報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

2007新年

2007年01月01日 03時15分08秒 | 報道写真家から



年がかわる数時間前に、タイ在住の友人から、日本のテレビでタイのニュースをしていないか見て欲しいと電話があった。
いそいでチャンネルを変えると、「バンコクで連続爆発」というニュースが流れていた。
戦勝記念塔やショッピングモールなど6ヶ所で、ゴミ箱などに爆弾が仕掛けられていたようだ。
この時期にバンコクで爆弾が炸裂するとは、予想もしていなかった。
友人は、タイの地方に出ていて、海外よりも情報が入りにくいため僕に電話してきたのだった。

タイ警察は、海外のグループやタイ南部のイスラム教徒の犯行ではないと判断している。
これは明らかに、タイの臨時政府に対する示唆行為だが、昨年9月のタイの政変に際して「民主主義の危機だ」と強い懸念を表明していたのは、どこの誰だったろうか。
彼らは、ベネズエラのチャベス大統領に対しても「民主主義への脅威だ」と表現している。
彼らが民主主義の擁護を口にするとき、必ず不穏当なことが発生する。

チャベス大統領は民主主義への脅威ではないし、タイの政変も民主主義の危機ではない。
しかし、どこかの誰かにとっては、チャベスやタイの臨時政府はとても都合が悪いということだ。


PTSD

2005年03月15日 16時15分48秒 | 報道写真家から
 虐殺と焦土作戦が開始される寸前の東ティモールから、僕は逃げた。
 すでに民間機は恐れをなして運行を中止していた。日本の新聞社がチャーター便を呼び、日本のプレスはほぼ全員それに乗った。僕も便乗した。
 前日BBCがチャーター便を呼び、一足先に離脱していた。BBCが真っ先に逃げたことで、すべてのプレスが浮き足立っていた。
 日本の新聞社のチャーター機は、午後4時離陸の予定だったが、機長は午後2時ごろ、あと30分で離陸すると告げた。それ以上とどまるのは危険すぎると。離陸の10分前にNHKが到着したが、山のような機材の半分を捨てていくよう機長から命じられた。あわてて機材を選り分ける怒号が搭乗室に響いた。

 機は離陸した。空の上はなにごともない静かな世界だったが、自分の足のしたでは、これから多くの血が流される。ジャカルタに着いたものの、助かったという安堵感など微塵もなく、嫌悪感の方がすさまじかった。結局、見捨てて逃げてきたのだ。

 ジャカルタで数日を過ごしたが、その間に襲撃事件のフラッシュバックが起こった。フラッシュというよりムービーバックと言ったほうが適切かもしれない。あれほど完璧な記憶は通常では起こりえない。襲撃の映像や銃撃の音響だけでなく、煙の臭気、ベッドの下の床の感触、そして刻一刻と増していく恐怖までもが、一秒単位で記憶されていた。襲撃の記憶が、一時間分まるまるフラッシュバックされる。その気になれば、銃声の数まで正確に数えることができたかもしれない。
 これは「記憶」と言うよりも「体験」そのものだった。襲撃をもう一度実際に体験する。省略はいっさいない。この再体験がはじまると、途中で止めることはできなかった。終わるまでじっと待つしかなかった。燃える家の中から脱出して、ようやく終わる。これが一日に、三回か四回は起こっていた。
 最初は、ひどく驚いた。しかし、このフラッシュバックによる再体験は、疎ましい忌避すべき現象とは思わなかった。

 これは、PTSD( Post-traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)にいたる典型的な現象だった。
『(PTSDとは)死に直面するかまたは重傷を負うような出来事や、自分や他人の身体の存在にかかわる危険な出来事によって引き起こされる。
 思い出したくないのにそのトラウマを何回も思い出してしまったり、それどころか白昼夢のようにまた同じ体験をしているように感じたりする。逆にトラウマの一部をどうしても思い出せないということもある。不眠やイライラもよく見られる。』

 同じ場所で同じ体験をしても、PTSDになる人もいれば、ならない人もいる。それは、勇気や根性、体力、生育環境、職業などとは一切関係がない。ならなかったからといって、強い人間の証明にはならない。あまり知られていないが、大事故や大災害の救助にたずさわった軍人、警官、レスキュー、医師、看護士がPTSDになることさえある。

 僕は、PTSDにはならなかった。本人がフラッシュバックなどの現象を「苦痛」と感じなければ何の問題もない。「苦痛」を感じてはじめてこころに障害を負う。厳密には、恐怖を何度も再体験して、苦痛でなかったとは言えない。しかし、苦痛でかまわなかった。

 なぜなら、人が人を殺すことのその恐怖をこそ伝えたかったからだ。それがどれだけ凄まじい恐怖であるかを。
 日本に帰るまで、その恐怖を自分の中に維持しておきたかった。フラッシュバックによる再体験は、恐怖の保存だった。毎日、何度もやってくるフラッシュバックの度に、自分の中の恐怖が劣化していないことを確認して、安心さえした。
 普通は、こうした現象から逃げようとするのだが、逃げればかえって追いかけてくるのだと思う。僕はかなり特殊な受け入れ方をしたのだろう。

 フラッシュバックは、三ヶ月ほど続いただろうか。一日に数回だったものが、一日に一回になり、数日に一回になり、一週間に一回になり・・・間隔がだんだん広がっていき、やがてなくなった。ただ意識的に思い出そうと思えば、簡単に再現することができた。自動から手動になっただけだ。しかし、それも時とともに、徐々に回らなくなっていった。いまでは、ごく断片的な静止画しか残っていない。音も臭いも恐怖もない。

 日本に帰って、すぐに一本だけ短いルポを書いた。はたして、その中にあの恐怖を閉じ込めることができたのかどうかはわからない。いつかはまた書かなければならないと思っている。しかし、5年経っても、いまだにそれ以上のものを書く自信がない。


取材準備:覚悟

2005年03月13日 20時26分13秒 | 報道写真家から
 そんなもの、できるわけがない。
 もちろん、死ぬ覚悟のことだ。
 豊かな国で生まれ育った者が、死ぬ覚悟などできるわけがないのだ。
 そもそも死ぬ覚悟というのは、自覚できる類のものではないと思う。

 宮本武蔵は、常に死の覚悟を持つために、細い紐で巨岩を天井から吊るし、その下で毎晩寝たと伝えられている。単なる伝説だろう。はたして、それで、死の覚悟ができるかどうかもあやしい。おそらく、たとえ武蔵といえども、死の覚悟を持とうと思えば、そのくらいしなければならなかったはずだ、という後世の作り話だろう。

 豊かで不自由ない暮らしをしている日本人が、ちょっと戦場で写真を撮ったくらいで、死ぬ覚悟などできはしないのだ。
 ただし、こう言うことはできる。
 死ぬ覚悟ができたと、本気で「錯覚する」ことはできると。
 本気で錯覚しているので、本人にとって、それは「事実」に思えるだけなのだ。それだけの話だ。しかし、死に直面したとき、それが単なる錯覚であったことを思い知らされる。

