報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

写真 : 学校

2006年05月21日 20時53分14秒 | ●パキスタン地震
ムザファラバード・パキスタン


被災地ムザファラバードの学校は、
ほとんどがテント、もしくは青空だったが、
わずかながら、建物を利用した学校もあった。
ドアも窓も開け放たれていたのは、
避難のためだったのだろう。

怪音

2006年03月29日 23時47分51秒 | ●パキスタン地震

「いまの音がなんだか解るかい?」

パキスタンとインドの停戦ラインに位置する山深い村を歩いていたとき、ドーンという大きな音が静かな谷に響いた。
「ダイナマイトだろ」
と僕は答えた。
地震による土砂崩れで塞がれた道路を拓くため、巨石を爆破する大音響をあちこちで聞いた。
「違うよ」
とサディク氏は言った。
「じゃあ、シェル(砲撃)?」
と僕は冗談を言った。
この村(カタ・チュグリ)は、国境紛争が起こるたびにインド側から砲撃を受けていた、という話しをサディク氏から聞かされていた。
「シェルじゃない。地震だよ」
「地震???」
揺れはまったく感じなかった。
発破のダイナマイト以外僕には考えられなかった。

我々はしばらく急峻な斜面に作られた段々畑を歩き、サディク氏の親戚の家に着いた。そこでチャイをいただき休息していたとき、また、ドーンという大きな音が谷いったいに響いた。
そこにいた男たちは、僕のほうを見て手をゆすってみせた。
明らかに地震という仕草だ。
しかし、今回も揺れはなかった。
やはり道路工事の発破だろう。

その日に村を出てムザファラバードにもどった。
テントで寛ぎ、子供と話しをしていたとき、
「今日、地震があったよ。女の人がみんな叫びながらテントから飛び出してきたんだ」
とその子が言った。
比較的大きな余震だったようだ。
別の少年から、学校の壁が倒れて、何人かの生徒が軽傷を負ったと聞かされた。

村で聞いたあの怪音は、地震と関係があるのだとようやく理解した。
そして、日本でも同じ音を聴いたことがあったのを思い出した。

阪神淡路大震災の時、僕は京都にいたのだが、震災の一週間くらいのちに、大音響を聞いた。しかしその音が話題になることはなく、謎のまま僕の記憶から消えていた。あれも神戸での余震による音響だったのだ。
怪音は、大地が揺れていることを知らせていた。
地球のいとなみの不可思議さを感じる体験だった。

壮大な地球のいとなみに対してわれわれは成す術を持たない。
それを操ることなどできない。
それに比べれば、われわれが協力し合うことはそれほど難しいことではないはずだ。
しかし、それを阻んでいるものがどこかにあるのだ。

余震

2006年03月25日 21時50分52秒 | ●パキスタン地震

「すみません、あなたを置き去りにして・・・」
少年は暗い顔をして何度か同じ言葉を口にした。

カシミールでは何度か大きな余震が起こっているが、小さな余震は頻繁にある。僕が滞在していたときも二度ほど微震があった。とても小さな揺れで、ほとんど気にならない程度だった。

最初の余震は、街で知り合った17才の少年イズファン君とレストランで話しをしていたときだった。
一回だけ建物がグラッと揺れた。
その瞬間、7~8人の客が一斉に出口に消えた。
ものすごい素早さだった。
僕の前に座っていたイズファン君も、一呼吸遅れて出口に走った。
余震よりも、彼らの素早さにあっ気にとられた。
少年の背中が出口を出る頃、ようやく僕はあわてた。
店は崖っぷちに建っていた。
椅子を蹴って、店の奥から外に飛び出した。
大地震なら僕は店ごと崖の下だろう。

外でしばらく様子をうかがってから、イズファン君と店に戻った。
「すみません。あなたを置き去りにして・・・」
彼はひどく自分を恥じていた。
何度か同じ言葉を繰り返した。
僕が危機感のない暢気な外国人というだけだ。
「僕もカメラバックを置き去りにしたよ」
東ティモールで武装襲撃を受けたときも離さなかったカメラバックだが、椅子の上に残して逃げた。

