても示唆的だが、大衆がメディアのメッセージで誘導できるという単純な結論にはならないだろう。

次ぎのような事例もある。
2002年のベネズエラだ。

メディアは嘘をつくこともまるでいとわず、「チャベスは独裁者だ」という固定観念を広め、世論を焚き付けた。ベネズエラには政治犯がまったくいないにもかかわらず、「チャベスはヒットラーだ」とする論調すらあった。スローガンはただ一つ、「あいつを倒せ!」

 ともするとプロパガンダに傾きがちなメディアは、仮想の民衆と実際の民衆とを混同した。4月11日のクーデタが仮想の民衆の名において行われたのに対し、実際の民衆は2日も経たないうちにチャベス大統領を政権に連れ戻した。
http://www.diplo.jp/articles02/0206.html

ベネズエラのチャベス大統領は、富を国民に分配することを掲げて、民主的選挙で大統領についた。ベネズエラの石油収入を独占している富裕層は、アメリカ政府にバックアップされ、チャベスを引き摺り下ろす計画を立てた。

2002年4月11日、クーデター未遂事件が発生した。ベネズエラのメディアのほとんどは富裕層に握られているため、メディアは打倒チャベスを叫び続けた。それはそのまま世界に流れた。しかし、クーデターは二日天下で終わった。ベネズエラの民衆は、富裕層に握られたメディアの言葉をまったく信用しなかった。

今日にいたるまで、ベネズエラのメディアとアメリカ政府は、反チャベス・キャンペーンを続けている。しかし、ベネズエラの民衆がこうしたプロパガンダに誘導されることはないようだ。

メディアを富裕層に握られているチャベス大統領が、いかにして民衆に呼びかけているのかは、興味のあるところだ。メディアの影響力が、まったく空振りし続けているという事例はそれほど多くはない。


50万人という平和的デモを実現したロサンゼルスのラジオ。
80万人もの人々を虐殺に追い込んだルワンダのラジオ。
民衆に意図を見透かされているベネズエラのメディア。
ここから学ぶものはとても多いのではないだろうか。

まず、メディアをどう捉えるかだ。
それによって、発信される情報の意図するものも見えてくる。
漫然と情報を受け取っていては、いいように誘導されてしまう。
一人ひとりがメディアとの付き合い方を考えることがたいせつだ。

自由という檻

2006年04月27日 23時09分45秒 | ■メディア・リテラシー
SF作家レイ・ブラッドベリは、代表作『華氏451』で、書籍の所持や講読を禁止する未来社会を描いた。未来版焚書だ。そこでは文字は一切禁じられ、情報はラジオとテレビから供給され、国民は洗脳支配される。しかし、そんな未来社会の中で、人々は文字の持つ価値に目覚め、人間性を取り戻していく。

『華氏451』は1953年に書かれ、1966年にフランソワ・トリュフォーによって映画化された。マイケル・ムーア監督の『華氏911』というタイトルもここから来ている。

国家による洗脳社会は、1953年にすでにSF作家レイ・ブラッドベリによってほぼ予言されていたということだ。ただ、『華氏451』のメイン・プロットである”焚書”は、現代社会ではありえない。

焚書が成功した事例は歴史上ない。それは不可能だ。見るな、と言われれば、人間かえって見たくなるものだ。禁止されれば、それに挑戦するのが、人間の基本的な特性だ。焚書などというのは、始皇帝の時代ですでに非現実的な政策だったといっていいだろう。

現代社会は、焚書などという紀元前的な稚拙な手段は使わない。もっと高度で緻密だ。禁止や抑圧に対して、人間は必ず抵抗する。ならば、禁止も抑圧もしないのが、もっとも高度な束縛方法だ。

大規模な情報管理を行い、かつ自由でオープンな社会を演出するのが現代版『華氏451』だ。禁止も抑圧もされていないのだから、抵抗する者はいない。誰も自分たちがコントロールされているなどとは感じない。しかし、徹底した情報管理と、物質的豊かさによる、ゆるやかなソフト・コントロールの世界なのだ。