 僕自身がそういう「錯覚」に陥っていた時期がある。
 どのようにして、そうしたマヌケな錯覚に陥っていったのか。
 僕の場合は、空襲やロケット弾の飛来が、一番効果があった。
 いわば目の前で戦争が行われているのに、怖くなかったからだ。本能的な防衛本能は働くが、心理的な恐怖心はなかった。そこが落とし穴だ。戦争を知らない日本人が、空襲やロケット攻撃を目にしても、まったく「現実感」がなかっただけの話なのだ。天敵のいない南極のアデリーペンギンが、人間を恐れないのと同じだ。アデリーペンギンは、勇気があるから人間を怖れないのではない。
 しかし、残念ながら人間は、恐怖心の湧かない理由を、おのれの勇気と勘違いしてしまう。それは、100%勘違いなのだ。しかし、本人は気づかない。
 そして、いつしか僕はこうつぶやく。
「オレは死ぬ覚悟ができている」と。
 バタバタした程度の現場ばかりなら、ずっと錯覚したままで一生を終えただろう。
 だが、はるかにシリアスな状況に直面し、間違いなく自分は死ぬと悟ったとき、恐怖に凍りつく。覚悟のかの字もない。

 99年に東ティモールでそういう体験をした。
 独立の是非を問う住民投票を3日後に控えたときだった。
 泊めてもらっていた独立派幹部の家が、武装民兵に襲撃された。インドネシア国軍特殊部隊コパスス2名によって指揮された民兵9名は、自動小銃や刀で武装し、悠々と襲撃にやってきた。その場にいた我々は散り散りになり、家の中に飛び込んだ。
 襲撃者は、家にガソリンを撒いて火をつけた。我々は、家に閉じ込められた。しばらくすると、激しい銃撃がはじまった。家の周りで、ほんものの自動小銃が乱射されているのだ。家の中にも次々と撃ち込まれた。
 これで助かる余地があるなどと思えるわけがなかった。僕はベッドの下で、死の恐怖に心臓が凍りついていた。死は逃れようのない確定的な未来だった。僕はただ死ぬのを待っていた。僕だけではない。家のあちこちに孤立して潜んでいた人はみな同じだった。後々のインタビューで「あのとき(逃れる)何の希望もなかった。ただ殺されるのを待っていた」と、誰もが口にした。我々には、死がはっきり目の前に見えていた。
 頭に浮かぶのは”生きたい!生きたい!生きたい!”ただそれだけだった。しかし、生きる望みなど微塵もない。外の銃撃は鳴り止むことがなかった。襲撃はまる一時間にもおよんだ。戦争でもないのに、民家一軒を襲撃するのに、襲撃者はおそらく1000発以上の銃弾を消費したはずだ。異常と言うしかない。
 東ティモールの独立を望まないインドネシア政府、国軍、警察、民兵は四位一体の強力な体制をとっていた。つまり、この襲撃を止めようという機関はないということだ。我々には、助けなど来ないことがわかっていた。

 この襲撃の中、家長のヴェリッシモ氏65歳が、民兵数人と格闘し、刀で滅多切りにあって惨殺された。この襲撃のとき、家の中には、僕を含めて8人が潜んでいた。しかし、我々は散り散りになり、互いのことがまったくわからなかった。ひとりひとりが、どん底の恐怖の中で、ただ、死の到来を待っていた。
 もし、家が木造だったら、我々は炙り出され、穴だらけになっていただろう。しかし、家は火に耐えた。おそらく襲撃者は、家の中に8人も人がいるとは知らなかったのだろう。最大のターゲットであるヴェリッシモ氏を殺害したことで、満足したのかもしれない。一時間後、特殊部隊に率いられた武装民兵は、凱旋を上げながらトラックで現場を去った。ヴェリッシモ氏を除く、我々7人は生き延びた。

 いずれ、この話は詳しく書くつもりだが、5年経っても、いまだに書けない。とても長い物語になるだろう。

 今の僕は、日本で最も死を怖れるカメラマンのひとりだと思う。
 一時間も死を待ち続けたのだ。
 二度と同じ体験などしたくない。
 次は、きっと心臓が止まるだろう。
 あの恐怖に、二度耐えられる自信などない。

 この襲撃から一週間後、東ティモール全土で、インドネシア国軍、警察、民兵による苛烈な虐殺と焦土作戦がはじまった。ほんの二週間ほどのあいだに1000人から3000人が殺害された。そしてすべての町や村が焼きはらわれた。

取材準備:通訳

2005年03月12日 21時15分06秒 | 報道写真家から
 英語の通じる地域へ取材に行くことはまずない。
 どこへ行っても、一応、挨拶や数字、その他基本的な言葉は、ある程度は覚える。しかし、会話ができるほど習得できるわけではない。
 したがって、現地で通訳を探さなければならない。しかし、プロの通訳を雇うほどの資金があるわけではないし、どこで通訳を求人できるかもわからない。だいたいがひっくり返ったような現場なので、人材紹介のような機関もない。いきおい、成り行き任せとなる。いなかったら仕方あるまいという感じだ。あまり積極的には求人できない。大手と同じくらいもらえると思われては困るから。相場もさっぱりわからない。こちらが払える限度内で承諾してくれる人に頼むことになる。

 タリバーン政権下のアフガニスタンでは、外務省の役人が通訳となった。というより、プレスカードの発行条件として、外務省の通訳を雇うこと、と言い渡された。選択の余地がない。一日50ドル。ホテル、タクシー、通訳の費用が三日間で計454ドルにもなった。手持ちのドルキャッシュは1000ドルしかなかった。三日でカブールを退散したが、結局二週間しかアフガニスタンに滞在できなかった。

 DRコンゴ(コンゴ民主共和国)では、ゴマに着くと、すぐに何人かの通訳志願者が宿を訪ねてきた。
 すでにゴマからルワンダ人難民は帰還し、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)などの機関やNGOも引上げていた。これら国際機関が来ると、通訳や事務、警備、雑務などさまざまな職種が募集される。しかし、これらの機関の撤収とともに、雇用は失われる。
 僕がゴマに着いたのは、そういう時期だった。耳が早いというか、三人が入れ代わるように宿を訪ねてきた。こういうことはめずらしい。最初にきたのは、内戦で学業の中断を余儀なくされた大学生だった。次に、外国人ジャーナリストの通訳経験のある中年のおじさん。それから、通訳の経験があるという二十代の男性。学生はエリート意識がみなぎっていて、協調性に欠けていた。学生を危険なところへ連れて行くのも、はばかられた。中年のおじさんは、いかにも場慣れし、オレにまかせておけ、という態度に少々不安を持った。アフガニスタンでの外務省の通訳は、僕の都合などお構いなしに、適当にこんなところを見せておけばいいだろう、という感じだった。それと、ダブるものを感じた。結局、一番控えめな三番手の志願者、ジャックを雇うことにした。が、結果は大失敗だった。

 通訳の経験があるというのは、おそらくウソだった。別にそれは、かまわない。困るのは、取材が進むにつれ、ジャックの態度がだんだんでかくなっていったことだ。あげくのはては、「おい、奴を撮れ」などと、僕に命令しだした。あるときは、10項目ほどのインタビュー内容を、たった五行のメモですまされたこともある。捕虜となったルワンダ人ゲリラを取材したとき、ジャックは、まるで自分の捕虜であるかのような態度をとった。血管が切れそうになって、頭がクラクラした。
 とんでもない奴を雇ってしまったと思ったが、すでに手遅れだ。陸の孤島では、解雇もできない。それが分かっているのか、いくら注意しても、ジャックの態度は改まらなかった。それどころか、勝手にどこかへ行って、何時間も帰ってこないこともあった。自分の見る目のなさを呪うしかない。
 取材中に地元の人から、彼をいくらで雇ったのかと、何度か訊かれた。一日15ドルと答えると、誰もが顔を引きつらせた。そのときDRコンゴでは、一ヶ月50ドルあれば一家族が暮らせた。ジャックは、三日ごとに一ヶ月分の生活費を稼ぐことができたのだ。

