ここのところ、ほとんど更新ができていないですが、今後もこの状態が続きそうです。いま、本を出す準備を進めているため、そちらのほうにしばらく集中したいと思います。本の出版予定は年内ですのでこれからが忙しくなりそうです。
これまでブログを毎日のように書き、時事解説などをしてきましたが、世界の動きを読むというのはそれほど難しいことではありません。世界の動きは誰にでも読める、と確信しています。それを証明するために書いてきたようなものです。読み解くヒントはそこらじゅうにあります。
ただ、世界の出来事の深層を読むための、手っ取り早い方法論や方程式はありません。ですから、すぐにできるというわけではありません。あらゆる習い事と同じで、一定の時間と多少の努力は必要です。しかし、”知りたい”という気持ちがあれば、誰にでも世界の出来事の深層を読み解くことができます。
使用するのは主にメディアの報道です。ただし、メディアの報道から深層を読むためには、ある前提が必要です。それは、とても簡単なことを実践するだけですが、単純なことほどかえって難しいものです。すでにこのブログで再三書いてきました。
それは、
”メディアとその報道をいっさい信じない”
という姿勢です。
あるいは、常に疑問の眼を向けておく、ということです。
それさえできれば、世界の出来事の深層は見えてきます。
メディアの報道を利用するためには、メディアの報道を信じてはいけない。矛盾しているようですが、それが絶対条件です。メディアの報道、情報を鵜呑みにしてしまえば、いいように誘導・操作されるだけです。
”メディアの報道は特に間違ってはいないじゃないか”、とおっしゃる方もおられるでしょう。その通りです。事実に反した報道はほとんどありません。すべて「事実」と言っていいでしょう。それを疑えと僕は言っているのです。この機微を納得してもらえるかどうかが、分かれ目です。
国内報道の約半分は、公官庁等からの公式発表をそのまま流しているだけとも言われています。いわゆる「大本営発表」です。メディアは公官庁の発表を忠実に報道しているわけです。もし、公官庁の発表に隠蔽、捏造、改ざんが行われていたとしても、メディアは何の責任も問われませんから、安心して垂れ流すことができます。隠蔽、捏造、改ざんがあるかもしれないという可能性は、最初から排除されています。これが公官庁とメディアの正しい関係です。
「大本営発表」以外の報道でも、ほとんどの報道は「加工」されているかフィルターで濾過されていると思って間違いないです。着色料や防腐剤、あるいは産地偽装などの不当表示もあるかもしれません。
こうした「加工」や「大本営発表」の意図的な垂れ流しが、なぜ行われるのかと言えば、国家の望ましい方向へ国民意識を誘導するためです。メディアの役割とはそれ以外にありません。
あらゆるメディアは民間企業です。社団法人や半官半民という形態もありますが、基本的にはメディアとは民間企業群です。民間企業は、当然、国家の統制や規制を受けます。そのような民間企業群が国家の不利になること、国家の意向に逆らうことを報じるでしょうか。そんなことは、過去にはありませんでしたし、今後もありえません。メディアの掲げる不偏不党、公正中立という概念を国民に保証するものはどこにもありません。それは単なるお題目、幻想に過ぎません。努力目標ですらありません。
また、あらゆるメディアの主収入源は広告料です。日本の場合、その広告配給は、電通という巨大企業によってほぼ独占されています。シェアーは25%ですが、電通はその数字以上の支配力を持っています。メディアは、電通という一企業にさえ、逆らえないのが実情です。電通と政官財は太いパイプでつながっています。つまり、政官財は電通を通じてもメディアをコントロールできるということです。二重に支配されているメディアに自由などありません。
それどころか、「記者クラブ」という特権制度に胡坐をかいて、すでに飼いならされていると言っていいです。全国に無数にあるこの「記者クラブ」が「大本営発表」の受け皿です。
メディアは、国家による規制と監視を受け、広告代理店の支配を受け、そして特権に胡坐をかいています。メディアは決して公権力から独立した存在ではないということを理解する必要があります。今後も、永久に権力から独立することはありません。言論の自由というのは非常に良くできた幻想です。この幻想によって、メディアに対する絶対的信頼が創出されています。まず、幻想によるこの信頼感を絶ち切る必要があります。
メディアの唯一絶対の使命とは、国家にとって都合の良い方向へ国民意識を誘導することです。それ以外の使命はありません。米国の大手メディアになると、世界中の世論を誘導しています。そのようなメディアの報道を信じるのは、自分で自分を縛るようなものです。
しかし、メディアに疑問の眼を向けても、われわれはメディアの報道を通してしか、世界に接することはできません。その報道はわれわれを誘導しようとしています。さて、どうすればいいのでしょうか。われわれは、その報道を逆手に取って、メディアはわれわれをどこへ誘導しようとしているのかを読めばいいのです。それさえ読めば、報道の持つ意味が明らかになり、深層が見えてきます。メディアは偉大な風見鶏です。権力から吹く風をわれわれにを教えてくれています。それを利用しなければ損です。