われわれは、SFさえ越えた世界に住んでいる。
自由で豊かだと思った世界が、実は檻なのだ。

メディアの描く予定調和

2006年04月25日 23時24分46秒 | ■メディア・リテラシー
ライブドアの堀江貴文氏は、「ニュースなんかカネで買えばいいじゃないか」と言い放った。

堀江氏の言葉は、報道に対する侮辱などではない。ある意味では日本のメディアというものを、鏡のように写したに過ぎない。情報を右から左に流して、はいできあがり。要するに、メディアというのは情報ブローカーのようなものだ。日本のメディアはそれ以上のことをしているのか、と堀江氏は言っているような気がするのだ。

堀江氏が現代メディアの真の役割をどこまで理解していたかは知らない。たぶん、興味はなかっただろう。しかし、いまのメディアがしている程度のことなら、多量の人員を投入しなくても、おカネさえあればできてしまうというのは、紛れもない事実だ。

日本のメディアが、単なる情報ブローカーであるなら、それはまだいい。しかし、不偏不党、公正中立、報道の自由というものが機能しているかのように装い、国民が必要とする情報を提供しているかのように見せかけていることは、国民への裏切り行為と言える。メディアに対しては、そのくらいの厳しい態度で接する必要がある。

メディアというのは、予定調和を演出するための機関だ。予定調和とは、予め決められた結末に導くことだ。われわれはメディアによって、現実とは違う作られたストーリーの世界を見せられていると言える。

メディアが描く予定調和とは、国家予算で言えば、一般会計予算の80兆円だ。
しかし、日本の本当の国家予算とは、特別会計予算を含めた240兆円だ。

ニュースはおカネで買えるかもしれない。
しかし、本当の現実世界は我々自身の手でつかむしかない。

官制報道

2006年04月24日 19時18分35秒 | ■メディア・リテラシー
新聞というのは、日本のメディアの中で、最も権威付けに成功した媒体だろう。権威付けに成功しただけでなく、完全配達制によって、全国に浸透することにも成功した。

いつごろから、配達制というのが定着したのかは知らないが、これほど全国津々浦々まで新聞が配達される国は他にはない。日本国民のほとんどが、毎日、まったく同じ情報に接し、まったく同じ情報から隔絶されてきた。

新聞配達というのは、ほとんど、文化の域にまで達しているかもしれない。おそらく、朝、朝刊がなければ落ち着かないという人は多いのではないだろうか。生活習慣の一部になっている。ある意味、見事というしかない。

もちろん、僕も以前はそうだった。新聞を読むのが当たり前だった。しかし、僕が最も知りたい国際欄は、貧弱そのものだった。世界の出来事が紙面1ページ分しかない。

タイの英字新聞『 Bangkok Post 』の国際欄は3~4ページはある。分量が多ければいいとは言わないが、世界の出来事が1ページで収まるはずがない。外国の新聞と比べてしまうと、もはや日本の新聞は読む気にはなれなくなった。しかし、無くてもよいとまでは思っていなかった。それなりに役立つこともある。

しかし、現首相になってから、日本の新聞の正体は露骨に現れたと思う。現政権の政策とは、古い経済体制の維持強化でしかない。「構造改革」とはまったく裏腹なのだ。国民生活をないがしろにし、一部の国内資本と外国資本に国民の富を効率よく流すための”構造造り”でしかない。しかし、日本の新聞は、この単純な政治のトリックを一切報じないし、警告もしてこなかった。

これが新聞というものの本来の機能であり正体だ。このような新聞には存在価値はない。戦後から一貫して国家と一体だった日本の新聞が、今後、国家から独立することもあり得ない。新聞の報道というのは、要するに「官制報道」なのだ。

購読が減少して焦り気味の新聞は何らかの対策をとるだろう。おそらくもう少し生贄を増やしてもらって、一部の政治家や官僚、企業を血祭りにあげるのではないだろうか。そうして、新聞には不正腐敗をただす機能があるかのように装うのだ。基本的には、これまでと同じだ。

新聞社に知り合いのいる方なら、僕が書いてきたことなどとっくに耳にしているはずだ。ただ、内部の人間は友人知人には耳打ちしても、決して自ら暴露することはない。その後、自分に何が起こるかわかっているからだ。