 普通に仕事をしてくれれば、一日15ドルは何でもない。しかし、ロクに仕事もしない、態度はでかい、勝手な行動をとる、そんな人物に、人も羨む賃金を払わねばならないのかと思うと、あまりいい気分ではなかった。もちろん、最後にきちんと支払った。12日×15ドル=180ドル。ジャックはホクホク顔だったが、でも、彼は知らなかった。途中からでも普通に仕事をしてくれていれば、僕は最後にボーナスを出すつもりでいたことを。

 戦争をしているような現場で、完璧な仕事など最初から求めてはいない。多少の手抜きは、覚悟のうえだ。通信社ほどカネを出せるわけではないのだから。しかし、通訳がいなければ何もできないという、こちらの弱みにつけ込み、主従逆転現象まで起こされるのは、実に腹立たしい。ちなみに、一日50ドル以上出す通信社といえども、どうやら事情は似たようなものらしい。だいたい通訳の話となると、顔が歪む。
 次からは、完璧な契約書を作るしかない、と思ったが、世の中、そう甘くはなかった。その後の東ティモールの取材でも、何人もの通訳に泣かされた。いつも、なめられて終わりだ。もちろん、それは、僕自身が甘いからだとは分かっている。

 東ティモールでは、地元の友人の紹介でプロテスタントの若い牧師さんを雇ったことがある。UNTAET(ウンタエット:国連東ティモール暫定統治機構)時代の基準で、彼にサラリーを約束した。月220ドルだ。友人の紹介の牧師さんなので、契約書は失礼になると作らなかった。
 普段の仕事は、地元新聞をざっと読んで、簡単に要約するという程度のものだった。ページ数の少ないタブロイドなので、記事数も少ない。しかし、牧師さんはひとしきり新聞を読むと、あとはたたんでしまう。そして、「あなたに必要なニュースはない」の一言で終わりだ。そ、そんな・・・。新聞を広げて、適当な記事を指し、これは何と書いてある、と訊くと牧師さんはいやいや訳しだす。連日こんな感じだった。訊かなければ、訳そうとしない。俗世間を知らない聖職者だから仕方がないか、と自分をごまかした。

 その後、ある町へ行き、彼にこれからの取材の基本的な状況説明をした。武装襲撃で焼け落ちてから何年も経つ家を指して、
「この家に泊めてもらっていたときに、民兵の武装襲撃を受け、火を放たれ、銃弾を撃ちこまれ、そして65歳の家長(ヴェッリッシモ氏)が殺害された」
 と僕は説明した。すると若い牧師さんは、両手をポケットに突っ込んだまま、
「65歳、イナッフ」
 と言ってのけた。
 一瞬、唖然としたが、そのときは、何も言わなかった。まだ取材もはじまっていない。個人的な感情は抑えた。数日後、取材がすべて終わってから、牧師さんに問い質した。
「この町に着いたとき、あなたはヴェリッシモ氏の殺害について、”65歳、イナッフ ”と言いましたね。イナッフとはどういう意味ですか?」
 数日間の取材が終わり、のんきに構えていた彼は、少し狼狽して、
「つまり・・・彼は、いま・・・別の世界で新しい人生を送っているという意味です」
 と言った。新しい人生?聖職者に対するいままでの敬意は薄れていった。
「うそだ!イナッフとはどういう意味で言ったのか、説明してほしい!」 
「・・・・」
 牧師さんは何も言わなかった。
「もし、あなたが65歳になったとき、民兵がやってきて、あなたを殺そうとしたら、イナッフと言って、平然と命を差し出すのか!」
 僕は、少し興奮したが、牧師さんは、我関せずという表情だった。
 もはや、こちらも言葉もない。
「ディリに戻っても、インタビューテープの翻訳は必要ありません。これまでの通訳料は日割りで計算してお支払いします」
 とだけ付け加えた。

 首都ディリに戻ってから、何か大きな文化的相違があるのだろうかと思って、紹介してくれた友人に、このことを報告した。東ティモールでは、24年におよぶインドネシアの武力支配下で、20万人が命を落としたと報告されている。人の死はもはや当たり前のことなのだろうか。平均寿命50年のこの島では、65年も生きれば、殺されても、もはやイナッフなことなのだろうか。
 しかし、僕の説明に友人は呆れかえっていた。「彼は、大きな過ちを犯した」と。信者から、過ちを犯したと言われているようでは話にならない。

 その後、僕は、気心の知れたこの友人を通訳に引っ張り出すことが多くなった。
 65歳のヴェッリッシモ氏を殺害した襲撃事件に加わり、現在、刑務所に収監されている元民兵三人(殺害の実行犯ではない)へインタビューするときも彼に協力してもらった。
 囚人三人の口は重かった。彼らも24年に及ぶインドネシア支配の犠牲者とも言える。犯罪の大物はみな安全なインドネシアで、悠々と暮らしている。だだっ広い部屋に流れる空気はひどく重かった。インタビューを終えたとき、友人は僕に、「少しだけ時間がほしい」と言った。
 彼は囚人三人に、
「あなた達と、わたしは宗派は異なりますが、あなた達と家族のためにお祈りを捧げたいのですが」
 と告げた。
 友人は東ティモールではごく少数派のプロテスタントで、囚人三人は国教のカトリックだったが、彼らは申し出を受けた。閑散とした部屋に沈んでいる重い空気の中で、三人は彼の言葉を聞いた。
 最後に、彼らにお礼を述べ、部屋を出た。
 終始、かたくなな表情だった元民兵が、笑顔で見送ってくれた。

取材準備:取材費

2005年03月11日 19時57分00秒 | 報道写真家から
 万年赤字状態のため、取材費捻出はとても苦しい。
 この世界で、写真やルポだけで食っている人は、おそらくほんの一握りだろう。リサーチもインタビューもしていないので、憶測でしかないが。このマイナーなフリーランスの世界で、曲りなりにもメジャーに近い活動をしているのは、数人に過ぎない。広河隆一氏と長倉洋海(ひろみ)氏くらいだろう。それでも両氏の名前を知っている人はそれほど多くはないはずだ。僕自身、普通に暮らしていて、両氏の仕事を目にすることなど、ほとんどない。フリーランスの報道写真家(両氏は「フォトジャーナリスト」という肩書きだが)とはそういうマイナーな世界の住人なのだ。報道写真を積極的に掲載するようなグラフ誌もとっくの昔に姿を消した。まさに「氷河期」だ。

 こういうマイナーな世界で、しかも「氷河期」に収入を得るのは、とにかく大変だ。誰もが四苦八苦している。
 この仕事を始めたころ、ある中堅フォトジャーナリストから、こんなことを言われた。
「一本取材したら、三本書かなきゃダメッ!」
 本来一本のルポを、三つに分割せよ、ということだ。僕の経験では、それは「水増し」に陥る危険がある。そういうことも、「氷河期」を生き抜くチエと技術と言えば、そうなのかもしれない。僕は、まとまな収入など期待できない世界と分かってからは、無理をしないことにしている。一本に集中できれば、それでよしと思っている。

 それから彼には、こんなことも言われた。
「ウリを持たなきゃ、ダメッ!」
 僕が、取材したいところはたくさんある、と言ったときだった。
「編集者に訊かれたとき、”ココならボク!”というウリを持たなきゃ!」
 と、諭すように言われた。そのとき、「いま、行きたいところはどこか?」とも訊かれたので、アフガニスタンと答えた。すると、彼は、
「アフガニスタン!?長倉(洋海)さんがいるのに行ってどうするの?」
 と言った。
 この世界では有名な長倉洋海氏がアフガニスタン報道で活躍している以上、そんなところへ行っても「商売」にならないじゃないか、ということなのだろう。それは、ビジネスの基本センスだと思う。でも、正直、うんざりした。僕は誰がいようがいまいが、自分の行きたいところへ行く。それだけだ。たぶん僕には、ビジネスセンスがないのだろう。「報道写真家」は、僕の職業だが、これをビジネスや商売とは考えていない。書きたいものが書ければそれでいいのだ。わざわざ、三つに分割して、薄めたものを人に読ませたいとは思わない。氷河期は、寒いのがあたりまえなのだ。