飛ぶようにして出口に消えた男たちの背中は、一瞬の迷いが生死をわけることを教えていた。
ひとり店に残され、僕が椅子を蹴ったときは、すでに揺れは終わっていた。
しかし、とにかく体一つで逃げることにした。
そのくらい彼らの緊迫感はすさまじかった。

とても小さな余震だったが、カシミールの人々の体の中に潜む恐怖の深さを垣間見た出来事だった。

イズファン君の家を訪ねたとき、彼の家は大地震にも耐え、ちゃんと建っていた。
しかし、家族の中でイズファン君だけは、外の小さなテントで寝ていた。
「地震が来てもテントなら安全だからね」

見捨てられたテント・ビレッジ

2006年03月17日 23時23分36秒 | ●パキスタン地震
地震後、世界各地から援助団体がパキスタン北部に入り、多くのテント・ビレッジを設営した。トルコやカナダなどの国家単位のテント・ビレッジもあれば、内外の政治、宗教団体が運営するテント・ビレッジも多い。いったいいくつあるのかわからない。

ランドスライドの現場へ取材に行った時、そのすぐ近くにもテント・ビレッジがあった。テントは30張りほどでそれほど大きくないテント・ビレッジだった。

話しを聞くと、そこは管理団体がいなかった。自主運営だ。しかし、最初から自主運営であったわけではなく、サウジアラビアの王族が主催する団体が設営したのだが、後にその団体は撤退してしまった。悪く言えば見捨てられたのだ。

おまけに、このテント・ビレッジは地主から地代を徴収されている。月6000ルピー(約100ドル)。一テント当たり200ルピー。さらに地主からトイレを作ることも禁じられている。

他にも、こうした見捨てられたテント・ビレッジがあるのかもしれない。




















2006年03月14日 20時12分12秒 | ●パキスタン地震
山岳地帯深部の被災地へ行くには、崖っぷちの幹線道路を何十キロも車で走るわけだが、山岳路なので多くの橋がある。当然、すべての橋は地震によるダメージを受けているか、受けている可能性がある。

そのため、かつては対向車線だった橋も、一台ずつしか渡れない。二台同時に渡るのは崩壊の危険があるのか、あるいは崩壊した時、被害を最小単位におさえるためなのかもしれない。橋の真ん中だけを車が通るようにドラム缶が並べられている橋もある。

ほとんどの橋が一見原型を保ち、橋として機能している。完全に崩壊した橋は数えるほどしか見なかった。パキスタンの架橋技術というのはかなり優れているのではないかと思った。

しかし、2月14日付けのパキスタンの新聞には、援助物資を運んでいた車両が橋を横断しているとき、突然橋が崩壊し、車両が眼下の川に転落したという報が載っていた。ドライバーは行方不明となった。

山岳地帯とムザファラバード間は、村人を満載した多くの車両が頻繁に行き来している。大げさでなく、全区間が崖崩れ、地滑り、橋の崩壊などの危険を孕んでいる。本来、全面通行止めにすべき状態と言える。しかし、そうすればすべての村が孤立する。

一度車両に乗れば、すべてを運に任せるしかない。

S字に曲がった歩行者用の橋。普通に使用されている。















崩壊したあとに簡易橋が架けられているが、激しく揺れる。


















山岳路を走っていると橋以外にもヒヤヒヤするような箇所が頻繁にある。

ある青空学校

2006年03月12日 02時34分36秒 | ●パキスタン地震

ムザファラバード郊外20kmにあるパルチャサ村の青空学校。
倒壊した校舎のすぐ横に机を並べて授業が行われている。
幸いこの学校では地震による生徒の犠牲者はなかった。

教師は女性が三人。
話しを聞くと、地震以降、いまだに政府からは何の連絡もないということだ。
つまり、自主的に授業を継続している。
おそらく給料も出ないだろう。
被災した山岳地域の教育というのは、
こうした教師の熱意だけに支えられているようだ。

テントもない文字通りの青空学校なので、
強風が吹いたり、雨が降れば授業ができない。
三人の女性教師はそのことをひどく憂えていた。

僕が日帰りでアクセスできる程度の村でも、このような状態だった。

コラプション

2006年03月08日 21時19分42秒 | ●パキスタン地震
今回のパキスタン北部地震の被災地の写真レポートもほぼ終了です。
ご覧いただいた方々の中には、いま何が必要なのか、何をすればいいのか、それを知りたいと思っている方もおられるかもしれません。