メディアがこぞって大合唱することは、たいてい誤魔化しや捏造が行われています。「大量破壊兵器」などイラクにはありませんでした。フセインは「アル・カイーダ」とは何の関係もありませんでした。これはアメリカの議会が正式に報告しています。しかし、世界のメディアは、証拠も根拠もなく、ただブッシュ政権のアナウンスを垂れ流し続けました。世界を「対テロ戦争」という泥沼に引きずりこむために。
それでも、メディアに対する批判はいっさいありません。「大本営発表」を垂れ流し続けても、メディアは決して批判されないのです。これは驚異というしかないです。まさに、メディアに対する信頼感は絶対的と言えます。したがって、メディアはほぼ半永久的に自国民や世界世論を誘導し続けることができます。
真実の報道をすれば自身に何が起こるかを、欧米のメディアはよく知っています。アルジャジーラ支局は次々と米軍に爆撃され、支局員が殺害されました。欧米のメディアが報じるところの「誤爆」で。
われわれの血の中には、「メディアへの信頼感」が流れているとさえ感じます。メディアへの信頼感は、無条件で絶対的です。それは、理屈を越えています。それを断ち切ることは並大抵の事ではありません。
僕は、メディアへの根拠のない信頼感など簡単に打ち崩せると、安易に考えてきましたが、それは大きな誤りでした。最初のハードルが最も高く、最も強固だということに気づきませんでした。ですから、僕は、メディアとその報道を信じるべきではない、と主張し続けていますが、果たしてどれだけ受け入れてもらえたかはたいへん心もとないです。
しかし、ひとつだけ言えることは、このハードルを越えれば、まったく別の世界が見えるということです。目の前の視界が少しづつ開け、個々バラバラだったものがつながりはじめ、平面だったものが立体的に見えてきます。ただし、見たくないものもたくさん見えます。お花畑には、累々たる屍が横たわっているかもしれません。
ただ、すべてが千里眼のように見通せるわけではありません。人間はあくまで人間です。超人にはなれません。いくら観察し考えてもまったく深層が見えてこない事例もたくさんあります。常に限界を感じながらゆっくり進むしかないです。ダメだ、と諦めたときに見えることもあります。
世界の出来事の深層は誰にでも読み解けます。
それは紛れもない事実です。
ただし読み解くための方法論や方程式はありません。
画期的な大発明をするための方法論がないのと同じです。
たいせつなのはメディアが提示しているのは、偽りの現実でしかないと認識することです。
それだけで、世界の本当の実像が霧の彼方に見えてきます。
これまでブログを毎日のように書き、時事解説などをしてきましたが、世界の動きを読むというのはそれほど難しいことではありません。世界の動きは誰にでも読める、と確信しています。それを証明するために書いてきたようなものです。読み解くヒントはそこらじゅうにあります。
ただ、世界の出来事の深層を読むための、手っ取り早い方法論や方程式はありません。ですから、すぐにできるというわけではありません。あらゆる習い事と同じで、一定の時間と多少の努力は必要です。しかし、”知りたい”という気持ちがあれば、誰にでも世界の出来事の深層を読み解くことができます。
使用するのは主にメディアの報道です。ただし、メディアの報道から深層を読むためには、ある前提が必要です。それは、とても簡単なことを実践するだけですが、単純なことほどかえって難しいものです。すでにこのブログで再三書いてきました。
それは、
”メディアとその報道をいっさい信じない”
という姿勢です。
あるいは、常に疑問の眼を向けておく、ということです。
それさえできれば、世界の出来事の深層は見えてきます。
メディアの報道を利用するためには、メディアの報道を信じてはいけない。矛盾しているようですが、それが絶対条件です。メディアの報道、情報を鵜呑みにしてしまえば、いいように誘導・操作されるだけです。
”メディアの報道は特に間違ってはいないじゃないか”、とおっしゃる方もおられるでしょう。その通りです。事実に反した報道はほとんどありません。すべて「事実」と言っていいでしょう。それを疑えと僕は言っているのです。この機微を納得してもらえるかどうかが、分かれ目です。
国内報道の約半分は、公官庁等からの公式発表をそのまま流しているだけとも言われています。いわゆる「大本営発表」です。メディアは公官庁の発表を忠実に報道しているわけです。もし、公官庁の発表に隠蔽、捏造、改ざんが行われていたとしても、メディアは何の責任も問われませんから、安心して垂れ流すことができます。隠蔽、捏造、改ざんがあるかもしれないという可能性は、最初から排除されています。これが公官庁とメディアの正しい関係です。
「大本営発表」以外の報道でも、ほとんどの報道は「加工」されているかフィルターで濾過されていると思って間違いないです。着色料や防腐剤、あるいは産地偽装などの不当表示もあるかもしれません。
こうした「加工」や「大本営発表」の意図的な垂れ流しが、なぜ行われるのかと言えば、国家の望ましい方向へ国民意識を誘導するためです。メディアの役割とはそれ以外にありません。