 しかし、伝え聞くところによると、2002年から2004年わたって、この世界には異常事態が起こったようだ。
 沸いたらしい。
「バブル」に。
 911テロの衝撃がもたらした現象だ。
 特に長期化しているイラク戦争取材は何でも売れたようだ。
「氷河期」にいきなり、熱い風が吹き込んできた。
 買い手市場だったこの世界が、一時、売り手市場に逆転したらしい。
 イラク取材は、新聞雑誌から引っ張りだこ、短期間に大勢が本を出すは、写真集を出すはの大賑わい。万年安アパート住まいだった「三分割」氏もマンションへ引っ越したというウワサが流れてきた。

 別にそれが悪いとは言わない。売れるものは売ればいいと思う。しかし、「バブル期」に出版された書籍に、読む価値のあるものがいったいどれだけあるだろうか。出版界にとっても、本の売れないこの時代に降って沸いた好機だった。まさにバブルに乗って出版されたに過ぎない。

 アフガニスタン戦争やイラク戦争によって、日本のフリーランスの世界にもたらされたのが、単なる「バブル」だと知ったら、この戦争で命を奪われた人々は何と思うだろうか。


取材準備:フィルム

2005年03月10日 18時12分31秒 | 報道写真家から
 取材には、ほぼすべてポジ(リバーサル)フィルムを持っていく。一般的には、スライドフィルムと呼ばれている。ポジで撮るのは、印刷を念頭においているからだ。ネガはプリント用で印刷には向かない。フィルム自体の性能としても、ポジの方が優れている。直接見る場合は透過光を使うので、透明感があり、とても美しい。

 ポジフィルムは種類が多岐にわたっている。「自然な色合いを出すタイプ」、「原色を鮮やかに出すタイプ」、「温かみのある色を出すタイプ」、「やや地味な色合いになるタイプ」。ざっと、こんな感じだ。しかし、取材の現場ではフィルムを使い分けることはなく、持って行くのは一種類だけだ。僕が、使っているのはコダックのエクタクローム100(日本名Dyna)。アマチュア用に分類されている。世界でもっとも普及しているポジフィルムだと思う。プロ用のポジフィルムは繊細で、温度や湿度に敏感すぎる(らしい)。

 昔、バッグパッカー時代、プロ用ポジフィルムの耐久テストをしたことがある。長旅に出る前に各種プロ用フィルムを一本ずつ買い揃え、ジプロックに入れ、ザックの底に放り込んでおいた。詳しくは覚えていないが、たぶん一年くらいはザックに放り込んだままになっていたと思う。ポジフィルムは「13℃で保存せよ」となっている。旅の最後に、トルコでこのフィルムを取り出してカッパドキアなどで撮影した。その後タイで現像。暑い地方、寒い地方を回った後だったので、どのくらい損傷しているものかと期待したが、予想に反して、きれいに写っていた。色の褪色などを丹念に調べてみたが、発見できなかった。カメラ雑誌に書いてあるほどには、プロ用ポジは軟弱ではなかった。

 それでも、取材にはアマチュア用エクタクロームを使っている。プロ用よりは耐久性があるとされている。世界中たいていの国で手に入る。一回の取材に、40~50本持っていく。余れば冷蔵庫の野菜室に放り込んで、次の取材に使う。

 速報性を要求される通信社や新聞社は、2000年ごろまでは、ネガフィルムを使っていた。簡単に現像できるからだ。
 コンゴの取材では、APのカメラマンは、ジャングルの真っ只中の無人の町に、現像キットとミネラル・ウォーター一箱、ドライヤー、そして小型発電機まで持ってきていた。昼間ヘトヘトになるまで撮影したあと、夜にネガフィルムを現像し、乾燥し、カットし、選別し、スキャンし、PCで画像処理し、そしてやっとインマルサットで本社へ送信していた。”いや~大変だなあ、こんなジャングルの中で”と思いながら彼の作業を眺めていた。こちらは暇なので、のんきに話しかけたりして、さんざん邪魔をしたのだが、彼は飄々と作業していた。神経質なカメラマンだったら、怒鳴っているだろう。たいへん陽気なタフガイだった。

 しかし、いまでは通信社、新聞社は銀塩フィルムから、完全にデジタルに移行した。2000年あたり以降、ほんの数年の出来事だ。プロ用のデジタルカメラの性能が上がり、価格は下がったからだろう。いまや現像キットもミネラル・ウォーターもドライヤーも要らなくなった。カメラをパソコンにつなぐだけで終了する。通信社のカメラマンにとっては、百年に一度の大変革だ。僕も、サブのサブとして、コンパクトデジカメを持っている。友人からのもらい物だが。

 今後、デジタルカメラの画質がさらに向上し、価格も低下すると、音楽記録がレコードからCDに取って代わったように、写真も銀塩フィルムから記録メディアに完全に移行してしまうのだろうか。ポジフィルムの透明感はちょっと捨てがたい。

取材準備:カメラ

2005年03月09日 20時55分28秒 | 報道写真家から
 報道の世界では、2000年あたりから、ほんの数年で銀塩フィルムからデジタルへと移行した。デジタルは、速報性こそが命の大手通信社、新聞社に革命的利便性をもたらした。いまや報道の世界はデジタル一色だ。

 フリーランスの世界では、デジタル化はそれほど進んでいない。速報を射程に入れているフリーランスはデジタルカメラを使うが、そうでないフリーランスは、特にデジタルを使う必要性はない。まだデジタル画像は、銀塩フィルムには並んでいないからだ。ポジ・フィルムの画質の美しさは、いまのところ比類がない。速報の必要がないならば、やはり、美しいポジを使いたい。

 報道界で使用されているカメラは、デジタルもフィルムカメラもキャノンの一人勝ちの感がある。カメラ屋の店頭でいじくってみても、確かにキャノンの最新モデルはフォーカシング性、サイレント性において微妙に勝っていると感じる。プロには、この微妙な差が気になるようだ。

 が、フリーランスでキャノンにしろニコンにしろ、最新モデルを使っている人はごく一握りだ。だいたいは中古品を使っている。それも、長く使っている間に、すでに製造中止になってしまったモデルが多い。
 万が一のことを考えると、とても一台何十万もするカメラなど使えない。没収されたり、壊されたり、捨てて逃げたり、といろんな場面が想定されるから。ただ、そういう事態になった例は、いまのところ聞かない。でも、想定される現実なので、いざとなったら、捨てて逃げても惜しくない程度の金額で買えるカメラとなる。

 いま、僕がメインで使っているカメラは、知人がかつて通信社時代に使っていたもので、それを格安で譲ってもらった。いまでは、小学生も欲しがらないかもしれない。使っている方がいたらごめんなさいね。