日本の経済が「官制経済」なら、報道も「官制報道」なのだ。

減少する新聞購読

2006年04月22日 14時30分34秒 | ■メディア・リテラシー
昨日、○○新聞の営業担当者が購読依頼にやってきた。
もうかなり以前から新聞は購読していない。
うちは新聞を読まないので、と断ったら、
「一年間無料にしますので、ひとつよろしくお願いします」
という返事が返って来た。

一年間無料・・・
いったい○○新聞は何を考えているのか。
それとも、いまはどこでもそうなのか?
ということで、あちらは勧誘、こちらはインタビューとして話しが進んだ。

「購読数は落ちてるんですか?」
「この地域一体は、急激に減っておるんですよ。ひとつよろしく」
この営業担当者は、本社から直々に派遣されてきたらしい。こうしたベテランをわざわざ本社から派遣してくるというのは、○○新聞も相当危機感を持っているのだろう。

やはり、インターネットの普及が、急速に新聞の必要性を縮小しているようだ。同時に、五大紙の紙面の特色のない画一性がさらに新聞を魅力のないものにしている。横並び一線の内容でしかなく、読まれなくなって当然なのだ。営業担当者もおおむね同意した。

以前も書いたが、俗に○○新聞は”左”だとか△△新聞は”右”だとか言われるが、それはそのように色分けして読者層を分けあっているにすぎない。なぜそのような色分けが必要かと言えば、本当に国民に必要なことを各紙が書けば、競争が生じるからだ。たいていの市場に存在する競争を新聞業界には持ち込みたくないのだ。

右だの左だのというのは、競争を避けるための、棲み分けであり、暗黙の談合のようなものだ。右も左も存在しない。五大紙はすべて無用の長物なのだ。本当に国民に必要な情報を、新聞は絶対に書かないと断言してもよい。

「たいていのご家庭が、テレビ欄とチラシがあればいいんです」
それが営業としての実感のようだ。
僕もそうだと思う。
中身がないのだから、それ以外に何か新聞の価値があるだろうか。
読者が政治欄や経済欄を欲していないのではない。
内容のない新聞紙面にうんざりしているのだ。

「国民に必要なことをきちんと書けば、必ず読まれます」
「うちは、ましな方だと思うんですけど」
「いいえ、大衆紙の方がよほど頑張ってると思います」

紙面には、どうでもいいようなことしか載っていないので、結局、無料購読とか景品でしか、購読者を獲得できない。何とも寂しい新聞大国だ。

新聞には一片の期待も寄せていない。要は、権力の下請け業者でしかない。はやく消えるべきだと思っている。しかし、いくら読者が減っても、権力にすがって生き延びる道を用意してもらうのかもしれない。

大統領執務室の最高機密

2006年04月18日 22時11分27秒 | ■メディア・リテラシー
いま参考文献としてチャルマーズ・ジョンソンの『アメリカ帝国の悲劇』を読んでいるのだが、プロローグにおもしろいことが書いてあった。チャルマーズ・ジョンソンは冷戦時代、CIAの国家評価局の顧問をつとめていた民間の学者だ。

わたしはきわめて高度の機密取り扱い許可を与えられていたが、じきにうっかり国家機密を漏らしてしまう心配をしなくてもいいことに気づいた。わたしはかつて、国家情報評価を秘密にする最大の理由はその完璧な陳腐さにある、と妻に話したことがある。たぶんそれが高度の機密事項に指定されているのは、こんな新聞雑誌にのっているようなありふれた雑文が大統領執務室で戦略的な思考として通用していることが知れたら恥ずかしいからだろう。
プロローグ 17p

冷戦時代、世界の誰もが、米ソは熾烈な諜報戦を展開していると思い込んでいた。情報を制するものが冷戦を制すると。しかし、大統領執務室では、普通の新聞や雑誌の内容が真剣に吟味されていたということだ。これが、諜報戦の正体だった。ソ連邦の脅威そのものが、もともとアメリカの演出でしかなかったのだから、諜報戦など必要なかったということだ。