そうした問いにはたぶん僕はお答えすることができないと思います。
必要な物はすべてです。おカネも含めておよそ想像できるものすべてです。では、それらを届ければ被災者の状況は改善されるのか。答えは、否です。

すでに国際社会から総額60億ドルもの援助が取り付けられています。これが満額提供されることはないにしても、かなり巨額であることに変わりはないでしょう。この巨額の援助金のすべてが被災者の支援や復興に使われるということはありません。この巨額のおカネは多くの政府機関や部署、外部機関や業者を経由して流れていきます。

過去の多くの例は、届くはずのおカネや物資が途中で行方不明になるというのはごく普通のことである、ということを教えています。

あまり考えたくないことではあると思いますが、それが現実です。多くの善意の寄付が地中深く吸い込まれている可能性は非常に高いのです。ただし、使途不明金の存在が公にされることはほとんどありません。したがって、誰にも証明することはできません。しかし、証拠がないからといって、腐敗や不正は存在しないと考えるには無理があります。

まだ、60億ドルすべてが届いているわけではないですが、国際社会が提示しているこの莫大な援助金額と、現実の被災者のテント生活の劣悪さを比べると、この落差はどこから生まれるのかと誰もが考えると思います。そして、誰もが同じ結論になると思います。しかし、誰もそれを口にできません。

スリランカの津波被災者の救援活動に携わったアメリカ人と、一週間ほど前にバンコクで話しをしたのですが、被災者の劣悪な状況はスリランカもまた変わりないようでした。多額の援助金がありながら、なぜどこもこのようなことになるのか、と水を向けると彼は「コラプション」とだけつぶやきました。

何とかならないのか、と思われるでしょうが、何ともならないのが現実です。
相手は見えないのです。それは個人の場合もあれば、組織の場合もあるでしょう。政府機関の場合もあれば、民間の場合もあるでしょう。地元の場合もあれば、海外からやって来ることもあるでしょう。

原理的には、世界の飢餓や貧困がなくならないのと同じではないのか、とも思いはじめています。

「途上国は、なぜ飢えるのか」
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/0fc4adb4a94bf22503588efcdbff4fa0

チヌーク

2006年03月07日 20時04分58秒 | ●パキスタン地震
連日絶え間なく北部山岳地帯を飛行するチヌーク・ヘリコプター。
食料輸送は早朝から日が暮れるまで続く。
相当な物資が運搬されている。
ヘリでの食料輸送は標高1500m以上の村々。

チヌークのリフトアップを撮影するために空港脇で待っていると、
通りすがりの男性がやってきて、
「毎日、たくさんの食料が山に運ばれるが、目の前には届けられない」
と言った。
彼は空港のすぐ近くに住み、地震で家屋を失った都市被災者だ。
家を失い、仕事を失ったが、彼には食料援助はないという。それは事実だろう。

近郊の村でも、被災して以降3ヶ月間で受け取った食料は、
一家族に小麦が20kgだけだった。
そのインタビュー中もチヌークは我々の頭上を通過していった。

何事にも優先順位があるのは当然ではある。
未曾有の大災害にあっては、すべてが公平にとはいかない。
当分、こうした皮肉は続くことになるのだろう。



























停戦ラインの村(2)

2006年03月06日 16時27分59秒 | ●パキスタン地震
カシミール紛争の境界線に位置するカタ・チュグリ村では、
ほんの2003年まで頻繁にインド側からの砲撃や銃撃に晒されてきた。
ニュースに乗るような衝突ではなく、まるで定例のような攻撃である。

地震以降、停戦ラインは文字通り停戦が実行されることとなった。
停戦ラインの飛行禁止も解かれ、救援物資を運ぶヘリコプターが連日何往復も飛行している。
インド側へ救援物資を運ぶ橋も再建された。