 ニコンのF801というモデルだ。これにレンズメーカーのズームを二本つけて、2万円で譲ってもらった。F801は、最新のF5から三代前の古いモデルだ。もちろんとっくに製造中止だ。交換部品は海外でかろうじて手に入る。
 でも、極端に言えば、カメラのボディなど、何でもいいのだ。同じレンズを使って、F801と最新のF5とで写真に違いがあるかといえば、まずないと言える。
 写真とは、その辺にある光を、レンズで集め、フィルム面に閉じ込めるものである。ボディは単なる暗箱にすぎない。レンズとフィルムのクオリティがすべてと言える。こんなことを書くとカメラメーカーの方が怒るに違いない。ボディの値段の差、モデルの差とは、ひとえに使用者の手間をどれだけ省いているか、という点に反映されている。値段の差が、写真の写りに反映されているわけではない。

 しかし、レンズの場合、汎用とプロ仕様とでは、フィルム面の画質に明らかな差がでる。値段の差が、画質の差に直結している。ただ、撮り比べをしたわけではないので、具体的にデータを示すことはできないが。単純に考えて、光は、レンズという抵抗物を通過するときに、必ず拡散したり、歪んだりする。レンズの品質が高ければ高いほど、光はおとなしく言うことをきく。レンズの品質の差が、写りの差となるわけだ。レンズはいいものを使わなければいけない。

 そんなわけで、ボディは、小学生も欲しがらないF801をまだまだメインカメラとして使っていくことになりそうだ。サブとして、ニコンのFE2というマニュアルカメラを使っている。こちらはF801よりさらに古いカメラだ。いまのところ二台ともなんとか作動している。
 ただ、最近ズームレンズが少々痛み始めている。ニコンの中古レンズを一本買えばいいだけの話だが、できればキャノンに乗り換えたいと、密かに考えているので、買う決心がつかない。キャノンに総入れ換えできるほどのお金は、今後も作れそうにないので、計画のままで終わりそうだ。
 でも、こんな計画が、押入れのカメラやレンズにバレたら、今回の取材でストライキを起こされそうな気がする。書かなかったことにしよう。これからもポンコツ二台で撮りつづけるぞ。

取材準備:体力

2005年03月08日 19時48分32秒 | 報道写真家から
 報道カメラマンにとって、これが一番大事かもしれない。
 極端に言えば、写真の腕よりも腕力、いや体力の方が重要と思える。僕のカメラバッグは7~8kgあるが、これをぶらさげて、炎天下を丸一日歩き続けるのはかなりつらい。体力の低下とともに、集中力、判断力が失われ、ついにはシャッターを切る気力すら失われていく。とにかく、一日最後まで集中力を失わず撮影するには、体力あってこそだと思う。

 自分の足で歩き回らなければ写真は撮れない。撮りたいものは向こうからはやってこない(まれに、やってくる場合もあるにはある)。300ミリの望遠でも、写真として成り立つのは、せいぜい半径50m程度だろう。よほど特殊なレンズを使わない限り、100m先の被写体は捉えられない。10km先の被写体となると、風景は別として、いまのところ撮影できるレンズはない。普通、我々が撮影できる最大半径は、せいぜい20mくらいだ。つまり、こちらから20m以内まで近づかなければ、撮れないということだ。写真とは、そういう宿命にある。

 いい写真を撮れるか撮れないかは、ひとえにどれだけ自分の足で歩いたかによる。かといって、一日10km歩けば、いい写真がたくさん撮れるなどという保証はない。宿から三歩出ただけで、撮れるときもある。そういう幸運を除けば、写真とは徒労の連続だ。とにかく歩き続け、撮り続けるしかない。

 足繁く通っている東ティモールでは、体力を節約するために自転車を買った。赤道南緯10度の東ティモールの太陽は、情けを知らない。何度も通っているうちに、ついに根を上げてしまった。しかし自転車はあまりいい判断ではなかった。撮影のためいちいち自転車をおり、カメラバッグからカメラを取り出し、ようやく撮影・・・と思ったころには誰もいない。走りながら撮るという芸当もできない。やはり、歩くしかないというのが結論だった。

 数日前から、足に重りをつけて走り始めた。
 

取材準備:チケット

2005年03月07日 19時31分00秒 | 報道写真家から

 日本にいるあいだ、バンコク行きのチケットが、ずっとポケットに入っている。
 出発日が決まったら、航空会社に電話を入れて予約を取れば、あとは空港へ行くだけだ。
 実に、話が早い。

 取材の行き帰りは、必ずバンコク経由となる。
 日本から直接飛べば、面倒がないはずなのだが、僕の場合はそれができない。日本で買う航空チケットは、期間が短く、シーズンによって値段も異なる。格安航空券は15日から30日FIXがほとんどだ。そんなチケットに合わせて取材するのは、とても僕にはできない。日数を計算しながらの取材では、慌しくて落ち着かない。それに日程どおりに取材などできるものではない。さまざまなトラブルやアクシデントが必ず起こるものだ。そういうことも考えて、現地滞在を2ヶ月はみたい。しかし日本では、90日オープンというチケットはそんなにはないし、料金もかなり高い。

 でも、バンコクへ行けば、60日、90日、半年、1年といったチケットが、たいへんリーズナブルな料金で手に入る。シーズンによる値段の差もない。
 バンコクのドムアン空港がアジアのハブ空港として認知されているのは、そうしたソフト(チケット)の充実もあるのではないだろうか。ハードとともに、幅広い要望に応えられるソフトがあってはじめて、ハブとしての価値を持つように思う。日本の場合、器も貧弱だが、ソフトはもっと貧弱だ。これでアジアのハブになろうというのは、ちょっとおこがましい。その点、バンコクはハード、ソフトとも完璧といってよい。

 すでに40~50回はバンコクに降りたっているだろうか。
 滞在日数は通算・・・さっぱりわからない。
 いっそ、住んでしまった方が手っ取り早い。
 いつか実現したいと思っている。
 バンコクは大都会だが、なぜだか妙に落ち着く。

取材準備:ビザ

2005年03月06日 23時00分35秒 | 報道写真家から
 いままで、ツーリストビザしか取ったことがない。それでも、ちゃんと取材できる。
 しかしこれまで一度だけ、それが通用しなかったことがある。
 今回そこへ行くことになるので、日本でジャーナリストビザを取っていった方が無難だろう。でも、できれば取りたくない。

 パスポートにジャーナリストビザがあると、以降、どこのビザを取るときも、ジャーナリストビザの取得を命じられるおそれもある。実際、ある知人はインドへ観光へ行くとき、ジャーナリストビザの取得を強制された。いくら観光だからと言っても、聞き入れてくれなかったらしい。
 
 もっと問題なのは、ジャーナリストビザがパスポートにひとつ押してあると、まず軍政国や独裁国へは入れない。もちろん「観光です」と言っても通用するはずがない。
 ある大手の新聞社の記者は、軍政国家の取材のため、パスポートを洗濯機に放り込んで、新しいパスポートを発行してもらった。本当だ。外務省は、取材のためという理由で、パスポートの再発行など認めてくれない。大手新聞社の記者といえども、わざと毀損する以外ない。大手の新聞社なら、記者が順番にパスポートを洗濯して取材に行くこともできるが、フリーだとそうはいかない。一回ならできても、もし二回パスポートを洗濯したら、絶対に怪しまれてしまう。本当にパスポートを紛失したとき発行を拒否される恐れもある。

 このようにジャーナリストビザは取材地に制限が生じるため、できれば取りたくない。期限が10年のパスポートなので、なおさら取りたくない。観光ビザ(あるいはノービザエントリー)で入国しても、必要ならプレス・カードを取ることはできる。少々面倒だが、たいてい取得できる。