あらゆるメディアは民間企業です。社団法人や半官半民という形態もありますが、基本的にはメディアとは民間企業群です。民間企業は、当然、国家の統制や規制を受けます。そのような民間企業群が国家の不利になること、国家の意向に逆らうことを報じるでしょうか。そんなことは、過去にはありませんでしたし、今後もありえません。メディアの掲げる不偏不党、公正中立という概念を国民に保証するものはどこにもありません。それは単なるお題目、幻想に過ぎません。努力目標ですらありません。
また、あらゆるメディアの主収入源は広告料です。日本の場合、その広告配給は、電通という巨大企業によってほぼ独占されています。シェアーは25%ですが、電通はその数字以上の支配力を持っています。メディアは、電通という一企業にさえ、逆らえないのが実情です。電通と政官財は太いパイプでつながっています。つまり、政官財は電通を通じてもメディアをコントロールできるということです。二重に支配されているメディアに自由などありません。
それどころか、「記者クラブ」という特権制度に胡坐をかいて、すでに飼いならされていると言っていいです。全国に無数にあるこの「記者クラブ」が「大本営発表」の受け皿です。
メディアは、国家による規制と監視を受け、広告代理店の支配を受け、そして特権に胡坐をかいています。メディアは決して公権力から独立した存在ではないということを理解する必要があります。今後も、永久に権力から独立することはありません。言論の自由というのは非常に良くできた幻想です。この幻想によって、メディアに対する絶対的信頼が創出されています。まず、幻想によるこの信頼感を絶ち切る必要があります。
メディアの唯一絶対の使命とは、国家にとって都合の良い方向へ国民意識を誘導することです。それ以外の使命はありません。米国の大手メディアになると、世界中の世論を誘導しています。そのようなメディアの報道を信じるのは、自分で自分を縛るようなものです。
しかし、メディアに疑問の眼を向けても、われわれはメディアの報道を通してしか、世界に接することはできません。その報道はわれわれを誘導しようとしています。さて、どうすればいいのでしょうか。われわれは、その報道を逆手に取って、メディアはわれわれをどこへ誘導しようとしているのかを読めばいいのです。それさえ読めば、報道の持つ意味が明らかになり、深層が見えてきます。メディアは偉大な風見鶏です。権力から吹く風をわれわれにを教えてくれています。それを利用しなければ損です。
メディアがこぞって大合唱することは、たいてい誤魔化しや捏造が行われています。「大量破壊兵器」などイラクにはありませんでした。フセインは「アル・カイーダ」とは何の関係もありませんでした。これはアメリカの議会が正式に報告しています。しかし、世界のメディアは、証拠も根拠もなく、ただブッシュ政権のアナウンスを垂れ流し続けました。世界を「対テロ戦争」という泥沼に引きずりこむために。
それでも、メディアに対する批判はいっさいありません。「大本営発表」を垂れ流し続けても、メディアは決して批判されないのです。これは驚異というしかないです。まさに、メディアに対する信頼感は絶対的と言えます。したがって、メディアはほぼ半永久的に自国民や世界世論を誘導し続けることができます。
真実の報道をすれば自身に何が起こるかを、欧米のメディアはよく知っています。アルジャジーラ支局は次々と米軍に爆撃され、支局員が殺害されました。欧米のメディアが報じるところの「誤爆」で。
われわれの血の中には、「メディアへの信頼感」が流れているとさえ感じます。メディアへの信頼感は、無条件で絶対的です。それは、理屈を越えています。それを断ち切ることは並大抵の事ではありません。
僕は、メディアへの根拠のない信頼感など簡単に打ち崩せると、安易に考えてきましたが、それは大きな誤りでした。最初のハードルが最も高く、最も強固だということに気づきませんでした。ですから、僕は、メディアとその報道を信じるべきではない、と主張し続けていますが、果たしてどれだけ受け入れてもらえたかはたいへん心もとないです。
しかし、ひとつだけ言えることは、このハードルを越えれば、まったく別の世界が見えるということです。目の前の視界が少しづつ開け、個々バラバラだったものがつながりはじめ、平面だったものが立体的に見えてきます。ただし、見たくないものもたくさん見えます。お花畑には、累々たる屍が横たわっているかもしれません。
ただ、すべてが千里眼のように見通せるわけではありません。人間はあくまで人間です。超人にはなれません。いくら観察し考えてもまったく深層が見えてこない事例もたくさんあります。常に限界を感じながらゆっくり進むしかないです。ダメだ、と諦めたときに見えることもあります。
世界の出来事の深層は誰にでも読み解けます。
それは紛れもない事実です。
ただし読み解くための方法論や方程式はありません。
画期的な大発明をするための方法論がないのと同じです。
たいせつなのはメディアが提示しているのは、偽りの現実でしかないと認識することです。
それだけで、世界の本当の実像が霧の彼方に見えてきます。