ジェーラム川をへだてた対岸はインド。
川向こうの、すぐ目の前に多くの家屋が見える。
「ほら、インド人が歩いてるよ」
と、同行のサディク氏が冗談を言う。
歩いているのは、彼らの同胞であり、あるいは親戚でさえあったりする。

背後の山はインド支配地域。そこから村に向けて砲撃や銃撃が行われてきた。

シェル・プルーフ(避難壕)。
砲撃がはじまるとこうした壕に避難していた。










































幹線道路からは、川の対岸にインド支配地域の家屋が見える。
本来、同じカシミール人の隣村にすぎない。いまは、近くて遠い村だ。














画面右下に見える橋は、インド側に救援物資を運ぶために再建された。










雪山の向こうはスリナガルにつながる。




※3月3日帰国いたしました。
 しばらく雑事に追われそうです。

停戦ラインの村(1)

2006年03月02日 15時13分16秒 | ●パキスタン地震
ムザファラバードから56km。
かつて、外国人が立ち入ることのできなかった停戦ライン地区。
ジェーラム川を隔てたすぐ向こう側にインド支配地域の家屋が見える。
「川の向こうはインドだよ」と言われてもピンとこない。
カシミールの人々は”インド”とは呼ばず”オキュパイド・カシミール”と呼ぶ。
まだまだ奥地まで被災地は広がっているが、僕がたどり着けるのはここが限界だろう。

カタ・チュグリ村。村の歴史はおよそ千年。
ムザファラバードで常に行動を共にしてくれたサディク氏とアヌエル氏の故郷である。
村人のほとんどはムザファラバードでテント生活をしている。
急峻な斜面に家屋の立っている山岳地帯は、落石や地滑りの危険が高く、安全な地域は少ない。
家畜など財産の残っている人が、世話のために村に留まっている。
地震以来、村外の者がこの村を訪れたのは、僕が最初らしい。
行政や軍、国連、NGOの手もいまだ届いていない。

カタ・チュグリ村の入り口。幹線道路を離れると、村へのアクセスは徒歩だけとなる。
背景の山の左半分はパキスタン支配地域、右半分はインド支配地域。
両国の支配地域は非常に複雑に入り組んでいる。

途中何ヶ所か崖崩れがある。
案内のサディク氏の兄弟は、10月8日の地震で、この土砂に呑み込まれた。遺体の捜索は不能。













村まで二時間ほどの登り道。途中、休息をとる親子。








村の家屋は一見無事のように見えるが、単に倒壊しなかったというだけで、もはや人が住める状態ではなかった。落石や地滑りの危険も高い。

ひとまず倒壊しないように支えてある家屋。


いつ倒壊してもおかしくないであろう。住むためには、一度解体して組み直すしかない。
















































建物が倒壊したあと、巨石に直撃された家屋。住人はかろうじて避難。















応急処置をほどこして人が住んでいる家屋。はたして安全なのかどうか。


































近郊の村

2006年02月28日 22時33分05秒 | ●パキスタン地震
ムザファラバード滞在中に、近郊の村々を訪ねた。
市に隣接する村でも、56km離れたインドとの境界地帯の村でも、状況は変わらなかった。
村は壊滅的に破壊され、そして援助の手はほとんど届いていない。

ある村では、「地震以来、村外の人が訪ねてきたのは、あなたがはじめてです」と言われた。
行政の調査さえ入っていない地域は無数にあるに違いない。
被害状況も、現在の生活状況も把握されていない。
村人がまとめた報告書を持っていくべき官庁も定かでない。
援助の手が届かないのは当たり前というべきだろう。

ムザファラバード郊外のダニマイサイバ。川を渡り、崖を登ると村がある。

崖の上は台地になっており、農地が広がっている。










対岸へはボートで渡る。











仮設の橋もあるが、遠回りなので、あまり利用されていない。












ダニマイサイバの家屋のほぼすべてが全壊。
死者は200人を越えている。








































お墓も崖下に崩れ落ちた。

崖下には、流された家屋の屋根も見える。









崖の縁はかなり危険な状態にある。










川も土砂で完全に埋まってしまった。


























市の目の前であるにもかかわらず、行政の手は来ていない。
後まわしであるのか、無視されているのかもわからず、
それを問いただしに行くべき場所さえわからない。