 そんなわけで、まだ僕のパスポートは「汚れて」いない。
 しかし、前回の苦い失敗があるので、今回は仕方なくジャーナリストビザを取ることになりそうだ。

取材準備

2005年03月05日 14時01分29秒 | 報道写真家から



気がつけば、もう三月。
そろそろ次の取材の準備に入らねば。
たいした準備は必要ないものの、
それなりに、時間的な余裕がなくなりそうな、
出発が近づくにつれ、ブログの更新も滞りがちになりそうな、
出発は四月あたまになりそうな、
出てしまったら三ヶ月は更新ができなさそうな、
気がする。

─報道写真家になった日 2─

2004年12月17日 22時08分49秒 | 報道写真家から
 身分を証明するためのレターか・・・。
 日本大使館がそういった文書を作成してくれるということも、当然初耳だ。

 正直なところ少し悩んだ。そんなひょいひょい発行してくれるようなものではないだろう。お役所のことだから、確実な証明を要求されるにちがいない。しかしこちらには、身分を証明するものなどあろうはずがない。
 僕ができることと言えば、正攻法しかない。不真面目な気持ちで行こうとしているのではないことを、信じてもらうしかない。もし、信じてもらえれば、僕自身の決断が本物だったということだ。逆に信じてもらえなければ、僕の決断など生半可なものであり、とっとと旅行にもどれ、ということだ。そういうことだ。そう思うと、こころは楽になった。単に、自分が試されるだけの話だ。

 アフガニスタン大使館へ行った翌日、さっそく日本大使館へ向かった。
 日本大使館の窓口はハーフミラーになっていて、相手の顔が見えない。ハーフミラーに写った自分の顔に、用件を告げた。僕の顔から「少しお待ちください」と返事が返ってきた。
 しばらくして第二面接室に入るように言われた。分厚い防弾ガラス越しに、大使館員と挨拶を交わし、椅子に座った。そしてアフガニスタンへ取材に行くこと。アフガニスタンビザの発給のための、身分証明のレターが必要であることを手短に伝えた。
 大使館員は、
「どんな雑誌に掲載なさっているんですか?」
 と訊ねた。
「いえ、広告に使われたことがあるだけです。ずっと広告の仕事でしたから。それ以外に掲載されたことはありません」
 ウソではないが、ちょっと微妙だ。
「今回の取材は、どこに掲載される予定ですか?」
「どことも交渉はしていません。日本に帰ってから、出版社に持ち込ます」
 これもウソではないが、うしろめたい。
 そのほか、さまざまな質問を受けたが、ほかはよく覚えていない。
 面接は途中から、まったく関係ない話題に移った。日本人の旅行者が、アフガニスタンに不法潜入しようとして、パキスタンの国境警備隊に捕まったのだ。捕まった旅行者の仲間から聞いたのだが確証はなかった。不法潜入しようとして捕まった者など、僕にはどうでもよかったが、大使館員はそうはいかなかった。とりあえず知っているだけのことを伝えた。そのあと僕は、旅行者のそういった行為を批判する意見を述べた。もちろん本心だ。
 ちょうど「猿岩石」がはやっていた時期で、日本人の旅行者が世界中でバカなマネをしては、日本大使館を悩ませていた。多くの旅行者が競うように無謀なことをしては、窮地に立つと、すぐに大使館に助けを求めていた。そうした実態と大使館の悩みを、少しこちらからインタビューした。
 たぶん30分ほど大使館員と話しをしていたと思う。
「それでは、あす、あさっての土日は休みなので、レターは月曜になるのですが、よろしいでしょうか」
 と大使館員は言った。
「はい、けっこうです・・・」
 発行してもらえるのか?
 大使館員は、僕のパスポートをコピーしたあと、必要事項を書類に書き込むように言った。取材期間や目的地などだ。

 正直なところ、僕はレターは発行してもらえないと思っていた。僕の答えはすべて歯切れが悪かった。こんな調子では、まずダメだろうなと。
 僕ができることといえば、不真面目な人間ではない、ということを伝えることだけだった。世の中そんなに理想どおりにいくものではない。
 しかし、レターの発行は許された。
 大使館員が、僕の身分を信じたのかどうかは大いにあやしい。僕の答えそのものは、あまりにも歯切れが悪かった。ウソをつこうと思えばいくらでもつけた。しかしあのとき、もしウソ八百を並べていたら、レターは手にできなかっただろう。
 いまでも、僕の思いが、彼に通じたのだと信じている。それ以外に考えようがない。

 人に何かを伝えたければ、本当に自分はそれを信じているかを、自分に問うだけでいい。特別な言葉は必要ない。
 人間は、美しい言葉に感動するのではない。言葉のはるかかなたにあるものに感動するのだ。言葉は誰でも操れる。美しい言葉を並べるだけなら簡単なことだ。辞書から抜き出せばいい。本当に美しい言葉とは、美しいものに感動するこころからしか生まれない。言葉そのものは、美しくも醜くもない。言葉は単なる道具だ。その道具を美しくするも醜くするも、すべて人間のこころ次第だ。
 僕は、コピーライターをしていたが、買うに値する商品だと思ってコピーを書いたものなどない。この商品のコピーを書いてくれ、と依頼がくるから、響きのいい言葉をひねり出すだけの話だ。商品を美化する言葉の羅列と、売り上げとは何の関係もない。そもそも広告が大ヒットした商品は売れないというのが広告界の常識だ。
 優れた商品は、放っておいても売れるものだ。
 言葉もおなじだ。こころの底から信じて発せられた言葉は、放っておいても相手に通じる。
 日本大使館での、ほんの30分ほどのやりとりだったが、僕は多くのものを学んだような気がする。

 当時、僕のほかにも、アフガニスタンへ行くために日本大使館で身分証明のレターの発行を頼んだ者がいる。僕は会っていないが、その人物は年配で雑誌の編集者だと名乗っていたらしい。僕が、パキスタン北部のフンザにいた少し前に、その人物がフンザで問題を起こした。
 その人物が、女の子を撮影しようとしたとき、女の子が拒否した。それにもかかわらず、彼は無理に撮影しようとした。しかし別の女の子が撮影の妨害をした。その男はそれに腹を立て、撮影の妨害をした女の子を突き飛ばして怪我をさせた。もし、僕がその場にいたら、その男を風の谷の谷底に投げ飛ばしていただろう。
 相手の感情を無視して写真を撮るのは、それだけでも許しがたき暴挙だ。おまけに子供に暴力をはたらくとは、最低の男だ。
 子供といえども、イスラムの女性を撮るのはご法度だ。いや、イスラム圏に限らず、相手が承諾しない限り絶対に写真は撮ってはいけない。それは基本以前の問題だ。こういう人物は、他者に対する敬意や配慮の念がいっさいないのだろう。自分を中心に世界は回っていると思っているに違いない。
 この自称雑誌編集者は、日本大使館で、身分証明のレターの発行を拒否された。もちろん、日本大使館はフンザでの出来事など知らない。日本大使館として、この人物を査定し、判断を下したのだ。たとえ、この人物が本物の雑誌編集者であったとしても、日本大使館はレターの発行を拒否しただろう。

 土日を少しあわただしく過ごした後、月曜に日本大使館へ赴いた。
 また、自分の顔に向かって、用件を告げた。そして同じ面接室へ通された。
 僕の身分証明のレターは、ツルツル光る厚手の上質紙でできていた。日本大使館の割印も入っている。冒頭に、「この者は日本国のジャーナリストであり、貴国はなにかと便宜を図ってやってほしい」、というようなことが書いてあり、僕の名前、生年月日、パスポート番号、取材期間、取材地などがタイプされていた。実にりっぱな文書だった。
 この身分証明のレターのほかに、もう一枚書類をわたされ、記入と署名をお願いします、と言われた。こちらのほうは、日本語で書かれ、ところどころ空欄になっていた。
 「私_____は、自分の意思で______へ赴きます。当該国でいかなる事故が起きましても、その責任はすべて私_____本人にあり、日本国にはいっさいの責任はないものとします。署名_____」
 だいたい、そんな内容だったと思う。
 もちろん、すべての責任を自分自身で負うのはあたりまえのことだ。何かあったとしても、大使館に助けていただこうなどとは思っていない。レターをいただいただけで十分だ。空欄を埋め、署名した。
 大使館員に、丁寧にお礼を述べた。
「気をつけて行ってきてください」
「ありがとうございます」