結局、熾烈なスパイ合戦というのは、映画や小説の中にしか存在しなかったのだ。しかし世界は、アメリカが莫大な情報を収集し、赤い脅威から世界を守っていると信じ込んでいた。冷戦中の最高の国家機密が、実は、”機密など存在しない”ということだったとは、ばかばかしいにもほどがある。

現在の、「対テロ戦争」も同じ仕組みなのだと僕には思えてならない。マドリッド、ロンドン、アンマンの爆弾事件には、不可解な事例がいくつも指摘されている。

マドリッドの爆弾事件について、欧米のテロ対策関係者は「アルカイダの犯行ではない。(地元のグループによる)自前の犯行だ」と結論づけている。ロンドンの事件では、主犯とされる英国籍の人物はMI-6(英国情報機関)のメンバーであった、と指摘されている。アンマンの事件は、自爆ではなく、爆薬は天井に仕掛けられていた可能性が非常に高い。

これらの爆弾事件は、「アル・カイーダ」なる組織が実在するかのように誰かが演出しているだけではないのか。

いつどこで爆弾が炸裂するかわからない時代を演出すれば、いずれ世界中の人々が、となりの住人はテロリストではないかと、疑心暗鬼になり、戦々恐々とするようになるだろう。そして、イスラム教徒に迫害を加え、生活難に追い込み、その結果、実際に過激な行為に走らせる、というのが「対テロ戦争」の真相ではないのだろうか。

チャルマーズ・ジョンソンは、冷戦時代のCIAの役割とは、「情報の収集と分析ではなく秘密活動である」とも述べている。

アメリカが最も怖れるものはなにか?

2006年04月06日 23時47分21秒 | ■メディア・リテラシー
基軸通貨ドルによって世界をコントロール下に置いたアメリカという国家には怖れるものはほとんどない。

世界最大の軍事力も保持し、世界が束になっても勝ち目はない。世界のエネルギー資源のほとんどをコントロールし、その気になれば、世界を中世に逆戻りさせることもできる。世界最大の食料輸出国でもあり、何十億という人間の命をも握っている。

このアメリカに挑戦する勇気のある国家が存在するだろうか。世界はすでに、イラクの惨状を目の当たりにしている。ドルの権威に挑戦するものは、容赦なく叩き潰される。理由さえ勝手にでっち上げれば、アメリカは何でもできる。世界は決してアメリカの戦争を本気で阻止することはない。

世界のメディアもアメリカの戦争の真実を報じることはない。世界のメディアは、アメリカの広報機関のようなものだ。国家がアメリカに挑戦できないのだから、メディアという一組織がアメリカの権威に挑戦できるわけがない。

われわれは、メディアによって加工された情報にしか接していない。もちろん、あからさまなウソの情報は少ない。しかしほとんどの重要な情報は隠蔽されているか、加工されている。あるいは、どこかのメディアの片隅にひっそりと存在するだけだ。世界のメディアが、アメリカに都合の悪い情報を大きく報じることはまずない。

言論の自由などこの世界には存在しない。言論の自由も、アメリカの描く単なる幻想に過ぎない。世界に言論の自由があると信じることは、アメリカの描く世界像が本当の世界だと信じることになる。世界が、「大量破壊兵器」は「ある」と信じたために、イラクでは何十万ともいわれる人々の命が奪われた。

米軍は2001年11月、アフガニスタンの首都カブールのアル・ジャジーラ支局を爆撃した。2003年4月には、イラクのバグダッドにあるアル・ジャジーラ支局を爆撃し、特派員一名を殺害した。ブッシュ大統領は2004年4月16日の米英首脳会談で、ブレア首相にアルジャジーラのカタール本社の爆撃計画を伝えたとも報じられている。

ブッシュ大統領は、なぜ一メディアの爆撃にそこまでこだわったのか。
もちろん、真実の報道を怖れたからだ。

いま、世界中の人々が自力で真実を求める努力をしている。
それこそが、アメリカの最も怖れる行為なのではないだろうか。



BUSH PLOT TO BOMB HIS ARAB ALLY (Mirror.co.uk)
http://www.mirror.co.uk/news/topstories/tm_objectid=16397937%26method=full%26siteid=94762-name_page.html