 日本大使館を出たその足で、アフガニスタン大使館へ向かった。
 アフガニスタン大使館の窓口は、ガラスも入っておらず、大勢の人がその窓口に、書類を持った手を突っ込んでいた。人垣の後ろから、窓口の男性職員に用件を告げた。大使館の中に入り、最初のドアへ入るよう言われた。応対に現れたムアルヴィ・ワハブ氏にビザ申請に来たことを告げ、日本大使館のレターとパスポートを差し出した。
 ワハブ氏はレターとパスポートをチェックし、
「アフガニスタンでは、何を撮影なさるおつもりですか」
 と訊ねた。
「アフガニスタンの人々です。それと人々の生活です。世界中の人と生活を撮っています」
 ワハブ氏は、落ち着いたイスラムの紳士に見えた。表情がやわらかい。
「わが国はいま、一部戦闘状態です」
「存じております」
 ワハブ氏は静かにうなずいた。
 申請手続きはスムースに進んだ。何枚かの書類に必要事項を記入した。はじめて公式書類の職業欄にPhotographerと書き込んだ。
 しかしその書類を見てワハブ氏は、
「本国の、タリバーン本部は、写真撮影をいたく嫌っております。この職業欄のところのPhotographerはJournalistに書き換えたほうが許可が下りやすいです」
 と親切にアドバイスしてくれた。
 僕は、Photographerを傍線で消し、その上の余白にJournalistと書きこんだ。
 ワハブ氏は、
「たいへんけっこうです。本国に連絡を入れて、返事が返ってくるのに4,5日かかります。こちらに電話をして結果を確認してください」
 と言った。終始笑顔の好人物だ。
 机の上には、身分証明のレター、申請書類、パスポート、証明写真がきれいに整理された。
 レシートを受け取り、ワハブ氏にお礼を述べ、重いカメラバックを担いで部屋を辞した。
 あとは、タリバーン本部次第だ。

 ラワールピンディのホテルで、夏のパキスタンの暑熱にクラクラしながら、四日が経つのを待った。夏のパキスタンの暑つさは半端ではなかった。食欲はなく、じっとしていても体力を奪われ、急速に痩せていった。
 四日後の朝、ホテルのフロントからアフガニスタン大使館へ電話を入れた。
 電話で英語をしゃべるのは、とても苦手だ。僕は、日本語でも電話は嫌なのだから。ましてや、成否を確認する電話だ。受話器を取るまでに、何本タバコを吸ったことか。ようやく受話器を取り、ワハブ氏の名刺に書かれた番号を押した。
 受話器の声は、聞き取りにくかった。
「あなたのビザはできております。窓口でお受け取りください」
 そう聞こえた。

─報道写真家になった日─<完>

─報道写真家になった日 1─

2004年12月16日 21時59分38秒 | 報道写真家から
 僕が、報道写真家になった日。それは、あらためて考えてみると、何年何月だったかは当然覚えているが、何日だったかまでは覚えていない。

 僕は、世界を旅をしながら写真を撮っていた。
 別に写真家になろうなどとは思っていなかった。
 写真を撮るのが好きだっただけだ。
 東南アジア全域からインドを経てパキスタンにたどり着いた。

 大学時代の一時期、僕は大学の新聞会に所属していた。新聞に載せる写真は、だいたい僕と弟とで撮っていた。手間のかかる暗室作業は、他の学生は嫌がったが、僕たちには楽しい修行の場だった。地元新聞社から、格安で暗室の新しい設備を譲り受けたあとは、かなりの時間を暗室ですごした。たまに雑誌社からの依頼で写真を撮り、ギャラを稼いだこともあった。
 建設反対運動真っ盛りの成田空港へも取材にでた。当時、成田空港は、まだ管制塔しかなく、そのほかはただの空き地だった。成田では機動隊と反対派が頻繁に衝突を繰り返していた。ガス弾の水平発射によって、反対派に死者も出ていた。空港反対運動を取材していた自分が、後々に、成田空港を何十回も利用することになるとは、当時は想像もしていなかった。

 大学を出て、コピーライターになってから、広告に使う写真を自分で撮ることもあった。これは単に経費節約のためだ。
 以来、長らく写真から離れた生活をしていたが、旅をしているうちに、世界の人々の生活を記録したくなった。少ないポジフィルムを節約しながら、重いカメラバッグを担いで写真を撮り歩いた。カメラバッグは片時も離さなかった。撮りたいと思ったとき、カメラが手元にないことほど、悔しいものはない。

 インドからパキスタンにたどり着いたとき、そこから先のルートに迷った。パキスタンも二度目だったが、そこから先もすでに訪れた国ばかりだった。そこから先のルートには魅力がなかった。しかし、となりはタリバーン政権下のアフガニスタンだ。タリバーンがアフガニスタンを制圧して、まだ一年も経っていなかった。タリバーンの実態は、まだほとんど外の世界には知られていなかった。行ってみたい。自然にそういう思いにとらわれた。

 そのはるか以前に、パキスタンを訪れたときは、アフガニスタンは、対ソビエト戦争の真っ最中だった。その時は戦争中のアフガニスタンへ行ってみたいなどとは、まったく思わなかった。
 ただ、旅行者の中には、ムジャヒディンと交渉をして何人もが入っていたようだ。一人だけそういう旅行者に会ったことがある。彼は、アフガニスタンに入ったことを、勲章のように、ただ自慢するだけだった。しかもその旅行者は、ムジャヒディンに対して、カメラマンだとウソをついていた。
「”カメラマンなのにそんな小さいカメラしかないのか?”って現地で見破られそうになりましたよ。ハッハッハッハ」
 それすらが自慢のようだった。話にならない。
 ムジャヒディンは、外の世界に報道してくれると信じるからこそ、面倒を承知で連れて行ってくれるのだ。単に自慢したいがために、命を懸けて戦っているムジャヒディンを騙すとは、吐き気にちかい嫌悪感を感じた。

 タリバーン政権下のアフガニスタンが、いったいどんな状態なのかを知りたいとは思ったが、何年も前に会ったその旅行者のことを思い出し、自分の思いを閉じ込めた。アフガニスタンでは、タリバーンと北部同盟が、カブール北方で戦闘を繰り返していた。まだ内戦中なのだ。当然、大勢の人が傷つき死んでいる。旅行者の自分が行くべきところではない。

 知りたいという思いは、確かに自分の中にあった。知りたいという欲求と、旅行者の自分が行くべきところではない、という狭間にあったが、別に葛藤というほどのものでもなかった。行くべきではないと簡単に結論した。戦争は、見世物ではない。
 そのあと、どのような経緯で、知りたいという思いが募っていったのかは良く覚えていない。ただどんなに知りたくても、「自分は旅行者ではないか」という思いが打ち消した。行ってはならないという抑制が自分の中で働いていた。もちろん、アフガニスタン政府が受け入れてくれるとも思っていなかった。

 僕が本当に、葛藤しはじめたのは、自分の重いカメラバッグを見て、カメラマンとしてなら行けるのではないか、と思ってからだ。ただし、それではウソをつくことになってしまう。それはできない。当該国、国民に対して絶対に非礼でない形でなければならない。
 もし、カメラマンと名乗るならホンモノのカメラマンにならなければならない。なる気がないなら、とっとと旅を続けろ。そう自分に問うた。ラワールピンディやペシャワールで、ずっとそのことを考えた。ペシャワールからアフガニスタンまでは、ほんの数時間だ。

 迷いに迷い、考えに考えた末、結論をだした。
「これからは、報道写真家として生きる」と。
 しかし、そう決断したあとも、まだ迷っていたかもしれない。
 自分に何ができるのか、何かを伝えることができるのか。それはまったくの未知数だった。やってみなければ、わからない。大学新聞を作っていたことなど、キャリアでもなんでもない。ただ、多少なりとも写真も撮れるし、文章も書ける。そういう意味では、決断の追い風くらいには、なっていたかもしれない。
 あれ以来今日まで、曲がりなりにも報道写真家を続けている。

 決断したものの、アフガニスタン政府が受け入れてくれなければ、それまでだ。イスラマバッドのアフガニスタン大使館へ行き、真正面から用件を告げた。
 大使館へ着くまでのあいだ、「オレはすでにカメラマンだ」と何度も言い聞かせた。バカバカしいようだが、自分に自覚がなければ、それはウソをついたことになる。ラワールピンディから大使館へ向かうバスの中で、もしかしたら、僕は報道写真家になったのかもしれない。

 アフガニスタン大使館の窓口で、
「日本人のカメラマンです。アフガニスタンを取材したいのですが」
 と用件を告げた。
 当時、タリバーン政権は極度に写真撮影を嫌うことで知られていた。そのことは知っていたが、それでも真正面から誠実に交渉するつもりだった。誠意があれば、必ず通じると信じた。
「取材ですか。それでは日本大使館から、あなたがジャーナリストであるという証明のレターをもらってきて下さい」
 と係りの者が言った。
「レターがあれば、ビザは発給していただけますか」
「本国に連絡を取り、許可が下りれば発給したします」

 日本大使館から証明のレターか・・・。


つづく

─フリーランスになるには─

2004年12月15日 18時37分01秒 | 報道写真家から
 フリーランスなら、誰でも初めがあるものだ。
 新聞社や通信社、雑誌社を経てフリーランスになる人たちもいるが、そうでない人は、どこを境にフリーランスのカメラマンやジャーナリスト、ライターになるのだろうか。

 べつに資格審査があるわけでもないし、試験があるわけでもない。もちろん免許もない。
 いったいいつから「フリーのカメラマンです」と名乗ればいいのだろうか。
 取材をこなしたときからだろうか。
 しかし、取材をするためには、「フリーのカメラマンです」と名乗らなければならないときもある。特にインタビューをするには、身分を示さなければならない。
 これは、困った。まだひとつも仕事をこなしていないのに、取材をするためには、すでにフリーランスのカメラマンでなければならない。
 卵が先なのか、鶏が先なのか。

 資格審査も、試験も、免許もない以上、客観的な判断基準はどこにもない。
 つまり、自分で決めればいいのだ。
 あなたが「今日からフリーランスのカメラマンだ」と思った瞬間から、あなたはそうなのである。その瞬間を自覚しなかった人もいるだろうし、僕のようにはっきり意識した人もいるだろう。自分の内に、湧き上がるものがあれば、意識しようがしまいが、自然に道を進むものなのだ。

 自分の内にあるものを自覚すれば、あとは、あなたが取材したい対象へまっすぐ進めばよい。ただし、それにともなう、様々な困難や障壁は、自分の知力をフルに使って解決し、自分で乗り越えなくてはならない。誰も教えてはくれない。親切な人もいるかもしれないが、他人や運に頼ってはいけない。その程度では、この氷河期の中で氷付けになってしまう。
 あなたの中に、こころの底から伝えたいというものがあれば、あなたの前に立ちはだかる困難など、たかが知れたものだ。

 世界の大手メディアは、世界で起こっている真実を伝えようとはしていない。われわれが普段接している報道は、事実ではあるが、すべてが真実というわけではない。いまのメディアの様は、不偏不党や公正中立とは程遠い。実質的に、権力構造の一部を形成している。メディアは営利団体であり、国家の法的規制を受ける対象である。いかようにも国家がコントロールできる。メディアを通して、われわれが接しているのは、事実の断片にすぎない。それは、真実とは似ても似つかないものに加工されている。

 911テロの後、CNNの記者は、「自国が攻撃されているときに、客観的な報道などできない」とさえ言い切った。そうした報道の前に、アメリカ全土が、報復は当たり前だという論調一色になった。反対の声は完全に圧殺された。メディアとは、いざとなればこの程度のものなのだ。いまイラクで、どれだけ多くの命が奪われているか。メディアが真実を伝えることはない。

 われわれの眼に触れない、多くの真実がある。営利団体のメディアに報道を任せている限り、真実はわれわれから遠いところに隔離されてしまう。
 より多くの人に、この氷河期の中に飛び込んできて欲しいと思っている。ただし、とても寒い。だからといって、身を寄せ合っているわけにはいかない。動き回っていれば、多少は体の内から発熱するものだ。

氷河期の報道写真家

2004年12月09日 03時48分20秒 | 報道写真家から
 ある写真家の写真集の書評を読んでいると、次のような下りがあった。

『今日、フリーのフォトジャーナリストを取り巻く環境は氷河期並みだ。グラフ雑誌は姿を消し、週刊誌のグラビアページも悲惨な流血の写真は敬遠する傾向にある。』

 まさしく、そのとおりだ。
 フリーの報道写真家は大勢いるが、撮った写真を載せる媒体がない。雑誌そのものは、無数にあるが、報道写真を載せてくれるようなスペースはほとんどない。凍てつく大地を歩き回り、ごくわずかなパイを探し求めなければならない。

 この氷河期の中で、僕も細々と活動している。
 世界が平和で、写真を撮るネタがなくて氷河期なら、それは喜ばしいことだ。そのときは、喜んで報道写真家をやめる。
 しかし、現実はそうではない。世界はこれからますます理想とはかけ離れた状態になる。ブッシュ大統領が再選されたとたん、イラクのファルージャは、地獄と化した。

 ファルージャから退避しようとしていた大勢の市民は、米軍に市内へと押し戻された。そのあと、容赦ない爆撃が繰り広げられた。市民の犠牲者の数ははかり知れない。米軍は犠牲者を隠滅するために、遺体を戦車で踏み潰している。女性や子供が、米軍の戦車に縛り付けられ、人間の盾にされている。あるいは抵抗勢力のロケット攻撃を阻止するために、女性や子供、老人が何百人も基地内に拉致された。抵抗勢力への攻撃には、化学爆弾を使用している疑いもある。

 この地獄は拡大こそすれ、縮小することはない。いずれ中東全体が血の海となり、世界中で爆弾が炸裂することになるかもしれない。もちろん、日本も。ブッシュ大統領が望むのは、テロとの戦いではなく、テロの醸成と散布だ。

 こんな時代に、日本の媒体は、冬眠に入っている。
 確かに、いまは氷河期だ。
 しかし、だからこそ、われわれはやめるわけにはいかない。
 そして、多くの若い人たちにこの世界に入って欲しいと思っている。この氷河期を走り回れるのは、きっと新しい感性を持った若い人たちなのだ。われわれも、凍りついても前に進み続ける。

 フリーランスには、資格も試験も免許もない。
 いますぐ、誰でもなれる。